[カン・ミョングァンの朝鮮社会裏庭]
屠殺免許独占した治外法権地帯あった
‘ソウルのゲットー’班村(泮村)
朝鮮時代にも異邦人の出入りが厳格に禁止されたところがあった。 班村(
泮村)と呼ばれる特殊集団居住地がまさにそちら. 彼らだけの言語と風習,生き方に固執した班村の人々. 果たして彼らはどこからきて
どこへ行ったのか。
人間は自身が生きたいところに住む権利と自由がある。故に大韓民国憲法は国民の基本権で居住移転の自由を保障しているではないか。だが果たしてそうだろうか? 私がいくら北漢山の下景色秀麗なところに住みたいとはいえ私はそこに住むことができない。憲法上居住移転の自由はひたすらお金と権力を持った時可能な自由だけのことだ。お金と権力がないならば,居住移転の自由はより一層悪い居住地に行く自由であって良い居住地に行く自由ではない。そうして人間らの居住地には区画ができる。 類類相従という話はお金と権力の保有程度にともなう人間の付き合いを意味する。
この頃世の中がこのようなら,過去にはどのようだったのだろうか? 朝鮮時代のソウルは,貴族居住地と衆人居住地,商人居住地があらまし区分されていた。そして激しい場合ソウル市内にひたすら特定部類人間で住居が制限されたそのような空間もあった。もちろんその優秀な貴族らは違う。こういう特殊な空間の存在は居住民の好みでも好みによって決定されたことでなく社会的差別によって決定されたのだ。この文で出る朝鮮時代ソウル中に存在した特殊な住民の特別な居住空間に対して言及しようと思う。
牛の屠殺が日照りを招く?
とんでもないが牛肉に関する話からしてみよう。 昔話に肉食者という言葉がある。菜食主義者の反対語でなく貴族や高級官僚を意味する。肉を食べる人が支配階級を意味したように,中世社会で肉はきわめて大事な食べ物だった。農業社会の朝鮮社会で肉は当然大事な食べ物であったし,特に牛肉は政策的に食用を制限した食品だった。
‘太宗実録’を話頭としてみよう。太宗15年6月5日賃金は肉膳,すなわち肉おかずをはね除けて酒を切った。東洋社会で日照りや洪水,その他気象異変が起きれば賃金は謹慎する意味で肉がないご飯(素饌)を食べて,酒を飲まなくて,性関係を持たなかった。太宗やはりそのような前例に従ったのだ。ところで興味深いのは六曹と承政院で申し上げた日照りを招いた色々な原因中に‘牛の屠殺’が挟まっているということだ。
“牛を屠殺するなという禁令があるのに,近来に屠殺がより一層激しくなっていると,屠殺者を捕まえて,告発する者があればその犯人の家産を賞で与えて,大小人員は牛肉を食べないようにするもののこれを破る者は罪を論じて下さい。そして自ずから死んだ牛肉はソウルは漢城府で税金を付けて,地方は官庁の明文を受けた後に売買を許諾するものの,破る者はまた法によって,罪を論じて下さい。”
禁令にもかかわらず,牛の密屠殺が日照りを招いたので,密屠殺を厳禁しろとの話だ。ところで変でなければならない。牛の屠殺がなぜ日照りを呼び起こしたとのことなのか。 ‘粛宗実録’ 9年1月28日照を見れば宋時烈が日照りを心配しながら程子の話を引用して,その理由を明らかにしている。 精子の話はこうだ. “農作業が凶年になるのは牛を捉えるところで成り立つ。”続く言葉によれば,人々が牛の力で農作業をして暮らしながらも,牛を屠殺するから牛の怨恨が天地の和気を損傷させて,これが自然の運行秩序を破って雨が降らないということだ。
一生牛の身体を働かせて,それでも足りなくて,肉まで食べるのは本当に残忍ではないか? これが精子の考えだった。もちろんこの話裏面には農作業のためにこの頃のトラクター格の農牛を保護しなければならないという農業社会の実用的動機があるだろうが,一方でそれは生命に対する自然な配慮ではなかったのだろうか? 本当に輸入牛肉でも肉を食べてこそ気がすむ私たちが反省しなければならない大きな課題に違いない。付け加えようとするなら,栗谷(ウルゴク)李珥はこういう理由で一生牛肉を食べなかったし,栗谷(ウルゴク)家でも栗谷の祭事には牛肉を使わなかったという。どうであれ牛の屠殺が日照りを招くというのはこういう理由があったのだ。
決して守られることができない方法
上の引用文に出ているように,朝鮮政府では法令を定めて,禁止するほど強力な屠殺抑制政策を推進した。 朝鮮初期期法典の‘経済六典’にこういう一節がある。
“食べるのは民の根本になって,穀物は牛の力に出てくるので,本朝では禁殺都監を設置したし,中国では牛肉の販売を禁止する法令があると,これは農作業を大事に思って民生を厚くしようとするのだ。”(‘世宗実録’ 7年2月4日).
すなわち禁肉図鑑という官庁を設置しながらも,牛の屠殺を防いだし実践も強力だった。 1411年(太宗11年)に牛の屠殺を専門でする新白丁を都城90里の外で追い出したのだ。しかしこの程度で肉を明らかにする人間の欲望を消えるようにすることはできなかった。世宗7年には新白丁が都城に戻ってきて,屠殺業に従事していた。漢城府ではこれらを海辺で追放して,密屠殺された牛肉を買って食べる者は題書有為率(制書有違)で治めることを論断しろと要請している(‘世宗実録’ 7年2月4日).
こういう法科行政措置にもかかわらず,牛の屠殺と牛肉の食用が止まったことはなかった。 成宗4年7月30日副題学二極期の上疏文の一部を見よう。
“ 牛の屠殺を禁止する法令が明確にあるが,しかしソウル,城内の大小人の家で朝夕の奉養でも賓客を宴享する時にたいてい禁止した牛肉を使って, 官家で供給するのもまた時々使うと,このような肉らがどうして皆自ずから死んだものなどでしょうか? このような事が日々反復されて終わる時がないから正に四方の農民らの家畜が順次なくなるか恐ろしいです。”
牛肉食用禁止は決して守られることができない方法だったことだ。以後牛肉の食用を置いて問題が絶えなかった。処罰も強化されて‘正当な理由なしで’牛を捉えた人は全家徙辺という極刑にまで処したが(‘演算’ 11年4月20日),肉を明らかにする人間の欲望を寝かすことはできなかった。
‘朝鮮王朝実録’は牛肉に関連した少なくない情報を持っているが,それをここで一つ一つまくしたてることはできない。ただし法は存在するものの守られなかったし取り締まりは時に強化されてすぐ緩くなるような反復を繰り返しただけだ。その理由は牛肉を消費する主階層が他でもない朝鮮の支配階級の官吏だったためだ。ところで私はなぜ不意に牛肉の話をしているということなのか。
牛肉を食べようとするなら,牛を屠殺する人と流通過程がなければならない。ところで意外にもこの点に対しては知られたことが殆どない。牛の屠殺といえばまもなく白丁を思い出させて,また白丁すればホン・ミョンヒが創造した楊州白丁イム・コックジョンを思い出させるだろう。何かもう少し知っている人ならば,白丁に加えられた社会的差別とそれを解消するための衡平社運動を思い出させるだろう。 これもまた重要な問題だ。
だが本来私が心配しているのはそのような社会学的問題でなく牛肉の生産と流通,すなわち誰がいつどんな必要によって,牛を屠殺して,どんな流通網を通じて,どんな価格で販売したのか,またどのように牛肉を消費(料理)したかという問題だ。 一種の生活史的問題である。
特に興味を引くのはソウルの方だ。ソウルは朝鮮一番の回って,人口が最も密集したところであるから牛肉の最大使用先であったことは言うまでもない。ソウルの狭い誰が屠殺して,どんな方式で流通したのだろうか? これがこの文が明らかにしようと思うのだ。 白丁がそれを担当したのか? 先立って指摘した通り白丁は朝鮮前期にソウル市内で追放された。 それなら白丁でないどんな階層が牛の屠殺と牛肉の流通に関与したのか? もうこの話をしてみよう。 朝鮮前期は詳しい事情が出ていないから,この文で話すのは壬辰倭乱(文禄の役)の後のことだ。
一日に屠殺される牛が500匹
ソウルは朝鮮時代最大の人口密集都市で,また生活の水準が最も高かったので,当然食べ物と料理の水準も他の所と比べるところではない。 ソウルは生産する所ではないから当然ほとんどすべての食料品がソウル郊外周辺地域や地方で供給された。
この食料品を流通させる所がまもなく市廛だった。市廛は朝鮮の建国と共に国家で国家と王室,ソウル市民らの需要に応じるために設置した公式市場だった。市廛で販売する物品を分析してみれば,当代ソウル市民,進んで朝鮮の人の日常生活を類推することができる。その中で私の関心事の食料品を扱うものの,肉類に限定して調べることにする。
柳本芸はソウルの人文地理紙‘漢京識略’の‘市廛’に市廛の種類と販売物品を詳しく紹介しているところ,ここにソウル市内に販売される肉の種類が出てくる。 牛肉を抜いたあげくを聞けば次のようだ。
生雉廛乾雉廛魚のチジミ-屏門にある。
鶏廛-広通橋にある。 タマゴ前もそのそばにある。
猪肉廛-いろいろな所にある。
生の雉肉は買ったキジ,健歯は止めたキジだ。 キジはアマ四両で捉えたことだろう。キジ肉,鶏肉と豚肉(猪肉)がソウル市民らに売れていたのだ。以上が牛肉を除いたソウル市廛で販売する肉の種類だ。キジを除けば今と違うことがない。ただし低六典がいろいろな所にあるということと見て,豚肉がキジと鶏に比べて,たくさん消費されていたことが分かる。もう牛肉側(方)を見よう。剥製街は‘北学議’でソウルの牛肉消費に対してこのように話している。
“統計を出してみれば,我が国では毎日牛500匹を屠殺している。国家の祭事やホグェ(?饋,軍事らに食べ物を施して慰めること)に使うために屠殺して,成均館と漢陽5部の中の24ヶ肉屋,300余村の官衙ではもれなく牛を売るコ襟肝を開いている。”(剥製が,‘北学議’,安デヒ役,トルペゲ,2003,81面)
国全体で一日に牛500匹を屠殺するということが果たして正確な統計数値なのかは分からないが,とにかく決して書いた数字ではない。この数字でボアの色々な肉中で牛肉は最も多く消費されるしわんだだろう。牛肉は上で入った通り国家の祭事,ホグェ(?饋)等に消費されるかと思えば,わいろにも人気があった。もちろんすべての牛肉の最後は食べ物で料理されて,人間の口に入るということだった。特にソウルの人らにあって,牛肉は一種の調味料同じ役割をしていた。
一方剥製街の時代,すなわち18世紀後半期になればソウル是正に酒場と飲食店が出現する。是正での肉消費が増えたのだ。考えてみれば,ソルロンタンと幅ではないソウル食べ物ではないのか。当時ソウル人口は20万人で30万人間だったが,牛肉を消費できる人の数字を考えてみればソウル市内24ヶの精肉店は決して書いた数字ではないのだ。
朝鮮時代肉屋風景
もうこの精肉店に対してもう少し詳細に調べよう。 先立って引用したユボン礼儀‘ハンギョン知略’ ‘市廛’ ‘懸房’組だ。
懸房-牛肉を売る肉屋だ。 肉をぶら下げて売るから現バンイというのだ。 都城内外に全23ヶ所もある。 皆反民(〓民)らでとって肉を売って,生計をみなすようにして,税で出す肉で太学生らのおかずを継続するようにする。
現バンイという牛肉だけを専門的に売る肉屋だ。現謗議‘懸’は本来‘ぶら下げる’という意だ。これは市廛に属しながら,したがって国家から正式認許を受けた公式的な店だ。現部屋は都城内外に23ヶ所があるというのに,ソウル城郭十里の中までは城底十里といって,漢城府の管轄に属する。したがってソウルに23ヶ所の精肉店があったことと見ても関係ない。ただし剥製街は‘北学議’で24ヶ所といったのに,ユボン例は23ヶ所といっていると,どんな事情で1ヶ所が減ったものとみられる。
現部屋は旧韓末まで存在したものとみられる。 日帝時代にも記憶する人がいたという。 次は日帝時代の資料だ。
今は肉売る家を獣肉販売所または‘館集’とだが,前日には‘タリムバン’とした。タリムバンは漢字で‘懸屋’であるから,その時には牛をぶら下げて,捕まえる理由にヒョンオクといった。そしてヒョンオクも制限があって,京城に全部五懸屋を置いたのに,水標橋タリムバンが最も大きいことに数十年前までもあった。(‘京城語録 ’,‘別乾坤’,1929年9月号)
現部屋をヒョンオクだと使ったりもしたし,これは韓国語で‘タリムバン’だと呼んだということだ。 京城に全部5ヶ所のヒョンオクがいたとのことは恐らく日帝時代の人の上の引用文の筆者の記憶にそうだと言う話だ。
もう牛を屠殺する人に対して言及する時だ。 ‘京城語録’に懸屋も制限があるといった話は精肉店の許可が自由でなかったという意だ。これは恐らく現部屋を開ける人が別々にあるという言葉と聞こえる。もう‘ハンギョン知略’の“皆反民(〓民)らでとって肉を売って,生計をみなすようにする”という話を吟味してみよう。この話は‘反民’だけがソウル市内で牛を屠殺して販売できる資格を持っていたと解説することができる。 それなら反民は白丁か? そうではない。黄載文は1949年に書いた文で反民に対して言及しながら,白丁ではないと明確に明らかにしている(黄載文,‘ソウル同名に隠れた話’,‘ 民声’, 1949,11月号)
また疑問がおこらざるをえない。 ソウル市内の牛の屠殺と販売を独占した反民(〓民)というのはいったいどんな部類か?
班村民は中(案)香りの奴婢子孫ら
成均館を他の言葉で‘半弓(〓宮)’という。 半弓という言葉の由来は中国そのまま遡及する。 周国の時天子の国に設立した学校を壁翁(?雍)として,諸侯の国に設立した学校を半弓(〓宮)とした。 半弓という話はここで由来したのだ。
半弓という話のいきさつはまたどんなものか? 半弓は‘半数(〓水)’からきた言葉だ。壁翁の四方は水だ。簡単に話して,大きい池の中に建物を作ったのだ。したがって壁翁に入るためには東・西・南・北で置いた橋を渡らなければならない。これに比べて,半弓は東方文科西の方文を連結する先一方だけ水だ。すなわち池は半月もようになる。天子の壁翁に比べて,水が‘半’しかならない。この水を半数(〓水)といったことはこのためであることで,半数があるからその建物を半弓だと呼んだのだ。もちろんここでの‘宮’は宮殿という意味ではなくて,単純に建物という意味だ。これが成均館が半弓と呼ばれたいきさつだ。こういういきさつにより成均館と関連したところによく‘半分(〓)’者を付けたので,成均館周囲の村を‘班村 (〓村)’としてそちらの住民は反民(〓民),半分の(〓人)だと呼んだのだ。
班村は少なくとも18世紀に達してはソウルの他の地域と区別される独立的な区域を成し遂げていたものとみられる。 18世紀の著名な文人で学者の署名ウン(徐命膺,1716〜87)が使った‘安光洙伝’(‘保晩斎集’ 9冊)に班村の由来と班村住民に関する詳しい言及が出てくる。
班村は考慮語文成公安裕が自分の家の奴婢100人余りを喜捨して,学校を復興することを助けたところで始まる。朝鮮が漢陽に定都して国学を移して,奴婢子孫が数千名になって,半数(〓水)を囲んで家を作って生きて,通り(距離)と路地,鶏なくことの声,犬ほえる声が聞こえて,厳格に一つの東籬を成し遂げた。このために人々がそちらを班村(〓村)だと呼ぶことになったのだ。その子孫らは生長すれば班村の外を出ない。 …未婚の男性になればがんじょうな者は賭博場を歩き回ったり侠客役割をしながら,ケチな者はマリ(末利,商業)を追って礼教に従う人が殆どない。
アン・ユはまもなく中(案)香り(安〓,1243〜1306)だ。高麗末期に我が国に性理学を初めて伝えたという人物だ。彼は成均館と密接な関連がある人だ。 彼は留学の振興のために忠烈王30年(1304年) 5月官僚らを対象に募金運動を行って,成均館の贍学銭を作って,このお金の一部を中国の江南に送って,経典と歴史書物などを輸入したこと,これによって成均館の教育の雰囲気は一新されたのだ。その証拠で翌月の6月に成均館の大成殿が完成されて,学生たちが駆せ参じたというと,彼は高麗末期成均館の復活運動を主導した人物である。だから彼が自身の奴婢を成均館に寄贈したとして変なこともなくはないだろうか?
班村民の形成と関連,また一つ飼料がツヤ(尹チェ,1741〜1826)が残した詩だ。ツヤは永らく成均館儒者で成均館に起居した人物なのに,彼は自身の‘無名子集’に‘パングンジァビョン(〓宮雑詠)’という(のは)220数の独特の一時を残している。
成均館と不可分の関係
彼は220数の一時で成均館の歴史,教育,学生会組織,学生処罰,学生たちの集会,結社等等成均館に関するほとんどすべてのことを一時で詠じて出している。我が国学校社,教育司,風俗史になくてはいけない珍しい資料である。 ここに班村と半分人に関する言及があることはもちろんだ。
我が国の有若である
安文成公は
先に聖の肖像と経典を買ってこられて
また学校に置かれただろう。
百人の奴婢
子孫らが繁盛して
今でも祭壇をたてて
最善をつくして,祭事を敬うよ。
E.C.には次のような注釈がついている。
“ 案文成功向は,実名が玉玉便意香り(〓)者なのに,語彙(御諱,賃金の名前)を避けたのだ。考慮の賛成事で学校が衰退するのを憂慮して,中国にお金を送って,先聖(先に聖,孔子)と弟子70人の肖像,そして祭器・楽器・経籍を購入してくるようにした。国学をたてて,奴婢百人を捧げたのに,今の半分の(〓人)は皆その奴婢らの子孫だ。したがって班村の北側に祭壇をたててムンソン公議期日になれば法事を行うのに,愛慕と誠意を捧げることにあって少しも怠けない。”
署名ウンの‘眼光水田’と同じ内容だ。 中(案)香餌成均館に寄贈した奴婢の子孫らが考慮が滅びて朝鮮が建国されるやソウルに付いてきて,ソウルの成均館にそのまま服役することになったということだ。
もちろん疑わしい隈がないことではない。署名ウンとツヤの記録が18世紀後半のことだという点を考えるならば,中(案)香りからほとんど5世紀に近い時間が流れた後だ。班村民(〓村民)が遺伝学的に,いや派閥学的に500年前奴婢らの子孫かは疑問に違いない。さらに中間に壬辰倭乱(文禄の役)と同じ,成均館を灰で作った未曾有の事件があったことでは。だが朝鮮末期半分人は自分たちが中(案)香りの奴婢の子孫だという点を信じていたし,また当時の人々もそのように分かったことであるから何の上官か。
班村の形成由来がこのようだったので,班村の居住者半分の(〓人)の人生は成均館と不可分の関係にあっただろう。成均館は朝鮮時代最高の教育機関だった。大司成以下官僚組織と教授陣があったし,儒者らがいた。これらのための大して重要ではない労役(主に肉体労働)を担当する人が必要なことは当然のことではないのか。さらに成均館は孔子の位牌を奉った大成殿と講義棟の明倫堂以外にも多くの建物があった。例えば学生たちは学校で食べて寝ることが原則だったから,寄宿舎(東斎・西斎)と食堂があった。こういう建物を管理して,学生たちの食事を準備しようとするなら多くの人が必要でないだろうか? 半分人はまさにこの成均館の雑役を世襲的に受け持つ人々だったことだ。 またツヤの詩を見よう。
館婢の実子は
直童になって
他の女種子供は
書吏に名前が上がるよ。
斎直は将軍で
守僕になると
半分の(〓人)らがまける駅は
本来長さ(道が)違うよ。
ここにも注釈がついている。
“これは半分の(〓人)らの身役が各々違いを詠じたのだ。 官費の実子は斎直になって,他の女種から出た子供は書吏となる。 在職は成長すれば守僕になる。 半分人もその新訳が各々違うものだ。”
班村の男が成均館所属の女種と関係して,息子を産む場合,そいつは成均館の稷洞になる。稷洞は在職なのに,在職というのは成均館の寄宿舎の東斎・書斎の各部屋に所属して,儒者らの小お手伝いをする人だ。在職(稷洞)が成長すれば,成均館内の祭事に関連した肉体労働を引き受ける修復になるのだ。
朝鮮時代の旅館村
これとは違って半分人が関係した女が成均館以外の女種ならば,そいつは代理になるのだ。 この時の代理やはり成均館の白髪になるだろう。 ここでも知ることが出来るように,反人義社会的地位というのは非常に低いことだった。
朝鮮後期の文人イ・オク(李鈺,1760〜 1813)の‘湖上観角力記’という文を見れば,湖上人,すなわち麻浦一帯の住民たちと半分人が麻浦北側の桃花洞で相撲を競う風俗を紹介しているのに,湖上人という麻浦一帯の荷物屋や肉体労働者らであったから,半分人の社会的地位という(のは)これらに相応する社会の低層だったことだ。
班村の半分人は上で述べた通り成均館と功績の関係があるだけでなく,儒者らと私的関係を結んだりもした。班村は普段成均館儒者らが勉強部屋を捉えて勉強する下宿村なのかすれば,過去鉄ならば挙子らが主人を定めて留まる一種の旅館村だった。政調5年11月4日司成蔡廷夏は過去鉄になれば,成均館儒者らの半分は成均館に留まりながら,成均館の食堂でご飯を食べて,半分は班村で寄食しているとしながら成均館食堂の定員を増やしてくれることを要請している(‘政調実録’ 5年11月4日).
だが以後にもずっと班村で留まる事例があるのを見れば,必ず食堂の定員のためだけではないと考えられる。これより遥か前の新任党派争いの時逆賊に集まって,死んだ李器之も己亥年春増広初試(増広初試)のために班村(〓村)に出て行って居接して,夏を渡して秋になる時まであったという話をしている(‘警鐘実録’ 2年5月5日). 恐らく寄宿舎食堂のご飯よりは下宿屋ご飯がより良かったためなのか。でなければ寄宿舎のかたい規定を守りたくなくてソであったことか?
理念サークルの温床
下宿村になった班村が表わした最も興味深い事件は李承薫と丁若鏞の天主教学習事件だ。 1787年10月イ・スンフンと丁若鏞,姜履元などは過去勉強を言い訳して,半分の(〓人)金石太の家に集まって‘真道自証’等天主教書籍を研究して李基慶に発覚する。この事件は天主教社で広く扱うことなので新しいこともないが,成均館一帯の下宿村が一種の理念サークルの温床同じ役割をしたのを見せることなのでなかなか興味深くないのだ。より一層おもしろいのは班村の人キム・ソク胎衣祭文が多産の文集に‘菽甫の祭文’(スク見るキム・ソク胎衣さあ)という名前で残っているということだ。読んでみよう。
限りない誠意は空に通じて限りない情は土地まで通じたよ。破ったのも私のために破って寝るのも私のために寝たよ。家庭に粗雑にしながらも,私をためにはち密だったし走って追うことには動作がのろかったが私をためにははやかったよ。私の誤りを人が指摘すれば刃物を選んで,大きく癇癪を起こしたし人が出てきて無事に過ごせばそのために全力をみな使うと,魂までゆっくり漂いながら,まだ私のそばにあるよ。 九原がたとえ遠いというがこれから互いに考えるだろう。
班村人の名前が良い意味で記録に残ったことはキム・ソクテが唯一の場合だろう。 当時社会の基準として見る時つまらない人物に対する多産の祭文がなかなかやさしくない。 多産の人柄を見るようだ。
さあ,それなら班村という話はいつから使われたのだろうか? ‘高麗史’に班村という話が出ないことから見て,高麗時代には多分班村という話自体がなかっただろう。また寡聞なためなのか分からないが朝鮮前期文献でも班村という名詞を見たことがない。 ただ‘先祖実録’ 39年6月15日照記録にどんなことで成均館奴婢を逮捕する過程で使令らを‘班村(〓村)’に直ちに送って聖廟の内政を騒々しくしたという話が出る。先祖 39年ならば1606年,壬辰倭乱(文禄の役)以後だ。壬辰倭乱(文禄の役)を経た後,成均館が再整備される過程で形成された成均館一帯の村を班村だと歌い始めたと推定することはできるが,これも確言することはできない。
班村で牛を屠殺することになった祈願やはり正確でない。朝鮮前期には関係があった記録を探すのに難しくて,17世紀末にきてはじめて班村と牛の屠殺に関する資料が見える。 ‘粛宗実録’ 24年(1698) 1月21日照に好調(互助)板書李濡が半分の(〓人)らに2ヶ月を限定して,屠殺を禁止することを要請する飼料があると,少なくとも粛宗年間にくれば半分人が国家の公認を得て,牛の屠殺を受け持っていたことを分かることができる。 しかしこれまたどこまで遡及できるかは疑問だ。
なぜこの時期にきて,半分人が牛の屠殺と牛肉販売に従事することになったのかもやはり明らかでない。用心深く推定しようとするなら,班村民の屠殺は成均館学生たちの食事と密接な関係があると見られる。 ‘中宗実録’ 7年10月30日照によれば,本来成均館儒者らには牛肉をおかずで提供したのが長い間の由来だったが,成均館で肉を食べてはいけないという一部学生たちの意見があって,会議を開いて,決定を見たこと,寄宿舎と明倫堂では食べて食堂では食べないことにしたのだ。
ちょっと特別な行動ではないかするのに,果たしてこの記事を書いた士官は当時の人々が学生たちの行動が特異なふりをする,すなわち何か飛んでみようとする行動で考えたと伝えている。どうしようが成均館儒者らの食事に牛肉を提供する慣習は古くなったことで,このために班村民らに牛の屠殺が許諾されたのでないかする。そして班村民らがこれを契機にソウル市内牛肉の販売を専門担当することになったことと見ることが多分当然な道理であろう。なぜなら,先立って引用したユボン礼儀‘ハンギョン知略’現ほう助に“成均館の老僕らで肉を売って,生計をするようにして,縦捧げる肉でテ学生たちのおかずを継続するようにする”とした話はやはりこういういきさつから始まったと見られるためだ。
ウン欄教北側が班村
もう牛肉とは決別してこの班村民の特殊性に対して集中的に調べよう。遅れたが,班村の位置を取りまとめてみよう。班村はその範囲が正確に制限されていたものとみられる。 ‘毎日新報’ 1916年3月11日から3月26日までのせられた‘京城行脚’という記事によれば,その位置はこうだ.
現金京城植物園入口道のそばに一ヶの石碑があると,‘ウン欄教(凝? 橋)’と刻んでいる。これは正祖大王がこちらに橋をかけるようにして,そのそばには蓮池を売って,付近の風景を助けるようにされることであるから,今は硯池もなくて橋の跡もないが,石碑だけは一人ぼっち残ったし,この石碑の北側は半分の(〓人)が居住する所で,南は普通人民の住居地で区別した。
京城植物園は今のソウル大病院と東崇洞,大学路の場所の間にあった。ところでこちらは本来景慕宮場所であった。 19世紀ソウル地図を見れば,昌慶宮右側に敬慕宮が描かれていて,敬慕宮の右側韋編に宮池または蓮池という名前の池が見える。そしてその右側に小さい橋があるのに,これが政調がたてたウン欄教だ。 このウン欄教北側が班村である。ツヤの‘パングンジァビョン’を見ればもう少し正確だ。
下馬碑南側に
吉だが横であけられたので,
班村の境界は
ここで明確に決まるよ。
今石をたてて
表わしたところオディメニョ.
敬慕宮硯池の
レンゲが咲いたところだよ。
‘毎日新報’の記録と正確に一致するのだ。 E.C.にも注釈がある。
“昔の班村は管絃(館〓)で恵化門に達するところを境界としたのに,党低調(当クァ朝,政調)に敬慕宮の前硯池街に石をたてて班村の境界とした。 硯池北側が皆班村だ。”
本来管絃で恵化門に達するところが班村の下限船だったが(管絃はどこなのか未詳),政調の時敬慕宮の硯池を班村の下限船としたのだ。班村はまた同伴村と西班村に分けられるのに,これは成均館側から敬慕宮方向に直ちに降りてくる市内について出た道を中心にして,右側は同伴村,左側は西班村になる。西班村の開始は今の昌慶宮月覲門前の平たく切り出した石頭からだ。
外部の人居住許諾しない別世界
以上が班村の地域的区画だ。 しかしこの区画は単純に行政区域を意味するのではなかった。 こちらは班村民でなければ居住を許諾しない特別区域だったことだ。 先立って引用した‘毎日新報’の‘京城行為’をまた探してみよう。
半分人ということはすなわち俗説に牛の屠殺を生業とする者を称する一種の代名詞だ。しかしこの名称がどの時代から始まったのか上告しにくい。しかし同所門アン・ブクン一帯の住民は今日までも牛屠殺を営業でする人が多いので昔にはその数が二倍でも多いことは定則だ。しかしこの営業をする人を人々がいやしく思って交際と婚姻関係を結ばないので,この部落の住民は世人の圧迫と数値と結交・婚姻の不許可などの侮辱にあう関係によって,自然に,憤慨を引き起こして憤激心耳起きる時にこちら住民たちは一切団結されて人のためにして,義理をたてるのに生死を見て回らない気概があったし,昔には他の同人として二棟に入ってくることもできなかったし,この同人が違う東から理事行って住むこともなくて,一介別世界を形成した。
班村は外部の人の居住を許諾しなかった一介の別世界だったのだ。こういう風習がいつ形成されたことかは知る術がないが,少なくとも英祖の時にはすでに社会的約束になったと見られる。 ‘英祖実録’ 19年11月6日地平趙載徳は外因の入居が不許可になった班村を宰相の息子らが占拠したと調査して,治罪することを要求しているにもその証拠を探すことができる。
より一層興味深いのは朝鮮後期のすべての禁乱にも班村だけは入って調査することはできなかったとのことだ。金蘭というのは朝鮮が 500年の間取り締まりの対象とした松の伐採禁止,任意的屠殺の禁止,醸造の禁止,すなわち禁松,禁屠,禁酒などが主種目なのに,犯人が班村に隠れてしまえばもうこれ以上の追跡が不可能だったのだ。 班村は一種の治外法権地帯だったのだ。
‘英祖実録’ 6年10月11日右議政趙文命の話を聞いてみよう。
“ 刑曹板書金取魯の話を聞いたところ,半分の(〓人)があることが非常に奇怪でします。北部の壮義洞周囲に禁松の政令が行われないので人をさせて調べたところ,反人義無理がセンソルをむやみに切って行くので人々が捉えようとすると斧で人をとって性を越えて逃走して,そのまま班村(〓村)の中に隠れたのに,すべての禁乱にも班村にはあえて入ることができなかったのでつかみ出す方法がないというから,真にきまり悪いことです。”
本来ソウル市内で松を切るのは禁止されていたこと(ソウルの木長寿はソウル市内でベン木を販売できない)半分人が葬儀洞周辺のセンソルを切って行ったし, 逮捕しようとするや斧を振り回した後,班村中に逃避したのだ。 ひとまず班村中に入れば金蘭が達し得ない。 布教が入ることができないのだ。
成均館儒者らの断食闘争
英祖は成均館大司成に班村を検索することを指示するが,今回は成均館に寄食している儒者らがストライクを起こす。捲堂がそれなのに,これは食堂に入って,食事することを拒否する断食闘争だ。成均館儒者は抗議することがあればたびたびクォン当たりをする。英祖が良い話でなだめたあげく儒者らはストライクを解いた。
実際に成均館近所で泥棒を逮捕して捕盗大将がパジクテン場合もあった。 ‘英祖実録’ 41年5月13日照には司諌院で捕校が班村(〓村)で泥棒を捕まえたのに,聖廟が極めて近いところで騒々しくしたという理由で捕盗大将のパジクを要請して,許諾を受けたという記録が残っている。
班村がこのように独特の区域になったことは複合的な理由があると見られる。何より布教が入ることができないということは聖廟,すなわち大成殿という聖化なった空間があったためだ。これと合わせて班村民が違う地域の人々と区別される人という点も同時に作用しただろう。すなわち半分人の身分が白丁ではないのは明らかだが,牛の屠殺と販売に関係する以上過小評価を受けたことであることは言うまでもない。事実上これによって班村民は班村外側の人々と親交,結婚など一切の社会的関係を結ばなかったのだ。班村は事実上ゲットー(ghetto)であったことだ。これが班村を特殊な区域で作ったもう一つの理由になるだろう。
このようなのが土花で班村民らは独特のエトスを持つようになったと見られる。先立って引用した署名ウンの‘眼光水田’の“がんじょうな者は賭博場を歩き回ったり侠客役割をする”という一節もそのような意識の一端を説明したと見られる。非常に暴力的なことなのに,実際そのような事例が見えたりもする。政調1年7月15日半分の(〓人)鄭漢龍が環刀で人を攻撃して,膝骨が半分でも落ちていったし,傷害を(受ける)着た人がその傷害によって致命一事件により殺人で成獄,殺人事件を裁くことになったという記録もある。これは貴族や普通市民に期待される行動ではない。
風俗が奇怪で,ソウルと違うよ
もう半分人の独特のエトスの実状を具体的に聞いてみよう。 ツヤの‘パングンジァビョン’だ。
半分人は本来
遠く松都から来た人々
女の曲の声は歌と同じで
男の身なりは贅沢だね。
豪侠ある気性に
燕国趙ナラの兆しを帯びて
風俗が奇怪で
ソウルとも違うよ。
E.C.の注釈を見よう。
“ 半分人は本来開城で引越ししてきた人々だ。 だから彼らの言い方と曲城は松島の人々と同じだ。男たちの衣服は贅沢で派手で,例四人と違う。気絶を崇めたてて侠霊気があって,死を何ともなく思う。しばしば戦いが起きれば,刃物で胸をひいて股を刺す。 風習があまりにも違うものだ。”
半分人の言い方と曲の声が個性の人の曲の声と同じだということは彼らが個性出身だというところで由来したと見られる(もちろん科学的に証明されたのではない). ソウルと違った言い方はこれらを他の人と区分する最も大きい差異点だった。イ・オクは‘放言’という文で班村人の話をこのように区別作っている。
“漢城は国の真中で,漢城の真ん中に住民たちがいる。 その大声を張り上げて答えて泣いて話すことでも万種類物らに付ける名前が通常の国民らと違って,彼らを区別して‘反民(?民,〓民と同様)という。”
特異ではないか? 音調が違うだけでなく事物の名前も一般国民らとは区分されたというと,一種の特殊な放言というはずだ。 ソウルの核心地域という成均館一帯があたかも島のように孤立になった言語地域だったことだ。
特殊放言使った半分の
また男たちが贅沢な服色と豪侠な気質,暴力的な指向を持ったことで色々な文献が証言している。 この暴力性を純化させるための動きまであったほどであるからだ。 ソミョンウンが伝記を書いた眼光数(安光洙,1710〜65)が正にそのような人だ。
眼光数やはり班村の人だ。ただし眼光数が純粋な半分の(〓人)なのかは疑問だ。なぜなら彼が中(案)香りと同じ姓氏の順興アン氏というもの,そして署名ウンの記録によれば彼のお父さんが武班職を持ったし(正3品折衝将軍だった。もちろんこれはつまらない武班の品階だ),また彼の先祖が班村に流れてきて起居としたので,本来班村の生え抜きではなかったことから見える。どうであれ彼の行跡を見れば文多少読んだ知識人の臭いが充満する。
眼光数は“太学は首善之地なのに, 風俗がこれと同じではなるだろうか”としながら,子弟ら中勇気のある果敢な人70人余りを呼び集めて斉業文会という名前の系を作った。言葉が季指これは学校であった。その学生らの能力に合わせて経史子伝を教えて,事親敬長の道理を呼び覚ました。 これだけか。冠婚葬祭も分からなくてはいけない。彼は絵を描きながら理解しやすくそれを教えた。
眼光数は有能な教育者であった。彼は余裕を持って生きてこそ気性が狭くならないと言いながら晴れた日,景色良いところを選んで,学生たちを連れて遠足を出て行って, 酒を飲んで詩を作りながら,一日を送ったのだ。また賞にあうや疏食で三年を過ごして,夜昼の曲村をたとえ病気がひどく私も止めることがなかったというと, 彼は言葉で教えるのではなく一生懸命実践して, ボンを見せる人だった。 これに班村の子弟らが感化されて,彼に従ったことはもちろんだ。
眼光数の弟子らは成均館の代理になって修復になったこと,彼らは皆成均館の業務に誠実で有能な人であったことだ。眼光数が死ぬや班村の人々は彼の弟子にしても違おうが男にしても女にしても悲しみながら,彼の葬儀を助けた。また弟子らは彼を記念して,キイル誕生日事実の絶技ごとに弟嫁を用意して,祭事を助けたという。
私は眼光数という人物に対して魅力を感じることができない。儒家の例から抜け出していた部類らの独特の性格がオイル価格の例に感染するのを見ればかえって悲しさを感じる。だが‘眼光水田’は本来反人義独特の性格を反証する役割をしているではないか? ‘眼光水田’を通じて,留学というイデオロギーで統制できなかった人間の本来の姿を見ることがより一層興味深いのだ。
成均館没落と共に消えた班村
20世紀に入り込みながら,近代的教育制度が施行されるや成均館は昔の地位を失って中世の遺物になった。 成均館が崩れるや班村もしたがって解体された。 身分制の崩壊とともに班村の人に加えられた社会的差別やはり徐々に消えることになった。
1920 年代新聞記事によれば,半分人は相変らず牛の屠殺と牛肉販売業に従事していた。これらは自分たちに加えられた社会的差別と戦うために教育事業に献身的だった。彼らは1910年普通学校過程の私立スンジョンハッキョをたてて,班村の児童らを教えた。特記することはこの学校は財政が全く困らなかったとのことだ。これらは自分たちに加えられた社会的差別を考えて,牛肉販売金額の一部を出して,学校の財政を充当したので,地方に引越しして生きてもスンジョンハッキョをための献金は郵便で送るほど情熱であったということだ。
身分制が消えたこの時代に班村の人が何か意味があるかと? なぜ意味がないだろうか。身分制は消えたがお金と権力,学閥,出身地で人間を差別するのは相変わらずだ。お金と権力の保有程度により住む所やはり境界が作っている。ソウル市内には今でも班村と同じゲットーが存在する。
変なことだ。 牛肉は皆食べるのが好きだが,韓国でも日本でもインドでも牛を捕まえる人は皆いやしい人だった。 食べることがなければ人は生きることはできないから農民こそ最も重要な人なのに農民の社会的地位はなぜいつも低いのか。
これだけか。 歴史に登場する人物らは皆王と貴族のように高貴な人々だ。もしそうではないならば,何か大きい事故を起こした人でなければならない。洪景來のように,イム・コックジョンのようにね。そうではなければ,歴史は記憶しない。 今にもして違うだろうか? わずか数十年をすぎなくて出てきてこの文を読む読者大部分は歴史の中で忘れられた人物になるだろう.
班村の人々は歴史の中で忘れられた人だ。 ゲットー(ghetto)の中に住んだこれらを誰が記憶するだろうか? 班村の人々に関する資料を取りまとめながら,英雄の列伝でなく,そのような忘れられた人々の人生を復元したいという欲望が煮立つ。 (終わり)
文:カン・ミョングァン釜山大教授・漢文学hkmk@pusan.ac.kr
発行日:2003年04月01日(通巻523号)
ページ数:560 〜 578ページ
カン・ミョングァン
● 1958年釜山出生
● 1981年釜山大国語科卒業
●成均館大ある国語と漢文学博士
●著書:‘朝鮮後期女肛門学縁区’
‘朝鮮時代文学芸術の生成空間’
‘朝鮮の人々恵園の絵の外に歩き出す
http://www.donga.com/docs/magazine/shin/2003/03/25/200303250500030/200303250500030_1.html
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