我が国製菓製パン変遷史
もう我が国でもパンは重要な食べ物になった。 忙しい現代人の朝代用でも,家族のおやつの材料から誕生日やクリスマス ケーキに至るまで食べることになる時や種類がだいぶ多様だ。
このように大きくなったパン,菓子の消費量は町内ごとに何ヶ所ずつあるパン屋らと,それも足りなくて,スーパーで売る大企業型製菓類,また大型冷凍パンチェーン店(パリバゲトゥ,クラウンベーカリー,トゥレジュル,ソンメリー等等)らを考えれば簡単に知ることが出来る。
それならわが国で果たしてパンがどんな過程を経て今に至る成長をしたのか調べてみよう!!
導入期(1882〜1916)
我が国でのパンの伝来は旧韓末に秘密裏に入国した宣教師によって成し遂げられたが確実な年代や宣教師の名前は分からない。ただ、1834年にフランス人の Maubant神父とシスターが,1856年同じフランス人神父ベルヌーイ(S. F. Berneux)が入国した事実を参考として知られている。
当時には宣教者らが炭火を起こした後にモチ蒸し器を伏せておいて、その上にパン練り粉をのせた次にキュウリザペギ(主;丸い平たくて口がぽかんと開かれた素焼きの土器)で覆って,火鉢を作って,パンを焼いた。製品の模様があたかも牛嚢と同じだといってウラントクと呼んだのにこれが最初に紹介されたパン菓子で知られている。当時パンは綿布と呼んだし,カステラは雪のように白いといってソルゴと呼んだりもした。
以後1891年[注:原文は1918年]にロシア公館が立てられたし,ウェーベルロシア公使の妻の姉のソンタークは公館の前で正東クラブを開設して,茶類と洋食を販売した。彼女は初めには洋菓子を作って,閔妃にプレゼントして歓心を買った後,閔妃に西洋料理講習もして自ら料理も作って捧げた。
当時高宗は洋食を非常に楽しんだことで有名だが韓日合邦前にすでに洋食パーティーを開いたという記録がある。当時32才のソンターク女史は高宗の洋食侍中から羨望を得て,ついに正東の王室付属建物の寄贈を受けて[注:孫澤ホテルのこと],皇室の洋物一切を取り扱う御用係を受け持つことになった。
その後製菓業の芽が萌え出ることになる幼年期は韓日合邦以後日本を通じて,彼らの和菓子と洋菓子が流入し始めた時期であった。日本人たちはドロップと駄菓子を珍古介(チンゴゲ)に売ったといい,ぼたもち(チャブサルモチ)はすでに仁川などの地で手作りされていたという。
このように菓子業らは徐々に南大門市場に集まって,卸売商を開いたし,小売商らは主に鍾路に殺到していた。当時代表的な菓子では1個当り1銭と伝えられる雑菓子と生菓子,ドロップなどがあったし,卸売商らがこれを作って,小規模雑貨屋や地方業者らに供給したのにこれがまさに我が国製菓業の草創期の姿といえる。
1899 年9月18日京仁鉄道開通を皮切りに京釜線,京義線が開通することによって韓半島と満州までの鉄道が完成し,多くの外国人らが韓国を経由して,満州に移動することによって鉄道駅周辺の宿泊施設が必要になった。これに鉄道会社が自主的に建設して運営することになったしこれに釜山駅舎を2階で建設して,1階は待合室で,2階はホテル客室で計画して,開館したのにこのホテルが我が国鉄道ホテルの最初だ。引き続き1914年朝鮮ホテルに至るまで多いホテルが開館した。
ホテルではパンとアイスクリーム,プディング,クッキーなどが作られて,食卓に上がったし,一般パン屋は1925年に入ってから我が国技術者と自営業者が多少生まれてき始めた。
幼年期(1910〜1945)
幼年期であった日帝末期には統制経済ですべての物資は配給を通じるだけで入手することができた。従軍頃には製パン,製菓の主原料のミルクが品薄になるとあらゆる雑穀粉とはなはだしくは豆ゴマ(肥料で使われる大豆)まで初お目見えしたかとすれば貝殻を微細に粉砕したヘルジという商品を配給,小麦粉と混用するようにした。
砂糖は製菓生産品の算出基準になるほど重要原料であるから生産実績調査の基準になったりもした。 しかし日が進むにつれ砂糖配給量が減って,これ以上パン · 洋菓子店を経営できなくて,廃業して地方で設立した製菓業者もいた。
1925〜45年までの特徴はソウルの市境界拡張と人口増加,そして多い製菓業者の進出で菓子消費が大幅に増加した時期であった。
少年期(1945〜1960)
8.15 光復前の販売形態は今と違い単一店舗があったりもしたが,概して卸売り小売りが確かに区分されて,卸売業者は生産施設をそろえて小売店に製品を提供した。 そうしたことが光復と一緒に自家製造,自家販売の形態で販売構造の変化をもたらした。
その主な理由では次のようだ。
1)光復前に大部分の製菓らが日本人たちの量産工場で生産されたが敗戦によって日本人らの業者が閉鎖されたし,
2)解放をむかえて,米国から多量の援護物資が流入して,ミルクと砂糖も簡単に手に入ったという点。
3)第2次世界大戦中に甘美食品に飢えた大衆の消費性が急増して,パン,洋菓子の供給が要求されただけでなく,生産原価に比べて,付加価値が非常に高かったという点を上げることができる。
オーブンは薪オーブンが初めて登場したしその次が炭を使うオーブン,煉炭オーブン,ガスオーブン,電気オーブンの順で発展してきた。
青年期(1961〜1970)
解放になりながら,自家製造,自家販売として構造変化が急速に進展して,全国のパン屋数は500ヶ所余りに達した。 1960年代に入ってからは今までのパン屋が単一店舗体制だった時代を粋オに量産体制で登場することになった。当時食生活改善の一環で粉食を奨励することになったところ,これはパン屋が国家政策に順応する性格になって,量産業体胎動の社会的条件が成熟した。
部材料面を調べれば6.25戦争後、部材料皆外国品にだけ依存したこととは違って1950年代末に入って,順次国産品を使って,パン菓子を作ることになった。
成年期(1971〜1980)
第3次5ヶ年計画が始まった1972年から現在までをパン.洋菓子業界の成年期と見られる。 米国の援護物資は1970年代初めを頂点で毎年減少を持ってきたし政府では白眉消費抑制策で国際市場価格が安い小麦を輸入,積極的な粉食奨励をするに至った。
したがって急速なパン類の消費増加はパン.洋菓子業界発展の起爆剤になったりもした。従来パン.洋菓子店だけで売ったパンが食生活改善という風に乗って急増する消費傾向により1969年にはサムニプシクプム工業株式会社が発足したし続いて,釜山,大邱など地方では量産工場が続出した。
また1979年からホテルが菓子類製造業許可を取得やり遂げることによって新羅,プラザ,ウォーカーヒル ホテルなどが1年の間20ヶ所余りの業者をオープンし,この中一部ホテルは以後別途法人で独立して,新羅名菓やプラザ製菓の前身になったりもした。
定着期(1981〜現在)
1990 年代に入って,製菓業界の最近変化ならば,どうしても首都圏で飽和状態に達した各フランチャイズ企業等の地方進出とそれにともなう地方工場竣工を上げられる。また大企業のベーカリー業者に対する進出もすでに1980年代初めから予想されてきたことだったが最近より一層積極的な摸索と進出が成り立っている。
1980 年代消費者の購買形態および業界の変化外製品の消費形態を調べれば1980年代初期までしても食パンと単科磁流が主流をなしたし,ケーキの場合もバタークリームケーキの選好度が高かった。そうしたことが1980年代中盤からは麦パン,とうもろこしパン,健康パン,などと,ケーキにも糖度が低く,クリーム量が少ない製品を探すことになった。
また1980年代後半期には輸入自由化でヨーロッパ名品製品が国内に普及し,一層高級化された。 特にダイエット食の拡大で健康パン類をはじめ,パゲトゥなどフランスパンとペストリー製品の伸張傾向が目立った。
これと共に進出業界の大部分が外国製菓業者と技術合作の形態なので徐々に大型化,高級化されていく傾向は加速化される展望だ。
http://rehigher.com.ne.kr/bakeryhistory.htm
numlk01@翻訳作業中 ver.2007.10.03
numlk01|10-04 09:52
グルメ板連動企画。とりあえず、韓国での認識を示したものと考えられる。ただし、料理本の一覧その他の翻訳結果と齟齬する内容もあり。
hiroshimania|10-04 11:45
このシリーズ好きなんだけど、機械翻訳の長文はしんどい・・
hiroshimania|10-04 11:46
以後1918年にロシア公館が立てられたし,ウォベルロシア公館の妻の妹の手卓越公館の前で正東クラブを開設して,茶類と洋食を販売した。彼女は初めには洋菓子を作って,閔妃にプレゼントして歓心を買った後,閔妃に西洋要理講習もして自ら料理も作って捧げた???? 1891年?
numlk01|10-04 11:57
ぼちぼち誤訳は直していきますからw。手直している論文が多すぎて、かなり厳しいです。
→ hiroshimania|10-04 12:08
誤訳というよりは、元ソースの問題でしょう。導入期(1882〜1916)に1918年のことを書いていたり、ウェーベルがロシア革命後まで公使をやっていたり、怪しすぎです。あと、韓日合邦とか”1925〜45年までの特徴はソウルの市境界拡張と人口増加,そして多い製菓業者の進出で菓子消費が大幅に増加した時期であった。”とかイルパすぎw
→ numlk01|10-04 13:06
英国 tin bread
↓
日本 食パン(主食用パン=shokupan)
↓
朝鮮 sikppang
日帝残滓
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