2016年10月1日土曜日

スープにキジ肉で風味加えたトック…パスタぐらい多様な変奏


嘘を読みます<26>トックには四骨汁が私の格という伝統

朝鮮時代文献の中料理法は
杵で打って手でこすって細く選んで
スープ基本に牛・鶏など多様な肉汁追加
塩辛の汁も利用…香辛料バン初雪で仕上げ
想像力加えた多彩な韓国式お雑煮は
四骨などスープの材料に閉じ込められた汁抜け出して
カキ・カプサアオノリ等でジェロ拡大うれしくて
切ること・かもす方式よって無数の組合可能




トックを見過ごせない新年がくる。 それ自体で完結性が高いという食べ物であるトックをどのようにすればおいしく食べることができるだろうか。 ケティイミジベンク

“歳時にモチを打って作って切ってトックを沸かす。寒くて暑かったという天気気まぐれにもよく傷つかないで長く耐えるだけでなくその質素できれいな中がより一層良い。" 看書痴、自ら自身を示して‘本だけ見るバカ’と達した朝鮮末期文人李徳懋(李徳懋・1741~1793)が正月に食べるモチに送った言葉だ。

正確には自身の詩‘添歳餅’に付けた注釈だ。チョムセビョンという“年を取るようにするモチ”という意味だ。今でも子供たちに“君何歳とか”を“トック何皿食べたの”と回して尋ねないか。ア何とや正月を迎えて選んだモチを早くて“その質素できれいな中がより一層良い(取其凈潔)”といったその話と表現もまた、小胆なことこの上ない。 あの原文、ぴったり四つの文字で捕らえたモチの集中力と完結性が読む目だけツンと刺さる。

2017年、正しくなされた韓国式お雑煮ハンさんのために

今日のようなモチ選ぶ機械がなかった時、人々は手でこすって選んでモチを長く伸ばした。 杵でむやみに打った後、その塊りが返品してやわらかい時こすりながら長く選ぶ形だった。 このような手動作で作ったタコ足同じ白い餅を“拳模”、すなわち“こすって選んだモチ”ともした。 難しくモチを伸ばして選んで沸かす韓国式お雑煮の汁はどうなのか. 汁には多様な材料を使った。 金邁淳(金邁淳・1776~1840)の‘洌陽歳時記’にはこういう話が出る。

“先にスープを沸かして汁がグラグラ沸く時モチをコインのように薄切りにしてスープに入れる。 モチがべたつくこともせずつぶれることもなければうまくいったのだ。 ところで豚肉、牛肉、キジ肉、鶏肉などで味を出したりもする。”

スープを基本で多様な肉汁を使った。 そしてここに必ず風味を培う香辛料を加えた。 また他の記録である洪錫謨(洪錫謨・1781~1857)の‘東国歳時記’にはこのように出てくる。
“米粉を蒸して大きいモチをのせる板の上に置いて杵で数えきれない程打って長く選んだモチを白いモチ(白餅)という。 これを薄く小判厚さで切ってスープに入れて沸かした後牛肉やキジ肉を加えて蕃椒屑を打って料理したのを餅湯という。”


キム・ジュングンの図'舵柄地形'で描写された餠をつく形.オーストリア、ウィーン民族学博物館所蔵.

ここに出てくるバン初雪というのは胡椒である事もあって、山椒である事もあって、または、貂皮粉でもある。 金邁淳や洪錫謨の記録に先立ち、柳得恭(柳得恭・1748~1807)は‘京都雑志’にトックはキジ肉と胡椒(胡椒屑)で味を出すという記録を残したことがある。

食べ物を置いてこのように笑談した話をしたい。 問い詰めて争って正誤表を作る食べ物の話のほか、強情でしつこい隈とは一切ない質素ながらもきれいな食べ物風景を描きたい。 大事な資源を尊くなでつけて尊く食べてきた話を淡々と解きほぐしたい。 そうした中で文献の中に寝ている感覚、方法、感受性、態度などをそっと起こしたい。

今日私たちが感心するイタリア パスタの多彩さというのはその試みの多彩さということではないのか。 私たちは今モチを、また、トックをどこまで食べてみたのか。 どこまで試みたのか。 どれだけ感じて表現してみたのか。 食べ物文献探求は、歴史の中食べ物跡検索はこのような質問とつながり接しなければならない。 目覚めた記録が今日の食文化に想像力を加える元手にならなければならない。

問い詰めて争ってあえて正誤表を使う行為が必ず楽しいだけではない。 だが、質素できれいな食べ物の話を始めるためにも必ず嘘はつかなければならない。 反省して清算しなければならない誤りをついた次に正しくなされた食べ物感受性、食べ物想像力に近寄ることができる。

王と両班の食べ物といってこそさらにおいしいか

たとえばこういうものだ。 文献に見える多様な方法と材料に対する態度と感覚は習うことができなくて物理的に不可能な“復元”を云々する。 全世界とともに血流して解放をむかえて、血流して共和国をたてたがホあご“半額”と“王室”という話を食べ物に持って当てて、その一言で食べ物に威厳が宿ると勘違いする。 そこで終わる。 どこにや持って付ける“千年の神秘” “先祖の知恵”のようなむなしい捜査は本来食べ物に、食べ物の歴史に何をどのように尋ねて答えるべきかに対する筋道を失うようにするアズー悪い効果がある。 再び食べ物文献に戻ってみよう。


1921年版パン・シニョンの'朝鮮料理製法'中モチ項目.国立中央図書館所蔵.

“モチをきれいに作って薄切りにして肉スープがぐらぐら沸く時モチを少しの間入れてすばやく浮かび上がる。 キジ国はおいしく沸かして、肉炒めた汁を乗って再びモチを巻いて、上に薬散炙を豊かにのせる。 胡椒を振りかけなさい。 おいしいスープをあたたかく沸かしてそばに置いて、そのスープを注いで食べろ。 塩辛の汁にクミを入れて沸かせば病気にかかった人力を回復するのに第一だ。”

19世紀末料理で‘是議全書’にあるトック項目を今日の韓国語で解いて書いてみた。 味を出す方法、スープの風味をキジを使って増幅する方法が異彩を放つ。 あの簡素な備忘録に香辛料使用だけは別に一行を割愛した。 スープを注いで、一杯すべて食べる時まで暖かいぬくみを維持する方式は想像だけでもおもしろくてほほえましい。 スープに終わらないで、塩辛の汁まで土台の材料を広げた点も目につく。 材料と副材料の結合、風味を増幅する方式、食べる方法、スープと塩辛の汁の使われる等等が真に多様さと豊富だ。 見ていればあ、トックにこのような試みもやれるだろうという想像力が起こる。 本当に私たちに必要なことは、私たちが歴史の跡で呼び覚ますことはこれに対する私の態度と私の想像力だ。 過去の本を積んで時が過ぎた両班遊びをする時ではない。

伝統から解放されて多様なトックを作ろう

その間私たちはただし“昔にそうした”だけ繰り返す食べ物文献読むことをするだけだったし、論証不可能な領域で復元をするという幻想に捕われて生きた。 もうちょっと違われる時もなった。 記録の中で私の想像力を発揮して、その想像力を基に料理の実際で今日の資源と今日の技術を十分活用して多様な試みをしてみそうだ。

トックを沸かす時モチを斜めに切ったりもしたし、ウォンでも切った。 チョレンイも押したし鈴やドングリ形でもかもした。 より細くて長い音調をトックに使うこともした。 打ってモチを作らないで米の粉をすぐに一つになった“セントク”を使うこともあった。 形により質感がみな違うはずだ。 形によりいわゆる式感、歯疳が変わる。 楽しい多様さが生まれる余地がここにある。

肉汁材料もそうだ。 18世紀以来続いた記録を読んでいれば売り次第山‘スープの材料’エガチン汁、四骨汁に終わる今日のトックがかえってみすぼらしく感じられる。 逆にカキ、カプサアオノリなど文献の外に存在する多様な材料がどれくらい大切な資源で想像力の元手なのかが鮮やかになる。 考えがここに早ければまずなじんだ通り牛肉一つでも繊細に接近したい心が育つ。 日の当る場所、事態、カルビ、右足、尻尾などは風味がみな違う。 スープと塩辛の汁も風味が全く違う。 多様なモチに多様な汁がそれぞれ違う方式で手を握れば無数の組合が可能でないだろうか。 本当に私が好きで、本当に私に合う新しいトックを沸かすことができないだろうか。


1913年2月2日付毎日新報にのせられた'陰暦年末、年初のトックの種'.

パスタぐらい多様なトックのために

香辛料もそうだ。 私たちはまだ文献の中“バン初”の正体をよく分からない。 ついに分からないこともある。 ところが漢字“椒”が表わすコショウ、山草、貂皮の想像力、必ず肉汁に香辛料を加えるようにした態度は1本司書私の香り失うようににおいを発する今日のコショウを振り返ってみるようにする。 今日私たちには肉汁の風味を培うどんな香辛料があるのか。 本当にコショウをよく使ってみたことはあるのか。

ここで終わらない。 モチがトックで伸びるように、トックはトック上で伸びることができる。 テーブルの足曲がるようにならべて食べる間私の温度を失って、この人あの人の箸の上げ下ろしが重なって身だしなみが散らなければならない食膳の中で一年を始めることが正月食事で穏当なのか。 トック相談例も伝えてくる。 トックはトック自体で集中力あって完結性高い味を害しないほどのあまり濃厚でないキムチとともにした。 ソウル景気側ではトックにナバクキムチを置いて、やはり集中力高い派手な膳をぴったり置いて点置いて、食膳の画竜点睛になる甘い併科類と飲み物でトック膳を調えた。 中心料理を置いて、他の食べ物の配分とバランスを取ることを通じてある相談完成度を高める方式こそ今日私たちが本当に学び呼び覚ます道理が正しい態度だ。

その間私たちは感覚も態度も今日も失って食べ物の無駄な捜査ととても重要なのにない昔の話の中でとても長くさ迷った。 それで支離滅裂になった。 解放されて何歳なのか。 もう子供ではない。 ぶつぶつつぶやく年齢でもない。 2017年、さらに変わらなければならない。 そうしようとするなら無駄な捜査の上に積んだ食文化史の嘘と無常に決別もしなければならない。 送旧迎新だといった。 本当に送旧迎新を待望する。

孤影食べ物文献研究者

http://www.hankookilbo.com/v/81fe098203ed42049889bf7ac4144fa1

韓国料理、海外韓国人に企業製品根元は'空虚世界化'


嘘を読みます<24>パク・クネの韓国料理世界化


ベルギー料理人子真意ばら肉専門店店風景. サプキョプサルは西洋のバーベキュー文化にそのまま移しておいても何ら問題がないというのが子真意考えであったし、その考えは的中した。 子負けた提供

先月30日パク・クネ大統領が野党が推薦した特検候補二人の中でパク・ヨンス弁護士を‘パク・クネ ゲート’捜査のための特別検査に任命した。

12月2日パク・ヨンス特別検査は言論と会って自身の意志をこのように明らかにした。 “検察の捜査記録を初めからまた見て原点で開始”する。 “ミール・Kスポーツ財団基金の本質”を取り上げ論じて出てきた言葉だ。

そのように見れば韓国料理世界化でこそその間原点と本質を見て回ったことない事業だった。 パク・クネ政府はイ・ミョンバク政府の韓国料理世界化事業を“不適切な国家補助事業”に釘を刺した。 その一方で他の隙間を見た。 財団法人ミール事業、エコール ペランディ韓国料理過程設立時も、韓国料理文化館開館など峠ごとにパク・クネ大統領が出た。 今日も事業は流れていて、チェ・スンシルとチャ・ウンテク関連疑惑はここにも濃厚だ。

問題はその間韓国料理世界化の意義と正当性に対する議論があまりなかったという点だ。 原点であり本質である“韓国料理とは何か”という質問もなかった。 ただ“我が国固有の食べ物および食事”と話す水準で韓国料理をいえばそれだけだろうか。 今日先祖の生活様式をそっくり入れた食生活はない。 紙面でみなできない議論は次を既に約束しよう。 とても明らかで気が抜ける話は少し先送りしよう。 それ(彼)より先に根拠ない自負心も見苦しい劣等感もなしで、ひたすら良くて韓国料理仕事をする人に会いたい。 韓国外で、少し他の角度の韓食堂をするベルギー料理人子真意場合だ。


ベルギーで豚の三段バラ肉熱風を呼び起こした料理人エジン. 大企業製品をばらまくのではなくストーリーテリングを導入下だというのが韓国料理世界化に対する彼の助言だ。 Gilles Desplanque提供

“初めから三段腹になることができた”

エジンは出生地が韓国であるだけであるベルギーヘントゥ(Gent)人だ。 養子縁組でベルギー人になったエジンは大きくなりながらますます韓国料理が気がかりだったし何年か前、韓国を立ち寄って韓国料理をまともに接することになった。

“すべてのことが組閣(彫刻)合わせのようです。 ちょうど娘も大きくなって一人で旅行通って私の仕事を探したいが、ベルギーからは元気な食べ物、自然な食べ物、一人のほか一緒にして分けること、そうしたのに関心が高まっていました。 韓国料理をたくさん食べてみられなくても、韓国料理がベルギーで流行して合うことができましたよ。 すぐに韓国に行きました。”

韓国に来たエジンは韓国庶民が食べる食べ物に接する一方ソウルと智異山(チリサン)を行き来して韓国料理を習い始めた。 エジンに醤を教えた智異山(チリサン)おいしい台所コ・ウンジョン代表はエジンが“韓国場味と気鼻だけ(日本醤油商標)場味と違うとのことを直ちに識別した”と記憶する。 この難しい料理人は韓国式豚の三段バラ肉をベルギーに持っていって俗っぽい言葉で‘大当たり’を出した。 キムチも、韓国式味噌も、安い包むことも、さらにだいだい色円筒食卓と網もそのまま持っていった。 ハつくして韓国にある友達に合成樹脂赤椅子を送ってほしいという要請までした。

“韓国でしたそのままうまくいくだろうと確信しました。 ベルギーの人々がバーベキューをあまりにも好きだと。 韓国の人々が丸い食卓で肉焼く姿が本当に印象的だったんですよ。 前に見られなかった新しい姿で、ヨーロッパでただ私だけ整えることができてよ。”

するとベルギーの人々は韓国料理を味で食べるの、面白味で食べるの? ここで再び子真意会話の門がさく烈した。 “本来ヨーロッパの人々はバーベキューを焼いて一人で一皿置いて食べます。 ところで一緒にまいて座ることもおもしろかったんですよ。 その上新しいだろう。 珍しくておもしろかったです。 ベルギーの人々に韓国豚の三段バラ肉焼き物はなじむ方式なのに、なじむものの新しくておもしろくておいしいということ、私が注目したのがそれです。 私はうまくいくことができました。 初めから確信しました。”


イ・ミョンバク大統領が2009年10月15日午後大統領府緑芝園(ノクチウォン)で駐韓外交団夫婦同伴166人と国内国務委員、外交部など主要人事夫婦105人など270人余りを招請して茶話会を開いた。 キム・ユンオク女史も参加したこの日行事は韓国料理の世界化を知らせて韓国の主な経済状況と克服過程、北朝鮮に対するグランド バギン、G20開催国としての成功的確約などに対して説明した。この日ハイライトはマッコリ カクテル.イ大統領夫婦が外交団夫婦とマッコリ カクテルを飲んでいる。話し合って

韓国食べ物の哲学…素朴健康分け前

複雑な説明必要なく共感を、接点を食い込んだのだ。 面白味と味はどちら側が先んじるというより互いに手を握っている。 “私の食べ物が成功的としても、韓国料理を初めて接する90%のお客さんは初めての経験です。 残りの10%が養子縁組でも友達でも旅行のためでも韓国と縁ある人、そして好奇心多くの美食家? ところで私の食べ物が本当に韓国式なのでまたきます。 新しい食べ物をさらに深く知りたい人に本当に韓国式に出しますよ。”

さらに尋ねる前にエジンが説明を加えた。 “私は韓国料理の本質的な哲学を伝達しようとします。 素朴で複雑でなくて元気さがあるという感じ、多数が共に食べる感じ、社会的な行動がある食卓、こういうもので韓国料理を説明します。 自然を尊重して自然に従う食べ物ということでしょう。”

エジンは自身の韓国料理事業を一言で話して‘私が理解した本質的な韓国料理哲学’を伝えることだと話す。 この時、過度に複雑に料理したり、どのように料理したのか分からなくかき混ぜる食べ物、風味が明らかなスーパーマーケット調味料食べ物は自身が望むところでないとする。 簡素で、自然で、自然を尊重する食べ物、“ウェスタン ライフ”とは違った韓国料理をしていきたいという。

“韓国の自然から来た食べ物または、韓国自然に近付こうとする食べ物が韓国料理です。 これが本質だと見ます。 私の考えにはそうです。 韓国だけでなくより多くの人がもう少し自然に近付こうとする食事を作らなければなりません。 ‘ウェスタン ライフ’だけで生きれば工場食べ物を克服できませんね。 摂取する方式も韓国料理がはるかに自然に近いです。”

ここらで‘韓国料理世界化’という(のは)話を聞いてみたのか尋ねた。 子真意返事は簡単だった。 知っていて、行事にも行ってみたんだ。 ‘政府広告を執行するセンター’に接したことがあるんだ。 “韓国が金持ちであるとは分かりますがこのようなプロモーションが特定製品広報に終わるならば何の効果がありますか? しかも行事場所に私のような人は珍しくてヨーロッパに来ている韓国の人が大部分だったんですよ? 韓国料理を本当に知らせたいなら、企業製品をばらまくのではなく哲学を持ってストーリーテリングをしなくてはね。”


2009年5月4日午前ソウル、中区(チュング)、南大門路(ナムデムンロ)商工会議所で開かれた韓国料理世界化チュー診断発足会議で大統領令夫人キム・ユンオク女史と広報大使である俳優ペ・ヨンジュンさんなどが韓国料理を利用した食膳を見回している。 韓国日報資料写真

ハウツーぶすっと(How to Cook)ストーリーテリング下と

苦言をもっと聞いてみよう。

“韓国政府はなぜヨーロッパに出てきて韓国人を相手にプロモーションをするのか反省しなければなりません。 金遣いだけ持ってはなりません。 創意的で実用的でなければなりません。 着実にレストランを開く現地料理人と協業して、韓国料理は何をどのように作るのかヨーロッパの人に教える時本当に‘韓国料理世界化’が始まると見ます。 そこで醤は本質的な要素です。 スーパーマーケット製品ばらまきは効果ないです。 本質を知っている人がもっと上手くやることができますよ。 企業ブランド紹介でなく食べ物がどのように生まれるのか教えて、食べ物を通じて‘精神’を経験するようにしなくてはね。 核心は‘ハウツーぶすっと’です。”

エジンは何年間に‘ハウツーぶすっと’を実際にからだに刻んだ。 特定韓国料理だけ好きでないので毎食とか浮び上がる韓国料理をすぐにするという。 韓国ワカメ、海苔、魚、キムチ、醤油、唐辛子味噌(コチュジャン)、韓国式味噌は豊富なインスピレーションを与えて、多様な料理活動で自身を導くともう一度強調する。 “ベルギーの人々にこのように説明します。 韓国料理に幸せになる方法、本当に健康に生きる方法があると。”

傾聴しなければならないところが明らかにある。 プロモーションは徹底的に現地人に向かうこと、韓国料理の本質を考えること、韓国料理の本質は韓国自然からきたことを念頭に置くこと、単純製品広告でなく“ハウツーぶすっと”で現地人に会って哲学で魅力で誇ることなど.

子真意ぞんざいに言って韓国現実を過度にロマン化するとけちをつけることは難しくない。 とにかくベルギーの人ではないのか! その点を勘案しても子真意考えと行動が浪費に終わった韓国料理世界化をはるかに跳び越えたのに位置していることは簡単に知ることが出来る。 韓国料理を悩む人々に非常な示唆する点を投げる。 私にはまだ余韻が残る。 インタビューに助けられた孤影主(州,株)カカオ・ボム代表に感謝申し上げる。

孤影食べ物文献研究者

http://www.hankookilbo.com/v/7a65f6b93fb941a88db036a8f958d3e6

冷麺秘法より重要なのは労働だ、100年前冷麺屋ゼネスト


嘘を読みます<22>冷麺屋労働運動史


平壌冷麺店32ヶ所が集まって作られた組合‘平壌麺味会’. 日本の調味料会社味の素が冷麺に調味料使用を増やすために作ったと伝えられている。 向かい合って座った中で四角形味の素桶が見える。 KBS画面キャプチャー

日帝下朝鮮平壌部大同門通に席を占めて、主人の名前を屋号に掲げた林仲植麺屋は相当な規模の麺屋だった。

従業員が10にもなったという話だ。 しかしこの家の従業員待遇は不十分だった。 1927年2月7日夜に広がったことだ。 渇望した従業員十人の前にリム昼食が出したご飯は何日泊まったうえに凍ることさえしたご飯だった。 従業員は私の役割の食事を見て“暴悪”だと感じた。 また“憤慨”した。 生地屋で仕事をしたキム・チムンは行動が先んじた。 キム・チムンは茶碗を投げた。 キム・チムンは“主人に乱暴”して、その後全従業員ストライキが始まった(‘朝鮮日報’ 1927年2月11日付).

王朝の実録と儀軌、そして古料理書といわゆるうれしい終値に伝えてくるという秘法だけを伝統の全部と考える瞬間、韓国料理文化史に対する理解と説明は過度に激しくなる。 激しくなっていて嘘になるほかはない。 およそ100年間韓国料理文化の衝撃というのは、要するに以前になかった食べ物商品化の衝撃だ。 食べ物が利潤と賃金労働という脈絡で生まれるほかはない世の中をむかえた社会経済社の衝撃だ。 レストランという以前になかった制度を初めて対する大衆が感じた衝撃だ。 また、レストラン食べ物と工場生産食品に対する羨望を大衆と大衆媒体が互いに共に増幅させて作り出した衝撃だ。 この衝撃を普通の人の家庭がそっくり受け入れた衝撃だ。

実録と儀軌と古料理書と一家族秘法はこれを入れる理由がない。 これらの資料はかえって先立って話した衝撃が以前にはなかったことを逆説的に表わす資料だ。 国家と一族の儀礼に出てきた食べ物にどこ官能上の評価が持ち上げるだろうか。 共同体中に留まった食べ物と大衆を相手にする食べ物は生まれが違う。

“主人に横暴”食べ物労働者ブラックリスト

再び1927年に戻ろう。 この時は朝鮮大都市のレストラン営業が完全に席を占めた時だ。 しかも朝鮮の第2の都市平壌は1924年に人口10万を突破して、1930年代末人口30万を突破するなど恐ろしいほど成長する都市であった。 平壌は都市成長と共に何と50ヶ所にもなる麺屋が盛業した冷麺の都市であった。 もう氷は四季ずっと供給される。 古料理で製麺の前提は製粉だ。 ところで製粉業が成長して工場が供給したソバ粉がいくらでも市場に出てきた。 肉汁味に妖術を働かせる人類歴史上初のMSGである味の素は1910年8月朝鮮に上陸した。 麺に弾力を加える“麺ソーダ”、すなわち食用炭酸水素ナトリウムも主人が使うことに決心すればなくて使えないことはない世の中になった。 冷麺の本当に大衆化が成り立ったし、それだけ冷麺仕事をする人材がさらに必要だった。


冷麺味を出す調味料という点を前面に出して宣伝した1930年代初め味の素新聞広告.

麵屋仕事はした鉄の日雇で耐えられることはできなかった。 麵屋は労働者を雇用して分業体制を整えた。 麵屋の台所に練り粉を引き受けた練り粉屋、メンをゆでる足大屋、メンを冷たい水に洗いおとす手先、お客さんに出て行く直前冷麺の画竜点睛装飾を担当した高名屋同じ新しい台所労働者が現れた。 台所外でも人が必要だった。 通常のレストランで配達を引き受けたこれらはただ配達人と呼ばれたが、冷麺を配達するこれらは別に“中頭”と呼ぶほど大衆に変な存在と認識された。 面玉営業は都市に異彩を加える新しい文物だった。

泊まって凍ったご飯を投げた生地屋は熟練労働者であった。 先んじて出た乱暴という方をこらえることができない者の悪口と腕力であっただろう。 最初から食卓までひっくり返したかもしれない。 熟練労働者をはじめとする従業員がストライキを決心するとすぐにリムランチ麵屋も立ち止まった。 持つ人々の対応もまたはやくて確実だった。 麵屋主人が結成した平壌麺屋組合は直ちに臨時評議員会議を開催した。 彼らは“主人に横暴な行動をする職人は一切使用しないことで決議”した。 食べ物労働史上ブラックリストの誕生だ。 合わせてこの決議を破った麵屋に対しては3ウォンの罰金を払わせることに決議した。

ここで終わるはずがない。 日帝平壌警察は平壌麺屋組合の決議直後キム・チムンを含んで全4人の組合員を拘束した。 これらを捕まえて警察署に追い詰めるのは“高等係”が出た。 日帝高等係とは独立運動と反帝国主義活動を監視して政治犯と思想犯を担当した高等警察を言う。 労働運動弾圧もまた、高等警察の重要業務であった。


1927年平壌キム・チムン事件を扱った朝鮮日報記事. “夕食を凍ったのを与えた雇主に乱暴した後ゼネスト”という文句で事件を説明した。


朝鮮末行商人が居酒屋で食事する姿. 軒にかけておいた広いひも束が冷麺を売るという表示だ。

平壌麺屋労組‘搾取’に対抗して一つになる

新しい時代の冷麺が飛ぶように売れて、とりわけ麵屋が成長するだけに麵屋に雇用された労働者の労働運動もまた、着実に成長していた。 キム・チムンが茶碗を投げる前に、すでに麵屋労働者は日帝高等警察が神経を尖らせるほどの行動をしたことがある。

1925年平壌市内麵屋労働者は“搾取”と“虐待”から抜け出すために組織化に入ったし、1925年4月には270人組合員の中で208人の労働者が同盟ストライキに入った。 仕事場は違ったが労働者は団結の力を知っていた。 平壌麺屋労働組合と呼ばれたこれらは産別労組のように行動した。 1925年4月25日これらは雇主を相手に賃金引き上げの他に本組合に加入しない者を採用しないこと、採用と解雇で本組合の承認を得ることなどを要求した。

より一層目に映るのは日曜日と各麵屋の休業日を有給休暇にすることを要求した点だ。 これらはその誰より現代を理解した現代人だった。 これらは戦略を持って動いた。 組合員208人は4月30日再び平壌市内に集結した。 それから一層程度が高いストライキを決議する。 初八日即ち釈迦生誕日は当時祝日ではなかったがちょうちん行列のような見どころがあって祭りの雰囲気がある日だった。 大都市市民はこの日を休日でない休日と感じた。 おかげで冷麺注文が急増する麵屋の大きな課題だった。

1925年初八日、平壌市内麵屋はかろうじて門だけ開いた。 主人と家族皆がぶらさがって労働者なしでドアを開けたのだ。 しかし中頭の配達はあきらめなければならなかった。 やがて平壌警察署高等係が仲裁に出た。 この日午後3時平壌麺屋労働組合員は仲裁を受け入れて復帰した。 賃金引き上げ案、有給休日保障、今回の総同盟ストライキを理由にどんな解雇者も出さないことなどを警察仲裁で麵屋主人らと合意したためだ。 しかし再びどこで見たようなことが広がった。 平壌麵屋の中でキムジェリョン冷麺家、ソッキテ冷麺家、シニョンウ冷麺家などで50人の労働者を解雇したのだ(この期間‘東亜日報’参照).


仁川冷麺屋家寿町屋の1930年代初めの姿. 自転車で冷麺配達する人は‘中頭’と呼んだ。 KBS画面キャプチャー

“組合員は悲痛さをこらえることができなくて泣いた”

時代が変わった。 仕事場が新しくて、仕事が新しかったが資本家または、実業家だと下記何をした“主人”らは台所で家父長役割をした。 彼らの日帝警察依存は農民の抵抗が起きれば殿様ズボンの裾をつかんだ土班地主の形態と別に違わない。 こういうおかしなこともした。

1925年11月平壌内麵屋主人は肉汁に鶏肉汁を重ねて国で使ったり味の素を使わないことで決議して世の中のあざ笑いを買った。 麵屋間競争を減らし、一日2~3ウォンを惜しむためにというこの決議は現代的経営とかけ離れた旧時代的ふるまいだけのことだ。 私域で仕事をする人に凍ったご飯出す心がここに宿っている。 日帝警察は日帝警察隊で朝鮮労働者団結がこの世で一番見ることがいやな役割であっただろう。 こうした時に麵屋労働者は私の人生を誰にもの乞いしなかった。 団結した。 連帯した。 そして旧時代人物と日帝警察を交渉と仲裁の席に引き出した。

気がせいせいしたある部屋の解決を手に握れなかったが麵屋労働者はひざまずくこともなかった。 同じ年12月には釜山でストライキ中の印刷労働者に29ウォン32銭を募金して伝達することもした。 組合員と市民に向かった講演会も着実に継続した。 これらが招へいした演説者はたいてい日帝警察が“不穏”紙切れを付けるほどの人物だった。 1930年には平壌市内七ヶ所悪徳麵屋を襲撃して暴動を起こすこともした。 1931年には組合結成記念式まで盛大に開いた。 平壌の他にも沙里院、ヘジュ、元山、新義州など現在でも冷麺と共に浮び上がるソウル北側都市がみな麵屋労組がすごかった所だ。

しかし1930年代後半ならどんな労働運動も日帝の弾圧をこれ以上耐え難かった。 平壌麺屋労働組合の便りもだんだんなくなった1936年4月23日、去る11年間活動した沙里院麵屋労働組合まで日帝警察の解散命令で一日で解散する。 団結と相互扶助を通じて沙里院市民の支持と共感を引き出した労働組合だったがドイツ、イタリアとパートナー割って行ってなった凄じい日帝を勝ち抜く道はなかった。 解散する日“組合員五十人余りは悲痛さをこらえることができなくて”泣いた。
最近100年の食べ物文化史を追ってみるならば間違いなく会う風景がある。 すぐに田畑と山奥と入り江で食べ物資源を置いて広がった以前になかった戦いだ。 新しいレストランぐらい新しい労働運動の誕生だ。 以前になかったことは冷蔵庫や味の素だけでない。 1919年3・1運動は時にならなかったが無駄に距離に出て人々がケガしたり死んだことであろうか。 平壌麺屋労働組合のゼネスト、キム・チムンの茶碗、沙里院麵屋労働組合の涙がみな忘れることはできない食べ物文化史の一場面だ。 私たちが冷麺一杯食べるまで侮れない歴史をすぎてきたことを思い出させる限り瞬間だ。

孤影食べ物文献研究者

http://www.hankookilbo.com/v/8d34db27c23b4eff8ec4ad025677825d

‘おでん’は韓国料理なのか日本料理なのか


嘘を読みます<19>酒、おでん100年食べ物史


熱々おでん. 天気が寒くなるときはいつも探すことになるおやつの材料だ。 韓国日報資料写真

“冷たい風が吹く清酒にかまぼこ”という感覚は100年間に韓国人の季節感覚として地位を確立した。

そのいきさつは倭館、鉄道、税関、会社法、会社名簿、商工会議所、衛生取り締まり、取り締まり規則、食品製造業、飲食業、大衆媒体のような具体的な制度と施設に宿っている。 例えば現代を最も立体的に表わす具体的な文物はやはり鉄道だ。 鉄道は前に見られなかった外来食べ物、そして以前になかった食べ物の風景をこの土地に持ってきた。

“京城駅プラットホームにおでん家:極暑の半島旅行者にオアシスという良い評判を受けている京城駅フォームのビールスタンドバーでは秋風が吹き始めた去る20日からビールのサービスを止めて月桂冠(月桂冠・ケッケイカン),白鶴(白鶴・ハクツル)等酒の他におでんのようなものも売り始めたがおでん一皿に20銭、酒1本に35銭そしてうどん一杯に20銭という安い値段でサービスをしていて夜遅く旅行する人々は少しの間降り立って熱いうどんに舌打ちするのにすでに人気を呼んでお客さんが集まっている。”
(毎日新報1939年9月22日付)


京城駅ビール スタンドバーのオデン開始消息を載せた毎日新報.

メディアが描いた季節感覚は鉄道の上食べ物にのせられて伝えられている。 1939年なら中日戦争が日本帝国思い通りならない頃であり、戦争しているので米を惜しもうという総督府の宣伝が真っ最中である頃だ。 それでもメディアが食べる話をさぼるはずはない。 この短い段落中に“夏にはビール” “冷たい風吹く酒におでん”、そして“熱いうどん”が適当という日常の感覚が含まれている。

清酒、さけ、日本酒、正宗

ビールとか清酒である酒などは1876年朝日守護条規締結以後朝鮮に入ってきた。 以前には‘朝鮮の中の小さい日本’といえる倭館を通じて朝鮮人に日本酒が伝えられた。 このために朝鮮人に最も広く知られた外来酒やはり日本酒だった。 18世紀には日本酒でも大きい変化が起きた。 日本酒流通の中心がどぶろく(濁酒・どぶろく)から酒に移った頃だった。 そして朝鮮の人は倭館を通じて日本列島の酒流行変化を経て酒に適応した。 1876年以後には鉄道がのびるところについて朝鮮八道にさらに深々と食い込んだ。 事大交隣時代の倭館、万国公法時代の条約が影響を及ぼした。


日本酒場に満ちた清酒. 韓国日報資料写真

開港以後本格的に輸入された酒の中で日本清酒‘正宗’の威勢はすごかった。 運が良かった。 1883年海関細則によりワインやビールの関税率が10%、ボルドーワインやシェリーの関税率が25%、ブランデーやウイスキーあるいはシャンパンやジンとラムの関税率が30%だった時日本の酒の関税率はビールより低い8%であった。 他の外来酒類よりなじむうえに関税率まで低いから、正宗は直ちに朝鮮の酒市場に深く食い込んだ。 朝鮮人目に清酒というのはまもなく清酒だった。 現在でも‘サケ’を‘清酒’と称する口癖が相変わらずだ。

サケがおでんを導いたのか、おでんがサケを導いたのかはよく分からない。 とにかく‘かまぼこ’を入れて作った日本食べ物であるおでんもまた、すぐ朝鮮の人をひきつけた。 本来おでんはかまぼこが入った汁料理をいう。 かまぼこはすりつぶした魚にデンプンを混ぜてねった後、形を捉えて蒸したり焼いたりはねたのだ。 おでんとかまぼこの間で私たちは相変らず混乱を経ているけれど、それを離れてこのような料理方式で作った食べ物はできるなら地球どこででも通じるほどの普遍性がある。


オデンの中多様な材料がよだれを回るようにする。 韓国日報資料写真

‘かまぼこ’ 18世紀朝鮮文献登場

18世紀朝鮮文献にもかまぼこという言葉が登場する。書誌が不明な18世紀本‘謏聞事説’には‘可麻甫串’との料理が登場する。この食べ物はぼら、スズキ、鯛で出した魚方に肉、海産物、野菜、キノコなどを確かめた牛を巻いてサビ水粉負わせて沸かした後薄く切る料理だ。かまぼことは違った食べ物なのに名前だけ重なる。実物記録もある。 ‘裁判記録’ ‘毎日記’等日本、倭館の記録によれば朝鮮の人は鍋料理(チゲ類)やすき焼きの副材料で使われたかまぼこに接したりもしたし、独立食べ物で上に上がったかまぼこに接したりもしたとする。

倭館は朝日両国の食べ物通路だから、受けただけかえす。 日本人は朝鮮焼酎、ジュクリョク酒、梨花酒、オホンノなどきつい酒を手に入れた。 酒は食べ物を呼ぶ。 サケにおでんがあるならば、焼酎にはチゲだ。 18世紀倭館で勤めた日本人小田幾五郎(小田幾五郎・1755~1832)は野菜を添えた魚メウンタンに焼酎一杯がついてくる姿を自身の本‘通訳酬酌’に入れた。 小田はツツジのファジョンは気に入ったがきつい焼酎は苦手だった。 このすべての食文化史が‘倭館’という具体的な制度とともにした。

1907年韓国警視庁はコレラ予防のために旅館、料理店、レストラン取り締まりに出て特にタコ、蟹、イカ、海老、かまぼこ、ハンペン(かまぼこの一種)に注意した。 かまぼこは衛生取り締まりで直ちに気を遣わなければならない程飲食業所でありふれている材料または、食べ物として地位を確立したという意だ。


皇城新聞1907年10月18日付にのせられた衛生取り締まり報道. かまぼことハンペンが注意しなければならない食べ物に出ている。

1908年になるとすぐに釜山大昌洞(釜山中区大昌洞)には日本かまぼこ業者が入った。 1911年なら京城にもかまぼこ工場が入る。 1931年に朝鮮日報に連載されたヨム・サンソプ小説‘三代’の重要食べ物モチーフもまた、おでんだ。 ‘三代’の時間背景は1920年代だ。

おでんは一方ではサケとおでんを共に売るおでん家おつまみで解けたし、一方では高級風俗店の一品料理として地位を確立した。 ‘別乾坤’に劣らなかった大衆雑誌‘三千里’ 1935年第10号の座談に出たイ・ソグは今日の獎忠洞に当代の金持ちだけ通うオデン家があるが、金持ちは“そこ行ってオデン一つつかんでも10ウォン、20ウォンを置いてくる”という噂を伝えた。 冷麺一杯が15銭した時だ。

朝鮮総督府という制度にもおでんの跡が残っている。 朝鮮人に日本語常用、創氏改名、神社参拝、徴用を強要した陸軍大臣出身第7代朝鮮総督南次郎はおでんを愛した軍国主義者だったようだ。 1939年11月11日‘国民精神作興週間’の五日目をむかえた南は朝鮮の高齢老人たちを総督官邸に招いた。 その場で82才の附日輩・閔丙奭自作が朝鮮総督に感謝の挨拶を上げたし、咸鏡南道から来た82才のイ・タル老人が‘皇国臣民叙事’を朗唱して拍手を受けた。 この和気あいあいとした席にはおでんが付け加えた。


朝鮮日報1939年11月12日付. 南総督が招いた老人たちとおでんを聞いて話を交わす話が写真と共に載っている。

純粋母国語として味覚はない

南は総督在任中毎年附日輩を総督官邸と呼んで集めるこのような祭りを施した。 ある年には最初から官邸内外を開放したガーデンパーティを開いておでん、寿司、サンドイッチ、主流、ぜんざい(タンパッチュッ)ブースを別に設置するとすぐに版で附日輩を迎えた。 毎年総督の招待を受けた知識人附日輩キム・ファルランはその時のおでんをこのように回想した。

“私はその時食べたおでんの味が思い出されます。 酒を飲むとは思わないのであつあつのおでんだけ食べたがいやに香ばしい味がよかったこと同じです。 空が見られないような真っ赤な紅葉陣の中で食べたことでそうなのか。 とにかく私以外の違った方々もみなそうしたと考えられます。”
(三千里、1940年第5号)

附日輩にも思い出の半分はやはり味だったようだ。

かまぼこという材料、おでんという食べ物は朝鮮人の日常に自然に入り込んだ。 光復の後にかまぼことかかまぼことか名前は紛らわしかったが、そのような中でもかまぼことおでんはおかず、スープ、屋台の串などの色々な姿で韓国化して今日韓国人と一緒にする。

かまぼことおでんの差を“現地”基準として区別することだけではおでんの食べ物文化史、その意義が全てあらわれない。 感覚は具体的な物質と制度を基に歴史的に形象されるはずだ。 味覚だけは‘純粋な母国語’とか‘固有の文化’という強迫はそれでいつも実際と外れる。 入ってくるやいなや席を占めて、100年の間韓国化したし、今日韓国庶民大衆となじむことこの上もない食べ物が表わすこの‘ずれ’こそ注意深く吟味するほどの食べ物文化史の珍景ではないか。

孤影食べ物文献研究者

http://www.hankookilbo.com/v/a42b1fdc6bb8435da651b3c94f9d6242

“平壌冷麺元祖は…”大騒ぎに隠されたもの


嘘を読みます<18>根拠ない'平壌負心'


平壌冷麺熱風が起きて'真の'平壌冷麺は何であり'正しく'食べるのが何か論争が真っ最中起こった。ところでそれがみな根拠ある話であろうか。韓国日報資料写真

韓国人4中3は各々の冷麺論一つ抱いて生きる時代だ。 ‘モンノ’パク・チャンイルシェフの話のように“多様な‘冷麺狂時代’の言説”がそれこそごちゃごちゃに花が咲いた今日だ。

ところで‘冷麺狂時代’は100年前にすでに始まった。 冷麺は文として書いた‘墨房’の常連出演者であった。

冷麺を囲んだ大衆の定石-正統争いは他の韓国料理では探して見当たらない。 それ自体で面白くなりながらも莫大な食べ物民俗紙だ。 だが、100年をすぎても浮び上がらなかったところがある。 すぐに食べ物の物質文明と食べ物の具体的な実際だ。 これは韓国料理文化史議論の虚弱性を劇的に表わす。

1920年代代表的な知識人雑誌であり進歩指向が強かった‘開闢’がなぜ軽い話をする時平壌と冷麺は甘い素材であった。 ‘開闢’ 1924年第51号は“15銭に山積みのような冷麺一杯”が平壌の人々の夏避暑と釣り合うといった。 引退した平壌妓生は冷麺屋社長になった。 “冷麺・焼酎”はその時すでに四季にある平壌の名物だった。


'開闢'第20号目次.'開闢'の高級な姿がひと目で入ってくる。

平壌冷麺大騒ぎ100年前から

検閲と弾圧で1926年‘開闢’が廃刊になるとすぐにその編集人材と製作会社を受け継いでまた他の雑誌‘別乾坤’が生まれる。 ‘別乾坤’は大衆雑誌を標榜した。 今日の“総編芸能”と違わない企画で植民地朝鮮人をひきつけた。 ‘別乾坤’の墨房は一歩進んだ。

1929年‘別乾坤’24号は“四時名物平壌冷麺”を掲げた。 春風がざっと吹く春は大同江青い水よって遊びやすい時であり“いっぱい入れた一杯の冷麺”を楽しむ旬とのことだ。 “綾羅島柳の間に照らして入ってくる月の光をむかえる”秋は冷麺を長い間の友達とともに食べやすい季節とのことだ。 “筋ごとに長い-冷麺を求める切断語”猟もよう友情もそうなんだ。 そして夏. もう夏が新しい季節だ。 この取っ手が描いた夏冷麺はこうだ. “大陸の影響で夏の日列島が相当高い平野で暑さがとても熱くなる時白いむくっと接待にげんこつのような氷塊を隠してぐるぐると魂つけた冷麺! 氷に暑さをはね除けてカラシと酸味に倦怠をぬぐい去るだろう。”

文にする墨房は観念上の旬、冬に達して絶頂に達する。 “ボタン雪がさらにバックさらにバックおりる時房庵には針仕事して‘三国志’を聞かせるお母さん声だけ静寂に静寂に鳴っている。 (中略)お母さん話声がだんだん細く聞こえてくる時“スープよー”という大きい声とともにドアを開けて入れるのはぐるぐると作った冷麺だ。 かちかちに凍りついたキムチスープをまいて薄氷が浮いた濃醤キムチスープに一串二串解いていっせいに震えてオンドル部屋上座へ行く味!”

大衆雑誌を標ぼうしただけ女性美品評は‘別乾坤’の重要企画の中の一つであり、妓生とカフェ ガールと女性芸能人と名士の噂と醜聞もまた精魂を込めた記事であった。 犯罪と売春、麻薬と歓楽街探査も抜けなかった。 ハリウッドの便りもこまかかった。 チョコレートを吟味したりコーヒー一杯飲む女性を引き降ろした色々な寸評は‘味噌女’論の先祖というに値する。

‘別乾坤’は高級な墨房も抱いた。上の冷麺の話に先立ち発行された‘別乾坤’ 1928年第12・13号は大衆が羨望した留学生を呼び出した。留学生に“外国へ行って思い出した朝鮮こと”を尋ねたし、留学生は“朝鮮の月の光”に“カルビ” “冷麺”とうなずく返事をした。 “同志師走寒い日に白雪がグラグラ飛び散る時オンドルにふくらむささやかに時で3~4友人が互いに座ってカルビ焼くことや冷麺割り勘をするのもとても懐かしかった。”


映画'美しい青春'で登場人物が冷麺配達をお願いしている。字幕は'蕎麦'になっている。

冷麺全季節食べ物作った冷蔵庫

解放前新聞、雑誌、映画、文学、その他資料の中で、冷麺の話はどこからともなくあふれ出る。 1941年封切りした映画‘美しい青春’を見よう。 登場人物はお客さんをむかえて下宿屋おばさんに求める。 “主人おばさん、冷麺三皿だけさせてください!”下宿生の甘い配達食べ物が冷麺だ。 冷麺を抱いた大げさと冷麺がある風景は多様な経路で今日に伝えられた。 今日では卵食べる時点、酢とカラシを打つので大変争い、純蕎麦麺だけ正しいという主張、肉汁物とトンチミを囲んだ正統論にひとの家案いきさつを検索して描いた桂報道まで登場した。

冷麺は“冷たい”という感覚を私のものにした食べ物だ。 冷めたとも違って、常温に比べて冷たい程度よりもさらに冷たい食べ物だ。 これは常温との関係で相対的である。 韓半島は春・秋と夏、冬の常温が全く違う所だ。 冷麺の冷たいことは“常温に比べていかなる”感覚だ。 伝統的には常温抜いては他の脈絡がなかった。

感覚転換の契機は冷蔵-冷凍技術の発明からきた。 1862年非電気式冷蔵庫が登場する。 1870年代は大量生産した氷と海運業が本格的に手を握る。 技術は急流に乗って1880年代には氷の大量生産が全世界に広がった。 1890年代には朝鮮にも製氷および氷保存業者が設立されて氷を利用した水産物保管と流通が始まる。 1910年代には現代式冷蔵庫が本格的に普及する。 いよいよ冷麺は人類史になかった常温の感覚の下“事実名物”に入り込む基盤を用意した。

季節感は意外に難しい問題だ。 蕎麦はたいてい10月末から11月中旬間に刈り取る。 製粉は難しい。 農繁期に製粉とは。 当然蕎麦粉は秋以後農閑期にでも触る材料だ。 冷凍-冷蔵技術がなかった時代には、王の氷庫を除いては夏に冷たい水に冷ます方法のほか冷たい食事を作る方法が全くない。 冷めた程度でなく冷たい汁ならば、肉でとった肉汁スープでもトンチミでも何でも、結局冬にもなってこそ手に握ることができる。 麺の材料も汁材料もみな冬に限り存在した。 そうするうちに最近100年、先んじてみた通り冬を越えた。

湿気までいっぱいである真夏、それこそむくっと接待に受けた肉汁をがぶがぶ渡して感じる清涼感とさわやかなことはなぜ冷麺の良い味でないということか。 それでも秋大根とハクサイから来た、チョンハン キムチ汁にちょうど刈り取った蕎麦で作ったメンを加えた冷麺がどこ良い味から抜け出るだろうか。

だが、私たちは平壌冷麺を分からない

“押して暮らす人:それは違うものでなく夏の冷麺屋だ。 平安道のようなところは夏より冬冷麺をさらに味がつないでおもむきあると分かるがソウルでは夏に冷麺をたくさん食べる。 いや平安道でも実際たくさん食べることは夏だ。 (中略)夏に押して暮らす人は冷麺屋しかまた、何があるだろうか。 ソウルにも今は冷麺屋が毎年増える。 (中略)手並みに従って味がそれぞれだ。 軟調できれいなのは鍾路平壌楼ガー何番目いや行かない純平壌式で鶏肉多くて汁味良いのは無校正陳平屋が第一であろう。”

‘別乾坤’ 1931年第41号にのせられた記事ある取っ手だ。 もう夏はかき氷集は氷取り替えて暮らして、アイスクリーム集はアイスクリーム筒を振って暮らして、冷麺屋は冷麺押して暮らす時代になった。 1930年代平壌の人々も夏に冷麺をさらに探す。 技術が夏風景を完全に変えた。 純平壌式に鶏肉が上がる。 この頃想像する“本来冷麺”してもまた違う。

“押して暮らす。”が時は機械式ククス枠組みだ。 機械式ククス枠組みは冷麺大衆化のまた他の条件だった。 ここに1885年以後1914年まで200倍も輸入が急増した砂糖、そして1910年朝鮮で販売を始めて冷麺と手を握った初めてMSGである味の素まで割り込んで以前になかった環境を作った。 食べ物の条件、味覚の脈絡が完全に変わった。

私たちは“故郷” “伝統” “正統” “本当に”のような語彙をぐるぐる回って冷麺を食べてきた。 その間食べ物が視空間の制約を受ける厳重な物理的実際という点をしばしばのがした。 冷麺材料の供給、冷蔵庫、機械式ククス枠組み、砂糖と味の素、台所内外の食べ物労働に対して私たちはまだよく分からない。

もう一度、ここが急所だ。 視空間的制約から来る文明と物質をさぼれば各自の記号と選好に関する話だけ生い茂るように育つだけだ。 これは食文化社で色々な嘘を助長できる口実になることができる。 平壌冷麺を囲んだ色々なお話はおもしろい遊びであることに明らかだ。 そのおもしろい遊びだけでは雨は隈ができる。 冷静に見て回る時もなった。
孤影食べ物文献研究者

http://www.hankookilbo.com/v/5c94e5f87ba448fd84feab2ac68c062d

ミール財団醜聞に100年前明月館が浮び上がる理由


嘘を読みます<16>韓国料理専門家たち



2010年3月韓国料理財団出帆式で関係者たちが記念モチを切っている。 韓国日報資料写真

今年国政監査の熱い争点の中の一つは財団法人ミールだ。 16個の大企業集団に属した30個の企業が二ヶ月ぶりに486億ウォンの基金を出演した事実も驚くべきで、企業資産順位により1等から30等まで列をたてた出捐金額も意地悪だ。

大統領府介入疑惑は一波万波だ。 自発的な参加という全経連の川辺を信じる人はない。 検察も捜査に入った。 “韓国料理世界化”は今回も醜聞と疑惑の片隅でそわそわしている。

だが、専門家は暇なだけだ。 先月29日開かれた韓国農漁村工事と韓国農水産食品流通公社国政監査でユン・スクチャ現韓国料理財団理事長は財団法人ミール関連疑惑に対して“ミール財団が韓国料理文化を知らせると聞いた” “それなら論争になることが理解されない”といった。 疑惑と争点がどうなろうが、私の仕事だけ回っていけばそれだけだとの態度だ。 良いのが良いという考えに閉じ込められた言葉だ。

一貫性はある。 韓食財団のチョン事務総長は昨年あるインタビューで‘事業には外圧があるように’という趣旨の発言をした。 引き続き“その方(イ・ミョンバク大統領の夫人キム・ユンオク女史)もおられたし立派な方々がたくさんおられました。 (中略)その時はとても浮上がたくさんなりましたし”として特定人を庇った。 非難はどこからきたのか。 ついに知らない振りだ。

雑音絶えない韓国料理世界化

“韓国料理世界化”は2008年イ・ミョンバク大統領の“韓国料理を2017年まで世界5大食べ物で育成”するという宣言で本格化した。 キム・ユンオク女史は‘韓国料理世界化推進団’名誉会長に上がって直接ことを取りまとめ始めた。 推進団の後に続いた韓国料理財団は広報を前面に出して効果が疑われることを行った。 セヌリ党キム・ジェウォン議員室と協成大イ・グォンゴン教授によれば2011年11月から2012年1月間韓国料理財団はロンドン、パリ、ブリュッセル、マドリードなどの地で豪華版祭りを開いた。 1人当り所要費用はロンドン449万ウォン、パリ474万ウォン、ブリュッセル238万ウォン、マドリードで270万ウォンに達した。 2011年の場合、欠食児童支援金を全額削減して作ったお金がこっちに入ってきた。 2009~2012年に執行された総事業費931億の中で、韓国料理財団が使ったお金が298億だ。

しかし事業に対する良い評価はない。 側近が利権を取りまとめるというなどの醜聞と事業不良に対する非難だけ張り裂けそうになった。 2010年国会農林水産食品委員会‘国政監査結果見て’というこのように話す。 “農水産物流通公社と韓国料理財団を通した韓国料理世界化は力量不足で限界がある”とし、“予算が浪費される事例があるので(中略)予算が浪費されないように努力すること”を指摘した。 イ・ミョンバク政府がパク・クネ政府に変わった2012年国会予算政策処は“農林水産食品部は‘韓国料理世界化’事業を推進するということにおいて実際的な成果と関係がない過度な展示性-広報性予算乱用を防止できる方案を樹立した後執行しなければならない”と警告した。 この経過に目をとじた弁解は嘘になるほかはない。

問題は遠い昔に提起されて今日に至った。 旧態とそこからまった要人を清算できなかったので“韓国料理世界化”も、善意と能力がある人材も支離滅裂である。 具体的な積弊は知らないふりして、良いのが良いという安易な認識に、仕事をしてみるならば雑音もあるはずだとの無責任な話をする人を専門家ということができるだろうか。

100年前のどんな食べ物専門家

ここらで浮び上がる人物がいる。 1903年朝鮮レストラン明月館(明月館・開館当時には明月楼)を年100年前の食べ物-韓国料理専門家アン・スンファン(安淳煥・1871~1942)だ。 安淳煥は1898年管理生活を始めて1909年賃金の食べ物と王室の宴会を担当する位である典膳司掌膳に上がった。


朝鮮末王室宴会を担当し明月館を開業した安淳煥. 韓国コンテンツ振興院資料

彼はかなり気が利いて勤勉な人だった。 出身は取るに足りなかったが王室の主な人物と高位官僚らとしばしば似合うことになった。 王室要人と高位官僚の目に入るのは彼の料理感覚と宴会企画能力が固く一役しただろう。 彼は自身の去る活動に対してこのような回顧を残したことがある。


1930年代明月館の姿. 今ソウル鍾路3街CGVピカデリー1958桁にあった。 韓国日報資料写真

“(王室食べ物も身だしなみや衛生に問題が多かったが)そうしようがことを私が宮内部に電線課長である時改良しましたよ。 そのために逆賊という話までも聞きましたが。 そんなに宮内部から改良をして溜まることも浅くして中に悪いのを入れないから一般民間でも(自身の食べ物演出方式を)ついて行ったのです。”(‘別乾坤’ 1930年1月号)

“いくら栄養が十分な食べ物でも料理方法が間違えばまずいことです栄養分があって作りが上手だったとしても、その食べ物の高イム間を下手すると見るのにのせるでしょう。 (中略)私は旧韓国時代に長年の間宮内部電線課にあっただけでなく、以来数十年の間を料理業に従事して実際に朝鮮の食べ物はみな作ってもみて研究もしながらまた、日本に行って宮内省で料理作るのも視察してその他に中国料理、西洋料理も大慨は私の手で作ってもみて食べてもみてまた、研究もしてみました。”(‘別乾坤’ 1928年5月号)

今日の目で見ても遜色ない感覚と自分の修練の姿勢だ。 ところで安淳煥は世界を知らない、ただし私の仕事が世界のすべてである専門家であった。 全世界文物が一番最初に入ってくる王室で、あらゆる食べ物と宴会に接して、彼自身が料理の実際、食膳演出の実際で他の人々がついてくることはできない経験を積んだこの官僚が自身の個人レストラン社長になった当時ソウル市内小公洞一帯には朝鮮料理屋が、忠武路-明洞の方には日本料理屋が盛業中だった。


皇城新聞にのせられた'明月館拡張広告'

国が滅びていく中で、親日派と乱れていた時代の成金(実業界だとおとなしくたち呼んだが)と高位官僚の会食と接待需要が爆発した時であった。 すぐにその時、国滅びる前種3品まで上がった管理が料理屋社長を兼職したのだ。 事業は日増しに繁盛した。 吟味するほどの文献がある。 1908年‘皇城新聞’ 1月10日付には‘明月館拡張広告’がのせられた。 広告の導入部がこうだ.

“謹んで考えるので北斗七星の取っ手が東側に向かえば天下が春になるが、社会の大運はますます創成しています。 私たちの明月館がこれを祝福して営業のための施設を拡張して熱心に営業しています。”

彼の世の中は“社会の大運が創成”ある楽しい春の日だった。 導入部に続いた明月館の派手な“メニュー”にはウイスキー、ブランド、シャンパン、正宗の他日本酒一切、各種ビールに朝鮮と日本と西洋食べ物を網羅している。 ルソンとエジプト産眷恋はおまけだ。 安淳煥は1918年には李完用の家を買い入れて泰花館を開業することもした。 1930年代安淳煥のニックネームは“朝鮮料理界の王子”であった。


明月館特設舞台で妓生が韓服姿で伝統踊っている。 シン・ヒョンギュ中央大教授提供

安淳煥のように笑いものなるだろうか

安淳煥は私の利益になるところならばどこでも持ち上げた。 1909年統監府文書によれば政府は安淳煥を一進会会員で把握していたし、罷免を試みた。 しかし安淳煥の後船は強固だった。 罷免議論はうやむやになった。 彼の官運は国滅びても続いた。 安淳煥は1911年には滅びた王室の暮らしを取りまとめる日本帝国宮内省下職制である李王職の事務官に上がった。

1918年大物親日派尹致昊は朝鮮総督の政治参謀阿部充家京城日報社長を接待するために安淳煥の別荘を借りることもした。 馬に乗れば犬馬捕えられたいとか。 1935年安淳煥は東京で開かれた東洋柔道大会に朝鮮儒学代表の中でひとりで参加することもした。 しかし1933年孔子の故郷中国曲阜に自身の存在を誇示する文書を送った時には曲阜の要人から“国滅びるのをまだ分からない”というヤジを受けただけだ。


朝鮮政府が安淳煥罷免を議論しているという情報を含んでいる統監府文書. 国史編纂委提供

今日は21才で、私たちは共和国の市民だ。 ところで私は今日のいくつかの韓国料理・食べ物専門家の姿で100年前安淳煥のどたばたを今一度思い出させている。 “韓国料理世界化”のために、韓国人の間で、韓国料理に従事する方々がひょっとして笑いものにもならないだろうか心配している。 いわゆる韓国料理と世界化専門家たちがこの心配に共に達することは確実大変だろうか。

http://www.hankookilbo.com/v/35344bc5479f4a139b0eda9652b34573

宮中・班家料理復元? 一知半解式虚像だけ


嘘を読みます<14>復元食べ物という幽霊



韓国料理世界化風に乗って伝統食べ物を復元したという話が相次いでいる。 ところでこの食べ物は本当に過去の食べ物を復元したことだろうか。

李舜臣食卓に三国時代酒
韓国料理原形復元しようと相次いで
過去の文献には最小限の内容だけ
時間・分量など‘計量’は皆無
食材料と料理技術も急変
元の状態に回復は物理的不可
自己満足過ぎない‘復元’代わりに
制約認める‘再現’努力してこそ


朝鮮宮中料理や班家食べ物を復元したという主張があふれる。 大韓民国農林畜産食品部所管のある財団は今日も‘韓国料理原形復元事業’をしている。

李舜臣将軍の食卓が復元されたという便りも聞こえる。 儀軌、農業書、料理書によりあらゆる食べ物に、醤に、酒を復元したという便りもあふれる。 百済と新羅酒の復元を宣言した人もいる。 これに伴う復元品見本とその写真は大衆と食べ物勉強に飛び込んだ人に深い影響を及ぼす。 復元の意味と意義を尋ねて考える余地もなしで、ひたすら急いで復元品を作り出す工夫だけだ。

言葉の意味を正しく知っているのか、その意を他人に説明できる程理解しているのか。 この問いを肥料網すれば多くの嘘を免じることができる。

復元(復元/復原)とは‘本来のとおり戻る’ ‘本来状態を回復する’という意だ。 この言葉は日常で使う言葉だ。 しかし物理と実際では不可能な行為だ。 以前その時の本来状態はただしある瞬間だけのことだ。 以前と同じ状態を取り戻すことは物理的に不可能だ。 実際に可能な行為は‘過去の姿を回復’ということぐらいなる。 これを‘復旧’という。

復旧は記録に残った特定時点の姿により何か新しく持ってきて、埋めて間に合わせて縫って成り立つ。 私たちが日常で使う復元という話は実は復旧の真意を借りた言葉だ。 復旧としてもさらに考える点がある。 その過去の姿とは何か. 建築で言葉を借りれば、廃虚の上に再び作る‘再建’も復旧の方便であり、壊したのを基に修理を加える‘重修’も復旧の方便だ。 この時‘過去の状態’ ‘廃虚’ ‘壊したこと’と呼ばれる各々の速成科蹴られる明快なのか。

340年前の卵麺

具体的に食べ物を調べれば復元の不可能と復旧の不明瞭さがより一層明らかになる。 17世紀安東両班家女性張桂香がハングルで書いた料理書‘飲食知味方’には卵麺法、すなわち卵ククス調理法が出てくる。 国語学者ペク・トゥヒョン教授など皆さんの研究を参考にして移して書くとこのようだ。

“卵を集めてその卵白ければ粉をこねて切ったりククス枠組みに押したり、通常の焚くメンのようにゆでて出して脂っこいキジ肉人生は国に巻いて使いなさい。 高名はただメンのようにしなさい。”

この文章が指示することでは明らかなのか。 ‘卵を集めてその卵白ければ’は何の意味であろうか。 これを“卵を集めて解いて卵が白くなれば”で読む方もあるが明快でない。 “白い卵を集めて”と読む方もあるがこれもまたすがすがしくない。 ‘酒食是儀’ ‘閨閤叢書’ ‘尹氏飲食法’ ‘李氏飲食法’等の色々な食べ物文献にも‘卵麺’が登場する。 ところでこれら文献が‘卵麺’に使うのは一様に卵の黄身だ。 メンをやわらかくして見栄えが良い色を上げようとするなら卵の黄身がさらに自然ではないか。 卵の黄身でやわらかいということと黄色の光を加える練り粉法はイタリア パスタにも、中国麺にもある。 今日ソウル空の下でも‘モンノ’パク・チャンイルシェフが小麦粉1㎏に卵40粒の卵の黄身を混ぜて作ったイタリア パスタ‘クァランタ’(イタリア語で‘40’を意味する)を選んでいる。 始めるやいなや迷宮だ。


飲食知味方の卵麺法部分. 今日レシピ水準の詳しい説明ではないので正確な復元には困難がある。 慶北大図書館提供

迷宮は続く。 ‘飲食知味方’で張桂香が家の人に達した‘通常の焚くメン’はいったいどんなメンなのか。 そのまま‘普通のククス’で読みさえすれば340年の歳月を跳び越えて‘普通’は自ずから明白になるのか。 ‘高名はただメンのようにしなさい’という話やはりその具体的な姿は鮮やかでない。 その他にも‘飲食知味方’には卵と小麦粉と汁用キジの分量も、調理に伴う具体的な行為と動作も、料理に入る用具も、火調節の細部も見られない。

最小限の内容だけのこの記録は、時間と分量に対する‘計量’がない。 これは今日の‘レシピ’や‘フォーミュラ’ではない。 一単語だけで特定食べ物の脈絡を把握できる、張桂香といつも日常を共にするこれのための簡略な備忘録だ。 細部は空いている。 過去の料理でそのまま復元するという人々は結局料理の実際に入っては自身が持っている今日の食べ物感覚と料理感覚を持って記録上の卵麺法を‘再構成’、‘再創造’するほかはない。

飲食人だけなぜ分からないか

人類学、歴史学では復元が本来不可能な作業であることをすでによく知っている。 よく分かるのに一次元さらに謙虚だ。 文化と歴史探求で正当な方法を悩む人は私の知識と認識の限界を謙虚に受け入れる。 全能なふりをして復元しようとしない。 彼らが努めるのは‘再現’だ。

再現は今日と昔の距離を受け入れる。 私が皆知ることができるという慢心を取り払う。 再現は悪い下心のいんちき、模造品を狙ったでたらめ復元を押し出す良い効果もある。 再現は外見だけでなく内容と過程まで念頭に置く。 なぜ再び作らなければならないのか几帳面に尋ねて始める。 私が試みる再現の目標は何か進行ごとに点検する。 再現の後には厳正な評価が伴う。 このように再び作り出した結果で今日私たちが本当に悟らなければならない場合を再確認する。

特定食べ物の復元を主張したり宣言した側が必ず出さなければならない返事がある。 一貫性はなければならないと。 たとえば生物種の問題はどうなのか. 去る100年間に韓国人の農水産業は完全に変わった。 韓国人が‘小麦粉を’を本格的に食べたのが100年度ならない。 その時期は基本技術製粉が粒子の重さまで数える先端技術製粉に変わった時期でもある。 稲もそうだ。 もう100年前稲はチャチがない。 100年間にパンア質、体質とは比較できない先端技術の脱却、道程時代を迎えた。 私たちは超高性能カメラが瞬間的に不完全米と完全米を選び出す時代を生きている。 純白小麦粉、本当に白米は以前になかった新しい食べ物材料だ。

台所の科学技術も忘れてはいけない。 指だけはねて炎を上げてその炎を自由自在調節できる火口で出した食べ物とかまど火や火鉢の火で成し遂げた食べ物の間はまた、どれくらい広がろうか。 上下水道が私の目の前にあって、指少しも動いて水と火を得る台所、電気銅力機構に冷凍冷蔵施設ある台所という(のは)以前の台所と全く違う空間だ。

文献解釈、素材、技術、感覚の制約を知っている人は生半可に復元を口にするはずがない。 生半可な復元宣言は農業と科学技術と食べ物の歴史に、また、今日の現実に無神経な時出てくる行為だ。

会議・煩悶ない復元は偽物

正当な悩みを抱いた復旧または、再現は変わった環境と条件でできる限りの復旧または、再現を企画する。 そこで今日の食べ物文化史のための知識と知恵を掘る。 前提と制約を見回して受け入れる過程が過ぎた歴史を今日に受け継ぐ貴重な作業に昇華されることができる。 これは韓国料理の明日のための準備につながる。 歴史で習って未来で行く道に道しるべをたてることだ。 しかし復元という話を不正乱用する人々には会議や煩悶がない。 ここが急所だ。

そのまま“復元した”ということだけで一人で誇らしいので、自足的な復元に終わるだけだ。 復元という話をむやみに使って、復元したという食べ物の写真と映像で利益を得た人々が知識の成長に押さえられてそれとなく‘再現’で言葉を変える頃だ。 一時復元を掲げた団体と機関がヌリ家でさっと復元という話を再現という話で交換する時代がきた。 ところで地域は、普通の人々は、考えとからだがそんなにはやくなれない。

ある人物、特定記録に期待復元したという食べ物が相変らず地域と地方自治体を飛び交っている。 失敗したごり押しストーリーテリングと、すぐにたたむ方がむしろマシなみすぼらしいレストランだけ残したまま‘復元’は今日も私たちのそばを飛び交っている。

孤影食べ物文献研究者

http://www.hankookilbo.com/v/aa0b27c1d11c40cdac75cf1d0bb6f09f

発酵が韓国だけか、食品の特殊性に対する錯覚


嘘を読みます<11>世界どこにもある醗酵食品


各地域の発酵食品. 左側の上から時計方向でアミの塩辛、ハモン(スペイン),マスカーポーネ(イタリア),下腿(中国),ヌオンマム(ベトナム),リコッタ(イタリア).

中・日からヨーロッパ国家まで
世界的普遍性持つ料理法
‘韓国だけの特徴’考えは間違って
血スンデそっくり似た仏‘ブーダン’等
血・内蔵も広く広がった食べ物
‘固着’なった視野破ってこそ発展余地


近所の料理人から聞いたエピソードだ。 イタリアで仕事をする時、イタリア人コック長が尋ねたって。 “韓国料理の特徴は何なの?”が料理人が半自動で答えた。

“発酵!”するとコック長がプッと笑ったって。 “世の中に発酵のない料理もある?”

前後なしで“発酵”してしまったので“韓国では料理をする時首枷をかけられます、火を使います”のような声になってしまったわけだ。 莫大な予算が投入された韓国料理世界化政策の水準もこれと違うことがなかった。 これは食文化の地域性と特殊性をどのように思考するのかの問題でもある。

例えば、醤と酒は代表的な発酵の産物だ。 醤と酒なしで生きる地域、民族はない。 アジアとヨーロッパあちこちのヨーグルト、クリーム、チーズは韓国の醤に劣らない発酵文化史と内面を握った食品だ。 隣国中国や日本の個性があって繊細な豆醤文化を知らないふりできない。 東南アジアの人は魚を使って魚醤を入れる。 魚醬だけでなくこの地域の塩辛と塩辛汁文化は韓国ぐらい多彩だ。 牛、羊、山羊、ヤギを打って生きてきた人々は家畜の乳を発酵させた食べ物を発展させた。 マスカールポーネ、チーズ、リコッタに達する繊細な区分と使われることを見ていれば韓国の醤に劣らない厚い発酵文化が手にとるように近づく。 中国のファトェ、ヨーロッパのハムやハモンもまた、韓国人が努力して習うほどの発酵を挟まった肉食べ物だ。 中国またはモンゴル式ファトェを習って畜産物を活用しようという提案はすでに18世紀に登場した。

ここでなぞを一つ出す。 合わせてみなさい。 写真の中食べ物は何か?


血スンデと似たフランス食べ物‘ブーダン’. クォン・キボン提供

見るやいなや龍仁どのあたり、または、天安であり醴泉を思い出させる方があるようだ。 または、全州市場通義どの路地が浮び上がる方もあるようだ。 平安道、咸鏡道、束草の‘アバイ’が抜けてもさびしいようだ。 合う、その食べ物だ。

豚一匹で得ることができるあらゆる部位の肉を充実して貯蔵する。 肉だけなのか、豚の筋であり筋膜であり食べることができたと思えば捕えられ次第かき集める。 家ごとに好きな野菜や穀物などの副材料を加えて牛を用意する。 血も抜けられない。 血は牛の質感と味を左右する画竜点睛であり含有量で見ても主材料級だ。 準備された牛を豚腸に満たして入れて良い暮らしをするということ出す。 来た韓国人が好んで食べる食べ物一つがこのように生まれる。

スンデ、ブーダンと、ブラック プディング、ハーギス、グァンチャン

正解は‘スンデ’であろうか? 合ったり間違ったりもする。 材料を得る方式、材料に対する態度だけおいてみればスンデだ。 ところで写真の中食べ物を正確に取り上げて話せば‘ブーダン(Boudin)’というフランス食べ物だ。 ブーダンとはゆでたり蒸しても良くて、汁に出したり野菜を加えて焼いたりもする。 先知をたっぷり使う方式に注目すればまちがいない血スンデだ。 マルセイユ、リヨン、パリだけでなくフランス本土で遠い島であるレウィニオンエソも大衆が好んで食べる。

フランスの隣英国にも似た食べ物がある。 ‘ブラック プディング(Black pudding)’は豚腸に豚血をたっぷり満たして作る。 血のために色がどんよりして薄黒くて“ブラック”だ。 似た食べ物は大西洋渡って北米にもある。 奴隷労働に苦しめられた黒人に、豚の骨、内蔵、つま先、耳、尻尾、血は有難い蛋白質供給源だった。 この跡は現在でもアメリカ黒人の“ソウルフード(Soul food)”に残っている。

イタリアの人も、スペインの人も、ドイツの人も、ロシアの人も四つ足獣の血と内蔵を軽くしない。 スコットランドの人々は羊の切れ端肉と内蔵を充実して使ってブランコの代表食べ物‘ハーギス(Haggis)’を作る。 ハンガリーの人々に鹿血は最高のソーセージ材料だ。 中国のグァンチャン(潅?) も、血と内蔵をあまねく活用したスンデのいとこだ。

四つ足獣の切れ端肉、内蔵、血を倹約するように活用して、腸に野菜と穀物を混ぜた牛を入れることは同じことだが、細部は地域ごとに違う。 例えば韓国人には米や弔歌スンデの材料になる穀物だ。 最近ではデンプンククスである唐麺が重要な材料に浮上した。 だが、韓国スンデには燕麦やレンズ豆が入らない。 他の材料はどうなのか. ヨーロッパと北米はこの系統食べ物で相変らず宿主を分からない。 韓国人は豚の小腸と大腸まであまねく使うが反すう動物の胃に牛を刻んで入れたことはない。 地域ごとに香辛料と酒、調味料を使う方式もみな違う。

赤身の肉だけ選ぶ豊かな時代

歴史以来地球上どの地域どの民族も四つ足獣の赤身の肉だけ選ぶ程豊かに生きてきたことがない。 赤身の肉を塊りごとで焼いて各々ある皿ずつ食べてしまう食生活が登場したことは最近だ。 血内がむかつく、内蔵見ることが気味が悪いという感覚もまた、最近新しく生まれた感覚だ。

人類歴史上由来がない強大国アメリカもそうした。 1928年アメリカ大統領選挙に出た共和党候補ハーバート、フーバーはこのような公約を叫んだ。 “休日にはすべての家庭の鍋に鶏を、すべての家のガレージに自家用乗用車を!” 1920年代にも強大国だったアメリカの政治家が豊かな未来を約束する時、鶏一匹は乗用車一台と釣り合った。

動物性蛋白質は大事な食材料であった。 血は血のとおり、内蔵は内蔵のとおり、切れ端肉は切れ端肉を倹約するように有難く食べなければならなかった。 人類は長い間の料理経験と味覚判断を通じて、与えられた材料を残らず最後まで食べてしまう方法を探した。 その奮闘の跡がスンデ、ブーダン、ブラック プディング、ハーギス、グァンチャンなどに刻み込まれた。

この系統食べ物を楽しむ人々に血特有の血のにおい、切れ端肉と内蔵の脂くさいにおいは材料と食べ物の個性と特徴を圧縮して表わすうれしい風味だ。 血のにおいと脂くさいにおいが濃厚でこそ“まともに”料理されたとし手をたたいて、大都市レストランがいわゆる“悪臭”を努めて分けた料理を出してくればでたらめだと手で遮る。 この感覚は民族と地域を分けない。

私だけ特別だという錯覚捨ててこそ

発酵は韓国人にだけ、韓国料理だけで特別な方法でない。 豚や牛の血と内蔵は韓国人にだけ、韓国料理だけで特別な材料ではない。 地球共通の有難い材料だ。 このような方法と材料で生まれた味覚感受性と料理方式、そして食べ物には世界的な普遍性がある。 そしてこの普遍性を正当に認識してしまってから地域性または、特殊性に対する繊細な認識に至ることができる。

韓国人が外来食べ物を楽しく合う余地、韓国料理が外国人に個性と属性をさらによく誇る余地は食べ物文化の普遍性と特殊性に対する合理的理解から始まらなければならない。 人は誰でもどこででも限定された資源を最大限活用して生きてきた。 豆、魚、牛乳がふく発酵香は互いに通じる。 年齢年を取って落ち着いている韓国酪農農民は豆醤の発酵香でチーズの発酵香を類推したりする。 人は誰でも血のにおいも引き受けて脂くさいにおいも引き受けて生きてきた。 私が住む所で出る穀物、野菜、香辛料が血なまぐさいにおいがして脂くさいにおい私は食べ物に異彩を加えて地域色を加えた。 広く共有できる風味はお互いの接点になることができて、少しずつ他の材料と方法はお互いの違いを受け入れる楽しい契機になることができる。

どんな材料、どんな方法が出してあって、出して特殊だったようにふるまったら他の世の中の食べ物を正しく見ることはできない。 私の食べ物を深く覗いて見る機会まで失う。 この時、食べ物を見る目に固着ができる。 食文化で地域性と特殊性は“固着”とは全く違う範疇だ。 特殊は普遍と会って躍動的にその内容と輪郭を更新する。 おかげで地域性はより一層豊富になる。 固着が頭を差し出せば躍動性は消える。 私をさらに豊かにする余地、さらに広い世の中で出た通路も消える。

孤影食べ物文献研究者
 
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“安南米はまずい?”固まった味覚の偏見であるだけ


嘘を読みます<8>安南米の悲しい理由


ご飯を心愛する私たちはジャポニカ米でご飯一杯さっと片づけて心強いと話す。 しかしインディカ米を食べる人々に私たちのご飯は、非常に負担になるご飯だ。

味覚も嘘をつく。“安南米はまずい”は、韓国人の間に散見し広まっている、食べ物を囲んだ味覚の嘘を代表する例だ. 何種類を確認するとこのようだ。全世界70億人口の中で35億が小麦を主食とする。残りの35億は米を主食とする。

主食まではないにせよ永らく米を栽培して食べ慣れてきた地域が地球上至る所にある。 米は西はエジプトから始まって、東は韓国と日本に至るまで、遠い昔から今日に続いた主食または、珍味食べ物の材料だ。

稲はただ一つの系統だけでない。 稲をついて、稲の皮をむけば米になる。 この時、相対的に短い米がある。 これが私たちになじむ短粒種、ジャポニカ品種だ。 相対的に長い米もある。 これが長粒種、インディカ品種だ。 韓国人がよく‘安南米’と呼ぶ米はすぐにインディカ品種稲から出た米だ。 後に調べるだろうが、韓国史の特殊な歴史的経験のために、韓国人はインディカ米ならばインドシナ産米でないにしても産地を区分しないで‘安南米’と通称する。

生産割合で見れば全世界で出る米の中で10%ぐらいがジャポニカ米で、90%ぐらいはインディカ米だ。 ジャポニカ米が食生活の中心となる所は韓国、日本、台湾、中国東北地域が全部。 なのでただ韓国、日本、台湾、中国東北に生きる3億3,000万人だけがジャポニカ米中心の食生活をしているという言葉だ。


安南米は韓国食卓にありふれているジャポニカ米より細長くて粘りがない。 ‘それでまずい’という偏見は特殊な歴史的経験を通じて韓国人の味覚に固着された。

安南米は全世界米生産の90%

“安南米はまずい”という感覚によれば、31億7,000万人は不幸にも‘まずい米’を暮らしてきたわけだ。 しかも稲の原産地が東南アジアどのあたり、ベトナム、メコン川流域どのあたりという学説を思い出させればインディカ米を食べる人口がさらにダメだ。 しかし31億7,000万人の不幸とは? 31億7,000万人もなる人類が、稲の栽培が始まって今日まで1万年超えて味覚の不幸下で生きてきた?

“まずい安南米”と関連して私の頭の中にキラッと光るエピソードがある。 稲と米を勉強して詰まれば訪ねて行って知識を借りる有難い方、漢陽大非交易死文化研究所キム・テホ教授から聞いたエピソードだ。

キム教授のインド人同僚が日本で過ごす時だ。 このインド出身学者は日本米の飯を食べたくなくてお昼の時ごとにご飯食べようという同僚日本人たちを避けて通ったんだ。 宿舎に隠れていたりもしたんだ。 いやなぜ? インディカー米の飯を暮らしてきた彼に、冷たくなったジャポニカ米の飯はのどにひっついて進むこともない、息がつまって死ぬような感じを与えるご飯だった。 その上食べたら集まるうずたかい感じまでとても嫌いで,この“不幸な”インド人はしばらくお昼食事をあきらめなければならなかったんだ。

話を聞いてびっくりした。 あの向こう側に寝ついていた記憶がよみがえったためだ。 私はこれと同じ場合を、すでに色々な形で聞いたことがある。

中国江南とインドネシア、フィリピンを含んで全世界を歩き回ってサラリーマン生活をした妹がほとんど同じ話を聞こえてくれた。 技術教育と食べ物開発のために毎年ヨーロッパとアジアを横切る私の周辺の製菓社や料理人皆さんからも同じお言葉を聞いた。 平凡なサラリーマンや、食べ物専門家や一様にそっと笑って感覚の“差”を直ちに掴み出した。

韓国人はインディカ米の飯を食べて‘ご飯がぱらぱら飛ばして力が一つもない、それで食べられない程まずい’でする。 反面彼らはジャポニカ米の飯を食べれば‘口からのどまでとてもひっつく、それで口の中に入れることさえ恐ろしい’でする。 韓国人はジャポニカ米の飯を食べて強固だという。 ご飯心をほめる。 彼らはインディカー米の飯を食べて軽いという。 穀類そのまま作ったご飯のすっきりすることをほめる。

まずいということは感覚の嘘

また、一つ、韓国人はインディカー米で妙な香りまたはにおいがするという。 それで障るという。 彼らはジャポニカ米は何の香りがないという。 それで‘君たちの米は良い香りがない安モノ米だ’という。 誰かには冷たくなったご飯が誰かには息詰まるご飯になることができる。 “強固だ”をひっくり返すので“うずたかい”になった。 “においがする”と“香ばしい”が並んでいる。 エピソードには課長が宿るはずだが、この点だけは明らかだ。 ジャポニカ米はジャポニカ米の属性と味があり、インディカ米はインディカ米の属性と味がある!

見慣れない材料の前で、見慣れない食べ物の前でホトク吐きだした“まずい”という感覚がさせた嘘でありうる。 この時の“まずい”という“私に習熟しない”とか“私はインディカー米、そしてインディカー米でご飯を炊く方法、そして他のインディカー米で作った食べ物をよく分からない”で直して考える必要がある。

反論もありえる。 韓国人がかなり以前から安南米または、インディカー米を経験したし、まずいと判断したし、それで捨てたと。 そうだ。 韓国人は100年度もっと前に安南米に会った。 米と豆はしきりに日本に渡って、豊作と凶年を自然が決めた時期に安南米は韓国に入ってきた。


1905年10月10日皇城新聞にのせられた安南米輸入販売広告. 国立古宮博物館提供

安南米は1901年にすでに韓国に入ってきて普通の人々に解けた。 大韓帝国は食糧確保と米値安定のために、米の輸出を禁じる防穀令をおろすということと同時に無関税米輸入措置を併行することもした。 安南米は外国商社がうらやましがるほどの輸入品だった。 安い程確かに売れる商品がまたどこにいるだろうか。

大韓帝国が滅びては加えた。 朝鮮は露骨に日本のための米生産地になった。 不足した米とその他穀物は満州から輸入した粟と東南アジアから輸入した安南米で間に合わせた。 当時言論によれば1924年現在の満州産粟は3年前より約40倍がさらに輸入されたし、安南米輸入は約25倍もっと増えた。 それだけ朝鮮米と朝鮮豆が日本に抜け出たのだ。

このように入ってきた安南米は小作民に戻る米でもあった。 収穫の大部分を地主に取られた朝鮮人小作農は自身が握ったいくらならない朝鮮米を市場に持ち出し売った。 代わりに朝鮮米に比べて4分の1下だった安南米を買って食べた。 満州産粟も混ぜた。

植民地の都市民は都市民のままに安南米のいたずらにぶつからなければならなかった。 1920年代から1930年代は安南米を囲んだ都市米穀商の悪だくみが極に達した20年間でもあった。 手法は明らかだ。 朝鮮人が好きな朝鮮米に安南米を混ぜて売ることだ。 都市民安定がまもなく体制安定と直結することをよく分かる日帝は不正米穀商取り締まりに巡査でなく刑事を動員した。 朝鮮語言論は悪い米穀商を示して“奸商”、すなわち“奸悪な商人”という、言論が使える極限表現を持って付けた。

朝鮮史が安南米味を害した

解放されても、足りない米はやはりベトナム-ビルマ-タイ米で埋めるしかなかった。 これらは必ずベトナム米ではなくてもそのまま‘安南米’であった。 時々入ってくる台湾米が安南米より人気があった。 台湾米はジャポニカ米であるから。 台湾は日帝時代伝統的に食べたインディカ米の飯がジャポニカ米の飯に変わったところだ。 朝鮮戦争以後1960年代も安南米導入様相は似ている。

1970年代には政府が政府米にアメリカ、カリフォルニア産米を混ぜて放出することもした。 この時のカリフォルニア産米もまた、この頃とは違ってインディカ米だった。 その当時消費者は政府米も嫌いだったし、“カリフォルニア産安南米”も嫌いだった。 韓国人が育種しても、韓国人がまずいと捨てた統一稲もまた、インディカの形質を持った稲だ。

韓国人はその間味わう開くことなく安南米を食べるだけだった。 品質低い安物 インディカ米とインディカ米調理法に対する無知が一緒であった。 ただし生き残るために安南米を食べた。 私の米を帝国本土に奪われて食べる米が安南米であった。 1990年代までも2000年代までもその残像が続いた。

悪い効果はとんでもなく現れた。 この米はこの味、あの米はあの味でなく“まずい”として捨ててからは再び見て回らない。 それからなじむ私の感覚に固着される。 やがて新しい感覚、味覚にからだを開く機会を自らあきらめる。

今日この土地に入ってきた異邦人、隣になった外国人はまた如何に多いのか。 私になじむ米味はそれなり彼らによく説明して紹介するべきで、私の隣の米味覚も今一度見て回る時になった。 韓国米の飯と米食べ物を他人にまともに説明する人は私の隣の味覚とその反応を理解する人にならざるをえない。 感覚の固着がさせた嘘から抜け出した後に世界理解の幅と深さが根本的に変わることができる。

過去の経験が固着させた感覚の嘘が産んだ“まずい”を抜け出すということはさらに広い世界へ窓を出すアズー具体的な行為だ。 味覚に宿った嘘をつくかを根元まで反省してみるならば、私が合う世界をより一層広げることができる。 私が進む世界がより一層広くなることもある。

孤影食べ物文献研究者

http://www.hankookilbo.com/v/5f32fc0d08c6430598b54a429efa7c5a

プルコギ元祖=高句麗貊炙? 歴史に化けた風説

嘘を読みます<5>韓国料理の誤った根元検索


ぐつぐつおいしいプルコギ.'ドゥーユーノーキムチ?'に続きいつも外国人に自慢に尋ねる料理だ。しかしこの料理と高句麗貊炙の間にまだ確認された連結の輪はない。韓国日報資料写真

中国古代書籍‘搜神記’根拠に
辞典にものせて既定事実化
実際の文献には‘高句麗’表現なくて
料理法関連具体的記録なし
‘長い間の食べ物=立派’浅い談論越えて
史料一つ一つ冷静な分析を

盲信が産んだ嘘ぐらい救済不能な嘘がまた、一つある。 ない記録をあるといって、ついに細部まで加えて創造した‘食文化史’がそれだ。

やがて学者と市民と大衆文化が歴史に化けた風説を互いにコピーして付ける。

ある本に出てくるのに出処をまた見てもそのような記録がない。 該当文献を検索して該当面を見て“そのような記録ありません”と話す。 無駄骨だ。 少しの間ぎこちない沈黙が流れた後斧目を開いた相手が不機嫌な声で鋭く言い放つ。 “私たちの教授様、私の先生があるといいました! あなたが博士様よりさらによく分かるという話ですか?”加えた反論もある。 “ドラマ‘大長今’に出てきます!”

このくらいなら全身に脈がピタッと止まる。 食べ物を置いて本当に必要な考えと対話をする隙間はいつも不足するばかりだったが、いんちき歴史をハードルとみなして格別やりがいない障害物競争からしなければならない。 今、私の頭の中には歴史学者宮崎市定の一言がキラッと光る。

“記録ということは本来その当時とても当然のことは少なくない。 (中略)ある時代の当然のことはその時代を理解するのに最も大切なのだ。 それを分からなければその時代を理解できなくて、無理に分かろうとすればそこでとんでもない誤解ができることになる。”また、私を障害物競争に追いやる頻度が非常に高い食べ物、‘貊炙’がキラッと光る。

‘貊炙=プルコギ’新しい歴史を創造する彼ら

このような形だ。 韓国コンテンツ振興院文化コンテンツドットコムは退屈な高句麗のプルコギで説明する。 この時、貊炙の話の中‘貊’がまもなく高句麗という。 それから中国晋の時代の‘捜神記’には貊炙を作る時“醤とニンニクで料理して火で直接焼く”といったんだ。 仕上げも完ぺきだ。 この貊炙に高句麗に継承されて今日プルコギの元祖になったんだ。 遠い古代で今日韓国に達する味付き肉焼きの歴史がそのように説明される。 貊炙のおかげでプルコギの歴史まで完結するのでまた良くないのか。

今日韓国人が持ったことのすべての教養と常識の出処だとするに値したネイバー. ‘ネイバー時事常識辞典’によれば貊炙は高句麗時代から始まった歴史深い食べ物で、韓国式味噌に眠らせておいて焼いて出す料理でプルコギの元祖という。 その根拠は先んじてみた‘搜神記’だ。 やはりネイバーが提供する斗山百科のプルコギ項目もプルコギを高句麗の貊炙に由来した食べ物で説明した後“貊炙は味付けした肉を串に通して火で焼く食べ物”で定義する。

国が人材と時間を入れて編纂した‘韓国民族文化大百科事典’のプルコギ項目によれば我が国の伝統的な肉焼きは貊炙に由来する。 ここで“貊は中国の東北地方を示す言葉で高句麗を称する言葉”という。 このだけではない。 韓食財団のウェブページもまた、プルコギ項目に“我が国の伝統肉焼きは貊炙に由来した”という説明を付けておいた。 この財団は自ら韓国料理の振興、正統性確立、世界化などを設立目的で掲げている。

分かるに値する。 この項目執筆者は‘搜神記’を読んで見たことがなかったり、でなければ‘搜神記’を読んでも香辛菜に醤にプルコギまで呼び出したとすれば意図を持って積極的に歴史を創造したのだ。


国の金を入れて作った辞書にも貊炙からプルコギが出てきたという話が堂々と載っている。 韓国民族文化大百科事典キャプチャー

直接搜神記読んでみると高句麗ない

遠回しに言う必要がない。 すぐに‘搜神記’を広げる。 ‘搜神記’は4世紀ぐらい東晋人干宝が編纂した本だ。 伝説と民話と讒言が入り乱れた奇異な話集だ。 現実を反映したいくつかの内容はたまに中国王朝が編纂した正史に上がることもした。 貊炙と関連した大きな課題はこうだ.

“胡床と貊盤は翟の器物だ。 羌煮と貊炙は翟の食べ物だ。 太始(265~274年)以来中国の人々が好きになった。 貴族と金持ちは必ずそのような器物を積んで、宴会の日大事なお客さんに先を争って出した。 これは戎狄が中国を侵入する兆しであった”(胡床貊盤, 翟之器也. 羌煮貊炙, 翟之食也. 自太始以來, 中國尙之. 貴人富室, 必留其器, 吉享嘉賓, 皆以爲先. 戎翟侵中國之前兆也)

ない。 高句麗がない。 どんな香辛菜も、ニンニクも、醤も、串焼きも、味付け肉を眠らせることもない。 貊炙という食べ物の名前まで貊という種族でなく翟という種族の食べ物で記録した。 ‘搜神記’は3世紀以来、中国の立場で大体北方蛮夷だと称するほどの種族の風習と食べ物が中国で流行したという事実を記録しておいただけだ。 蛮夷文化の流行がまもなく中国の衰退と蛮夷侵入の兆しという、古代社会にありふれている讒言または予言だ。 この記録の核心はここにある。 そうした中で貊炙という食べ物の名前または料理方法が残っただけだ。 その後見える中国正史または、その他文献の中の貊炙話は全部‘搜神記’を出処にする。


高句麗安岳3号墳壁画. 食材と見える肉と火をつけた場面が描かれているがこれをプルコギ料理する姿で見る根拠はない。

百回譲歩して貊と翟と戎狄が皆高句麗を示すとしても今日のプルコギに近い味付き肉焼きを持って当てる余地がない。 高句麗の香辛菜、醤、醤を入れるための豆と塩、そして食べ物および料理方法に対する具体的な記録と遺物が残っていないためだ。 扶余で高句麗がちょうど伸びをし始めて高句麗が滅びるまで中国正史などが高句麗人の食生活を入れることはあった。 ただしその記録があまりにも断片的なので材料、料理方法、食べ物の細部は明確でない。

図では4世紀に造成された高句麗安岳3号墳壁画が当時台所の姿をよく見せる。 火をつけたかまどとカマ、そして色々な種類の四つ足獣が鉤にぶらさがってかかった姿が図の中に明らかだ。 そのままそこまでだ。 味付き肉焼きを、しかもプルコギを工面するには文字も図も遺物も不足して漠然とする。

合理的な判断力がある人ならばかえってこれより先んじた貊炙記録がないのかから気になるだろう。 ‘搜神記’に先立って少なくとも3世紀初期に漢で編纂された辞典‘釈名’に貊炙が登場する。 この記録は“貊炙は、丸ごと焼いて、各自の刃物で薄く切る。 蛮夷(胡貊)の方式から出た(貊炙、全体炙之、各自以刀割出於胡貊之為也)”という簡明な説明をしている。

ここで貊炙の輪郭があらわれる。 モンゴルで中央アジアからヨーロッパに至るまで今日どの遊牧民族にでも、そしてその後裔に残っている、直火焼きの四つ足獣丸焼き料理話だ。 これは人間が草食動物から雑食動物に変わる頃はるかに遠い人間のご先祖が試みたらしい方法だ。

胡貊は遊牧民族のローテク料理

誇張を加えて話せばネアンデルタルもホモサピエンスも試みたらしい料理法だ。 ある記録を平たい気持ちで読解して見れば、胡貊に古代特定民族や今日の特定国家を挟んで入れる隙間は見られない。 あるならば地球上どの民族でもしたほどの基本技術(Low-tech)食べ物があるだけだ。 ‘搜神記’や‘釈名’が見せる食べ物はプルコギではない。 ある種族または、民族なのか分からない人々の基本技術肉焼きだ。

ここらで今一度怒り出して崔南善‘故事通’を頼る方もいる。 やはり‘故事通’を読んだことない方々だ。 崔南善は“貊炙まもなく扶余式肉焼き”と書いた。 それのみだ。 前も後も論証も根拠もなしでそんなに書いておくだけだった。 高句麗もない。 ‘故事通’を持って貊炙とプルコギの歴史を云々するということまた、歴史を創造する危険が大きい。

ただ舌を打ってしまうことでない。 このように創造された貊炙とプルコギの歴史もまた、深く読んで吟味する必要がある。 他の何より古くなったとだけすれば食べ物に威厳があって、それだけですでに立派だと感じる生半可で浅い考えから冷静に凝視する必要がある。 これこそ反省して直して当然な韓国人の慢性だ。

食べ物に対する学者の研究と市民の教養があまねく不足することも直視しなければならない。 食文化史研究は資料下やまともに読めなくて踏襲に陥っている。 市民は検索の窓とって出る内容をコピーして付けることで充分だと感じる。 このような雰囲気では去る食べ物歴史に対する深い理解度、今日の食べ物現実に対する正当な認識も不可能だ。

退屈な関った嘘が喚起するのは今日の韓国社会だ。 各々食べ物に対して話す言葉が多くて誰でも数千年を逆らって上がるが、実際には過ぎた歴史にも今日にも誠意がない韓国人のみすぼらしい食べ物談論だ。 知っていることは分かるといって、分からないのは分からないといって証拠が不足すれば不足するといわなければならない。 不足するのでさらに慎重でなければならない。 そうしてまともに勉強を始めることができる。 偽りと無駄な空想に持って付けた説明は勉強の余地を切ってしまう。 その次勉強の芽を踏んでしまう。

孤影食べ物文献研究者

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塩は罪がない

嘘を読みます<2>真っ白に蒸発された記憶、天日塩

産業革命終列車乗った日本帝国
工業用莫大な塩必要になる
1907年から韓半島で生産開始
‘千年の神秘・先祖の知恵’は虚構
私たちの塩は火をたいて作る煮鹽
朝鮮戦争の後山林き損防ぐために
やっと受け継いできた煮鹽命脈すぐ切れて
塩田奴隷のようなうわさ回る現実
‘天日塩世界最高’論じることができるだろうか


 
天日塩は1,000年を受け継いできた民族の神秘であろうか。
でなければ苛酷な労働上に立っているしん気楼であるだけであろうか。

いったいどうしようもない程かわいそうな嘘がある。 すぐに共同体の盲信が産んだ嘘だ。

善悪を問わず、手放しで信じるのは盲信だ。 実際と状況に目をとじた食べ物の話は食べ物だけ台無しにするのではない。 考える方法と対話する方法を壊す。 その悪影響は次世代にまで及ぼす。 事実と実際に正直に相対する人、現実を具体的に説明しようとする人は敵に追い出される。 共同体の敵にならないために盲信に巻きこまれたり、信じるふりをしたり、分かっても分からないふりをするとき、悪循環は救済不能状態となる。

身土不二は答でない

今からしようとする話は誇らしい話ではない。 盲信が産んだ代表的な韓国人の嘘、不便だが必ず一度つかなければならない塩を囲んだ盲信と嘘に関する話だ。

韓国産天日塩はこの土地の神秘と先祖の知恵で成し遂げた世界最高の塩か? いわゆる専門家という人々がそうだという。 大衆はその話を無条件に信じる。 だが、どんな根拠で天日塩を褒め称えるのか尋ねれば黙って、返答がない。 身土不二は正しくなされた返事でない。 天日塩を盲信する人々には共通点がある。 彼らは私たちが食べてきた塩の歴史、塩生産の条件、労働問題などには関心がない。 実際と現実に無知でまた無感覚だ。

当然の話だが塩は韓国だけで私は物質でない。 世界あちこちで、あちこちの自然条件により多様な塩が多様に生産されている。 良い塩の基準は特定成分だけで決めることはできない。 安全と衛生が担保されて、人間と環境に対する尊重が宿った食べ物はどの共同体でも大切だ。 塩が例外にならない。 必ず必要かつ大切なので必ず念頭に置かなければならない部分だ。 塩には与えられた自然環境で生き残るために奮闘した共同体の歴史が宿っている。 塩の話はこれを確認して始めるということが正しい。

日本帝国の企画品、韓国天日塩

天日塩. この土地で1907年に始まったので100才を越えた塩だ。 100年の間有難くよく食べた。 しかし千年の神秘や先祖の知恵とは何の関係がない。 天日塩盲信者などはこの年代記を全く分からない。

韓国人が天日塩を食べる前まで、韓半島塩の大半は煮塩または火塩だった。 煮塩は焼いたという意味で、火塩は火をたいて得たという話だ。 ‘ファリョム’というギョトマルもある。 干潟土を掘り起こして作るという点では土塩とも呼ばれた。 “達人塩” “煮つめた塩”という話もある。 日本では煮詰める煎、炒める熬を使って煎熬塩といった。 どのような話でも人の力で濃度濃厚な塩辛い水を集めて、その水に火をたいて塩結晶を受ける過程が宿った言葉だ。

韓国天日塩生産は産業革命の終列車に乗った日本帝国が企画した。 化学工業に莫大な塩が入るためだ。 日帝は1895年台湾を飲み込んで台湾を通じて天日塩製法を習う。 1905年韓国(大韓帝国)に統監府を設置しては韓半島に天日塩田を作る構想を始めた。 日帝の企画と韓国の財務部署である度支部の反応が動力になって1907年仁川主眼と釜山龍湖洞で天日塩試験が成り立った。 1908年には平安道広梁湾で天日塩田が拡大した。 1907年で1944年まで日帝が韓半島に作った天日塩田の面積は概略6,090町歩(1町歩は3,000坪)に達する。 韓国天日塩の歴史はその年代記がとても明らかだ。

 
鹽造之人. 19世紀風俗画家金俊根が描いた塩焼く姿.
火を沸かしながら塩を勝ち取る風景だ。 オーストリー・ウイーンの民族学博物館所蔵.

100年前の問題も労働

天日塩盲信者などは塩の歴史が労働の歴史という事実に絶望的であるほど関心がない。 100年前その時、ちょうどできた天日塩田で塩釜役割をしようとする韓国人はなかった。 塩釜の仕事は、当時韓国人が見るには代々塩だけ焼いて死ぬ貧しい人々の仕事、奴婢の仕事、軍役のためにやむを得ず一手に引き受けた水軍の仕事だった。 仕事をしようとする人がいない? 今日と全く同じだ。 初めには山東から数千人の中国人労働者を輸入して使った。 これらが基盤を磨き上げた後に韓国人が天日塩田に入り始めた。 当時大型塩田の所有者であった韓国度支部は賃金もまともに与えることができなかった。 移住労働者は爆発した。

1910年4月広梁湾塩田で仕事をした中国人労働者は処遇改善を要求して争議を始めた。 そうした中で6月には韓国人と中国人が組に分けて投石戦まで行った。 結局1910年6月20日854人の労働者が船に乗って再び故郷山東に戻った。 この中ごく少数が農業移民に定着する。 金東仁小説‘ジャガイモ’に出てくる白菜畑は多分山東出身塩釜の後裔が育てた畑であっただろう。

その争議の細部は詳しくない。 ただし主謀者19人の逮捕の便りだけは明らかに残っている。 移住労働者854人が“トェ、仕事ないし!”と戻るところなのに、当局は争議の主謀者だけは確かに逮捕した。 100年前塩田の労働はこうだった。

1920年代に入って天日塩田は朝鮮人労働者の占めるようになった。 農地ない農民、鉱山の日当より安い日当でも受けて仕事をするという人々が天日塩田に集まった。


 
広梁湾塩田で広がった韓国人労働者と清国人労働者の衝突を報道した
皇城新聞1910年6月5日付記事.
天日塩神話は塩釜の苛酷な労働実態を区別する。 国立故宮博物館所蔵
 
大韓民国、煮塩生産を終わらせる

煮塩生産も大変疲れることは同じだった。 塩を焼こうとするなら多くの燃料が必要だ。 だが、国家は燃料を支給しないで塩を焼くようにした。 燃料調達は労働者に押し付けた。 塩労働者はいつも燃料が惜しかった。 これらが燃料を救うために他人の山に入って山主に侮辱にあった。 国有林に入ったら村のお上が捕えて殺した。 塩労働者が当てられた苦境とくやしい死は‘朝鮮王朝実録’等の記録に一杯になって溢れる。 安い労働力をいくらでも使えて、燃料も入らない天日塩は即座に煮塩を押し出して韓半島を席巻した。

朝鮮戦争以後大韓民国政府もまた、山林き損を防ぐために煮塩生産に干渉した。 政府は1960年‘塩業臨時措置法’を公布してそれなりに少し残っていた煮塩生産を完全に切ってしまった。 以後塩を囲んだ韓国人の想像力は明らかだった。 塩とは海辺塩田で出る天日塩で固定された。 煮塩の歴史も天日塩の歴史も神秘に覆われた。 そうするうちに最近煮塩生産も再び伸びをしている。 天日塩に続き煮塩にも‘神秘’や‘先祖の知恵’を持って付ける。 その一方で韓国塩の歴史で天日塩登場と煮塩退場の意味を見て回ったことはない。 神秘たわごと、先祖たわごとは無知や無感覚の他の顔なのかも分からない。 歴史を分からないから教訓もない。

塩の衛生と品質を論じてこそ

天日塩は韓国歴史最近100年の産物であり厳重な現実の産物だ。 私たちは盲信に惹かれてその間私たちが本来確かめてみなければならない塩の話はのがしていた。 安全と衛生に対する正当な要求、新しい調理法と新しい食べ物登場にともなう多様な需要そして品質の国際的比較という状況にまだ目をあけられなかった。 塩微粒子1,2トールで味を増幅する食べ物が良い塩を要求する時代だ。 塩が家庭とレストランと食品産業など多様な消費者の選択を受けようとするなら具体的な細目に目を開かなければならない。

安全と衛生は基本のうちの基本だ。 塩決定の大きさ、形、色、水分などに対する精密で洗練された接近が必要だ。 先進食塩産業は今日サイコロ、多面体、多孔質立方体、うろこ、球、棒に達する多様な決定の形態に食い込んでこれを品質の実現の踏み台としている。 燕巖・朴趾源が1757年に使った‘閔翁伝’だけ見ても“水晶塩”と“素金塩”が登場する。 結晶形態を区分したのだ。 韓国で塩専門家のふりをしてきた人々の中で現実と細目に対する感覚を持った人がいるのか。

海辺に塩田が造成されたとすれば景観産業は基本だ。 しかし労働問題を解くことができない限り景観産業はない。 “塩田奴隷”のような荒々しいうわさの中で景観産業が可能だろうか。 専門家ならば塩田の地主小作制に食い込む工夫からしなければならない。

“塩は韓国天日塩が世界最高!”という宣言ができることはない。 事実と現況を直視しよう。 1,000年を受け継いできたことは神秘ではない。 塩生産にともなう環境と労働、適正生産費用、適正価格、持続可能な塩生産の条件を囲んだ問題が解けなくて続いている。 塩は罪がない。

孤影(食べ物文献研究者)

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