2016年12月22日木曜日

[食品人文学]饅頭、真実か嘘か

2015/03/11

“諸葛亮が遠く南蛮を征伐して帰り道に暴風に会うことになるとすぐに誰かの人の頭49頭を‘水の神’に捧げなければなければならないと進言しました。これに対し諸葛亮は殺人をすることはできないから万人の頭の形を小麦粉で仕込んで祭事を行おうといってそのようにしたところ暴風が止みました。”
 
この話は‘饅頭の由来’と多く伝えられます。 諸葛亮(181~234)が出てくるので他の資料ではこの話が三国志演義に出てくると書いたりもしました。 しかしこれら全て歴史上の事実ではありません。 当然≪三国志演義≫にもこの話は出てきません。 それならこの話の根拠はどこにありましょうか?
 
諸葛亮の知恵込められた饅頭
 
中国北宋の神宗(神宗、在位1067~85)時の人で知られている高承が書いた≪事物紀原≫ こういう話が出ます。
 
“昔に諸葛亮が中国西南部四川省の孟獲(孟获)を征伐する時のことだ。人々が言うことを神霊に祈れば必ず秘密の兵士を送って助けるという。ところで祈祷を捧げるには必ず人を殺してその首で法事を行うという話を聞いて、諸葛亮は方法を変えました。 羊か豚の肉を混ぜて小麦粉で作った餅で包んで人の頭の形を作って祭祀を務めた。神霊もそれを受けて戦争を助けてくれた。これから後世の人々がこの料理を饅頭だと呼んだ。”
 
それでも諸葛亮がこの饅頭を初めて作ったと見るには難しいです。 それよりは高承の時代に饅頭が有害だったし、それの起源を問い詰める人々が増えるとすぐに神秘な人物である諸葛亮に対し遠回しに言ってこの話が作られたと見る方がより確実です。
 

韓・中・日、満州の三色の美学
 
たとえ今から3,000年以上前には中央アジアから今の華北地域に小麦が伝えられたが、流行した時期は紀元前西漢の時でした。 特に霊帝(霊帝、156~189)は北方民族の料理をとても好きで‘胡食天子’と呼ばれるようになりました。 ここで胡食というのは小麦粉で作った料理を示しました。
 
事実今日中国人が言う饅頭は具が入らない蒸し饅頭だけを称します。 これに対し具が入ったことは餃子または包子だと呼びます。 ところで漢の時代に皇室と貴族の間だけで流行した小麦粉料理が北宋の時代になれば開封と同じ大都市に暮らした人々皆にすごい人気を呼びました。 その時だけでも饅頭という料理は今の餃子や包子でした。
 
北宋が滅びて南宋が新しく起きて開封で有名だった小麦粉料理店が今の杭州に移りました。 この時から南宋の人々の間でも饅頭が人気を呼んだし北宋地域を占領した北方民族は具が入らないのは饅頭だと呼んで具が入ったのを餃子または包子だと呼びました。
 
高麗末元に留学に行ってきた李穡(李穡、1328~1396)は老年に冠岳山新房寺に留まったことがありました。 その時、住持に饅頭をもらいました。李穡が味わった饅頭は具が入らなかった饅頭だった可能性が高いです。なぜなら‘白雪が積み重ねて積み重ねて積もったような饅頭を蒸して’もらったといったためです。


韓半島では中国北部地域の人々のように饅頭や包子または餃子を思う存分食べることができる人々が珍しかったです。 食べることができる機会が少ないと見ると具が入らなかった蒸し饅頭のような饅頭や具が入った包子や餃子を全部饅頭だと呼びました。

韓国人が饅頭を思う存分食べ始めた時は20世紀になってでした。 それも6.25動乱以後アメリカの余剰農産物に入ってきた小麦粉が支流に敷かれて可能でした。だが、饅頭の名前は相変らず饅頭でした。
 
日本も韓半島と事情が似ていました。しかし日本人たちは饅頭だと呼ばないで餃子だと呼びます。
 
日本で餃子が人気を呼んだ時期は20世紀初期、華僑の日本定着と関連があります。横浜や神戸そして長崎に中華街を形成した日本華僑が食堂で最も多くの料理がうどんと餃子だったためです。それが日本人が運営するラーメン食堂にも伝えられました。


当初にこれら料理が皆華僑によって広まったためです。 これに対し比べて韓半島の饅頭は華僑でなく韓国人の手によってでありました。それで今でも包子や餃子でなく全部饅頭だと呼びます。
 

http://mediask.co.kr/2008

[食品人文学]唐麵雜菜が韓国料理市民権を得るまで

2015/02/04

“モヤシを去頭截尾してセリを宿主の長さぐらい切ってソニャソン(牛大腸の骨盤中にある腸の終わりの部分)とヤン(牛胃)をゆでて鞭打つ。ネギを湯がいて鞭打って色々な高名でユッケ千切って炒めて全部一ケ所混ぜて和える。卵焼いて細く鞭打って上にばら撒いて松の実の粉ばら撒いてカラシに無恥増えるのだ。”

1800年代中葉に書かれたと思われるハングル筆写本料理で閨壼要覧・食品録という本では漢字で‘雑采法’と書いてその調理法を上のように書いた。


雑菜と書かなければならない漢字を誤って書いたがこの頃雑菜とは明確に異なります。この後梨花女専家政科教授を務めた方信栄(方信栄、1890~1977)が出した1921年版<朝鮮料理製法>でも雑菜調理法を書き留めました。

“桔梗、セリ、黃花菜、ジョユク、椎茸を鞭打って入れてネギを入れた後醤油と油、ゴマ塩胡椒を打ってしばらく立っておいて油に炒める。 火に呼ばれてゆでて切った唐麺と皆一緒に入れてよく混ぜて皿にうずたかく入れる。 錦糸卵鞭打って椎茸、イワタケを刺さ糸のように細かく鞭打って油に炒めておいて一番上にばら撒く。 また、松の実の粉をその上に根元遅く。” 
 
唐麺ない雑菜もあったか? 
 
はじめて今日の雑菜のように唐麺が入りました。 事実唐麺は名前だけ見ても中国が原産地であることを知ることが出来る食品です。‘唐’麺だとして唐代の食品ではありません。満洲族でない漢族の食品という意味で‘胡’でなく‘唐’とついたのです。

だから韓国人位相から唐麺と呼ぶことが当然だが中国人の立場では決して唐麺ではありません。中国では昔も今も唐麺を‘粉条’あるいは‘粉丝’と呼びます。さつまいもやジャガイモでん粉、すなわち澱粉の一部にお湯を注いでこねて草のように作ります。ここに再び残りの澱粉を注いで振って40℃程度のお湯をさらに注いでねります。 この練り粉を製麺機(ククストゥル)に押してお湯が入れられたカマに抜き出した後冷まして天日で干せばピョンテャオ、すなわち唐麺になります。 朝鮮に本格的に紹介されたのは1882年夏壬午軍乱以後仁川とソウルに大挙移住した中国人によってでありました。
 
1909年ソウル水標橋と南大門近所ではその名前もきらびやかな雅叙園、金谷園、大観園、四海楼のような看板を掲げた大規模中国料理屋が盛業をしました。こちらを探す朝鮮人お客さんが好んで食べたメニューには酢豚、ヤンジャンピ(中華冷菜)、高粱酒と共に雑菜も含まれます。
 
1920年代になるとすぐに中国から唐麺を輸入することより国内で直接生産してこそ利益が残るという事実を知った人々ができました。
 
その中ひとりが黄海道の鉄道要衝沙里院で唐麺工場である廣興工廠を運営した楊在河です。 1920年代後半から唐麺が入った雑菜が朝鮮末期唐麺がなかった雑菜に代わり始めた。このような事情を勘案するならば雑菜と唐麺雑菜を別に区分しなければならないが実際にはそうではありませんでした。
  
韓国名節上に上がった三国の合同作品
 
1930年3月6日付<東亜日報>では同徳女子高の家政科教師である宋今璇が別の雑菜調理法を紹介しました。特に宋今璇は雑菜の味付けをする部分で日本醤を使うと書きました。
 
すなわち、醸造醤油を指します。1937年7月7日に中日戦争が勃発して唐麺雑菜は家庭で作らなければならない料理と認識され始めました。当時だけでも唐麺雑菜を家で作るのは非常に面倒なことでした。 ところで戦争が勃発するとすぐに多くの中国人が帰国してしまったし、家で宋今璇方式の唐麺雑菜を作る人々が増えました。
 
解放以後唐麺雑菜は韓定食を販売するレストランはもちろんでさらに粉食店でも重要メニューになりました。1976年に出版された黄慧性の《韓国料理百科事典》では雑菜を宮中料理のうちで煮て作る野菜•ナムル料理の熟菜で扱いました。当然唐麺が入った雑菜でした。
 
牛肉、タマネギ、ニンジン、キュウリ、桔梗、宿主、松茸、唐麺などの材料が入って、ここに醸造醤油、砂糖、ゴマ塩、ゴマ油などで味付けしてあえる方式でした。 結局中国式炒める雑菜とは違いあえる方式の唐麺雑菜が1970年代韓国料理市民権を得ることになりました。 今になって唐麺雑菜に朝鮮醤油を入れてあえれば決してなじまないでしょう。さらに前でも見たように1880年代文献に出てくる調理法で雑菜を作れば今の人々は中国料理の一つである‘ギョジャチェ’というかも知れません。しかしこれがすぐに朝鮮末期の雑菜であり、今日韓国人が好んで食べる雑菜は唐麺雑菜であり醸造醤油雑菜です。20世紀前半帝国日本に編入された朝鮮人•中国人•日本人の合同作品。歴史のアイロニーが雑菜に含まれています。

http://mediask.co.kr/1969

[食品人文学]ピンデトックでも焼くだろう

2015/01/08

“洋服着た紳士が料理店門の前で杖で打たれるが、なぜ合おうか、なぜ合おうか、原因は一つ金がなくて(中略),お金なければ家に行ってピンデトックでも焼くだろう。”1943年歌手ハン・ポクナムが歌った‘ピンデトック紳士’という歌の歌詞だ。


歌詞を再確認してみれば‘料理屋’という最高級食堂に行ったごろつき紳士が金がなくて往生する場面だ。それと共に金がなければ家に行ってピンデトックでも焼くがどういう料理店かと当てこする。この歌の歌詞だけ見てもピンデトックは1940年代お金ない人々が家で焼く料理であったのを察することができる。
 
口に糊付けでもするなら…
 
 
専門家たちは1930年代から流行した喜劇的な歌詞の歌を漫謡だと歌う。植民地期に日本演歌の影響を受けて悲劇的なトロットが流行したがハングはユーモアと風刺を通じて当時の世相を入れた歌でもあった。 実際にピンデトックは日帝強制占領期に貧しい人々が口に糊付けでもする量で販売した料理だった。
 
<東亜日報> 1926年7月3日付‘真夜中後の京城’を連載した記者は翌1時30分を越えた時間に夜市を歩き回ってある老婆の尾行することになる。

“その老婆は3時に未亡人になって膝下にただ一人の息子と彼の嫁を連れて30年余りの間を冬の母酒家の門の外でピンデトックを焼いて売った。さらに人の取り引きが頻繁な街頭でピンデトックを14年の間焼いて夫の実家の家族と子供を立派に育てた元山のチョ氏夫人は模範婦女で称賛を受けることもした。” (1936年2月29日付<東亜日報>)
 
このように1920年代以後ピンデトックは路上の屋台食べ物だった。


本来ピンデトックは高級料理だった。1924年夜餤専門家の李用基(李用基、1870~1933年頃)は<<朝鮮無双新式料理製法>>で“このモチは貧しい者が食べるもので貧者餅という。だが、国の祭享にも使って押したことでも煎油魚に小麦粉の代わりに多く使うのだ。”として調理法を言及した。 すなわちピンデトックは貧しい人々が主に食べたのだが宮中で各種宴会に上げた煎油魚に使われる小麦粉がない時緑豆粉を使って作った料理だという主張だ。
 
実際に李用基が提示したピンデトックの中には白菜の白いあらすじ湯がいたこと、さらに牛肉や鶏肉や豚肉を細かく切って味付けして炒めて入れてここに標高、ソクが、首がなどのキノコとナマコ、アワビまでも入る。 実にこれぐらいの材料が入ったピンデトックは決して貧しい人々が販売したり買って食べる料理になれなかった。 このような調理法は1921年方信栄(方信栄、1980~1977)の<<朝鮮料理製法>>でもそのまま出てくる。奏楽や花前のようにピンデトックは油に支持は料理だ。朝鮮末期宮中ではゴマ油を使ったが貧しい国民らはゴマ油を救うのが難しかった。19世紀末以後中国人がソウルに進出した以後豚脂が料理を炒めるのにしばしば使われた。 たとえ肉の臭いがたくさん出たが緑豆生地を豚脂に地震ピンデトックはそれこそ肉に肩を並べる料理だった。
  
立ち飲み屋牛耳ったピンデトック紳士
 
‘ピンジェトク’、‘貧者餅’、‘賓對餅’、‘チヂミ’、‘ムンジュ’、‘緑豆餅’等ピンデトックの名前は多い。


普通貧しい人を意味する貧者餅で由来したりお客さんを接待するという‘賓對’で由来したという。


だが、朝鮮時代文献資料を検索してみれば餅藷の中国発音‘ピンジョ’からできた名前である可能性が最も高い。 本来モチという意味を持っていたが漢字を知らずに中国語発音だけをまねた朝鮮時代の人々がそれを‘賓對’あるいは‘ピンジェ’などと呼ぶとすぐに飲食の種類を明確にするために単語終わりに‘モチ’を付けてピンデトックという名前が完成されたのだ。
 

最近来て距離や路地は言うまでもなく日が進むにつれ増える貧者餅屋は何をいうということなのか? そしてこの多くの貧者餅屋がお客さんで爆発する状況だ。

 

1947年6月28日付<京郷新聞>にのせられたこの記事のように解放以後混乱と困窮の時代にソウルでピンデトックはすごい人気を集めた屋台料理であり立ち飲み屋の主メニューであった。だから、歌謡‘ピンデトック紳士’も簡単に大衆的共感を得て人々の口から口へ移して通うことができた。

1960年代後半から政府が米中心の農業政策を展開して緑豆が高値で売れ始めた。米飯が豊かになってピンデトックはかえって貴重なからだになったし1970年代以後ピンデトックは貧困の象徴でなく高級料理でその地位を変貌していった。このような事情を分からないこの頃10代にはハン・ボクナムの歌が虎タバコ焼いた時期の話に過ぎないかも知れない。
 
http://mediask.co.kr/1943

[食品人文学]米粒ごとに程よい甘み、シッケ

2014/12/05

正月を控えて<東亜日報>では金八峰(金八峰、1903~1985),李無影(李無影、1908~1960)に‘忘れることはできない正月料理’を主題で短い文をお願いした。金八峰の文冒頭は“正月に特徴ある韓国料理のうちで簡単に指を折って数えることができる食品はトック、ギョーザ、シッケ(甘酒)、スジョングァ、略式、チャプチェなどだ”と始める。 田舎出身である李無影は高級料理よりは素朴な料理を食べたいといってシッケとスジョングァを抜かさなかった。

シッケは酸味、シクヘは塩味が出る  

粛宗の御医を務めた李時弼(李時弼、1657~1724)が作った《謏聞事説》という本にはこの頃のシッケと似ていた調理法が登場する。漢字で書かれたこの本ではシッケを‘食醯’と書いた。

先に精白大米を何度も搗いて蒸した後、水をとても少しだけ混ぜて実らせたご飯が粒ごとに皆散るようにする。 (中略)その次に取り出して壷の中に入れて、別に麦芽を沸いているお湯に永らく漬けてカスをままで取りはらいてその水を壷の中に注ぐが、ご飯がかろうじて浸るほどでだけ注ぐ。 紙で壷入口を封じてオンドルに置くが、たとえば宵の口にオンドルに置いたとすれば鶏が鳴く時ぐらい取り出して冷たいところに置かなければならない。 もし永らくオンドルにおくと、味がすっぱくなるためだ。


李時弼は《謏聞事説》でシッケのうちで今の開城である松島のものが味が非常に良くてソウルで作ることより良いといった。また、別にシッケをよく作るある宮人の家の召使いに伝え聞いた三種類の秘法を書き留めた。

最初にはご飯を冷ました後に冷たい水に洗って粒ごとに乾かす方法. 二番目は雪のように白い蜜をたくさん混ぜて作る方法. 三回目は果物をたくさん入れればおいしくないからひたすら大きくて良いユズをまるごとご飯の中に入れれば米粒が粒ごとに完全で色も白くてきれいに作れるといった。これで推察して17世紀漢陽を中心にシッケが非常に流行するようだ。 ところで問題はこのシッケの由来がどこから出発したのかだ。

本来中国の周の時代には漢字‘食醯(シッケ)’の‘醯’は動物性材料を‘酢’に漬けて作った料理を示した。また、発音が同じ‘食醢(シクヘ)’という料理もあった。シクヘはシッケとは違い動物性材料を‘塩’に漬けた料理を示した。だからシッケの味は酸味が出たし、シクヘの味は塩味が出た。
 
1924年に初版を出した李用基(李用基、1870~1933)の《朝鮮無双新式料理製法》にもシッケが登場する。イワシシッケ、大邱シッケ、タチウオシッケとともに全羅道のガンギエイシッケまでシッケ類に対して言及したがこれら魚が入った料理は‘シクヘ’といってこそ正しい。 李用基は言及しなかったけれど、この頃広く知られた‘安東シッケ’は事実《謏聞事説》で話したシッケに細かく切ったダイコン、みじん切りにしたショウガ、粉唐辛子水を入れて水を豊かに注いで漬けることだ。
 
‘醢’と‘醯’をまともに区分できなかった慶尚道の人々はシッケを‘甘酒’と呼ぶこともした。だが、甘酒はもち米した話を蒸して麹粉半升を水に入れないで良い酒を瓶の半分に混ぜて仕込む酒だ。その味が蜜味と同じだといって甘酒だと呼んだ。 結局《謏聞事説》方式のシッケ(甘酒)は朝鮮中期以後漢陽で改良されたうるち米と麦芽で作ったシッケ(甘酒)だということがわかる。 シッケとシクヘの混乱は1960年代まで持続した。


オリンピック食品、大韓民国シッケ

経済的な自信がつき始めた1970年代初期、食品学者は政府の支援を受けて伝統料理の現代化に飛び込んだ。だが、このプロジェクトを主管した韓国科学技術研究所の食糧資源研究室食品学者はシッケ(甘酒)の甘みが商品化の障害物だと判断して研究を先送りした。特に政府が混粉食奨励運動を推進してうるち米を主材料で作るシッケ(甘酒)は家庭ですら作ることができないようにした。
 
それでも陰暦正月には必ずシッケ(甘酒)を飲んだ。1980年代初期電気釜で手軽にシッケ(甘酒)を作る方法が開発されて消えるようだった家庭製造シッケ(甘酒)がよみがえった。この頃中小食品会社で缶に入れたシッケ(甘酒)製品が発売されて主に海外で輸出し始めた。さらに1988年ソウルオリンピックが確定して1984年からシッケ(甘酒)は‘オリンピック食品’で商品化の対象になった。 1993年非常に水準高い食品生産技術が入った缶飲料シッケ(甘酒)が市場に登場した。 甘みは即座に若者たちの食欲を刺激した。 特に1990年代中盤民主化運動の成果は‘反コーラ’感情を呼び起こしたし、その結果缶飲料シッケ(甘酒)は韓国的な飲み物として人気を集めた。
 
1960年4月21日に亡くなった作家の李無影がそのように解酲で飲みたがったシッケ(甘酒)はもう飲み物自販機やコンビニでも簡単に手に入れることができる飲み物になった。 しかしおばあさんやお母さんが正月を控えて夜通し苦労して作ったシッケ(甘酒)の味とは違うので、これやはり仕方ない世の中の道理であるようだ。


http://mediask.co.kr/1910

[食品人文学]煉炭上に横たわりカルビまねるサバの塩焼き


2014/11/07

真夜中に喉が渇いて冷蔵庫を開けてみると、片隅にサバが塩漬けにされているよ。お母さんいびきをかく声小さく聞こえるよ。お母さんはサバを焼こうとしたようだ。塩漬けにしておいて安らかにおやすみになるんだな。私は明日朝には塩さば焼きを食べることができるよ。お母さんはサバを漬けておいておやすみになるんだな。私は明日朝には塩さば焼きを食べることができるよ。

 

キム・チャンワンが詠んだ‘お母さんとサバ’という歌だ。サバは大きく真サバとゴマサバで区分する。サバは朝鮮時代文献にも結構しばしば登場する。漢字では‘碧紋魚’といったが、背に青色をいっぱい抱いているので、青色を意味する‘碧’の字を付けたと見なされる。
 
だが、最も広く呼ばれた名前は‘皐登魚’だ。朝鮮時代の人々が食べた魚に比べてとりわけ背が高かったためだと推測する。丁若銓(丁若銓、1758~1816)は《茲山魚譜》でサバを“長さは二尺程度だ。からだが丸くてうろこが非常に細かい。背は青くて模様がある。肉は甘くて酸味が出て汚れている。 スープをとろ火で煮たり塩辛を作ることができるが膾や捕虜食べることはできない”とした。
 
ソウルではサバを見かけるのが一番難しかったよ
 
丁若銓より190年前に生きた許筠(許筠、1569~1618)は“古刀魚は東海で出るのに内蔵で塩辛を漬けたのが最も良い”と書いた。多分朝鮮時代の人々はサバを焼き物にして食べることより内蔵で塩辛を漬けて食べたようだ。なぜそうしたのだろうか?
 
サバは漁師に捕えられるその瞬間死ぬ。また、死んだサバの肉は早く腐敗する。万一、腐敗したサバの肉を食べることになればすぐに腹痛や嘔吐を起こす。丁若銓が“スープの材料にも良い”とある理由を十分に分かるに値する。しかしそれも新鮮なサバを手に入れることができた黒山島では可能だったことだ。内陸に住む人々は内蔵の塩辛で満足するほかはなかった。こうしたために朝鮮時代料理の本にはサバを食材に使った料理法がない。
 
それならいつからサバが韓国人の食卓に自身満々に上がってくることになったのだろうか?日帝強制占領期の食品学専門家・李用基(李用基、1870~1933)はサバを置いて“生鮮はソウルでは見られないで佐飯だけが近くに鉄道でくることなのに、焼けばサバ味は当てられるだけのことはあってサバより生臭いのはない”とした。 1920年代初期にこの文を書いたソウルの人李用基の立場では生サバを見ることもできなかったし、塩漬けにした佐飯サバもやっと見ることができたという話だ。 捕えられる瞬間死んでしまい死ねばすぐ傷ついたので朝鮮時代の人々は海辺に住まない以上生きているサバの姿を見た人は殆どなかっただろう。
 
ところで1920年代から秋には浦項、巨済島で捕えられるサバが釜山漁港に山のように積まれ始めた。浦項の竹島市場近所にはサバをはじめとしてイワシやニシンを捕えて燃料や石鹸そして肥料を作る工場が入るほどであった。あら塩をばらまいたサバを貨物列車にのせて大邱、大田そしてソウルに送った。
 
 両手に握ってがっちりちぎって食べたサバの塩焼き
 
1960年代にサバは日本に輸出する孝行息子商品だった。今時分釜山龍頭山の下光復洞路地にはマッコリ居酒屋が幾つもあった。1970年代初期になるとすぐに光復洞路地はお客さんで足の踏み場さえなかった。居酒屋では日本に輸出して残った新鮮なサバの腹を両側で分けてあら塩をばらまいた後、煉炭火で焼いて‘二匹で100ウォン’建てのおつまみに出した。 そのまま塩さば焼きなのに人々は‘サバの塩焼き’と呼んだ。あたかも牛肉カルビを二切れで出したようにサバも二切れで出して焼いたためだ。1980年代までサバの塩焼きは釜山光復洞居酒屋路地ですごい人気を享受してその時期財布が軽い学生たち、会社員に有難い酒のつまみになってくれた。
 
しかし1990年代に入るとビールが大学生のアジトになって、サバの塩焼きもマッコリとともに痕跡をなくし始めた。そしてサバも消え始めた。1990年代後半韓半島沿岸でサバを捕えるのが容易でなかったためだ。それで‘サバの塩焼き’と書いておいて焼きホッケを出すレストランも幾つもあった。 さらに塩さば焼き上にいろいろな調味料を成し遂げておいてサバの塩焼きだと言い張るレストランも登場した。
 
丁若銓は“1806年以後には毎年減って今日ではほとんど痕跡をなくしたという。 近頃嶺南地方の海で新しくこの魚が現れたと聞いたがその道理が分からない”とした。サバが韓半島沿岸を回遊したために生じたことだった。だが、今やサバは韓半島沿岸を回遊しない。サバの塩焼きもそうである。

http://mediask.co.kr/1882

[食品人文学]クッパ一杯で虛飢を満たし、憂いも静めて


2014/10/02

1890年代に書かれたと推定されるハングル筆写本料理書の《是議全書》には漢字で‘湯飯’と書いて再びハングルで‘ジャングクバプ’と書いた料理の調理法が出てくる。おそらくジャングクバプが湯飯の一種だったと見なされる。

 

良いうるち米をきれいに洗ってご飯を炊いてスープはダイコンを入れて沸かす。 国を巻く時はパラパラとするようではなく、その上にナムルを備えてのせる。 薬散炙も作って上にのせて胡椒と粉唐辛子をばらまく。


真冬激しい風慰めるジャングクバプ

知ってのとおりジャングクバプは朝鮮醤油で味付けをして沸かした国にご飯をのみ料理を示す。当然ジャングクバプのジャンは醤油を意味する醤だ。

広橋南天弁水月楼で料理も売ってもかたがたジャングクバプが上手で陰暦十一月初一日始めとして八の場所とか君子は来臨して召し上がることを願います。


<毎日新聞> 1898年12月13日付にのせられた広告だ。本来水月楼は当時では珍しい最新式朝鮮料理屋だった。特に12月にジャングクバプをメニューで加えて常連客に真冬の寒さを和らげるようにしたのだ。
 
1920年代になって都市には湯飯店と呼ばれたクッパ店が人多くの路地ごとに入り始めた。大邱ではユッケジャンの元祖である大邱湯飯、開城では冷やし餃子と餃子スープ(マンドゥクッ)、全州ではもやし入り解酲スープに母酒という酒粕酒を一緒に飲むタクバックグク、冬にだけ営業したソウルのチュオタンなどを売った。
 
その頃全国の邑面所在地に常設市場と五日場も盛況を成し遂げて市の日に食べるクッパが場日と同様に魅力的だった。それで‘市場クッパ’という名前も生じた。市場クッパの一番上は牛肉クッパだ。1929年12月1日《別乾坤》という雑誌に出てくる大邱湯飯がそれと似ていた。

 

汁を先に飲んで、太いネギがふわりとふわりと浮かび上がって油がぽたぽた浮かび上がる高温スープに加え、ゴンの肉を手で適当に焼いた、ククスでもなくクッパでもない、舌が火傷をする程熱くて海苔がふわふわと浮び上がる真っ赤なスープに向き合って座ればまず唾をごくっと飲み込んで、いくら真冬の厳しい寒さに凍った顔でも自ずから解けて全身が溶けてうずうずする。


大邱湯飯、ソルロンタン…八道のジャングクバプ
 
大邱湯飯の他の名前はユッケジャンだ。犬肉を煮た狗醤の代わりに牛肉を使ってユッケジャンという名前を得た。これに対し比べてソルロンタンはソウルを代表するクッパだった。前の《別乾坤》でペンネームが‘牛耳生’という人はソルロンタンを置いてこのような賛辞を吐き出した。

 

ソルロンタンはもちろん四時にも食べるが冬夜、真夜中過ぎた後にぶるぶる震える肩をウンスンク立ててソルロンタン家を訪ねて行けば海苔がプンプンとしてくる暖かい気勢と香ばしい臭いが先に刺身を動くようにする。 他の食事家でなら前後をちょっと調べるのにためらったりもするがソルロンタン家に入る人は絶対に解放的だ。 そのままチョック入って‘ご飯一杯くれ’とは木路いすに腰掛ければ一分がみなできなくて脂身がふわふわ浮かび上がった土鍋一つとカクテキ皿が前に置かれる。

 

北朝鮮の人は冬に温飯という料理を好んで食べた。鶏肉やキジ肉で作った熱い汁をご飯に注いで食べる温飯はオボク鍋と共に大同江で吹く激しい風を忘れるようにした。鶏肉やキジ肉の赤身がご飯上に上がることもした。この温飯も分かってみれば平安道地域のクッパだ。
  
ソウルを越えて朝鮮の名物で
 
事実クッパは貧しい人に肉味を少しでも感じさせる有難い食品だ。また、在庫が不足する時は汁で飢餓を満たすことができる食品だ。朝鮮末期貧しい国民らは両班が牛や豚をとらえて捨てた副産物である先知や内蔵あるいは骨を集めて永らく煮込んでスープを作ってそこにご飯を巻いて肉味を感じた。
 
そういう習慣は植民地や戦争渦中にでもしばらく経済開発の最前線に立って大変に労働をしながら生きた1960~1970年代や人々に力がむっと出てくるようにさせる料理だった。ここにマッコリや焼酎でも一杯付け加えれば一日中労働で疲れたからだを少しの間でも休めるようにした料理がすぐにクッパだった。
 
さらにクッパは世界どこにもない最も韓国的な料理だ。早目にこの点を看破した牛耳生はソルロンタンを置いて“これぐらいならばソウルの名物になることができてしたがって朝鮮の名物になることができる”と話したことがある。
 
1世紀近く過ぎた今クッパが大韓民国の名物であることを否定する人はないだろう。クッパよ!永遠で!


http://mediask.co.kr/1843

[食品人文学]値段を問わず好んで食べる鮗だ!

2014/09/18

 

西南海で出る。からだが平たくて腹と背中が膨らむように飛び出してきてフナに似た。立夏前後になれば毎度物価にきて泥を食べる。この時、漁師が広い網をかけて捕える。肉がふっくらとして脂がのっておいしい。商人が漬けて売るが、漢陽の金持ちや貧しい者すべてこれをおいしく食べる。 その味のためにこれを購入する人はお金を問わない。それで銭魚と呼ぶ。


この文は朝鮮末期徐有榘(1764~1845)が書いた《林園経済志・佃漁志》に出てくる。鮗の名前は今と同じように鮗だ。小さい鮗は8月初めになれば慶尚南道泗川市三千浦近海でたくさん捕えられるが大きい鮗は秋になって西南海岸一帯で捕えられ始める。晩秋になれば西海岸一帯でも鮗を捕えることができる。

矢に似て矢のように早い鮗
 
徐有榘は立夏前後に鮗が物価にくるといった。 知ってのとおり立夏は春の気配がほとんど消えて夏が始まる陽暦5月6日頃だ。実際に立夏前後である4~6月頃に鮗は浅い海で群れを成して駆せ参じて産卵をする。遠海に出て行くことができなかった朝鮮末期漁師は晩春から初夏の間に陸地近くに来た鮗を簡単に捕えることができたので立夏前後に鮗を好んで食べたと考えられる。徐有榘とほぼ同じ時期を生きたが、天主教に入信したのが発覚して黒山島に島流しされた丁若銓(丁若銓、1758~1816)はそこの魚を研究して書いた《茲山魚譜》で鮗に対して次の通り書いた。

 

大きい奴は一尺ほどになる。 からだは脂がのって太っているが平たくて色は青黒い。脂が多くて味が非常に良い。黒山島にも時々現れるが、陸地に近いところに出るのにはおよばない。

 

丁若銓も黒山島で時々捕えられる鮗よりは陸地近くの鮗がさらにおいしいといった。ところで丁若銓は徐有榘とは違い鮗の漢字を‘箭魚’と書いた。それと共に一般民も‘전어’と呼ぶといった。 漢字‘箭’は矢を示す字で韓国語では‘살’という。徐有榘が人々がお金を問い詰めないで好んで食べるので‘銭魚’になったといったのに比べて、丁若銓は鮗が矢に似て‘箭魚’と書いた。
  
鮗食べるには上下貴賎の別はない
 
朝鮮時代、王の食卓にも鮗は欠かせなかった。1716年(粛宗42)陰暦閏3月2日慶尙監司が次のような報告をした。“閏三月元日に乾燥鮗を進上しろといったが、受領が守ることができませんでした。 河東府使李弘靖、泗川縣監李世復などを罷免して私もやはり罰を受けようとします。”(承政院日記)すると粛宗は“物を受けて送るのに困難があるのでその事情を推し量って罷免するな”と命じた。 ここで閏3月は陰暦4月だ。すぐに丁若銓が話した立夏前後に今の慶尚南道河東と泗川の三千浦近海に鮗が捕えられたし、そちら漁師はこれを乾燥して漢陽の王室に献上したことをこの記録を通じて察することができる。
 
漢陽まで上がる時間が西海岸より長くて乾燥させるほかはなかった形だ。今のように冷凍流通システムがなかった朝鮮末期漢陽の人々は塩に軽く漬けた鮗や乾燥した鮗を火鉢の火に焼いて食べた。特に鮗は群れを成して通うので広い網にかかる量が少なくなかった。それでその値が味に比べて比較的安い方だった。このように安値で購入され脂ののった魚だから、上は王から下は庶民に至るまで初夏になれば鮗を食べるのに熱中しないわけにはいかなかった。
 
最近の刺身は養殖鮗一色
 

このような事情は20世紀になっても大きく変わらなかった。朝鮮総督府水産局で仕事をした鄭文基(鄭文基、1898~1995)は当時一年に10万ウォン以上流通する魚56種類中で鮗を34位に選んだ(<東亜日報> 1939年7月8日).流通額だけでも33万 9,000ウォンに達した。たとえ1位のイワシの3,419万 9,000ウォンに比べて低い数値だとしても鮗の生態に比べるならばすごい金額といえる。
 
1970年代初期になれば三千浦をはじめとして慶尚南道南海岸一帯で捕えられた鮗は公団から吹きだす汚染物質によって消え始めた。さらに洛東江河口では奇形鮗が捕えられることもした。 いくら鮗がおいしいといっても人々はこれ以上鮗を探せなかった。 1990年代になるとすぐに遠海で行って捕えた秋鮗が人々の食欲を生き返らせたが、大衆媒体による鮗の爆発的需要は2000年以後8月だけなれば屋台や路上、産地の刺身を養殖鮗一色にした。商人は鮗を天然と養殖で区分して売らなかった。粛宗もしなかった鮗担当官罷免をこの期に及んでしなければならないのではないか!
 
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[食品人文学]香ばしいスンニュンある沙鉢、苦いコーヒー一杯


2014/09/11

 

たいてい我が国の人々はご飯を炊く。ご飯が熟せば直ちにノグソッの底辺が焼けることになるが、ここに水を注いで一度沸かせば煮ご飯が作られる。これを示して熟水だと呼ぶ。

 

この文は朝鮮末期の学者徐有榘が筆で書いた本である《林園經濟志・鼎俎志》に出てくる。宋代の人々は薬剤や茶をわかすのに使われる良い水を熟水だと呼んだ。だが、茶の葉を求め難い朝鮮の人はスンニュンを熟水だと考えた。熟水は祭壇に茶に代わって上がることもした。 本来朱熹の《家礼》では宋の国の風俗に基づいて祭祀に茶を上げるようにした。 だが、茶の木が良く育たない韓半島でその多くて多くの祭壇に茶を上げることは決して容易なことではなかった。 結局李縡は《四礼便覧》を編纂して朝鮮の事情に合わせて茶の代わりに熟水を使えと注釈に付け加えておいた。
 
釜器に焦げ付いたおこげの変身

スンニュンの誕生には朝鮮の人が使ったご飯を炊く器が大きい作用をした。李用基は《朝鮮無双新式料理製法》で“ご飯を炊く器は石釜が一番上で陶器湯罐が次で、鋳鉄釜が三番目で、筒爐が下等だ”といった。ここに言及されたカマは全部重いカマだ。 簡単に入って移して洗うのが難しくてさらにクィハディ貴重な米や麦で作ったご飯のおこげをそのまま捨てることもできなかった。この過程でスンニュンが誕生した。
 
<京郷新聞>は1952年3月1日から問答形式の‘京郷サロン’というコラムを連載した。主題の中の一つは喫茶店とスンニュンだった。光復洞喫茶店ファンだと明らかにした読者は“とても多い喫茶店でとても苦いコーヒーを高く売っているがその代わり暖かいスンニュンを安く売るようにすれば良いから無官者の意見はどうか?”と質問を送った。これに対し記者は“すでにコーヒーが喫茶店の主なメニューになったが、その代わりにどうしてスンニュンを売ることができようか”という返事をした。朝鮮時代ずっと茶に押されてその本性をまともに表わせなかったスンニュンは20世紀に入ってきて再びコーヒーの影の中に埋められてしまった。
 
19世紀後半朝鮮の地に足を踏み入れた西ヨーロッパ宣教師の荷物の中にはコーヒーが入っていた。角砂糖の中に入ったコーヒー粉はお湯に入って黒い色コーヒーに変わった。人々はこれを洋湯だと呼んだ。本来スンニュンをはじめとする茶が甘み中心だったために砂糖の中に含まれたコーヒーは朝鮮人の口に合った。

19世紀‘洋湯’が押し出した千年のスンニュン
 
乙未事変以後ロシア公使館に避けて身を守っていた高宗もコーヒー味に飼い慣らされたし1910年代になってコーヒーは西洋を象徴することも、近代を表現することもした。1914年にドアを開けた朝鮮ホテルでもコーヒーを売った。1920年代になれば今日ソウルの明洞と鍾路には喫茶店という名前のコーヒー飲む所も生じた。
 
1935年11月1日付雑誌《三千里》では当時有名だったソウルの喫茶店相互を挙げた。仁寺洞のピーッと-ナース、鍾路のメグキシ鼻、今の小公洞である長谷川町の楽浪などが挙げられた。この時までしてもスンニュンは相変らず普通の韓国人が食後に飲む飲み物であった。

だが、1960年代後半になれば事情は完全に変わる。電気釜のためだ。ところで電気釜は電気消費量がとても多かった。結局、1965年象印マホービン会社で保温方式の電気釜を開発した。以前のことに比べて電気も少なく保温もうまくいって消費者からすごい人気を享受した。1966年金星社でも電気釜を作って販売した。電気釜は利便性という名で家庭の台所からカマを次第に追い出した。 だが、電気釜ではスンニュンが作られなかった。おこげができなかったためだ。
 
1970年代以後スンニュンやおこげを利用した飲み物が開発されて市販されたりもしたがしばらく注目をあびただけ大衆化の道を歩けなかった。これに反し労働者の一食の食事値に匹敵したコーヒー一杯値がインスタントコーヒーの登場によって安くなったし1979年コーヒー自販機とコーヒーミックスの登場はコーヒーを代表的な食後飲み物の席に座らせた。それで都市や田舎、老若男女を問わずこの頃の人々は食後にスンニュンより自販機コーヒーを当然のように飲んだ。そんなに我が国は世界でめったに見ないコーヒー消費国になった。だがそのように作ってくれたのは千年以上香ばしい味で食後の口をすっきりさせてくれたスンニュンのおかげという事実を知る人はまれだ。
 

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[食品人文学]松葉の香りほのかに名節の香りほのかに

2014/09/04

朝鮮末期の洪錫謨(洪錫謨、1781~1857)という人は《東国歳時記》で“陰暦8月になればソウルの酒造家では新造酒(新稲酒、新米酒)を仕込んで売って餅屋では新米松餅(早稲松餅、新米松餅)を作ってパ売る”と漢文で書き留めた。ソンピョンの漢字は松餅なのに韓国語辞典ではモチをおとなしく達する‘方’とも言われソンピョンになった。 知ってのとおり松餅は松葉を蒸し器底に敷いてモチをのせたことからできた名前だ。どんなモチでも松葉を敷けば松餅になることができる。
  
松餅、よもぎ餅、オルムソピョン、ソンピョン3巴戦

19世紀末に書かれたと推定されるハングル筆写本《是議全書・飲食方文》にはソンピョンを作る方法が三種類が出てくる。 一番最初に出てくるのは漢字で松餠と書いて、ハングルでソンピョンと書いた料理だ。

良い米をひいてふるいにかけて水ぐらぐら沸かして粉を入れてこねるもののならなくする。 牛は皮をむいて、緑豆粉、蜜、小豆、シナモン混ぜてナツメ夜を入れて薄くパーサー牛をしっかり入れて松葉重ね重ねに置いて肉つかないように入れてゆっくり蒸して洗う。 ソルチョソさらに二面さく烈しなくて松餅は何度も洗って取り出して水気を切った後油塗って使いなさい。

ここで松餅を洗えといったのは松葉が付着した松餅を冷たい水で洗えとの話だ。 そうして乾かした松餅にゴマ油を塗ればおいしいといった。 それから出てきたヨモギ餅は“よもぎ選んで洗って水を切れば粉入れて再び挽いて生地をそろえて作りなさい”とした。うるち米にヨモギを入れて粉にしてこねて作ったソンピョンがまさによもぎ餅である。“小路は蜜と桂皮粉を入れて味を付けるようにして、コショウと乾燥ショウガ粉を入れて食欲をかきたてなさい。形は柳葉のように細長く作りなさい”とした。
 
それからに出てくる料理はソンピョンと呼ぶことも難しい。その名前が‘オルムソピョン’であるためだ。“モチ打ってケピトク押すように薄く押して宿主、セリや野菜を備えて味付けして作った牛を入れてケピトクのように作って松餅のように蒸して出して洗って油を塗って最初に使いなさい。”なぜ名前がオルムソピョンか知る術はないが作る方法を見れば‘オルムソ’の方だと見なければならないようだ。 外見は半月形に作れといった。味もギョーザに近い。だが、松餅のように蒸したといったので蒸し器に入れて松葉を敷いたと思う。
 
事実これと似た松餅が《園行乙卯整理儀軌》に出てくる。料理の名前は‘各色松餅’だ。この本には調理法が出てこないで材料と分量だけ記されている。 もち米1話、うるち米8なって、黒豆7なって、ナツメ・夜・蜜各2なって、エゴマ3なって、桂皮粉1両、セリ1段、熟猪肉(熟猪肉、茹でた豚肉) 8両、泊まった鶏2匹、標高・ソクが各2合がそれだ。 この材料だけで松餅の種類を推定してみることができる。《園行乙卯整理儀軌》は正祖が母の恵慶宮洪氏を迎えて父の思悼世子の墓がある今の水原華城に行って還暦祝いをした行事を記録したもので、この四つの松餅がお昼おやつに出てきた。 オルムソピョンと同じようにこれもギョーザに近い。
 
小麦粉が高く松餅を食べた時期

当時の人々はなぜこのような松餅を食べたのだろうか?高麗末開城には中国から高麗に帰化したアラブ系回族がいろいろなギョーザを作って売った。だが、当時韓半島は夏にだけ少量の小麦をやっと収穫する事情で、小麦粉で作ったギョーザは非常に高級料理だった。だから朝鮮時代小麦粉で作ったギョーザに代わってうるち米やもち米で血を作った松餅が生じた可能性が多い。
 
ところでうるち米で血を作って味付けした野菜や豚肉などを小路入れて蒸せば香りが良くなかった。肉の香りを除去するために韓半島支流に敷かれた松葉を蒸し器に入れて蒸す方法が考案された。それで松餅になった。うるち米は小麦に比べて易しく手に入れることができたが、牛に入る材料が尊くて松餅は朝鮮末期までしても特別な日にだけ食べることができる貴重な料理だった。
 
《東国歳時記》で洪錫謨は8月だけでなく陰暦2月1日中和節にも松餅を食べたといった。この日から農作業が始まるので田舎の金持ちの家では奴婢に松餅を作って食べさせた。20世紀に入ってきてもその風俗は大きく変わらなかった。 ただし華僑が運営する中国食堂で色々なギョーザを味わうことができるようになって豚肉と鶏肉が入った宮中のオルムソピョンは消えた。 代わりに小豆、夜、ナツメなどが入った松餅が主人公になった。
 
1949年秋夕が公休日になって松餅は秋夕回に必ず上げなければならない名節料理と認識され始めた。ところで前で見たように朝鮮時代には松餅を秋夕にだけ食べなかった。ただし新米が出る秋夕に松餅がより一層引き立って見えただけだ。ところで料理が豊富になった今の時代に松餅はひたすら秋夕の時だけ食べる名節料理になってしまった。なぜであろうか?

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2016年12月21日水曜日

[食品人文学]薄黄色の花の間にぶらさがっている玉瓶で


2014/08/28

菜園の苽は水与えなくてもたくさん走るよ、薄黄花の間の葉は時々青い。 最も愛らしいのはツルが脚なくのびて行って高低の区別なく玉瓶ぶらさがるということだね。


この文は自らを‘詩琴酒三酷好先生’と称した高麗中期文人李奎報(李奎報、1168~1241)が作った。題名は‘苽’だ。李奎報が口ずさんだ‘苽’は色が玉と同じキュウリを示す。

ヨーロッパ ピクルスよりは韓国キュウリの塩漬け
  
中国ではキュウリを‘黄瓜’と呼ぶ。‘黄色い瓜’という意味だが、黄とは決してキュウリをまともに表現した名称でない。キュウリの色は緑色であるためだ。キュウリの原産地はインド半島の北部と推定されてキュウリが中国大陸に入ってきた時はシルクロードが開かれた漢の時代だ。蛮夷地域から入った瓜といって当時の人々はキュウリを胡瓜だと呼んだ。
 
ところで漢が滅びてできた後趙の第1代皇帝である石勒(石勒、274~333)は‘胡瓜’という名称に不満が多かった。石勒は本来匈奴族羯種の酋長息子だったためだ。一日は石勒が地方官院に会う食事席で‘胡瓜’で作った料理が出てきた。彼はこの材料を何と呼ぶかと尋ねた。非常に慌てた官員はあえて‘胡瓜’と言えず‘玉盤黄瓜’と答えた。玉で作った皿の上に胡瓜が含まれていなかったにもかかわらず、彼は玉色の胡瓜をこのように呼んだ。その時から中国の人々はキュウリを‘黄瓜’と呼び始めた。
 
キュウリは4~5月に畑に植えて6~8月に収穫する。だから夏に最も多く食べる野菜でもある。インド半島から東西に広まったキュウリはヨーロッパに行ってピクルス(Pickle)の代表になった。キュウリのピクルスを正確に表現すれば‘Pickled Cucumber’だがヨーロッパ人はそのまま‘ピクルス’と呼ぶ。それだけキュウリのピクルスをたくさん食べてしばしば使うためだ。

韓国にはオイジ(キュウリの塩漬け)がある。日帝強制占領期に活動した男性料理専門家・李用基(李用基、1870~1933年頃)は1924年に出版した《朝鮮無双新式料理製法》でキュウリの塩漬けを作る方法を次の通り書き留めた。

 

キュウリを洗わずにそのまま壷に入れるものの、層ごとに塩を振りかけてみな入れた後重い石で押さえておいて水を注ぐので水あるドンイに塩は置くものほど解いて沸かしておいて暑い時に器に注いで冷めた後にふたを伏せておくものだ、処暑が過ぎればまもなく食べるのだ。

 

真夏にキュウリの塩漬けを食べる贅沢
 
処暑は陽暦で8月23日頃だ。真夏がほとんど終わりの時期にキュウリの塩漬けを食べることができるという言葉だ。だから真夏にキュウリの塩漬けを食べることは難しい。朝鮮王中で最も長生きした英祖は夏になれば麦飯にコチュジャン、そして汁菹(ジュプジョ)で構成された食膳を好んで食べた。コチュジャンは漢陽に住んだ淳昌趙氏の趙宗溥自家製を最もおいしいと思った。汁菹は汁醤から取り出した‘キュウリの塩漬け’だ。汁醤は普通‘ジプ醤’とも呼ぶ。朝鮮末期の万物博士・李圭景(李圭景、1788~1856)からツプチョ作る方法を聞いてみよう。

おいしい醤あるどんぶりを必ずふるいにかけて不純物を除去して汁だけ取る。 ふすま4合をここに混ぜる。 別に青い외(キュウリ)をきれいに洗って麻布布切れでよく拭いて乾かす。 醤とふすまを互いに混ぜて壷に入れて馬糞肥料の中に埋めて14日ほどを置く。 でなければ草積み上げた山に埋めても大丈夫だ。


醤油とふすまを混ぜた後に青いキュウリを入れて14日ほど熱気を抱いている肥料の中に入れて熟成をさせた醤すなわち李圭景が話した夏汁醤だ。だから真夏に食べるキュウリ漬けは李用基が話したオイジより汁醤から取り出したオイジが適当だ。この汁醤オイジは塩辛いがふすまから出る濃厚な甘みと交わって塩にだけ漬けたオイジとは味の次元が違った。
 
だが、朝鮮末期の一般国民らが夏に汁醤を作ることは容易ではなかった。ふすまのためだった。冬に植えた小麦が陰暦6月15日流頭節前後に収穫されたが量があまり少なくて両班が一人占めしたりした。だから朝鮮末期一般国民らは真夏にキュウリの塩漬け食べるのが容易でなかった。それでもキュウリの塩漬けは貯蔵性が良くて20世紀以後次第に夏料理でしばしば食卓に上がってきた。
 
もう家でキュウリの塩漬けを作る人は珍しい。ほとんどの市場で買って食べる。それでこの頃人々がキュウリの塩漬けを処暑以後でない真夏に食べると思うようになったのだ。

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[食品人文学]保養の季節に食べる一品料理、ウナギ

2014/08/07

夏にはからだが削られるといって犬肉スープをたくさん飲むのに言ってみればからだを奉じようということではないのか。牛のスープも良く鶏肉も良いです。しかしウナギもなかなか良いことではないです。 消化不良がならないほど脂肪分を摂取する必要は確かにあるのです。ウナギは川の水と海水が合わさる近所で捉えたのを一番にあげることであるから川で捉えたのは黒くて海ウナギは赤色が少しあるのに川と海の間で捉えたのはうすい緑色がちょっと出ます。水溜りや小川で捕えたのは味がとてもガールになり、質素な味が減ります。
(中略)
ウナギは焼くのが一番おいしいが焼く方法にしたがってとても変わります。どじょうもウナギとともに夏魚では誰でも好きなのにその成分を比較してみればウナギは油が多くてどじょうは蛋白質が多いです。

 

長い夏、長い魚‘長魚’でからだ保身
 
この文は<毎日新報> 1939年7月28日者にのせられた‘栄養分多くてからだ奉じるウナギとどじょう、夏季の保養食で一番’という題名の記事内容だ。昔も今も汗たくさん流す真夏の暑さに食欲を増進させてからだを良くするためには保養食だけではなかったようだ。 上の文でも言及したように強制占領期にも犬肉のスープが最もありふれている保養食であったし、それからが牛のスープや鶏肉であった。だが、ウナギ焼きは特別な保養食だとこのように長く説明したのだ。しかしウナギ値が安くなくて、庶民はありふれているどじょうで保養をしろと薦めることさえした。
 
上の記事で話すウナギは淡水ウナギだ。ウナギの漢字は長魚だ。その長さが長くてこのような名前がついた。 朝鮮時代の人々は淡水ウナギでなくとも海ウナギも好きだった。 天主教を信じたという理由で今の全羅南道黒山島に島流しにされた丁若銓(丁若銓、1758 ~1816)は《茲山魚譜》で‘海鰻鱺’に対して“大きい奴は長さが十余字、形は蛇と同じだが大きさは短くて色は黒い。そもそも魚は水から出れば走ることができないか,この魚だけは唯一よく走る。 (中略)海鰻鱺には海大鱺,犬牙鱺,海細鱺の三種類がある”と書いた。
 
海大鱺は他の言葉で弸張魚,日本語では‘穴子、あなご’という。海大鱺を味わった丁若銓は“目が大きくて腹内が墨色でおいしい”とした。犬牙鱺は今の言葉でハモだ。丁若銓が“着た豚のように長い歯は犬のようで不均一ではない”とするほど歯が出るのが犬と似ていてこのような漢字語名前がついたわけだ。海細鱺は今人々が‘大ヒラメ’と呼ぶことなのに“長さは一字程度でからだは行って増えるの指のようで頭は指先と同じだ。 フォーを作れば良い”と紹介したことから見て名前についた‘細’は細い‘細’の字のようだ。
 
ウナギの国境ない無限変身
 
朝鮮時代の人々は海ウナギが蛇に似て好んで食べなかった。そうするうちに大韓帝国期に朝鮮沿岸にきて魚を調査した日本人が書いた資料では“朝鮮の南海岸と西海岸随所に海うなぎがたくさん棲息しても朝鮮人は捕えない”とした。“ひょっとして捕えても蛇に似ることを敬遠して日本人に渡した”と書いた。

丁若銓は“たとえ好んで食べなかったけれど味は甘くて下痢をする人に良くて主にお粥を沸かして食べた”とした。だから黒山島の人々は海ウナギを料理でなく薬と感じたのだ。朝鮮末期王の動静と国政を記録した日記である《日省録》ではこういう話が出てくる。

 

各地方で孝子(ヒョジャ)に指定してほしいと正祖に推薦した人物のうちには漢陽西部に住む黄沁がいた。彼の両親はキノコスープを誤って食べて中毒になって生死の境をさまよった。 特にお母さんの症状が深刻だった。色々な方法を使っても車道がないと議員を訪ねて行った。その議員は鰻魚を使えば利き目があると話したが当時は冬だと川に氷が凍って捕ることはできなかった。 幸いなことに近所の人から求めて召し上がるようにした。

 

日本人はウナギを‘うなぎ’と呼ぶ。特に海で淡水に上がってきたウナギを串にさして焼いたのが好きだった。最初から名前も‘うなぎ’を抜いてそのまま‘蒲焼’と呼ぶほどであった。
 
1949年10月9日ハングルの日を迎えてハングル学会ハングル専用促進会では倭色看板を直さなければならないと言いながら‘蒲焼’を‘ウナギ焼き’で提案した。それだけ植民地期にこの料理が朝鮮人の食欲をひきつけたようだ。
 
日本醤油の代表格であるキッコーマンの前身である野田醤油が18世紀に流行して‘うなぎ’料理に醤油をはじめとして色々な調味料が入った。20世紀になって弁当にご飯を入れてその上にうなぎ料理をのせた‘うな丼’が開発された。塩焼きである‘塩焼’とともに日本ウナギ料理の三種類の調理法が20世紀初期に完成された。
 
率直に話してこのごろ韓国社会で流行するウナギ焼きやヌタウナギ焼きとか、アナゴ焼きは全部植民地期日本人から習った食品、植民期後期の混種料理であるわけだ。

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[食品人文学]四六時中保養食、ユッケジャン!

2014/07/24


日帝強制占領期に‘大邱湯飯’という料理があった。名前だけみれば大邱人が好んで食べるクッパという意味だ。ところで当時ソウルでも結構人気を呼んだようだ。ソウルいろいろな所に大邱湯飯家があったという話だ。果たして大邱湯飯はどんな料理であったか?<別乾坤> 1929年12月1日付‘大邱の自慢大邱湯飯’という文が解答を与える。
 
“大邱湯飯の実名はユッケジャンだ。概して犬肉をした珍味で、補身之材が好きなことが一部朝鮮の人の通性だが特に南道地方の田舎では‘姻戚両班が来られれば犬を捕える’で、狗醤がなかなか大きい接待でない。この狗醤は嗜好性と犬肉を食べることができない人々の事情まで探り、または、このごろますます犬が珍しくなる兆しをのぞいて生じたのが、即ちユッケジャンとか簡単に言ってみれば牛肉を狗醤のように作ったものなのに仕様は大きく発展をして本土である大邱からソウルまで進出した。”上の主張が事実ならば、大邱湯飯は本来ユッケジャンを呼ぶ別名であっただろう。
 

牛肉狗醤、お客さんのための配慮
 
ケジャンは漢字で狗醤だ。犬肉をスープに解いて作ったためだ。現代の人々はポシンタンとかサチョルタンと呼ぶが本来名前は‘狗醤’だ。少なくとも1970年代以前までだけでも真夏三伏の暑さが固め打ちすれば全国どこでも狗醤を食べる習慣があった。
 
英・正祖時代に生きた柳得恭(柳得恭、1749~1807)はソウル風俗を書いた<京都雑志>で“狗醤を食べて汗を出すと暑さをはね除けて虚汗気勢を補充することができる”とした。だが、誰でも狗醤を好んで食べたのではない。朝鮮の人士のうち狗醤を食べる習慣を置いて不適当に思った人もいた。 英祖時の入れ墨であり慶尚道暗行御史で名をはせた李宗城(李宗城、1692~1759)は狗醤は人が食べる料理でないと考えた。三伏の暑さに李宗城のように狗醤を嫌うお客さんが家にくれば主婦は牛肉で狗醤を沸かすほかはなかった。
 
朝鮮時代の犬肉調理法は主に蒸すことだった。<京都雑誌>では“犬肉をネギの根元である蔥白と混ぜてゆっくり蒸す。鶏肉や竹の子を入れれば味がより一層良い。これを‘ク醤’だと呼ぶ”とした。ただし“こぶ局を煮て粉唐辛子をばらまいて白い米の飯を巻いて食べたりもする”ともしたので、18~19世紀狗醤の調理法は二種類だったということがわかる。“醤を解いて水をたくさん注いで沸かして切って入れた肉片が煮込んで解けるように沸かす。 葉を切らなかったネギをそのまま入れて油をさして胡椒を入れる。”
 
ユッケジャン調理法は1800年代末に書かれたとされる<閨壼要覧>で初めて登場した。先立って紹介した<別乾坤>の大邱湯飯作る方法と基本が同じだ。ただし胡椒の代わりに粉唐辛子を使ったのが違うだけだ。
 
それでも朝鮮末期に牛肉で作ったユッケジャンが狗醤よりさらに流行したのではない。朝鮮時代ずっと厳格に守られた牛禁政策は牛肉を食材料で思う存分使うように放置していなかった。当然ユッケジャンは狗醤よりはるかに高級料理だった。 甲午更張以後新しい政策が導入されて牛肉を合法的に食べることができるようになって、狗醤を嫌った人々ははじめてユッケジャンを簡単に食べることができるようになった。
 
ユッ‘狗(개)’醤を注文したがユッ‘ケ(계)’醤が出てきた?
 
1920年代以後ユッケジャンは当時出版された料理本に漏れなく紹介された。<東亜日報> 1939年7月8日付‘今晩にはこのようなおかずを’というコーナーでもユッケジャンを紹介したほどだ。
 
1930年代ユッケジャンは東京や大阪に進出した朝鮮飲食店でもプルコギとともにユッケジャンを売った程に独立的な人気メニュー隊列に名前を上げることになった。時間が流れてユッケジャンは狗醤とは全く違う料理になり始めた。狗醤が三伏の暑さに食べるなら、ユッケジャンは真冬の厳しい寒さに食べる料理になったのだ。<別乾坤>大邱湯飯記事の著者・車相瓚は“汁を先に飲んで、太いネギがふわりとふわりと浮かび上がって油がぽたぽた浮かび上がる高温スープに加え、ゴンの肉を手で適当に焼いた、ククスでもなくクッパでもない、舌が火傷をする程熱くて海苔がふわふわと浮び上がる真っ赤なスープに向き合って座ればまず唾をごくっと飲み込んで、いくら真冬の厳しい寒さに凍った顔でも自ずから解けて全身が溶けてうずうずする”とした。
 

1950年代以後狗醤販売禁止で真冬の厳しい寒さに食べたユッケジャンが三伏の暑さには狗醤に代わり始めた。この過程でユッケジャンは‘四六時中’いつも食べる韓国料理店の‘代表的なクッパ’になった。さらに料理研究者は鶏肉を利用して‘鶏醤’という料理も作り出した。このために食堂ではユッケジャンを売りながらも‘ユッケ(계)ジャン’と書いたりもする。
 
今日大邱人はユッケジャンよりは‘タロクッパ’をより好きだ。日帝強制占領期、大邱ユッケジャンと朝鮮戦争以後作られたタロクッパは外見は似ているように見えても別の料理だ。タロクッパは牛の赤身の肉を手で裂いて作らない。かえって慶尚道の人々が好んで食べる牛肉クッパにさらに近い。
 
明確にユッケジャンは狗醤から変移した料理だ。だが、狗醤は20世紀ずっと法的に、人間的にあらゆる虐待を受けて良くない料理の代名詞として残った。これに比べてユッケジャンは自身の誕生秘密を名前の中にそのまま大事に保管してもネギをふわりとふわりと抱いたまま、どんな虐待も受けないで今まで続いている。

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[食品人文学]高麗人参の歴史が参鶏湯の歴史だ


2014/07/11

参鶏湯はいつから韓国人の食卓に上がったのだろうか?参鶏湯を朝鮮時代文献でいくら探そうとしても探すことはできない。それなら主材料である高麗人参と鶏の淵源について先に調べるしかない。 知ってのとおり高麗人参は加工方式により大きく水蔘と白蔘、紅蔘に分かれる。水参は、乾燥させて多くの人参になるが、他の言葉で生蔘とも呼ぶ。 水参は水気が消えれば腐るので人参畑から掘り出た水参は普通10°C程度で10日しか保管できない。だから高麗人参を永らく保管するためには白参や紅参に加工しなければならない。
 
 白熟(水炊き)は白参粉で煮たダルグクだ  

白参は普通4年の間栽培した生参の皮を剥いだ後天日で干して作る。その色が赤いといって名前がつけた紅参は普通6年の間栽培した生参をきれいに洗って水蒸気で蒸して出したのを熱風で乾かした後水分が12.5~13.5%程度残るように天日で干して作る。紅参は高麗人参を永らく保管するために開発された結果だ。
 
白参は高麗時代以来中国と日本に輸出した名産品だった。だが、紅参は1810年頃に紅参を加工する蒸包所が開城に設置された程に遅く開発された加工法だ。だから朝鮮時代一部階層が食べた高麗人参は白参を細かくひいた白参粉だったのだ。

鶏を捕まえて内蔵を抜いて足と翼の端と頭を切ってしまい腹の中にもち米3匙と人参粉1匙を入れてあふれないように束ねた後に水を十譜時期ぐらい注いで煮る。

植民地時代、最高のベストセラーであった方信栄の1917年版《朝鮮料理製法》に登場した白参粉を利用したダルグク調理法だ。ところで1942年版《朝鮮料理製法》ではダルグクが‘白熟’という名前に変わった。その調理法は1917年版とほとんど同じだが最後の部分に“水を十譜時期ぐらい注いで沸かしてハンポ時期ぐらい作って塩辛くて墨出るのだ”という内容が添加された。白参粉を入れて沸かした白熟のスープを組んで薬のように食べるという情報だ。
 
高麗人参から始まった参鶏湯に対する誤解  

人々はよく参鶏湯が朝鮮時代からあったと考える。1987年8月主な日刊紙にこのような内容の消化剤広告がのせられた。“よく知っていることと違い参鶏湯の本来名前は鶏蔘湯です。柳得恭の《京都雑誌》、金邁淳の《洌陽歲時記》、洪錫護の《東国歳時記》などには鶏参湯に対する記録があまねく現れています。また、韓国語辞典にも鶏参湯を‘幼い初物の鶏の内蔵を抜いて高麗人参を入れた漢方薬’と解説していて参鶏湯という単語は参照できないです。”だが、広告文句には致命的誤りがある。この広告で根拠に掲げた《京都雑誌》、《洌陽歳時記》、《東国歳時記》をいくら探しても鶏参湯という料理はそのどこにも出てこない。 さらに朝鮮時代の数少ない料理本にも鶏参湯はもちろん参鶏湯という料理は登場しない。それにもかかわらず、なぜこのような認識ができたのだろうか?その理由はまさに‘高麗人参’ためだ。

ダルグクと白熟に高麗人参を入れると?  

前述したように日帝強制占領期にダルグクや白熟に入る高麗人参は白参粉であった。しかし1960年代以後からは参鶏湯に白参の代わりに生参を入れ始めた。この時から冷蔵庫が普遍化して生参が全国的に流通し始めたためだ。高麗人参生産と流通で今でも有名な忠清南道錦山は6.25動乱以後南北が分断されて韓国の代表的な高麗人参市場として地位を確立した。
 
そちらの年配の商人の話によれば1960年を前後して錦山邑の金星橋の近くには20余号の生参販売店があったという。 1966年になれば錦山市場に生参だけを専門で販売するチャンオクが席を占めたし1973年には最初から牛市場が立つ席に生参市場が入った。1960年代、生参の普及が円滑になりながらソウルを中心に白熟を売った食堂が名前を参鶏湯に変えて売り始めた。 真夏蒸し暑さを避けてソウル洗剣亭遊園地や纛島遊園地に避暑に行った家族は参鶏湯を飲んで暑さを冷ました。 さらに1973年になれば国内のある食品会社は缶詰めに参鶏湯を入れて東南アジアに輸出までした。 結局20世紀以後粘り強く進行された国家の養鶏業振興と高麗人参栽培拡散が1960年代以後参鶏湯を専門食堂で販売される料理として作った原因になった。
 
参鶏湯は本来ダルグクと白熟から進化した料理だ。ここに高麗人参を入れて保養効果がより増して名実共に参鶏湯は夏保養食の代名詞で位置づけることになったのだ。だが、その歴史はそれほど古くないことを分かる。

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[食品人文学]伏日、民魚汁で祝杯を上げろ

2014/07/04

《青荘館全書》という本を書いた朝鮮末期学者李徳懋(李徳懋、1741~1793)は‘鰵魚’という言葉の由来を次の通り書いた。

 

鮸魚はすなわち鰵魚だ。鮸と民の発音は若干似ていて鰵と民の発音は最も似ている。概してこういうものの物名は朝鮮言葉を使わないで中国語の発音を使う。だから単に字だけ同じというのではない。


このごろ中国語では‘鰵’を鱈と見るが昔中国語では鰵魚を意味した。だから昔も今も韓国語‘鰵魚’という話は決して民の魚だとして付けられた名前ではない。それよりは李徳懋が述べたように中国古典に出てくる鰵魚の中国語発音を朝鮮式で書いたに過ぎない。

ご飯食べる時手が先に行く鰵魚

鰵魚は水深40~120mの干潟底に棲息する。昼間には底で、夜には水面上で生活して韓国、日本南部、東シナ海などで育つ。秋から冬の間には済州島近海で過ごすが春になれば北に移動して7月で9月間に江華島近海で産卵する。李応禧(李応禧、1579~1651)は彼の文集《玉潭私集》で‘鰵魚’という題名の一時を作って残した。

 

口が大きくてスズキと似ていたが、うろこはスズキより少し大きいよ、肉は非常に豊かで食べるのに良くて、腸は琴と琵琶の列のように奇異にこんがらがったよ、釜に入れて沸かせば湯の味が申し分なく良いね、刺身にして皿に上げることはふさわしくないね、天日で干したのを見るつもりならば、ご飯食べる時手が先に行くよ。


この詩から推察して李応禧が生きた17世紀には鰵魚を湯に煮て食べる方法が最もありふれていたし次に干して食べたことを確認することができる。丁若銓(丁若銓、1758~1816)は《茲山魚譜》で鰵魚を‘味は淡々として良い。生でも熟成したものも全部良くて干したものはより一層からだに良い’と書いた。 丁若銓も李応禧と同じように鰵魚を干して食べるのが最も良いといった。
 
腹を切って塩漬けにして干した雌鰵魚を‘アムチ’という。夏に鰵魚を仁川や江華島近海で捉えてもそれをこのごろのように直ちに刺身で食べることはふさわしくなかった。漁村では可能だったが真夏には捉えた鰵魚を陸地に移す過程で傷んでしまったためだ。

漢陽の人々に鰵魚の値を適切にして売ろうとするなら塩漬けにした後、干して販売することが最も良い方法だった。他の魚と違い鰵魚を塩漬けにして干す理由は肉が大きくて肉がよく潰れてしまうためだ。塩で肉をやや固くしてから干した鰵魚のコシが強いことは石魚に次いだ。 さらに食欲ない夏に干した鰵魚を食卓に上げれば李応禧の話のように‘ご飯食べる時手が先に’行くほかはなかった。
 
日帝強制占領期は鰵魚の品薄現象が?

そのような事情は強制占領期にも相変わらずだった。<毎日新報> 1936年8月26日付では当時の商品市況を紹介して干鱈の次に干し鰵魚を紹介したが記事の小題目は‘乾民魚品貴’であった。このように干した鰵魚が人気を集めた理由は冷蔵流通システムが導入されなかったためだ。 それでもかろうじて生ものを求めれば朝鮮時代漢陽の人々は湯を沸かして食べた。
 
強制占領期、男性料理専門家・李用基は彼の本《朝鮮無双新式料理製法》(1924年)で民魚汁を作る方法を次の通り書いた。

 

カボチャの出る時が脂がのっておいしいが、その時に会うことができずに食べようとするなら、すまし汁を沸かして切り身にしたのを入れて煮て食べる。


この言葉から推し量ってカボチャが開かれる夏には民魚の刺身を食べたが、そうでない時はすまし汁で民魚汁を沸かすことが最も良いということがわかる。
 
民魚汁、伏日の保養食として浮上する

李用基とともに強制占領期・男性料理専門家で双壁を成し遂げた洪善杓は民魚汁を最初から伏日に食べる料理といった。

 

伏日に犬のスープと小豆粥を炊けば家が一年ずっと平安であるし、伏日に濯足をすれば脚が元気だという。民魚汁にカボチャを入れてコチュジャンで煮て食べたり、ミヨックッ(わかめスープ)に小麦粉を入れてスジェビ(すいとん)も作ったりもする。農家では稲穂が一言ずつできて三伏が過ぎれば三節ができるが、成熟期を催促する関係上伏日を心から待つ。それだけでなく伏日ごとにやりがいがある料理娯楽祝杯を上げることになることだ。

<東亜日報> 1937年7月9日付


1970年代以後冷蔵システムが大衆化して新鮮な鰵魚が内陸で流通し始めて最近では民魚汁が新しい伏日料理に浮上しているのだ。

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[食品人文学]議政府ノルブも惚れた部隊チゲ

2014/06/26
 
議政府は最も広く知られた部隊チゲの発祥地だ。1950年代議政府米軍部隊から出た缶詰のハムやソーセージを炒めた料理がチゲに変わったという主張だ。ところでこの部隊チゲの前身でクルクリ粥を掲げる人々が多い。クルクリ粥は米軍部隊で捨てた生ゴミを煮たお粥をいう。 その名前に‘クルクリ’がついた理由は本来このゴミが豚の飼料用だったためだ。6・25動乱以後韓国都市周辺に定着した米軍部隊で捨てた生ゴミが豚飼育場に行かなくて部隊近くの人々に行った。それを可能にした人々は米軍部隊台所で補助仕事をする韓国人だった。 彼らに米軍部隊の生ゴミはお金になったし、買って食べる人には食事になった。

クルクリ粥=国連湯=ジョンソン湯
 
ソウル漢江のほとりの二村洞一帯、今は最高級アパートが位置するところだが6・25動乱が終わった1950年代中盤からクルクリ粥がすごい人気を享受したところだ。 北側の避難民はもちろん慶尚道と全羅道の農村でむやみにソウルに上がってきた人々がこちらでテントを張って生きたし料理は浅はかなことこの上なかった。 幸い近くに米軍部隊があってクルクリ粥を買って食事を解決することができた。だが、当時にはクルクリ粥だと呼ばないで‘国連湯’だと呼んだ。最後の自尊心のようなものだった。
 
クルクリ粥は全国各地の米軍部隊駐屯地近所で人気であった。お腹を満たすことがなかった時期、米軍が食べて捨てた缶詰ハムは非常に便利な食事であった。値も安くていっぱい入れたクルクリ粥の土鍋が1960年代10換に過ぎなかった。今とすれば僅かな金500ウォンだ。 1961年2月19日付<京郷新聞>には当時韓国外国語大学で英語を教えたアメリカ人ブライアン・ウィルソンが書いたコラムが出てくる。コラムの題名は‘私たち皆罪を犯している’.彼は韓国人学生たちに米軍部隊の生ゴミで作ったクルクリ粥を貧しい人々が買って食べるという話を聞いて非常に憤慨した。 1966年5月リンドン・ジョンソン(Lyndon Baines Johnson)アメリカ大統領がソウルにきた。政府がアメリカ大統領訪韓をあまりにも宣伝したために人々はクルクリ粥を国連湯という名前の代わりにジョンソン大統領の名前を付けて‘ジョンソン湯’と歌い始めた。

缶詰ハム、部隊チゲ立役者!

それなら本当に部隊チゲはクルクリ粥あるいは国連湯あるいはジョンソン湯が進化したことだろうか?部隊チゲの材料を確認してみよう。部隊チゲを部隊チゲらしく作る材料は缶詰のハムとソーセージそして缶詰の豆だ。ここに白菜キムチとコチュジャンが入れば基本的な部隊チゲだ。あらゆる生ゴミにご飯を少し入れて沸かしたクルクリ粥と部隊チゲは決して同じ料理でない。 チゲはお粥や湯とは厳格に違う。 本来湯や汁は、スープが多くて具が少ない料理だ。これに対し比べてチゲはヤンニョムも多くて具も多い。また少なく沸かしてこそチゲとなる。
 
日帝強制占領期間に朝鮮人が最も好んで食べたチゲはテンジャンチゲであった。1930年代白菜生産量が増加してキムチチゲもできた。キムチチゲは日が進むにつれ人気を得て1950年代後半最も庶民的な料理として地位を確立した。 ただし豚肉をたくさん入れればいやな臭いが出たりしたが、米軍部隊近所で豚肉の代わりに缶詰ハムを入れて作ったキムチチゲではいやな臭いが出なかった。
 
ベトナム戦争に参戦した韓国軍人にもキムチチゲは戦闘に出る前に力を与える料理だった。だが、ベトナムで白菜キムチを求めることは夢のまた夢。1966年9月今のカトリック大学医大チームがキムチ缶詰めを開発してベトナム戦に参戦した韓国軍人に提供した。白菜キムチを缶詰めに入れて63度で30分間加熱した後コバルト60という放射線を当てる方法だった。このようにさせたキムチ缶詰めは2ヶ月が過ぎても変質しなかったけれど味はキムチチゲのキムチであった。
 
この頃ベトナムでは米軍の戦闘食糧であるCレーション(C-ration)に入れられた缶詰ハムとキムチ缶詰の白菜キムチが出会って部隊チゲと似た料理が作られることもした。それでも議政府で名が知られた部隊チゲがこのような過程を通じて出たと断定するのは難しい。
 
1963年韓国にインスタント ラーメンが登場して部隊チゲは派手な変身を迎えた。1970年代以後インスタント ラーメンは部隊チゲから抜いておくことはできない材料になった。ハムは相変らず米軍部隊で流れ出た缶詰ハムが部隊チゲの主人役割をした。1990年代初期、部隊チゲは米軍部隊近所を超えて全国に広まった。 我が国でも豚赤身だけで作った缶詰ハムとソーセージを売り始めたためだ。今になってようやく部隊チゲの全盛時代が開かれたのだ。


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[食品人文学]ひき臼で咲いた夏珍味、コングクス

2014/06/12


日帝強制占領期に非常に珍しかった女性記者の1人である<東亜日報>崔義順(崔義順、1904~1969)は1933年6月11日付新聞に次のような文を書いた。


焼けるような日差しに汗流して訪れてくるお客さんのためにこの季節に何か特別な料理があるだろうか。豆を煮て取り替えつつ豆乳を作って小麦をこねて麺を作って氷入れて豆乳ククスでも作って差し上げなくちゃ。


真夏ククスコンビの活躍
 
1924年に李用基が出した《朝鮮新式無双料理製法》でその調理法が出てくる。だが、料理の名前は決してコングクスではない。そのまま‘豆乳콩국’と書いた。“豆乳は太い豆をゆでてひき臼で挽いて纏帶で絞って氷一個浮かして食べれば味が香ばしくてすがすがしいのだ”とした。ククスが入らなかった豆乳だ。
 
ところが、李用基はあたかも豆乳と練り胡麻が一兄弟でもなるように豆乳の次に引き続き練り胡麻を作る方法を書き留めた。このような事情は19世紀末あるいは20世紀初期に使われたと推定される《是議全書・飲食方文》にもそのまま現れる。さらにこの本では‘練り胡麻ククス’、‘豆乳ククス’といって最初から豆乳でも練り胡麻でもなくて、ククスに傍点を置いた。
 
“練り胡麻を炒める方法は練り胡麻を水に混ぜて擦ってふるいで濾して塩乗って味付けをして小麦粉麺のほか上に野菜と鞭打ったことのせることはウッポプと同じなのだ。” ここで‘ウッポプ’は練り胡麻ククスの前に出てきた小麦粉麺調理法を示す。小麦粉麺はカボチャを鞭打って炒めて卵を薄く送ってイワタケと唐辛子も鞭打って高名にのせた。だから‘練り胡麻ククス’もこのようにしたようだ。 それからが豆乳ククスだ。“豆乳は豆を漬けてふやかしてさっと湯がいていくふるいで濾して塩乗って味付けをして小麦粉麺のほかトッピングで練り胡麻と一緒にして凍ったので”とした。前で調べた強制占領期にコングクス作る方法と違い氷も入らなかった。事実当時だけでも練り胡麻ククスが豆乳ククスより高級だった。なぜならゴマが豆に比べて高かったためだ。 だが、李用基は豆乳を練り胡麻の前に書いてその順序を変えた。1931年<東亜日報>記事でもそうした。それだけ1920年代以後豆乳ククスが練り胡麻ククスよりも大衆的であったのを傍証してくれる。ここに氷まで入るので氷コングクスが1920年代にはじめて完成されたわけだ。
 
焼け付く喉の渇きには冷たいコングクス

朝鮮時代、氷は冬に川で凍ったのを採取して各地域の石氷庫に保存しておかなければならない夏に食べることができる貴重な料理だった。 それだけ尊かったために王室と地方官衙で直接石氷庫を管理した。 1894年甲午改革が断行されて礼曹で引き受けた石氷庫管理業務は廃止された。 すると同年陰暦12月31日に李昶という人が円満会社をたてて既存の石氷庫業務を事業化した。
 
1913年ソウルには京城天然氷会社と朝鮮天然氷会社が設立された。‘天然氷’という名前でも分かるように二つの会社では人材と機械を使って冬に漢江で氷を掘って保管して夏に販売した。1920年代二つの会社が冬に採取した氷は天気により変化があったりしたが約2万トンから4万トンに達した。だから1920年代以後ソウルの人はこの氷を利用してコングクスを冷たく食べることができた。<毎日新報> 1930年8月24日付に黄海道延白に住む張奎英という人が‘豆乳と小麦粉麺’という文を投稿した。“小麦粉麺を直接作って冷水に2回ほど洗った次に豆を釜で茹でてひき臼で挽いた後冷水と合わせて細かい篩にかけた後小麦粉麺を浸して食べること”といった。この冷水やはり真夏に氷を買って作ったのだ。田舎の人がどれくらい珍しかったら新聞に投稿までしただろうか。
  
白い汁に真っ赤なトマト
 
コングクスにトマトが入った時はこれよりしばらく後である1970年代初期からだ。トマトは夏に収穫する野菜としてちょうど当時に国内でトマト栽培が活発になったしトマトの利用法が広く紹介されて、キュウリとともにトマトはコングクスになくてはならない高名になった。ここに政府が広げた混粉食奨励運動おかげで工場で生産した小麦粉麺が安値に供給された。
 
1974年から家庭用電気ミキサーが普及した点もコングクス流行の歴史で抜かすことはできない事件だった。ひき臼で挽いて細かい篩や布巾で濾して豆乳を作った方式と違い電気ミキサーはあっという間に豆乳を作り出した。便利さと共に電気ミキサーはとても細かくすり砕いてあえて滓を取り除く必要もなくしてくれた。 便利性と濃い味が真夏になると人々の食欲をそそった。豆乳に小麦粉麺を入れてかき氷機で細かくすり砕いた氷を山盛りにしたコングクスは中国食堂や粉食店や韓国料理区別なく真っ赤な垂れ幕を掲げて人々を誘惑した。だが忘れてはいけない事実もある。
 
コングクスの流行時点に合わせて韓国人は自ら栽培した豆でない異国で育った豆で作った豆乳を食べ始めた。それでもコングクスを恨んではいけない。檀君以来最も豊かに米飯を食べることになって豆畑を追い出したのにその原因があるためだから。

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[食品人文学]元祖トッポッキ戦争の終止符

2014/05/30

韓国学中央研究院蔵書閣には高宗の時代の古文献がたくさん保管されている。特に高級寒地巻物に各種目録を書き込んだ跋記というものがあるのにその中に‘トッチム’という料理が記されている。だが、不幸にも文書には皇室にあげた料理の名前があるだけで作る方法は出ていない。果たしてトッチムはどんな料理であったか?

国民トッポッキの起源は宮中

手がかりは1964年1月14日に金修徳がこの世を去ったという報道記事で探すことができる。金修徳は1962年1月26日日本からソウルに戻った徳恵翁主のためにトッポッキを作ったと知られている。この時期高宗をはじめとする大韓帝国の皇族が食べたトッチムはトッポッキである可能性が高い。 ほぼ同じ時期の《是議全書》 《飲食方文》という本には“他の蒸し物(チム)と一緒のようにしますが、うまくいったモチをタンムのように切って少しの間炒めて使う。蒸し物(チム)材料みな入れて、ガルジュプだけいや入れナニラ”と調理法が出てくる。ここでガルジュプは小麦粉汁を示す。この本に出てくる蒸し物(チム)材料は標高、ソクのようなキノコはもちろんで醤油をはじめとして各種のヤンニョムも入った。 だが、コチュジャンは入らなかった。
   
これと似た調理法は1924年李用基が書いた《朝鮮無双新式料理製法》にも出てくる。

よく作ったモチを七分の長さぐらいかなり切ってそれぞれ二つに分けて熱い湯に入れて料理に取り出して水を抜いて、つかないように油を少しうってあえておいて精肉と量牛胃と精肉を色々な高名でそれぞれもんで炒めてシイタケ、ソクが、房、ネギ、セリ、首が、硫化を鞭打って色々な高名で炒める。 (中略)雌牛カルビもゆでて破っておいて宿主も上下を取って入れたりカボチャやカボチャ固持を置くことが非常に良いのだ。

このごろ簡単に買って食べることができるコチュジャントッポッキとは違った調理法だ。王室では正月でないにしても餅を用意できたが、庶民はそうでなかった。冬の間よく保管しておいたうるち米で作った餅で韓国式お雑煮を作って正月回上に上げた。トッポッキは雑煮を作って食べた残りの餅で作ったのであり、庶民が頻繁に煮て食べるのは難しかっただろう。 
 
肉の代わりに値段が安いコチュジャンとかまぼこを  

大韓帝国が滅びてトッポッキの正体を知っている人が次第に増えた。日帝強制占領期間に出版された料理の本のうちトッポッキが抜けている本はない。さらに新聞でも正月に作る珍味でトッポッキ調理法を紹介したほどだ。
 
この時期状態が少し良かった人々は米飯を非常にたくさん食べた。だから全季節餅を作る事もでき餅屋でもたくさん売った。おかげで餅にあらゆる材料が入ったトッポッキはソウル金持ちの間で祝宴や名節料理で人気を享受した。だが貧しいソウルの人には絵に描いた餅だった。
 
6・25動乱以後米が不足して餅を求めることは空の星を運ぶ位に難しくなった。 ちょうどアメリカが無料小麦粉を大量で支援した。 また、政府が粉食が米飯より良いという運動を大々的に実施して1960年代以後餅屋では小麦粉にエゴマ粉を混ぜて販売し始めた。
 
小麦粉とエゴマ粉を混ぜて作った餅に牛肉を入れることができない代わりに工場で生産する値段が安いコチュジャンを入れた。コチュジャンはスベスベした小麦餅とかなりよく似合った。コチュジャントッポッキを売る人々は肉味がこの上なく残念だった。それで日本人商売人が残していった値段が安いかまぼこを入れた。辛い味も減らし肉味もポテン計算だった。

今や‘グローバル’庶民料理  

すでにコチュジャントッポッキは高級料理ではなかった。6・25動乱以後市場近所と繁華街に席を占めた屋台で販売する‘庶民料理’だった。1960年代初期コチュジャントッポッキがトッポッキの主のふりをしようと元祖トッポッキは‘白いトッポッキ’という名前を得た。また、德恵翁主が食べたといって‘宮廷トッポッキ’というニックネームもついた。 さらに1970年代になれば宮廷トッポッキは‘固有食品’でありコチュジャントッポッキは不良食品と認識され始める。
 
それでも1990年代豊かさの時代をすぎてコチュジャントッポッキは進化を繰り返して日本人にも多くの人気を得ている。 大韓帝国最後の翁主で、日本人と結婚と離婚を強制的にされた德恵翁主がこのごろ真っ赤なトッポッキをおいしく食べるソウル北村の日本人観光客を見ればどんな考えをしようか?

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[食品人文学]本来冷麺は冬が本来の味だが…

2014/05/16

平壌冷麺、ヘジュ冷麺の次にソウル冷麺を指を数える程もうソウル冷麺が冷麺軸で公然に一役買うのを見ることになりました。しかしソウル冷麺はいわば平壌冷麺の延長に過ぎません。難しいソウルの人の味覚を征服しようと平壌冷麺を売った商人が一流の技術者を連れて京城に進出し始めてもう固い地盤を積み上げました。 夏の季節さらには各官庁の昼休み裏面は冷麺家の受話器では火を吹く状況です。

1936年7月23日付の<毎日新報>に掲載された‘冷麺’の記事だ。
 
白雪の舞う冬日の珍味

本来冷麺は冬に食べる料理だった。前の<毎日新報>冷麺記事の最後でもこの点をのがさない。
 

“夏冷麺はすっきりした味に多く食べるけれど本当に冷麺らしい冷麺を味わうには冬冷麺が一番です。すっきりしたトンチミ汁だけのトンチミ冷麺こそ一度食べれば人柄が表れてしまうあきれた料理です。寒い冬日に冷たい冷麺の味も格別であることであり香ばしくて暖かいククス水の味また格別なのです。”

 

平安道出身でフランス留学に行ってきた李晶燮は自身が外国にある時最も多く思い出した料理にキムチとカルビ焼き、そして冷麺を挙げた。
“同志師走白雪がひらひら舞えばオンドルを焼けるように温かくして3~4人の友人が互いに座ってカルビ焼いて食べることや冷麺を持ち寄ったりするのもとても懐かしかった(<別乾坤> 1928月5月1日時).
 
雪が降る外の風景と焼けるように暑い部屋のオンドル、そしてそちらでこのシリン冷麺を食べる姿が鮮やかに目に浮かぶ。 事実冷麺が‘冷たいククス’になるには氷が必要だ。朝鮮時代王室でも冬にドーンドーン凍った漢江で氷を離して東氷庫と西氷庫に保存しておいて食べた。 だが、陰暦5月5日端午の頃になればこちらの氷も跡形もなくなってしまう。しまいには、王が最後に残った氷を寵愛する臣下に分けてやる行事を行ったのだろうか?
  
氷ドンドン~夏冷麺の誕生秘話
 
1910年代になると人々は夏に冷麺を探し始めた。冷麺の変身には近代的製氷技術と冬に掘り出した氷を夏まで保管する冷蔵施設の誕生が決定的な役割を果たした。大韓帝国度支部は1909年釜山港に製氷工場をたてた。だが、運営費がなくて日本人水産会社に移った彼らは済物浦と原産、群山などの地にも製氷工場をたてた。 本来これら製氷工場は魚に氷を満たして永らく流通するのに必要な施設であったのにその値が安いものではなかった。すると古くなった採氷方式が冷蔵施設と連結された。冬に漢江と貯水池などが凍ればそれを掘って保管する工場が入ったのだ。電気が充分でなかった当時の製氷工場も冬に掘り出た氷を保管する方式で運営された。
 
1913年4月、列車の中で冷たい飲物を提供するために日本人が龍山第1鉄道近くに製氷工場を建てた(<毎日新報> 1913年4月6日 時).こうなると、1910年中盤以後夏なら京城には間違いなく氷水店が常設店舗や屋台形態で路上に定着し始めた。もちろん冷麺家人気もすごかった。

夏冷麺食べようか? 冬冷麺食べようか?

実際に1920年代末、ソウル清渓川北側には40ヶ所余りを越える冷麺屋があったが通常のレストランと違う姿があった。冷麺屋では看板のそばに長い棒を空高く挿しておいてその先には長く伸びた紙束が飛び散るようにした。紙束が風に揺れる姿があたかも製麺機の穴からちょうど押し出されるソバタレに似ていた。その当時、鍾路には高い建物があまりなくて電車からおりて北岳山側を見上げてみると、この紙束が即座に目についた。真夏の炎天下、紙束の靡く姿を見るだけでソウルの人々は冷麺を考えて前後を問わず歩みを冷麺屋へ向かった。これも夏冷麺誕生の秘密だ。
 
それでも冷麺味は真冬に味わってこそ適当だ。茶山・丁若鏞(丁若鏞、1762~1836)先生も真冬黄海道で味わった冷麺味を忘れることができなくて次のような詩を詠じた。

十月に入って西関にした者かなり雪積もればドアに二重に幕を張ってふんわりとした毛布を床に敷いてお客さんをつかんでは、新鮮な形のチェンゲビにノロジカの肉を薄く切って焼いて、長く選んだ冷麺に白菜漬物を添えるよ。


冷麺が夏料理という固定観念は忘れなさい。冬冷麺を味わう今年の冬がすでに待たれる。


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[食品人文学]その頃私たちが愛した料理、トンカツの大韓海峡往来記

2014/05/02

トンカツは日本料理だが初めから日本料理ではなかった。韓国語‘トンカツ’は日本語‘トンカツ’からきた。トンカツの‘トン’は豚を意味する漢字語豚の日本語音だ。‘カツ’はフランス料理である‘コットレット(Cotelette)’の日本語‘カツレツ’前二つの発音からきた。だからトンカツの誕生にはコットレットという料理が位置している。
 
コットレットは小牛や羊、豚骨についたロースとヒレ形態で切った肉を示すコート(Cote)に塩とコショウをかけた後小麦粉、卵黄、パン粉で覆ってバターを塗って両面が茶色になるべく焼いた料理だ。英語では‘カツレツ(Cutlet)’と呼ぶ。
 
ウスターソースとポークカツレツの幻想相性

江戸時代だけでも幕府では仏教を前に出して牛肉と豚肉食べるのを禁止した。1868年明治維新を通じて開国した日本は1872年天皇が直接牛肉を食べる試食会を披露して国民に牛肉と豚肉を食べるように許諾した。西洋を習うと施行した明治維新以後日本知識人が広げた肉食礼賛はすごかった。 当然東京と大阪に西洋人レストランが入った時もその頃だった。 かと言って日本人が即座に肉食料理をなじむように食べたのではない。

トンカツは肉食解禁以後23年が過ぎた1895年に誕生した。東京でお金が最も多く集まる銀座にドアを開けた‘煉瓦亭’という西洋レストランで誕生した。事実が飲食店主人とコック長は日本人だった。当時メニューの名前は‘ポークカツレツ’、すなわち豚肉で作ったカツレツという意だ。 このメニューが初めて登場した時は人気を享受することができなかった。 その理由はテミグラスソースのためだった。 肉と野菜を炒めた後にスープとトマトピューレ(Puree)を入れて沸かして作ったこのソースは日本人の口に合わなかった。
 
それでできたソースがすぐにウスターソース、すなわちトンカツソースだ。日本醤油を基本で作ったウスターソースはキャベツを細かく切って入れた野菜とともに日本式ポークカツレツを作るのに決定的寄与をした。 1929年東京、上野にあった‘ポンチ軒’という食堂料理人島田信二郎は分厚い豚肉に厚いパン粉で覆って揚げたポークカツレツに‘トンカツ’という名前を付けた。

モダンボーイ・モダンガール食欲ひきつけた「ポークカツレツ」

カツレツの日本式料理であるカツレツを韓半島に初めて登場した時は1883年陰暦7月23日.現在のソウル憲法裁判所の場所にあった統理機務衙門で朝日修好條規締結を記念するパーティーが開かれた。統理機務衙門は今の外交通商部に該当する部署であり当時西洋人を接待するために雇用した日本人コック長が作ったメニューがすぐにカツレツだ. その後日本人が今のソウル明洞と忠武路一帯に席を占めてポークカツレツも彼らが運営した和洋飲食店で販売された。
 
それでも1900年代朝鮮人の間でポークカツレツが相当な反響を受けたのではない。1930年代にもなってモダンボーイ・モダンガール間で‘ポークカツレツ’という名前で広く知られることになった。 1939年9月13日付<東亜日報>で料理研究者趙慈鎬(趙慈鎬、1912~1976)は‘今晩にはこのようなおかず’というコラムで‘ポークカツレツ’作る方法を紹介した。材料は豚肉、卵、小麦粉、パン粉、揚げ油、塩、さつまいもを挙げた。キャベツが韓半島にまだ広く栽培されなかったためにさつまいもがその場に代わった。 さらに天ぷら油も不足したので趙慈鎬は“油はゴマ油もチョフムニだ”と別に書いておいた。

トンカツかとんかつか、‘トンカツ’の本当の源は?

解放以後トンカツは韓国レストランで‘とんかつ’という名前で販売され始めた。1951年12月2日付<東亜日報>では“とんかつを場クッパや冷麺と共に一般料理に分類してその値がビビンバより500換が高い2,500換”といった。すでに韓国人にトンカツは一食食事で十分な大衆料理として位置を確立したのだ。 もちろん正しくなされたトンカツを食べるためには別名‘洋食レストラン’という所を探さなければならなかった。
 
1980年代後半以後トンカツが冷凍食品で販売されて粉食店でもトンカツを食べることができるようになった。 工場製トンカツが流行した1990年代から人々はかえって手製トンカツを探し始めたし、1990年代後半以後日本生活経験が多い20代が増加して再び‘日本正統式トンカツ’が韓半島に入ってきた。 そのためか1980年代に生まれた韓国人はトンカツを日本料理‘トンカツ’で理解している。 たとえ彼らのお父さんとお母さんは相変らずトンカツを洋食だと感じているが。

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[食品人文学]キムパブ、キムサムそしてカリフォルニアロール

2014/04/04

今日キムパブに抜けてはいけない材料は‘黄大根’あるいは‘たくあん’で知らされた日本のつけもの(漬物)たくあんづけ(沢庵漬け)だ。キムパプを巻く時これを長く切って一緒に入れてこそ真のキムパプになる。ところでこのキムパプは日本料理であるのり巻き寿司(海苔巻寿司)と縁が深い。 のり巻き寿司の調理法が韓半島に知らされた時はおそらく19世紀末の後日本人がソウルに大挙居住し始めてからだ。
 
その調理法は京城女師範学校の家事研究会が出した《割烹研究》(1937)という本で初めて紹介される。この本の20~21ページにはちらしずし(散らし寿司)とともにのり巻き寿司調理法が載っている。それからページには図で6段階にわたるのり巻き寿司しまう方法を描いておいた。

海苔、紙切れのように作った海衣

朝鮮時代文献では海苔を海衣あるいは海苔だと書いた。丁若鏞(丁若鏞、1762~1836)は《経世遺表》 14冊で“通称(俗名)はヘテ(海衣)と呼んで方言は진(眹)だと呼ぶ。青苔もあるがたいてい類似したもので5~6種もある”とした。事実ここで‘진’は‘짐(朕)’の仮借字だ。 本来人々は‘짐’と呼んだが王が自らを呼ぶ言葉である‘짐’を漢字で書くのにふさわしくなくて丁若鏞が‘眹(진)’と書いた。この‘짐’が以後‘김(キム)’という発音に変わって今日に至ったのだ。
 
キム(海苔)がどのようにできたかに対しては李瀷(李瀷、1681~1763)が《星湖僿說》で明らかにした。 ヘテを取って紙のように作品を作ったものといった。 この紙切れのようなキムを朝鮮時代の人々がどのように食べたのかは知る術がない。 おそらく海苔にゴマ油を塗って塩を振りかけて焼いた海苔をご飯に安くて食べる‘キムサム’形態だったものと推定される。 日本で料理学を習った方信栄(方信栄、1890~1977)が使った1934年版《日日活用朝鮮料理製法》にサムの一種類でキムサムが一番最初に出てくるためだ。
   
だが、キムの大衆的な消費は日帝強制占領期間に入ってきて可能だった。 広島県の海苔業者が韓半島にきて南西海岸が海苔養殖の適地だと判断して海苔養殖と製造方法を改良したところで近代的海苔生産が始まった。 1922年全南唐津で海苔の試験養殖が成り立ったし、1925年西南海沿岸の書籍で海苔養殖が席を占めた。 それだけ海苔を購入することがそれ以前よりたやすくなって1930年代京城女師範学校の‘のり巻き寿司’や方信栄の‘キムサム’が調理法で登場することができたのだ。

遠足の楽しみはやはり‘キムパプ食べる’楽しみ

たとえ解放以後にも日本と再び正式修交を締結しなかったけれど日帝強制占領期間と同じように韓国海苔は日本に輸出される主な商品だった。 日本政府は自国の海苔産業を保護するためにいつも韓国海苔輸入を制限した。 だが、1964年6月日本との正式修交を準備する過程で日本政府は海苔をはじめとするいくつかの水産物に対する輸入制限措置を解くという贔屓を見せた。

以後国内で生産されたキムはほとんどの日本に輸出されたので韓国では遠足の時のりまきを作る家が多くなかった。それで遠足日に“うちの母さんはのりまきを作ってサイダーとおいしい菓子たくさん買うといった”(1968年4月8日付<京郷新聞>)という言葉が子供たちの間で自慢の種に通じた。
 
1970年代に入り込んでキムパプはキムの生産量増加とともに国内消費も促進した。子供たち遠足はもちろんで外出の時必ず備えなければならない料理で理解された。 いつのまにかキムパプはトースト、卵焼き、牛乳、かまぼこと共に代表‘簡易食品’で分類される。 このような簡易食品は手押し車に包装をまいた‘移動レストラン’で売れた。 移動レストランは主に市内中心街や歓楽街周辺で営業をしたが、移動レストランではキムパプの他にホヤなどと酒のつまみを販売して社会的問題になることもした。

キムパプの日本食卓占領期

キム生産が増加した1970年代には今日の‘忠武のり巻き’登場した。 88ソウルオリンピック以後キムチが日本に輸出されて韓国人のキムチに対する自負心が高まってこれを契機にキムチ入りキンパプが開発された。

1990年代中盤になってキムパプ専門店が都心でドアを開け始めて既存キムパプと違いチーズキンパプ、ヌードキムパプ、セロリキムパプなどがキムパプ専門店で販売された。 特に1990年代中盤以後ソウルをはじめとする大都市で流行した日本料理店はキムパプの風変わりな変身に大きく貢献したし、カリフォルニアロールの流行は多様なキムパプが開発される契機になった。 もう在来式味付け海苔と共に‘キムパプ’という韓国語で日本でも大人気を享受しているので今後続くキムパプの軌跡が期待される。

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2016年12月20日火曜日

[食品人文学]食卓に入り込んだ春、食品人文学者ジュヨウンハの薺菜と姫韮の話

2014/03/14
今日は季節が変わって春になったので春季に私はプッコッで夕食ある膳を調えてみます。 食欲舌鼓を打たないでください。 最初は湯なのに春なら薺菜にオキシジミ入れてテンジャンクッ沸かせば格別味だけれどこの頃は季節がちょっと遅れたのでホウレンソウや声屋に代わってオキシジミ入れて脂ちょっと入れてもやしと豆腐ちょっと混ぜてコチュジャン少し解いてテンジャンクッ沸かせば格別味です。 (中略)それからに苦菜ナムルとかこれは酢コチュジャンにあえて姫韮にセリ混ぜて漬物(チャンアチ)作ってそうでなければくれといってきて肉入れてテンジャンチゲをしても良いです。
1935年3月12日付<東亜日報>にのせられた文だ。記事の題名は‘料理の味が教える食卓に入り込んだ春!’だ。この記事がのせられた<東亜日報>には著者が出ていない。 だが、日帝強制占領期間に朝鮮食饌研究所という所を運営した男性知識人洪善杓が1940年6月に出版した《朝鮮料理学》にこの記事と似た内容が出てくる。 だから例の記事は洪善杓の作品であることに間違いない。
 
甘い薺菜で春を迎える  

薺菜は晩秋から3月まで手に入れることができる。 朝鮮初期学者である徐居正(徐居正、1420~1488)は《四佳集》という文集に次のような詩で初春に薺菜芽が上がってくる姿を口ずさんだ。
雪解けた野原生え際に薺菜芽が芽生えるので、道端で野草を掘る女性が喚き出すよ。 米売りにでかけたお父さんはいつ帰ってきますか、真昼になっても中空歌をできないだろうね。
そうだ。 1400年代や植民地時期や1950年代にも薺菜が咲く初春になれば秋にかき集めた穀物が残っていなくて人々は絶食の日が多かった。 それで老少を問わず女性は野原に出て行って野草を採った。 苦菜や蓬や姫韮や薺菜を掘ってお腹を満たす量で。 春に掘る野草は苦味が出てそれほどおいしくない。 だが、薺菜は違った。 今からほとんど800年前の人である李奎報(李奎報、1168~1241)は“甘い薺菜が自然に芽が萌え出て繁盛するので、当然スープを煮れば私の食欲にも似合うよ”(《東國李相國後集》第3冊)と口ずさんだ。 前で紹介した徐居正も《四佳集》で“薺菜 ナムルでスープを沸かせば味が甘いよ”といった。 甘い味がよい薺菜は早春に掘ることが一番良い。 薺菜はスープを煮れば脂である肉を入れなくても甘い味を抱いて出した。
 
古人はネンイッククを漢字で薺湯だと書いた。1924年李用基(李用基、1870 ̃1933年頃)が出した《朝鮮無双新式料理製法》でもネンイッククを‘薺湯’といった者で書いた。だが、李用基はネンイッククを別で好きでなかったようだ。 “薺菜が別に味が思わしくなくてやや甘い味で食べるか、または土醤を濾して入れて肉やたくさん入れて煮て食べるかだ”としたという話だ。 おそらく李用基がネンイッククを嫌いな理由はそのやや甘い味のためだったようだ。 それで土醤を濾して入れてきれいなスープを作って薺菜を入れて煮ればまずいから、肉をたくさん入れろといった。 この文の最初で洪善杓が提案したオキシジミを入れる方法もこれと一脈相通じる。
 
李用基は同じ本で洪善杓が春が入り込む料理で提案した‘タルレジャンアチ’調理法も書いておいた。 “姫韮の根元と着手するものの順を少し残して取って洗った後水が乾いたら鍋に油をぶっかけて姫韮を入れて炒める。 油が姫韮とよく混ぜ合わせて姫韮の光が澄んだら砂糖には濃い醤油とゴマ塩と粉唐辛子には混ぜ合わせ食べればおいしいのだ”とした。 だが、常に食べるのは“出るものと濃い醤油に入れて高名で墨出るのだ”と書いた。前のものは長く置いて食べてもかまわないから‘漬物(チャンアチ)’と名前を付けたが、後のことは簡単に料理するので別に名前を付けなかった。姫韮の和えものに上げられる調理法だ。
 
檀君誕生の秘密、姫韮
 
姫韮は韓半島で生きた人々が非常に永らく食べてきた食材料だ。韓国人ならば大部分が一然(一然、1206 ̃1289)が書いた《三国遺事》に出てくる檀君の誕生の話を知っているだろう。
シンウンが神霊らしい蓬一袋と大蒜20個を与えて達することを君たちがこれを食べて百日間日光を見なければまもなく人になるといった。 熊と虎がこれを受けて食べて気を付けることを21日ぶりに熊は女の体になったが虎は用心できなくて人になることができなかった。
しかし朝鮮時代初期に刊行された《三国遺事》の原文には蓬と大蒜の代わりに艾と蒜が登場する。 艾は当然蓬だが蒜は決して大蒜でない。 なぜなら大蒜は中国漢代の人張騫が西域との交易路を切り開いた以後に中央アジアから中国大陸に流入した食材料であるためだ。 以前には姫韮で辛味を出した。 漢字では蒜と書いたが中央アジアから入ったものは形がはるかに大きかったために大蒜と書いた。 さらに野山で採取するので野蒜とも書いた。
 
許浚(許浚、1539 ̃1615)は《東医宝鑑》でテサンは大蒜、野蒜は‘달랑괴’と呼ぶとハングルで書いた。この달랑괴が正に姫韮だ。もし檀君が実在人物だと仮定するならば春に私は蓬と姫韮だけを食べて熊が女になって檀君を産んだと見てこそ正しい。
 
このように薺菜と姫韮は長い冬が過ぎて春が到着することを教える食材料だ。 食卓に入り込む春だったし熊の人柄と檀君の誕生を導くこともした。 さらにこれら食材料は食欲がない時やしっかりした食べ物がない時食欲をそそるようにした。 今晩に新しさと満たす、そして誕生を考えてネンイッククとタルレジャンアチで食卓を輝かせればどうか。

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[食品人文学]爪で上手に食べる手並み、食品人文学者ジュヨウンハの灰貝の話

2014/03/11

“灰貝です。本来日本岡山湾で大量養殖場があったがなくなって十数年前全南に有名な養殖場を設置して大々的に輸出されました。当時からその販路を知ろうと努めたが極秘に付したのでついに分からなかったが概略中国福建省と察したのが今回分かってみると厦門近所一帯でした。その地方では血蛤だと呼ぶのに一種の迷信で陰暦正月半月前後に一度食べれば風土病にかからないといって陰正初に送れば韓国産五百石ほどは問題なく売れます。”
 
1949年5月1日付<京郷新聞>にのせられた記事だ。<京郷新聞>では解放翌年である1949年に水産専門家を呼んで‘躍進韓国水産座談会’を開催した。
 
日帝強制占領期間に朝鮮総督府の支援を背景にした日本人水産業者などが韓半島の漁獲物を自国はもちろんで外国にまで輸出して大きい利益を残した。 ところで解放以後に日帝強制占領期間当時日本人たちの朝鮮海産物販路を知ることができなくて、専門家たちがインド太平洋水産会議に参加して市場動向を把握した後座談会を開催したのだ。 前の話をひとりは日帝強制占領期間から水産学をした鄭文基(鄭文基、1898~1995)だ。 彼は朝鮮総督府殖産局水産課の技手で勤めたことがあったがシンガポールで開かれたインド太平洋水産会議に行く道に上海と香港の水産市場を観察してきた。
 
赤い血を含んでいて血蛤である。

そちらで鄭文基は韓国産イワシ、イカ、ワカメ、灰貝などがすでに結構大きい市場を確保しているという事実を知った。 その中でも灰貝はかつて日帝強制占領期間に今の中国廈門で冬に大人気を集めるという事実も確認した。 それと共に中国人は灰貝を‘血蛤’と呼んだといった。 ‘血蛤’という漢字をハングルにそのまま移せば‘灰貝’だ。 灰貝は大きく真灰貝、新灰貝、赤貝に分かれる。
 
真灰貝は灰貝中本当に灰貝なので付けられた名前で祭壇に上げるほど高級に属する。 貝表面に毛がなくて肉はしこしこする。 新灰貝は真灰貝に比べて味が落ちて‘ロバマク’とも呼ばれる。 これに対し比べて赤貝は灰貝や新灰貝に比べて大きさが大きくてあたかも血がぞろぞろ流れるようでできた名前だ。 だがはっきり調べれば赤貝でも真灰貝でも新灰貝でも全部あたかも血を含んだように見える。 灰貝は干潟の中に埋められて呼吸するのでヘモグロビンをたくさん含有しているがこれがすぐに赤い血を含んでいるように見えるようにすることだ。 だから中国人が三の種類の灰貝をあわせて‘血蛤’と呼ぶのも妥当に見える。
 
だが、朝鮮人は灰貝を‘血蛤’だと呼ばなかった。 溝がある瓦屋根に似たといって瓦壟子とも呼ばれ、また魁陸あるいは魁蛤だと呼んだ。 国語学者は灰貝(꼬막)という言葉が本来‘コマク(고막)’だったと主張する。 1820年代柳僖が作った《物名攷》では“コマク:クェハプだ. あたかもナツメと夜のように小さい貝だ”とした。 これが灰貝になったようだ。

冬筏橋は灰貝取るアナクネの泥  

本来灰貝は天然だった。 明国以後中国人が養殖する方法を知るようになったが、灰貝をはじめとする貝は掘って古くなれば簡単に変質するので養殖で育てることが少なかった。 近代に入って日本人が冷蔵流通技術を導入して灰貝をはじめとする貝は養殖で干潟で育ち始めたのだ。 当然彼らは韓半島の南海と西海の干潟に注目した。 特に筏橋の汝自灣干潟は灰貝を養殖するのに良いところだった。 鄭文基が“十数年前”といったのでおそらく1930年代と推定される。 この時から筏橋の前干潟では冬にさえなれば真灰貝掘ることでアナクネの手が溶けた。
 
ところで解放以後日本人が離れて漁場所有者も消えて販路も消えた。 自然に筏橋では養殖真灰貝でなく天然真灰貝が多くなった。 筏橋アナクネは真冬農閑期に天然真灰貝を掘って収入も適当に見た。 1960年代初期光州とソウルで筏橋灰貝を買いに来る人々が増えて結局1968年に再び養殖場を設置した。
 
4月と10月に汝自灣中にあるジョンペ養殖場でチョンペを買って、3年の間育てた後に採取して市場に出す方式だった。 1978年ジョンペ価格は1kg当り180ウォン. これを3年の間育てれば灰貝価格は1kg当り270ウォンに走る。 筏橋干潟が時間を加えてそんなに利益を残すようにした。 だから夫人は寒い冬、身を切る潮風をむかえて板で作ったボルベに乗って真灰貝を掘った。 1977年に台湾に真灰貝を輸出する道が開かれて干潟はより一層豊かだった。 真灰貝の味はよく焼いたのを味付けしないで爪で食べなければならない。 食品のシンボルは学習を通じて習う。 それで爪で灰貝を上手に食べることができる手並みは筏橋の人にだけ与えられた特権だ。
 
* 汝自灣は1930年代から灰貝に名が知られた。
* 筏橋アナクネは真冬冷たい干潟で灰貝を掘って子供を勉強させた。 朝鮮時代灰貝は瓦屋根に似て瓦壟子と呼ばれた。
 
文/チュ・ヨンハ教授
韓国の代表的な食品人文学者で、韓国学中央研究員韓国学大学院民俗学専攻教授だ。 《料理戦争文化戦争》 《チャポンチャンポンちゃんぽん》 《食卓上の韓国史》などの著書がある。

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[ジュヨウンハの食べ物100年](26)簡略な20世紀食品史

ジュヨウンハ|韓国学中央研究員教授
入力:2011.08.30 19:11:07 修正:2011.09.05 16:19:04

・以前…路地ごとに違った‘ヨ味ソ味’
・最近…どこに行っても同じ‘この味その味’



今は過去の姿をなくした清進洞解酲湯(ヘジャンクク)路地./
1920~30年代カフェ狂を風刺した新聞の挿絵./
庶民が楽しみ探す梨泰院食堂街の夜の風景.(左側から)

“清進洞名物は浮浪者が好きな内外酒店だ。 湖六百号に内外酒店だけ十一家もなってみるので,この村の代表的な名物で堂々としませんか。 この堂々とした名物が昨年には三十余号、一昨年には四十余号もあったそうです。 本当にその時にものすごかったところでしょう。 十家に内外酒店一つずつ! 長官繋いだことと思います。 内外酒店の歴史を掘ってみれば昔には名前のように女が酒膳だけ整えて送りだして内外を着実にした酒場でした。 これがだんだん改名して内外法がなくなって酒膳のそばに付けて座って笑いを売って歌を売ると結局は売淫まですることになってこのごろには内外酒店すれば密売淫が思い浮かぶことになりました。 内外酒店を訪ねて行けば当然油汚れが悪知恵裂こうって流れる若い女が一二ずついますね。 この女がもう話したそれなのにとても風紀を壊乱するので警察署では内外酒店許可を出さないそうです。 この理由で毎年毎年内外酒店が減って行ってこのごろにはすでに瑞山の秘境に聞いたそうです。 この同意名物内外酒店も刃物蹴った百合勢力にはちょっとを出来ないようです。”

この文は1924年7月10日付東亜日報の‘内東里名物’にのせられた。 今日ソウル中区清進洞で名をはせた内外酒店の姿を推察させてくれる。 1900年代以来京城の食堂業は世界化の道を歩き始めた。 日本料理屋が今の龍山と明洞一帯に席を占めたとすれば、清料理屋は徳寿宮南側から南大門の間に席を占めた。 これに対し比べて朝鮮料理屋は鍾路北側で盛業をした。 もちろん各種クッパ店や居酒屋が北村一帯はもちろんで遠く新堂洞まで進出することもした。 それだけ四大門の中の漢陽に比べて京城がその都市的様相を拡張させた結果であった。

たとえ日本の東京と大阪を経由して京城に到着したが、カフェのブームも1920~30年代京城のまた他の一様相であった。 “カフェ-娘子国では小市民国公主たちの‘スウィハートゥ’らを流して行って‘カクテル’と‘フォックストロット’にいわゆる‘蒟蒻’を一番入る一方、字幕待機を睡眠荷物にも振り回して夢の中でもヌッケ酒に酔ってトゥロオは夫を意気込むニョソンドゥルはその間並大抵に夫と争議をしてみるが抱いたことでないが、33年には‘メダム’ビョンデを組織下野棒を各自持ってカフェ-ゴール前で攻略を取るだろう。 ‘カフェ-’光野原カフェ-出入りに‘メダム’の棒にあって明日戦略を考え飴増えているか?”この文は1933年1月15日付朝鮮日報にのせられた‘33年式家庭争議(1)カフェ-城郭占領’という題名の内容だ。 それと共に漫画でカフェゴールの前に棒を入った夫人が両側に並んだ姿を描いた。

レコードで流れ出る‘フォックストロット’は1917年頃アメリカで生じたダンス音楽だ。 これが日本に入ってきて演歌になったし、それが再び植民地朝鮮で大流行した。 カクテルおつまみ‘蒟蒻’という蒟蒻の日本式発音表記で蒟蒻ナムルの根元を粉で作ってここに石灰乳を混ぜて沸かして作った料理だ。 本来中国の唐の時流行した料理なのに10世紀の時その調理法が日本列島に伝えられた。 だが、1933年にカフェに出てきた蒟蒻は蒟蒻だけでなく他の穀物粉まで添加して開発された日本近代の産物だった。 これが東京と大阪のカフェでおかずで登場したし、それが朝鮮のカフェにそのまま移された。 たとえ喫茶店も京城のいろいろな所で西洋クラシック音楽と共に文人と知識人を魅了させたが、カフェやはり内外酒店や居酒屋と違った妙味を植民地男性たちに提供した。

だが、このような経験はひたすら都市のモダンボーイとモダンガールのみ限定された。 さらに1939年からドイツの戦争野心が始まって、朝鮮総督府は節米運動を始めた。 すでに1920年代から農漁村は経済的に疲弊してお粥で春の端境期を渡していた。 たとえ生活改善運動という名前で朝鮮総督府は農漁村の増産に拍車を加えたが、事情はそんなに容易ではなかった。 “一般国民としてはまず米に対する節米思想の育成が極めて重要な部分であることに違いなくて米を原料にする酒類の制石制限と同じ措置又は飯米としての代用食の励行にまた、十分に考慮することがつなぐとせざるをえなくて増産策の確立と並行して節米の旅行は時局下特に必要なことと見られてつなぐ。”(東亜日報1939年8月1日付)

このような朝鮮総督府の節米運動は米以外の穀物でご飯を炊くようにする混食奨励にも続いた。 さらに小麦粉を利用して米粒を作って代用食で食べるように推奨することもした。 解放になるとすぐに混乱した隙間から米価格は空よりさらに高く湧いた。 米軍政庁では1946年6月アメリカ余剰農産物の被占領地域救済援助という名目でアメリカの余剰農産物を導入した。 この時持ってきた小麦はソウルと仁川市民に米一合と共に毎日120gずつ配給された。 この時、ソルロンタンにはご飯が入らないで小麦粉麺だけ入った。 だが、大韓民国政府樹立以後アメリカ小麦が無料ではなかったために大量に持ってくることはできなかった。 結局春の端境期時になれば節米運動を引き続き広げなければならなかった。 1949年12月20日ソウル市警察局では“一般大衆レストラン、食堂、料亭などでは白米使用を厳禁して小麦粉・ソバなど雑穀を使うように指導奨励すること”を指示した。 “白米を飴・餅などを作らないようにすると同時にトック家も取締(管理)して米穀出処を糾明すること”という指示もおりた。 さらに“密酒製造の根絶を期してレストラン・露店・瓶酒家・食糧上を取り締まりして密酒を発見して白米出処を追及すること”を警察に命令した。 朝鮮戦争は食糧不足を極端に推し進めた。 米軍が捨てたゴミで食べるだけのものを選んで作ったクルクリ粥を食べて延命した人も多かった。 だが、1954年6月になれば修復されたソウルにはレストラン数が戦争前より何と3~4倍に増える。 喫茶店(288ヶ所),料亭(236ヶ所),大衆食堂(955ヶ所),モンノジプ(675ヶ所)が盛業をした。 避難民が集まってソウルに人口が集中したためだ。 しかし相変らず富益富の飲食店営業だった。

 
ファミリーレストランで楽しい時間を過ごす家族./
食欲の一般化を象徴するファーストフード./
外国人に披露した韓国料理世界化料理展示会.(左側から)

朝鮮戦争以後アメリカ政府は彼らの農夫が過剰生産した農産物を強制的に買うように強要した。 その根拠は‘MSA 402条’という法だ。 MSAは相互安全保障法を示す。 1954年に既存のものを改正して援助を提供される国家が援助額の一定比率でアメリカの余剰農産物を購入するようにした規定である402条が挿入されて生じた名前だ。 事実アメリカ政府は第2次世界大戦勃発前に農村の生産システムを大量体制に転換させた。 ところで予想できない過剰生産が発生した。 ちょうど戦争に参戦して軍人食糧でこれが消費された。 前後には西ヨーロッパに軍事同盟を前に出して農産物輸入を強要した。 朝鮮戦争も余剰農産物のまた別の使用先であった。 だが、休戦以後新しい措置が必要だった。 それで生じた法が‘MSA’であり、再び強制購買条項を入れた。 合わせて1954年7月米国議会はMSAを改正してPLO480法(通称余剰農産物処理法)を成立させた。 この法にはアメリカの余剰農産物を援助国の貧困層援助、災害救済援助、そして学校給食には無償で提供するという内容が入っていた。

1955年以後韓国の国民学校に食パンと小麦粉が無償で供給された。 教師たち手にも握手の図が描かれた援助小麦粉砲台が握られた。 これから小麦粉を材料にしたスジェビ・カルグクス・チャンチグクスのような料理が家庭ではもちろんで食堂でも食事を解決するのに使われた。 さらにPLO480法には購入した余剰農産物を効果的に消費させるために栄養教育を施行しなければならないという内容も含まれていた。 当時淑明女子大教授であったキム・ビョンソルは米の量を減らして栄養価を高めようという主張も広げた(京郷新聞1955年11月4日付). たとえ主食である米調理法に対する研究を強化しようという主張を彼は前に出したが、“麺類を奨励して麺料理法をより一層研究してカルグクス、スジェビのようなものの調理法を少しずつ改善してもう少し栄養価が高い合理的な調理法を研究してみましょう”という提案も落とさなかった。 アメリカの余剰農産物転入は小麦粉・砂糖・綿の三白産業が経済の中心軸になるようになった。 当然大韓民国の食品産業も製粉業と製糖業を通じてその基盤を固めた。 1960年代に入ってくればそういう事情はより一層強化された。 インスタント ラーメンが1963年に、インスタントカルグクスが1969年に商品に出てきた。 特に第3共和国が粘り強く推進した魂粉食奨励運動は小麦粉料理の消費をより一層そそのかした。

1980年代になれば韓国経済の成長ぐらい食べて飲んで遊ぶ産業もすごい盛況を成し遂げた。 1983年小説家兼言論人崔一男の指摘は今でも手厳しい。 “産業化が追い立てた一日生活圏までは良かったが、その風は人々の思考または、今話している料理文化までも同質的であると作っておいた感がなくはない。 どこへ行くがソルロンタン・冷麺・ビビンバが大手を振るってお客さん接待のためにはソウルや地方やプルコギを一番上で打つ。 それが便利な交通のせいなのかでなければ何でも同じ色で彩っておくのが好きな産業社会が抱かれてあげた結果なのかは分からないがある都市にガーデンの食品が全く同じだ。 (中略)それで徐々に4千万食欲が一体化が成り立っているわけだ。 発展も良くて変貌も良いが、都市の個性が無視されたこのような形の画一化は本当にうんざりだ.”(京郷新聞1983年11月16日付)

さらに食品の世界化体制は飲食業を外食産業で作るのに一助となった。 1950年代以後米軍部隊を通じて伝えられたアメリカ式ピザ・ハンバーガー・ソーセージ・コーラなどが享受した特殊な権力は1980年代以後これ以上韓半島で特殊でなくなった。 ここに1970年代初期から成り立った各種肉類の輸入は日が進むにつれ増加した。 健康に対する関心は肉類消費とともに平行線をひいて高まった。 すると都市の繁華街には魚刺身料理屋とすし屋がぞろぞろ席を占めた。 1990年代以後韓国人の外国観光経験は2000年以後韓国のどの都市でも外国料理を本土のように味わうようにさせてくれた。 すると韓国料理を世界化しようという主張がスローガンを越えた政策で具現され始めた。 その渦中に韓国の農漁村と農水産物は100年の間病んできた重病によりもう最悪の境遇に達してしまった。 <連載終了>

http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?artid=201108301911075&code=960100&s_code=ac094
[ジュヨウンハの食べ物100年](25)靑魚グァメギ-皮を剥いだもっちり肌の誘惑

ジュヨウンハ|韓国学中央研究員教授
入力:2011.08.23 18:28:09 修正:2011.08.24 15:42:13

洪吉童の著者許筠(1569~1618)は朝鮮最初の美食書である <屠門大嚼>を書いた。 この本で“4種類がある。 北道で出るのは大きくて腹が白い。 慶尚道で出るのは皮が黒くて腹が赤い。 湖南のことは少し小さい。海州では2月に捕えられることが味が非常に良い。 昔には非常にありふれていたが高麗末に米一升にただ40匹しか与えなかったので、李穡が詩を作ってこれを嘆いた。 亂離が起こって国が荒廃してすべての物が不足するので珍しくなったといった。 明宗以前だけでも米した話に50匹だったが、今は全く捕えられないから本当に奇怪だ”とした。 すぐに青魚(注:ニシン)を置いて自身の美食経験を使った内容だ。 知ってのとおりニシンは冷水性魚種で水温が2~10度である低層冷水帯で主に生きる。 それで海水の温度が変わればその多かったニシンが突然痕跡をなくしたりもする。 おそらく許筠はそういうニシンの生態に対してはよく分からなかった形だ。

植民地時期に朝鮮総督府殖産局水産課で勤めた鄭文基(1898~1995)は1939年5月9日付東亜日報で“靑魚は朝鮮鯨で一般保健食品で重要視してきた魚族だ。 魚そのまま料理に供する他に塩靑魚をマンドゥロ都市は水論です山間農村にまで広く消費させたのだ”とした。 だがこうしたことは1900年代入ってきて可能だった。 比較的深い海に住むニシンは群れをなして行き来する属性を持っている。 そうするうちに丈夫な網を作って深い海の道に置いてこそ簡単に捉えることができた。 1876年江華島条約以後東海岸に集まった日本人漁師が先を争ってニシン漁に出たし、それから次第に東海、その中でも今の浦項迎日湾一帯が晩冬になるとニシン大魚で長蛇の列を作った。 鄭文基は同じ文で“京城人々の話をトゥルミョン大金、約30余年前にイソソは西海ニシンを多値下飴みなでする。 そして西海ニシンは東海ニシンに非下野特にチャンデハヨスミョ美味ハ飴みなでする”と明らかにした。

許筠が最もおいしいといった西海ニシンがすぐに黄海ニシンだ。 19世紀以前だけでもソウルの人にニシンはまさに西海ニシンが一番上だった。 今のソウル玉水洞近所に住んだ憑虛閣李氏(1759~1824)は <閨閤叢書> で‘靑魚塩辛’調理法を次の通り書いておいた。“ニシンを足の上に咲いておいて塩を振りかけてニシン置くことをキョキョハでゴザを覆って一晩寝かせればオ汁がみな足元に陥ることとか直ちにドクの中でニシンと塩をつけてつけて入れて漬ければ年を越してもみな頭が落ちなくて良いのだ。” 1921年版方信榮(1890~1977)の <朝鮮料理製法> でも <閨閤叢書> とほとんど同じニシン塩辛調理法が出てくる。 ただし“正二月に漬けることだと”としながら“味は良いがセミ音がすれば食べられなくハ出るのだ”と別に書き留めた。

これに対し比べて李用基は1924年版 <朝鮮無雙新式料理製法> で他の見解を前に出した。 ニシンをソウルの人々が呼ぶ名称である‘ピウッ’といって、“佐飯を大きいものでオドソ石鹸を文高頭取ってこのように(雄の腹の中に入っている白い精液の塊り)抜いて牛熊をケケばら撒いて漬ければ塩辛の汁が諸節でノラッケ出てくるのでこれも石をマニ横になる君置いてこそハ出るのだ。 夏極暑の時に他の塩辛を格別ヤンいや食べるがこのピウッチョッは綽綽チジョ一部分処ノコ爪痕初めに苦難粉をばらまけば味が第一などガーナとか数年はムキナニラ”とした。 さらに方信榮の考えと違い“鷹癌がソレをトゥルミョンかんだように傷ついたようだが痛んでいないもので牛熊に若干混じる私の丘やバー上米ヘ話は木を展開してその上にあざ笑うチェヨサコ何でも押してしみったれ集がみな陥った後に再び牛熊をばらまきながら漬ければ数年を置いてもシャンチ出ないのだ”とした。 李用基の表現のとおりならば憑虛閣李氏と方信榮が言及したニシン塩辛はニシン佐飯に該当する。 彼が言及したのがすぐに塩辛であるわけだ。

ところで李用基はピウッコギでなく、ピウックイ・ピウッペクスク・ピウッチョニュオ・ピウッチャバン・グァメギのような料理の調理法も紹介した。 その中でピウックイ調理法を見よう。 “あざ笑う色々対アルベギで痛んでいないものを石鹸を文高書いてで頭と鳥の尾取って左丸ごと盆にノロノア物価�みなパジョ アンパッがやいやいと下車でも高名君銀濃い醤油を塗って焼くもののからだに住みチシャ抱くようによく口語で再びナベに油を若干二塁で後妻街や地底でそのままノコ牛熊にとりながら食べれば卵とイリが味が背中にガーナとか強いある(数えた)火には焼くが話ジニーと。”ピウッチョッと別にピウックイで丈夫なニシンを使うと書いた。 ピウッペクスギナ ピウッチョニュオも同じだ。 しばらく捕えられる冬に陸地に移動してもニシンは簡単に傷つかない。 それでも長く置いて食べようとするならいわゆるニシン塩辛、すなわち佐飯を作らなければならなかった。

油が多いニシンは肉ぐらいの人々の食欲を刺激した。 特にニシン焼きはそれが痛んでいないものでも佐飯でも食卓の香りを濃厚にさせた。 さらに1910年代以後東海のニシンがソウルに上がってきて以前に比べてニシン食べるのがたやすくなった。 1920年代になれば貧しい人も晩冬に魚を食べたければニシンあるまくということを買って焼いた。 “ひとりがつなぐのに生活はとてもタップリ紙モトントイラ冬に荷物甕や一件だけ食い荒らしてハでは魚思い出してニシン一級を買ってその害を与えないで焼いて食べるとすぐにハ飴でそのああそうだご飯に一尾をクオノアッコヌル味つなぐようにモゴッコその翌日ああそうだにまた、ある頭を口語ノアッコヌル食べての中に考えることを‘長く置いて食べるだろうかでするかより’しかし一邊ではさらにも食べて十解くが一邊では毎日食べる場所だろうと思わずトゥオットニその翌日には朝にも背負って夕食上を砕いて見ても背負う。 これオッチドェン日認可してそのアネを火君‘今日はニシンを焼かないですよ’は、妻がぴくっと遊ぶ私や答える言葉が‘要心がその少なく朝持ち主ある頭私九頭であって億少なく朝持ち主ある頭私九頭であってすると高慢ない。 ウッチしてサナヒ計算の中がクロッケ暗い。’”(東亜日報1921年6月30日付)

前でも言及したように今の浦項市延日邑は1910年代末からニシンの主産地として地位を確立すた。 ちょうど東海ニシンが散乱場所で迎日湾を選択したし、ここに韓半島に移住した日本人漁師が介入したおかげだった。 鄭文基は前の記事で“ニシン多産知人慶尚北道では素乾したニシンを‘クァミギ’と称し、地方特産で珍重視する水産物だ。 慶尚北道連日・大邱など地方ではこれ‘クァミギ’をわら火に口語をもって魚皮をベット寄与バリーならば珍味を持つ鮮赤色魚肉が出てくるのにこれ‘クァミギ’料理中には‘クァミギッスゥックク’が一番美味だと話す”とした。 このごろ話すグァメギがまさに‘クァミギ’である。 グァメギの語源に対しては色々な主張がある。 概して貫目から出たものという。 <閨閤叢書> でも“ニシン乾いたのをその中がみな貫目というものの仮称イオチンジッ貫目はニシンを持って照らしてみれば二トゥンがお互い筒下野ポルゴケまっすぐに照らすのを止めて使えば味が変だからニシン一斗(2000匹)に貫目一つオッキ幼くてくるのだ”とした。 ところで憑虛閣李氏はニシンのうちでも味が特に良いのを貫目だと呼ぶべきなのに、世の中の人々が乾燥したのを全部貫目だと間違って呼ぶと厳しい忠告をした。 李用基も世の中の人々のように貫目を‘乾青魚’といって、“丈夫なあざ笑う止めるのに皮をむいて切り身を打って、醋醤につけて食べれば酒のつまみに生臭いようだが味はテイル組鼻メンナムルチジミにノウミョン味が非常にチョフニラ”とした。 だが、果たして貫目という漢字語が浦項で‘クァミギ’で変移されたのかは言語学的に明らかでない。

1918年11月1日から営業を始めた浦項駅はニシンをより易しく全国各地に送るのに利用された。 これから毎年1~2月なら駅広場にニシンが山のように積もって移動を待った。 1924年1月初めから2月末まで捕えられたニシンは大魚ではなかったが約5000万匹に達した。 “150万尾は生魚のまま日本に輸出して60万尾は他話様(要点のみを述べること下野マルリンこと)原料で消化されて約800万尾は汽車で朝鮮内各地に発送されて此外は発動機船級汽船への下野海路で釜山その他朝鮮内各地に供給された. また、浦項の慶北道立水産試験場で最初の試験で今回他話様ニシン級燻製ニシンを製造したこと好成績を齎下野評判が頗る良好な形だったよ。”(東亜日報1924年3月23日付)

燻製ニシンは西ヨーロッパの人々が好んで食べるニシン調理法だった。 輸出をするためには燻製ニシン法が開発される必要があった。 だが‘他話様’はどんな方法で作るのかまだ確認されなかった。 もしこれが韓国語ならば焼いて止めたという意味になるだろう。 ニシンは港に入ってくれば生漁労流通させることと塩漬け用、干し用そして燻製用で再加工すること等で分けられた。 日本に送られる生魚は、氷をいっぱい満たした冷蔵船にのせられていった。 事実迎日湾でニシンが大量にとらえられた1910年代から1940年代初期まで最も多い金を儲けた人は日本人企業家であった。 これに対し比べて朝鮮人船主は劣悪な船と網によってそれほど大金を儲けることができなかった。 さらに全国で駆せ参じた労働者は死ぬほど仕事をしてご飯もまともに手に入らなかった。 特に1931年に浦項面が村で昇格してその事情はあまりにも極端だった。 ニシンで生じる大金を見てきた労働者は決してその光栄を満喫できなかった。 

隔年でニシン大魚になっても大きい収益が出ないので、ついに1933年春に浦項の水産当局ではすでに日本阪神地域に送って人気を集めた身欠きニシンを積極的に製造するように奨励した。 身欠きニシンはニシンの内蔵と頭を除去して背骨両側のサルマン離して止めたのを示す。 1890年代に北海道でニシンがたくさん捕えられて生じた乾燥法だ。 特に西日本ではこれを昆布にくるくる巻いて食べる。

1960年代初期以後海流の変化によって迎日湾にはニシンが消えたし、その場をサンマが代った。 1990年代以後浦項のサンマグァメギが全国的な流行料理になった。 既往のグァメギを食べる方式に西日本の身欠きニシン食べる方式が加えられるようだ。 たとえニシンという魚は韓半島の海で古くなったが、その漁労方式や加工方式、さらに食べる方式は植民地時期を貫いて帝国をあまりにも非常に似ていてしまった。 もっともグァメギだけそうであるだろうか?

http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?artid=201108231828095&code=960100&s_code=ac094
[ジュヨウンハの食べ物100年](24)コウライケツギョのメウンタン

ジュヨウンハ|韓国学中央研究員教授
入力:2011.08.15 19:23:57 修正:2011.08.18 16:13:07

・魚なのにまれに‘豚肉味’

1933年9月3日付東亜日報の‘紙上病院’というコーナーにこのような記事がのせられた。 “20才男子だが年前に肋膜炎で苦労してナアソンヌンデ今から畑人参が苦しくてヨプ銅と残灯人がとてもスクスクずきずきと痛んでアプムニだ. からだがとても弱くて何の仕事をしてもすることが糸鼻力がトゥムニだ. せきがひょっとして出てきて黄色いタン唾が出てきます。 このような病気にコウライケツギョをサルモ食べれば良いというのはどうですか。 病名と薬方文をカルキョジュヨ.(開城の苦痛生)”この質問に対して当時京城府診察所内科パク・ジョンヨン博士の返事はこのようだ。 “肋膜炎の再発が中なのか考えられます。 一次医師の診察を受けて病名を確かに分かった後に治療方針を定めてください。 お問い合わせのコウライケツギョは摂取しても関係がないでしょう。”

知ってのとおり肋膜炎はほとんどの結核菌が原因になって発生する。 他の名前で胸膜炎だ。 植民地時期に多くの若者たちが栄養状態が良くなかったし、それによって結核や肋膜炎をたくさん病んだ。 当時には特別な薬が多くなかったために一種の民間療法でコウライケツギョを煮込んで食べた。 憑虛閣李氏(1759~1824)は <閨閤叢書> で中国元国時の医書である <養生記> でコウライケツギョを食べれば虚弱さを助けて胃に良いといった。 だが、背中床骨に毒があるので全部除去して食べろと申しつけておいた。 だから上の‘紙上病院’処方でコウライケツギョを食べても大丈夫だといった理由を十分に察して残る。 公的な医療体系が席を占められなかった朝鮮後期以来このような養生関連資料が民間では病気を良くなるようにする処方であまねく使われたためだ。

ところで <閨閤叢書> ではこの魚をソガリ(쏘가리、コウライケツギョ)だと書かなかった。 単にハングルで‘クォロ(궐어)’とだけ書いた。 クォロ(魚厥魚)はソガリの他の名前だ。 憑虛閣李氏を兄嫁で置いた徐有榘(1764~1845)は漢文で書いた <林園經濟志·佃漁志>で クォル(魚厥)を置いて‘ソガルガ소갈이’とハングルで書いておいた。 朝鮮総督府殖産局水産課の技手であった鄭文基(1898~1995)は“南鮮地方ではソガリ(쏘가리)だと呼ぶ。 言語学者の言葉を借りれば‘ソ(소)’は‘ソ(쏘)’の進化した手形だとソガリという名称がモンジョセンギオスリとする”(東亜日報1938年7月29日付)でした。 だが、文献資料の表記を見ればかえって朝鮮後期にソガリ(소가리)と呼んで植民地時期をたどりながらソガリ(쏘가리)になった。

徐有榘はコウライケツギョの味を置いて“別名水豚なのに、その味が豚肉のようにおいしいためだ”といった。 大きさや厚さはもちろんで魚であるのに豚肉味がよいのでこのような名前が生じた。 また“我が国の人々はこれを錦鱗魚だと呼ぶ”とした。 徐有榘よりほとんど200年も先立って生きた許筠(1569~1618)は自身が食べてみた料理を数え上げた文‘屠門大嚼’で“錦鱗魚:山奥にある村に全部いるが、楊根が最も良い。 初めには天子魚だと呼んだ。 董圭峯が食べてはおいしくて、名前を尋ねた。 通訳がうっかりして答えることを錦鱗魚だと話した。 人々が皆これを良いといった”と書いた。 董圭峯は明国の人で朝鮮にしばしば使節にきた董越(1430~1502)を示す。 本来朝鮮の人はコウライケツギョの味がとても良くてそのまま‘天子魚’と呼んだ。 ちょうど明国使節がその名前を尋ねるとすぐにあえて魚に‘天子’云々することができなかった。 それで新しく生じた名前がすぐに錦鱗魚だ。 それでも錦鱗魚卵名前がとんでもなく建てられたことではなかった。 コウライケツギョはうろこが細くて黄色を帯びる。 だからその形状で通訳が非常に適切に名前を付けたわけだ。 ところで許筠は錦鱗魚次の次項目に別にクォロを言及した。 “クォロ:ソウル東西側でたくさん出るのに国民らは廉鰻魚だと呼ぶ。”なぜ許筠が錦鱗魚とクォロを区分したのかは分からない。 おそらく錦鱗ある黄コウライケツギョでクォロは一般コウライケツギョを示すようだ。 それで今の楊坪である陽根で出るのは錦鱗魚、漢江で出るのはクォロで見るようだ。

朝鮮時代の非常に多くの文献にコウライケツギョ関連記録が見られるが、それの調理法はまだ発見されなかった。 さらに植民地時期ベストセラー<朝鮮料理製法> でもこれに対する言及がない。 ただし李用基の <朝鮮無雙新式料理製法> (1924年版)で‘ソガリチヂミ’という調理法が出てくるだけだ。 “ソガリはクォロラ下ということだといって古くからイルはことだとそれであるから‘図画流水グォロビ’(桃花流水にコウライケツギョが肥えていたな)とハヤンナニこれがチヂミ中にテイルドゥンイヨまた珍しく出ることだと煮る方法は鯉チヂミ法課がティーマンドゥナニラ.”李用基は同じ本で‘チヂミ作る方法’を言及して鯉チヂミを一番最初に紹介した。 “雨焦げる極地のほか内蔵に胆嚢抜いて種立って頭切って裂いてふるまうようにトゥマクチで水に苦難長をちらつくようにカンマッチュウォ解いて赤身とネギをマニ君鼻消そうと滝壷息下車でも一部分打ったのを君鼻ムルロロク クリダが返品する四度至高ふるまうようにソロノコに消そうと骨が返品するように走った後に食べればチヂミ中に第一兆鼻酒を飲む人がおつまみを相等にハ出るのだ。”ソガリジジムがやはり主材料だけ違うだけこのようにさせるといった。

李用基はチヂミを‘전’と書いた。 このごろの人々は油に地震の料理をあわせてチヂミだと呼ぶが、植民地時期だけでもチヂミは国より汁を少なく捉えて適当に沸かした料理を示した。 <朝鮮無雙新式料理製法> では別にテンジャンチゲ・魚チゲ・豆腐チゲとともに‘チゲ作る方法’に対する言及もある。 李用基は“いったい湯よりチヂミが味が上甲チヂミよりチゲが味がチョフンことは書くようにさせてヤンニョムを上手にする理由だと”とした。 国は汁が多いのに比べチゲは土鍋に材料をたっぷり入れて食事の仕度をする時蒸した後に再び焚き火に沸かして‘パットゥロジゲ’沸かしたのだ。 これに対し比べて骨がくずれる時までいびきをかいた料理をチヂミだと呼んだ。

それと共に鯉チヂミの他の名前で‘パルゲンイチヂミ’を書き留めた。 パルゲンイは食品の色が真っ赤なところで出てきた名前だ。 すぐにコチュジャンで味付けをした結果だ。 だからソガリジジムがやはりパルゲンイジジミの一種だと見ても支障がないようだ。 だが、植民地時期の新聞・雑誌でパルゲンイジジミの他の言葉でメウンタンだと書かれた資料はまだない。 メウンタンという料理の名前は1951年になってこそ新聞に初めて登場する。 1951年12月1日展示下で保健当局は‘高級料亭廃止および無許可レストラン管理’を公布して管理対象料理中に神仙炉とともにメウンタンを言及した。 その値も神仙炉と同じように1万1000換だった。 メウンタンの主材料が何であったかは分からないが非常に高い料理であったことに間違いない。 今日メウンタンといえば海魚や淡水魚を分けないで内蔵とうろこだけかき出して頭・尻尾はそのまま置いたまま沸かす料理を示す。 1976年10月22日付京郷新聞に紹介されたコウライケツギョのメウンタンは次のとおりだ。 “コチュジャンと粉唐辛子を解いた汁にコウライケツギョを入れて骨が返品する時まで沸かす。 ほとんど熟した時準備された青唐辛子、ネギなどを入れて再び10分ほど沸かす。 できた時色々なヤンニョムを入れてナベに表わす。”このようにコウライケツギョのメウンタンは1970年代中盤以後にすごい人気を呼び始めた。

事実コウライケツギョは韓半島の南海と西海に陥る淡水に育つ肉食性の魚だ。 それでも昔から全国で今のようにコウライケツギョのメウンタンを簡単に食べることはできなかった。 植民地時期朝鮮総督府直属機関だった釜山の水産試験場で朝鮮の魚類を調査した內田惠太郞(1896~1982)は1931年6月に平安南道南東側に位置したソンチョンの沸流江でコウライケツギョの生活史調査をした。 その時“ソンチョンに盲人としてコウライケツギョを捕まえる有名な人がいるということを聞いた。 この盲人は一人で川岸を数里も歩いて通ってコウライケツギョが生きる場所をよく知って、潜水して魚を釣ってくるという。 普段の生活はククス店のお手伝いをしているが、暖かい季節にはコウライケツギョ漁で相当な収入を得るということだ。”その盲人は手ぶらでスナモグリまで泳いで大きいコウライケツギョのエラをとらえて現れることもした。 內田惠太郞はその後3年の間この盲人の助けを受けて日本人助手とともにソンチョンの日本人旅館でコウライケツギョの人工孵化を実験した。

たとえ実験は成功したが、それでも直ちに大規模な稚魚生産につながることはなかった。 単に個人が経営する漁場で飼養されている程度であった。 大量生産を可能にした人工孵化は1995年にはじめて成功した。 すでに植民地時期に作られた鴨緑江の水豊ダム、漢江の八堂ダムなどによってコウライケツギョの棲息地は日が進むにつれ減った。 だが、1960年代からリルラクシが流行をしながらコウライケツギョは以前よりはるかに簡単に捉えることができた。 さらに1960年代末から全国が建設現場がなって爆薬TNTが民間にも出回るとすぐに最初からこれを川底に投げてコウライケツギョを捉えることもした。 結局1967年5月12日文化財委員会では漢江一帯に棲息する黄コウライケツギョを天然記念物に指定した。 このような指定は許筠が言及した陽根一帯の錦鱗魚が絶滅危機に直面したことを意味する。

植民地時期から朝鮮総督府は輸出用と村民の不良な栄養を強化するという名目でコウライケツギョをはじめとして鯉・あゆ・ウナギなどの淡水魚を飼養するように推奨した。 朝鮮総督府や大韓民国政府でもコウライケツギョの産卵期である5月中旬で6月上旬を禁漁期に決めることもした。 しかし1973年に昭陽ダムが完工して春川の湖畔近所にはメウンタン専門店が長蛇の列を作った。 需要があるだけに人々は頑として捉えたし、政府では稚魚を全国の川にまいた。 その結果南海と西海に流れる全国の川はもちろんで貯水池近所でも夏になればコウライケツギョをメウンタンで沸かして売る食堂が席を占めた。 1970年代建設ブームと1980年代全国的な料理流行が作り出した結果だ。 結局李用基がチヂミ中で一番味良いといったソガリジジミの主材料は今日稚魚で大量養殖されて再び川にまかれたことが主流をなす。 さらに遠く中国の養殖場で育ってその出身地を変えたりもする。 川を団地開発の対象で見て、淡水魚をひたすら腹満たす料理でだけここは結果だ。

http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?artid=201108151923575&code=960100&s_code=ac094

2016年12月19日月曜日

[ジュヨウンハの食べ物100年](23)豚の腸詰

ジュヨウンハ|韓国学中央研究員教授
入力:2011.08.08 19:06:58 修正:2011.08.08 19:07:45

・経済開発が真っ最中だった1960年代後半
・庶民の疲れた生活を慰めた常連おつまみ

 
“しばしば豚の腸詰(スンデ)は豚や牛の内蔵(腸)でするのにもちろん味も良いがこれは値が高くて簡単にすることはできないです。 ところでここに作製も容易で値段が安くて味も良い‘イカの詰め物’があるとのことです。”この文は東亜日報1964年1月19日付にのせられた。 当時豚や牛の腸で作った腸詰が値が高いとは非常に疑わしい。 だが、この話は事実だ。 1960年代中盤だけでも一般庶民が牛肉や豚肉を簡単に食べることができなかった貧しい時であった。 だからその腸で作った豚の腸詰やはり今とは事情が違った。

知ってのとおり豚の腸詰は普通北朝鮮料理だと知られている。 そのような理由なのかは分からないが1994年朝鮮料理協会で発刊した <朝鮮料理全集-民族の伝統料理> では豚の腸詰、熊の腸詰、犬の腸詰などを言及している。 そのうちの豚の腸詰は“豚の血に切り刻んだ豚肉、白菜シレギ、粉湯(米),緑豆ナムル、ネギ、ニンニク、ゴマ塩、醤油、コショウ、おろし生姜、ゴマ油を入れて豚の腸詰素を作る。 粉湯の代わりにもち米と白い米を混ぜて作ったりもする。 トェジベルに豚の腸詰素を入れて二つの終わりを実に縛って沸いているお湯に入れてゆでて針して空気を選ぶ。 熟せば取り出してある香りがなくなった後薄く切って入れて酢醤油のように出す”とした。

ところでこの豚の腸詰の調理法は1910年代に世の中に知らされた <是議全書・飮食方文>になって初めて文献に出てくる。名前は‘豚シュンデ’だ。“腸をトゥィジョボ正にパラ宿主、セリ、ダイコン湯がいて配車キムチと価値固め豆腐ソクこと銃‘ネギ’ ‘ショウガ’ ‘マナル’マニ ティジョ(固め)ノホゴマソゴム、油、苦椒家で、胡椒横脚色ヤンニョムマニ ソクこと血と一ケ所ネズミ物君(もんで)腸に君鼻クチバシ同舌生きますよ使いなさい”とした。 この料理の名前に‘豚’を付けたと見て豚腸を使って作った豚の腸詰だということがわかる。油はゴマ油だ。豚腸の中に何を入れるかとのその時ごとに違うだろうが、非常に多くの材料が入った。ところでこの本には‘豚シュンデ’とともに‘魚膠シュンデ’も出てくる。ここで魚膠は漢字‘魚膠’で民魚の沸かして作ったプルを示す。 すなわち‘民魚プル’だ。 この民魚プルを水に浸けて血を吸ってきれいに洗って宿主・セリ・牛肉・豆腐とともに色々なヤンニョムをもんで入れてゆでて干し民魚の詰め物を作るといった。 民魚はその名前でも知ることが出来るように朝鮮後期の人々が最も好んで食べた魚の中の一つであった。 慶尚北道常駐で発見された <是議全書・飮食方文> で豚の腸詰が登場したことは何を意味するのか?

事実魚や獣の内蔵にあらゆる材料を入れて蒸し物(チム)をする料理は結構古いものである。 慶尚北道 栄州のトゥドゥル村に住んだ張桂香(1598~1680)が筆で書いた <飲食知味方> では犬の腸を利用して腸詰を作った。 “犬をジャバ チョヒ‘きれいに’パラ オあまりゆでないで骨塗って晩稲‘ギョーザ’牛ニギダシ下野後朝、チョンチョ、ショウガ、ゴマ油、チョンジリョン(濃口醤油)下だが性交してツジ(軟らかいだろう)アケして私の腸を後舌(ひっくり返して)罪パラ再び後舌コギ手順がノホシルルェ(蒸し器に)タマ蒸すもののナ席(半日)や漫画(弱火)で蒸して出してオスゴスクひりひりしなさい(切れ). 超口座(カラシ)して思わず最もチョフニ腸という(のは)生でするものの出ない(前日)月化(手入れ)ヤンニョムをするものの性交してトゥッタがイートン日腸のニョホ蒸しなさい。”ところで張桂香はこの料理の名前を‘狗醤’と書いた。 今話にすれば‘犬の腸詰’だ。 張桂香は犬の肉を利用した料理を何と六種類も書き留めた。 その中で‘狗醤’は一番最初に出てくるほど特別な料理だった。

それから約80年後である1766年に漢陽で太醫院醫藥を務めた医官柳重臨は <增補山林經濟> で‘牛腸蒸方’という料理を言及した。 “鉄腸は内外をきれいに洗ってそれぞれある自家量切る。 一方牛の赤身の肉を持って行って刃でずきずきと確かめて色々なヤンニョムと油・漿果まんべんなく混ぜて腸中にぎゅうぎゅうに埋めて入れた次に実に腸両端を結ぶ。 カマに先に火を注いで竹を横でかけて牛腸を竹に美しく座らせて水にぬれなくして釜蓋を覆う。 弱いことも強くもない不老ゆっくりゆでてとても良く熟すことを待って取り出して冷やして冷まして刃物で馬のひづめ形に切って最初につけて食べる。”同時代の人物である憑虛閣李氏(1759~1824)も<閨閤叢書> で<增補山林經濟> と似た内容の調理法を書いた。 ただし鉄腸に入れる肉は、牛肉はもちろんでキジ肉と鶏肉も使うといった。

推測してみれば牛や豚、さらに犬や魚の腸に肉と野菜などを入れて蒸した腸詰あるいは腸蒸し物(チム)は必ず北朝鮮地域で由来したと見るには難しい。 それよりは朝鮮時代知識人が楽しんで読んだ古代中国の本 <齊民要術>(北魏)と <居家必用>(元国)のためだと見なされる。 <齊民要術> では羊の腸で作った‘羊盤腸搗’が出てきて、 <居家必用> では‘潅腸’との料理が出てくるためだ。 羊の腸を求め難かった朝鮮では犬・牛・豚・民魚の腸でそれに代わった腸詰を作る考えをした人がいたし、その結果豚の腸詰という料理が誕生した可能性が高い。 少なくとも解放以前まで北朝鮮の人々は豚肉を、韓国の人々は牛肉が好きだった。 だから豚の腸詰が北朝鮮料理になった。

1940年孫貞圭が書いた<朝鮮料理> で豚脹湯調理法を説明する挿絵.

だが、庶民立場では豚の腸詰を簡単に食べられなかった。 それで植民地時期最高のベストセラーであった方信栄(方信栄・1890~1977)の1921年版 <朝鮮料理製法> では豚の腸詰が扱われなかった。 これに対し比べて李用基は1924年に出版された <朝鮮無雙新式料理製法>で豚の腸詰でなくスンデククに言及した。 “スンデククは豚肉ムン水に油は件破って野菜の固い部分をお前で消すだろうならば野菜の固い部分がやわらかくて味がチョフナそのまま汁にネジャンをソロノコ塩辛スープを処暑に飲むのは常風(常風・一般調理法)であり、食べてもオルネギがシュィウプコまた、万が食べればソルソ(下痢)が私出るのだ。”ここで言うスンデは豚の腸自体だ。 だが、李用基はこのスンデククをそれほど良く見ないようだ。

これに対し比べて漢城女子高(現京畿女子高)と東京女高等師範学校家庭科を卒業した後に京畿女子高教師、梨花女専講師、そして義親王宮付属已往職嘱託を過ごした孫貞圭(孫貞圭・1896~1950)は彼の本 <朝鮮料理>(1940年)で豚の腸詰に言及した。 作る過程の図と共に料理の名前も漢字で豚脹湯、ハングルで‘スンデクク’と書いた。 材料では豚腸、豚肉、豚血、白菜キムチ、宿主、そしてもち粉や片栗粉、漿果その他色々なヤンニョムといった。 “腸内外を塩にこすってよく洗っておく。 豚肉を細かく切っておいて宿主・白菜キムチなどギョーザの具とともにして豚肉と先知ともち粉や片栗粉はかたまるようにするために入れて、色々な味付けしてムッチョソ腸に入れて両端を実に結んで国によくゆでる。 取り出して冷まして2.3センチで浸し国に入れたり最初つけて食べたりもする。 酒のつまみなどに好物と感じることだ。”(ハングル翻訳本 <私たちの料理> 1948年版)たとえ料理名は‘スンデクク’といったが、その実体は豚の腸詰だ。 前でも見たように1964年だけでも豚の腸詰は高価格な料理だった。 ところで1960年代後半になればあたかも政府の経済開発政策が実を結ぶように豚の腸詰が市場で買って食べることができる値段が安い料理に変わった。 さらにその味がどれくらい良かったらおかず買い物をしに来た主婦がチャンウン見なくて外形で豚の腸詰を買って食べたのだろうか。(毎日経済1969年4月29日付)このように人気を享受することになった理由は豚の腸詰の中に入る材料が高価から低価格に変わったためだ。 すなわち唐麵の腸詰がまさにそれだ。 ここに1960年代から政府によって振興された養豚業の成長も一役を買った。 ちょうど本格的な養豚業が始まった1960年代初期、飼料に使われたアメリカの無償小麦が切れるとすぐに政府は苦しい立場に置かれた。 これに対し当時政府ではAID借款を誘致(1968年)したりもしたし、三養グループにとって養豚業進出(1973年)をするように薦めることもした。 本来農民が家で副業で三,四匹程度を育てれば時に合わせて蒐集商が豚を買っていった。 蒐集商は再び搬出商に売って、搬出商は再び卸売商に渡して、最後に精肉店に売れた。 このような複雑な流通過程のために収益がたくさん出なくて農民は養豚業を専門的にしなかった。 だが、需要が着実に増加して1960年代末から養豚業は企業畜産になり始めた。 1970年代初期主な大都市には大型屠殺場ができた。 このような過程で付属物である豚腸が以前に比べてはるかに救いやすくなった。 豚腸値も以前に比べて安くなったし、ここに唐麵を入れることになった1960年代末から豚の腸詰は庶民の料理として地位を確立した。

その結果1960年代後半からソウルの南大門市場と東大門市場には豚の腸詰を販売する露天商が入った。 1970年代初期になれば全国の既存の市場で豚の腸詰はピンデトック・唐麵雜菜・ティギン(注:天ぷら)などとともに大匏おつまみで屋台酒宴の人気メニューになった。 このように豚の腸詰が大衆的な人気を集めるとすぐににせ物も生じた。 唐麵工場で捨てたカスを豚の腸詰の中に入れて売って捕えられた露天商もあった。 1970年代中盤だけでも豚の腸詰は40・50代主婦が家で作って市場に売った。 さらに豚腸を購入することが出来なかった腸詰商が腸の代わりに薄いビニールに安くて売って警察に捕えられる事件が1980年に起きた。

1984年に完工したソウル地下鉄2号線は新林駅近所をスンデタワーで作った。 本来新林市場に席を占めていた小さい豚の腸詰め炒め家から出発したスンデタワーは移住民の人生の中で大変疲れることを慰めた場所になった。 経済開発の隙間で労働者は毎日夜ごと大匏一杯に豚の腸詰と豚の腸詰めスープでその大変疲れることを飛ばして送った。 すると豚の腸詰を専門的に加工する工場が九老工団近くにできたし、これから豚の腸詰も大量生産の時代を迎えた。 すると手で作った豚の腸詰めが再び浮び上がった。 北朝鮮式豚の腸詰めは咸鏡道の自尊心を前に出して庶民料理の豚の腸詰を再び高級料理に回復する助けになった。 だが、豚の腸詰は相変らず庶民を象徴する料理と認識された。 1987年民主化以後歴代大統領候補者は既存の市場で豚の腸詰を食べて彼らも庶民であることを誇示した。 だが、彼らが本当に普段にも唐麵の腸詰を好んで食べたのかは疑問だ。

http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?artid=201108081906585&code=960100&s_code=ac094
[ジュヨウンハの食べ物100年](22)ピンデトック

ジュヨウンハ|韓国学中央研究員教授
入力:2011.08.01 21:20:54 修正:2011.08.04 21:23:17

・1920年代路上屋台人気メニュー
・解放後にはピンデトック家流行「最高のおつまみに」


「今日も朝鮮旅行代理店のH君が訪ねてきた。 彼が尋ねなくても私が話さなくても何かの約束でもしたようにこの時間になればカバンを持って私のなじみの店であるピンデトック家に訪ねて行く。 乙支路入口からいくらも離れなかった小さいピンデトック家までククソンも順序行ったりする。 ヨニ酒場のように若い女性がいるからであることではないものの香ばしいピンデトックに薬酒の味は格別に気脈と魅力が潜在していることを発見するためだ。 解放後急速に発展して普及したことの一つは誰でもピンデトックではないという人はない。 とにかくピンデトックがなければ私が滅びて私がいなければピンデトックが滅びるようだ。 数ある中には貧者餅あるいは賓待餅.咸興式チヂミ平壌式チヂミ等で顧客に通じるようだ。 とにかくこういうすべての名詞が教えることでは緑豆チヂミに帰一なることだ。」

この文は解放直後7大新聞の一つで知られている自由新聞1948年12月26日付にのせられた随筆「ピンデトック」の一部だ。 筆者は朝鮮新聞学院で仕事をしていたリュ・ヨウンリュンだ。 彼はピンデトックのいろいろ名のあるのを置いて「このような不統一な物質名詞の規定は我が国語学系権威に任せるしかなくて私が分かるところ違う」といった。 リュ・ヨウンリュンが解答を後回しにしておいたピンデトックの語源に対しては植民地時期と解放直後国語学者で活動した方鍾鉉(1905~1952)の文「ピンジャトック」で探すことができる。 事実方鍾鉉のこの文が彼が亡くなった後に論文集に載っていて、いつ書かれたか分からない。 ただし彼は15~18世紀の文献に見えるピンデトックの表現である「ピンジャ」が「餅食者」の当時中国語発音である「ピンジョ」から来たものだと見た。

実際に今の慶尚北道英陽郡石保面トゥドゥル村に住んだ張桂香(1598~1680)は彼女の本 <飲食知味方> で「ピンジャ」と書いた。 「緑豆をどこのアップ時グッピー下でかなり取り替えて油浸るがアニケ注いで沸かして少なく浮かび上がっておいてグッピー下は小豆蜜にやめて牛入れてその上に緑豆粉で覆って光がユズ光一緒に煮てこそ良いのだ」とした。 すなわち緑豆を主材料にして中に小豆と蜜を入れた料理がまさに「ピンジャ」である。 一種の緑豆餅であるわけだ。

張桂香の年齢46才になる1643年(仁祖21)陰暦9月に漢陽に来た清国使節を王室で出迎えた記録である <迎接都監雜物色儀軌> には緑豆餅という料理が出てくる。 張桂香の夫李時明(1580~1674)がすでに以前に過去試験を準備するために漢陽に出入りしたことから推察して張桂香も十分この料理を知っていた可能性が高い。 単にその名前を緑豆餅といわないで「ピンジャ」と呼んだし、それを作る方法を「ピンジャ法」と張桂香が本に書き留めた可能性が高い。

それから約79年後に生まれて主に今のソウルの玉水洞に住んでいた憑虛閣李氏(1759~1824)は「貧者」と「ピンジャ」をあまねく使った。 「緑豆をかなり取り替えて直ちにフライパンの油がからだ浸る程に注いで緑豆汁をスル(匙)に浮かび上がっておいてその上に夜所蜜混ぜ合わせた牛を置いて緑豆汁を上に覆ってスルで簾政して押して牛花煎の形のように作って上に松の実を打ち込んでナツメを赦免で打ち込まれるが出るのだ。」張桂香と憑虛閣李氏は決して一面識もなかった。 それにもかかわらず、漢陽と栄養に住んだ二夫人の間にこのように類似の方式のピンデトック作る方法を書き留めたのでこれは宮中の影響が大きかったと見るということが当然だ。 特に二夫人である全部ピンジャとピンジャトックを作る方法を書き留めた部分に配置させた。 だから方鍾鉉が主張した「ビンジョ」が朝鮮でビンジャあるいはビンジャになった可能性はより一層高く見える。

国語学者李基文は方鍾鉉の主張を受け入れて次の通り補充した。 「近代語の文献に書かれた魚形は「ピンジャ」であった。 <訳語有害> (上51)と <方言流石> (2.30)で見ることができる。 この二つの本に表記された中国語「餅食者」の発音は「ビンジョ」「ビンジョ」であった。 <課程日錄> (坤24)にも「餅食者ピンジャ」が見える。 ここで二番目音節の差に注目する必要がある。 また <廣才物譜> (巻2,料理)に「餅食者」빙、 <韓英字典> (1897)に「빈」、光文会の <辞典> 筆写本(金敏洙編<周時経全書> 巻5、662面)に「빈」が見える。 (中略) 「ピンジャ」のアイデンティティが曖昧になってそれを補強するために「餅」を付けたと推定される。」(李基文「ピンデトックとビョンサン餃子」 <新しい国語生活> 第17冊第2号、2007)

李用基は1924年に出した <朝鮮無双新式料理製法> で ピンデトック調理法を言及して「この餅こと傷が貧者餅なのに貧しい者が食べるもので貧者餅というが国の祭享にも使って押したことでも煎油魚に小麦粉の代わりに多く使うのだ」と書いた。 すなわちピンデトックは貧しい人々が食べる餅でもあるが、朝鮮時代宮中で各種宴会に使った小麦粉が全くない時、緑豆粉を使って作った料理だという主張だ。 実際に李用基が提示したピンデトックの中にはネギ・セリはもちろんで白菜の白いあらすじ湯がいたこと、さらに牛肉や鶏肉や豚肉を細かく切って味付けして炒めておいてここに標高・ソクが・首がなどのキノコと硫化まま・ナマコ・アワビまでも入る。 実にこれぐらいの材料が入ったピンデトックは決して貧者餅でなく、賓待餅になることが当然だ。

だが、李用基は「貧しい人が食べることはオッチ色々なものをヌウル数が一水です緑豆でだけ下野セリやネギをソロヌコ作ることだと」と付け加えた。 このような調理法は1921年版方信榮(1890~1977)の <朝鮮料理製法> でもそのまま出てくる。 奏楽や花煎のようにピンデトックは油に支持は料理だ。 朝鮮末期宮中では油でゴマ油を使ったが、貧しい国民らはこの油を救うのが普通難しくなかった。 19世紀末以後中国人がソウルに進出して豚油が料理を炒めるのにしばしば使われた。 たとえにおいがして良くなかったけれど、緑豆生地を豚油に地震ピンデトックはそれこそ肉に肩を並べる料理だった。

結局1920年代になればピンデトックは路上屋台で人気があるメニューの一つになった。 貧しい未亡人は暮らすためにソウル、鍾路の清進洞路地片隅に母酒家を開いて夏には小麦粉麺、冬にはピンデトックをおつまみに出した。(東亜日報1926年7月3日)このように小さい家でも求められない貧しい夫人は最初から路上でピンデトックを焼いて売ることもした。 酌婦と浮ついた気持ちになって逃げた夫に代わって「人の取り引きが頻繁な街頭でピンデトックを”(東亜日報1936年2月29日) 14年の間焼いて夫の実家の家族と子供を立派に育てた元山のチョ氏夫人は模範婦女で称賛を受けた。 それで親日文学評論家で知らされた金文輯(1907~?)はこのような模範婦女の献身をなぞえあえて「ピンデトック思想」(東亜日報1938年3月12日)という礼賛までならべた。

「日増しに繁盛する貧者餅家」という題名で京郷新聞1947年6月28日付にのせられた記事の挿絵.

1946年創刊された京郷新聞は翌年の1947年に解放以後変化した街の姿を「街の話題」という名前で連載した。 その中の五回目の文は「日増しに繁盛する貧者餅家」だった。 「要旨音にきて街や路地は話す必要がなく日が進むにつれ増える貧者餅家は何をいうということなのか? そしてこの多くの貧者餅家がお客さんでさく烈する状況だ。 お客さんの姿を見るので大部分が「貧者」でなくマルスクするように整えたいわゆる文化人紳士だ。 解放即後来たチュンアンが料理店、カフェバーで変わる感があると日が経てばますます宮殿のようなこの家は閑散としていることになって5・6月のパリ誘うように集まる所が新しく出てきた貧者餅家に変わった。 そのように見れば解放以後本当に南朝鮮の大衆生活は困窮に陥ったということか? したという紳士が「君およそ2百ウォンあるか?」と宵の口の時ならば探して入るソウルの貧者餅家は数多い南朝鮮の混乱矛盾困窮の一つ縮図であろうか?」(京郷新聞1947年6月28日)

前で紹介した1947年自由新聞でリュ・ヨンリュンも解放以後最も発展した料理がピンデトックといったのではないか。

なぜこのように解放直後にソウルでピンデトック家が流行したのだろうか。 事実ピンデトック家はそれほど大きい資本や調理器術が要求されない飲食店だった。 祖国を離れた人々、北朝鮮を脱出した人々、そして混乱の中に財産をなくした人々がお互い区別することがなく路上で屋台を行って販売した料理がすぐにピンデトックだった。 特に彼らが駆せ参じた清渓川周辺の板張りの粗末な家には冬だけでなく夏にもピンデトックを売る夫人が長蛇の列が出来た。 さらに朝鮮総督府が残しておいた物資とともに米軍によって解けた料理を利用して蒸し餅・ピンデトック・コムタン・雪濃湯を販売する屋台が清渓川にわいわい下であった。(京郷新聞1948年10月5日)朝鮮戦争中には釜山の大庁洞市場をはじめとして市場の道路の「ハコバン」でピンデトック・カルグクス・濁酒・焼酎が売れた。 ピンデトックが庶民の料理になることができた理由は緑豆値が米に比べて飛び切り安かったためだ。 それで少なくとも1960年代中盤までしても居酒屋と一杯飲み屋で酒党たちに最も人気がある料理がピンデトックだった。 ピンデトックがどれくらい人気を集めたら‘モダンショー’をした酒場キャバレーでもマッコリとともにピンデトックを提供したほどであった。

だが、1967年から緑豆値が毎年急速に上がり始めた。 緑豆がしばらく出てくる1967年1月に緑豆一袋値が6500ウォンに取り引きされて、同じ年12月には8500ウォンに上がった。 これら全て需要に比べて供給が足りなくておきたことだ。

特に農地を改良して稲作中心に農政政策が変わって緑豆の生産量は以前と違い日が進むにつれ減った。 ここに1960年代後半になって政府の食糧政策により料理が豊かになるとピンデトックの人気も急速に落ちた。 結局21世紀を生きていく今日韓国人は「お金なければ家に行ってピンデトックでも焼くだろう」といった1943年歌手ハンボクナムの心情を分からない。 緑豆将軍も泣いて行くほど国内産緑豆値も想像しにくいほど高くなったし、その中に入る材料も国内産検索が難しくなった。 だからもうこれ以上貧しい人の餅だと呼ぶことができなくなった。 これら全て米が残っていく今日、大韓民国だけで生じることがあることだ。

http://biz.khan.co.kr/khan_art_view.html?artid=201108012120545&code=960100          
[ジュヨウンハの食べ物100年](21)立ち飲み屋の流行

ジュヨウンハ|韓国学中央研究員教授
入力:2011.07.26 21:44:21 修正:2011.07.29 17:45:58


1960年代に入り立ち飲み屋はソウルの中心街や郊外を問わず路地ごとに席を占めるほど広く流行した。
1969年1月22日ソウルのある立ち飲み屋風景. |京郷新聞資料写真

“5・16革命直後、目に浮かぶように霜が降りたことは私娼以外にも高級料亭がある。 しかし二年後の今、革命的な清新な気風は探してみるのが大変で革命前の‘場’や‘カン’が一時‘超大匏’を売ったがまた再び何か‘木の家’等以前名前で変えて夜遅くまで酒池肉林の不夜城を成し遂げている。 夜だけなれば歓楽街は酒内漂う若者たちがふらふらして一時営業にならなくて飢えて死ぬという‘バー’では高価格な‘ビール’が床にぐうだらで通行禁止時間が近づけば男女がカップルで酒に酔った歩みの種で‘ホテル’と‘旅館’を探す。 都市の裏路地は再び革命以前に戻った。 ただし高級料亭に現れる酒飲みの職業は昔も今もほとんど違わないがその顔が大きく変わったといおうか? <敎> ”

この文は東亜日報1963年5月4日付の1面にのせられた。 記者は5・16軍事クーデターの中心勢力が前に出した革命公約中で第3項を言及して果たしてそれが2年後にどれくらい実践されたかを取材した。

革命公約はこのようだ。 “3.この国社会のすべての腐敗と旧悪を一掃して、退廃した国民道義と民族の精気を再び正すために清新な気風を振興させる。”この清新な気風の振興のためにクーデター勢力はダンスホール・バー・高級料亭・売春街に対して閉鎖令をおろした。 そうするとすぐに“一人当り1万5千換から2万換にただスカート幅に巻き込まれて持分の臭い漂った高級料亭が、一日で一皿百換でピンデトック2枚を引き上げる‘立ち飲み屋’に変わった。”(東亜日報1963年5月4日付)

ソウル市警では約5000個の各種接客営業所を相手に1961年10月28日から11月9日まで‘社会風紀の浄化’のための取り締まりを行った。 取り締まり項目には料理店がお客を呼び寄せる目的で‘立ち飲み屋’を装った看板でお客さんを欺瞞する行為も含まれていた。 実際にソウル市内に337点もなった料理店が門を閉めたり名前を変えた。 だが、このような評価もあった。 “有名無名の甲種たちがその名前からすっかり痕跡をなくした代わりに、‘大衆食事’とか‘立ち飲み屋’とかいうことで営業種目を置き換えたことまでは革命的なので非常に良い。 しかし裏面を覗いて見れば‘外華’を‘表貧’で偽装、中では相変らず料亭業を継続する所がかなり多いということが消息筋の暴露する悪口だ。”(東亜日報1961年11月28日付)

なぜ高級料亭が看板を立ち飲み屋に変えたのかは十分に察して残る。 料亭や料理屋を腐敗の温床と感じたのに比べて立ち飲み屋は相変らず庶民の安息所だったためだ。 このような事情で1960年代初期立ち飲み屋はソウルの中心街や郊外を問わず路地ごとに席を占めるほど一大流行をした。

その時詩人金容浩(1912~1973)は‘新思潮’(第2冊第3号、1963年3月)で最初から‘立ち飲み屋で’という題名で文を発表した。 “夕陽の頃ならどういうことであろうか。 寂しくなってくる。 必ず人生をどこに失ってくるようだ。 スプーンもできない名前を背に負って常連に訪ねてくれば顔付き似ている顔なじみである人々。スケトウダラの蒸し物を肴にしておいてどんぶりまっすぐ引き寄せるので腸がほかほかしてくる。 ドラム缶の周り全て円形に立ったがもちろんマスゲームの選手になれない。”

当時立ち飲み屋の代表的な姿の中の一つはドラム缶だった。 解放以後米軍の駐留から生じたドラム缶は立ち飲み屋で食卓に使われた。 ドラム缶をたてて中で煉炭を入れて作ったこの食卓は立ち飲み屋の姿を居酒屋で作った。 椅子を放さないまま食卓の中で穴で広まり始める煉炭火に各種おつまみを焼いて食べる立ち飲み屋は今のソウル明洞・光化門・清渓川・楽園洞のような繁華街はもちろん、東大門の外と新村一帯、そして麻浦孔徳洞・滄川洞にも席を占めた。 それで“ソウルの夜は立ち飲み屋から始まるといおうか?”(東亜日報1962年12月13日付)といったほどだ。 “路地ごとにずらりと並んだ立ち飲み屋の中には宵の口から押し寄せたお客さんのタバコの煙、酒の臭い、おつまみを求めるどなり声で息が詰まる状況だ。 大匏一杯に5ウォン、おつまみが10ウォンで20ウォン程度、ほとんどの‘サラリーマン’に見えるお客さんはただ飲むために飲んでいるように続けざまに大きい酒杯を引き寄せる。”

それなら立ち飲み屋の‘大匏’は何の意味であろうか? たいてい‘大匏’の漢字を‘大匏’と使って大きいひさごにマッコリを入れて販売する所という意でその名前ができたと知られている。 だが、中国故事に出てくる‘天下大匏’と関連があるかも知れない。 商国の君主である紂王が‘酒池肉林’に陥って国を滅びるようにしたと考えた後代の天子は酒飲むことを厳格に規定で治めた。 儒学を国家経営理念で前に出した漢代の律令には“三人以上が理由なしで一堂に集まって酒を飲めば、一金4両の罰金を出さなければならない”とした。 いわゆる‘群飲酒’を許諾しなかった。 ただし皇帝が下した賜給がある時だけ群飲酒ができた。 これを‘天下大匏’と呼んだ。 ここで‘大匏’という話は天下の臣下と国民らが喜ばしい祭りで一緒に飲む酒を呼ぶ言葉だった。 おそらく古典に精通した誰かが1940年代に居酒屋で群れをなして酒飲む姿を置いて‘立ち飲み屋’だと呼んだことではないだろうか? なぜなら植民地時期新聞・雑誌で立ち飲み屋に対する資料をまだ発見できなかったためだ。

これとは違い植民地時期資料で居酒屋に関する話はあまりにも多い。 その名前でわかるように居酒屋は立って飲む酒場だ。 十分知っている朝鮮後期の金弘道(1745~?)や申潤福(1758~?)が描いた居酒屋はそれこそ座る席もない居酒屋だった。 1930年4月16日付中外日報でも居酒屋を描写した挿絵が出てくる。 中外日報では1930年4月12日から‘街頭風景’という名前で左派文学である李甲基(1908~?)が描いた挿絵と文を連載した。 その5番目主題がすぐに‘居酒屋豊作’だった。 挿絵には距離一方にかまどを備えて木板に各種おつまみをのせた夫人が出てくる。 その前には男五人が立った。 三は酒を飲んでいて二は襟首を捕まえて戦いを行う。

事実居酒屋は朝鮮的な情操を代表した。 ここに民衆的だった。 そうするうちに1920年代京城の鍾路筒には朝鮮人酒飲みのための居酒屋が路地ごとに入った。 すでに1920年代初期から慣れた植民地経験は京城の朝鮮人に酒を飲むようにした。 特に第1次世界大戦後に吹き荒れた大恐慌は朝鮮料理屋と清料理屋を不景気のうず巻きの中に追い詰めた。 そうするとすぐに“料理家行けない紳士は居酒屋だけで某舌聞いて”(時代日報1924年12月23日付)大盛況を成し遂げた。 すると李甲基が描写した路上居酒屋と違い紳士だけ入ってくるハニャン楼という居酒屋も生じた。 “一昨年まではそんな話に属するお客さんは見ることが背負って労働者似た人がマンテョニ昨年からは紳士両班らとハルルンジスーツという俗語に属するように整えたお客さんが大半以上だったのにこの頃きてはことがパッチャクソンハヤ全部がスーツを着た両班で版をけられるだろうは心耳だがその財布で百余ウォンというお金がソドジは形以外だ”といった。

1920年代中盤になれば居酒屋はこれ以上立って飲む酒場だけを示さなかった。 広いホールがあってテーブルもあった。 片方で酒母が鑄鐵火鉢に肉おつまみを焼いた。(李箕永<人間修業> 、朝鮮中央日報1936年3月30日)牛肉や豚肉でカルビを焼いても干し明太を焼くこともした。 スルグクと呼ばれる各種湯や汁もあった。 当然豚足・片肉・豆腐キムチ・チャンジなども用意された。 衛生を前に出して木製箸が提供されることもした。 酒飲む人は自分の手でおつまみを選んで食べた。 朝鮮後期以来そうだったように本来居酒屋では酒代だけ受けておつまみ価格は受けなかった。 ところで酒よりおつまみをさらに多く食べるお客さんにより争いが頻繁に起こった。 さらに物価が上がって小酒代が5銭から7銭に上がった。(東亜日報1924年3月9日付)部屋を別に用意した居酒屋では‘雇傭女’と呼ばれる女性がお客さんを接待した。 内外酒店と同じように一部居酒屋では売春が行われた。 結局朝鮮総督府では1934年7月から居酒屋もカフェ取締規則で管理した。 酒代と共におつまみ値も受けるようにしたし、さらに部屋に座って酒を飲めないように禁止させた。 このような渦中に道路で小酒を売った古くなった居酒屋は無許可に指名され注目を集めて郊外に追い出された。

解放以後酒母1人が運営する居酒屋は立ち飲み屋になったし、雇傭女を置いた居酒屋は‘ニナノ家’になった。 それでも小酒でマッコリを売る立ち飲み屋ではおつまみをただで与えることもした。 だが、1960年代以後米で作ったマッコリが消えてマッコリ販売も地域別で境界が決まってこれ以上立ち飲み屋で酒代だけで持ちこたえにくかった。 それで酒二杯で10ウォン、おつまみ局一杯で五ウォンを受けた。(東亜日報1962年12月13日)サラリーマンが通う会社が密集していた1960年代初期明洞には100余ヶ所越える立ち飲み屋が路地を掌握していた。 ソウルの郊外はもちろんで地方の中小都市住宅街入口には疲れてだるい一日日課を終えた仮装のための立ち飲み屋が入った。 さらに大学街近所にも間違いなく立ち飲み屋が席を占めて世の中に向かって抱いた不満を注ぎ込むようにした。

だが、1960年代中盤になれば立ち飲み屋の主流はマッコリでなく希薄式焼酎に変わっていった。 特に急にソウルに移住をした農村出身が増加して彼らの生計を解決した労働現場近所には豚カルビや豚肉、さらに豚皮を焼酎のおつまみに出す立ち飲み屋が席を占めた。 たとえ大きいどんぶりに出てくるマッコリによって王一杯飲み屋の名前も1970年代まで続いたが、言葉が超大匏であって日が進むにつれ立ち飲み屋でマッコリを飲む酒飲みは減った。 結局1970年代末からソウルの中心街にあった立ち飲み屋は都市開発と食欲の変化で門を閉めたり商号を変えてホンオフェ・豚足・トゥルチギ・チョンゴルなどを専門的に販売する食堂になった。 ソウルの春を倒した新軍部は5・16クーデターをまねてあらゆる浄化運動を広げたが、もう一度料亭が立ち飲み屋に看板を変える事は起きなかった。 すでに料亭がルームサロンにその姿を変えていたためだ。

http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?artid=201107262144215&code=960100&s_code=ac094

[ジュヨウンハの食べ物100年](20)蕩平菜

ジュヨウンハ|韓国学中央研究員教授
入力:2011.07.19 21:25:08 修正:2011.07.20 11:03:20

・“思索党争捨て和合せよ”英・正祖の蕩平飲食由来説

このごろ韓定食レストランに出てくる料理のうちで蕩平菜ぐらい政治的意味を持って人々うわさにのぼるのもないようだ。 コラムリスト 李奎泰(1933~2006)は蕩平菜を置いて“黄色い菖蒲ムクに赤い豚肉、青いセリ、黒い海苔を最初につけて食べる3月の時食だ。 黄色くて赤くて青くて黒い思索党争を蕩平高座正祖は随所に蕩平費をたててこのように料理まで作るようにすることによって派閥を和合するようにしたのだ”(朝鮮日報1987年3月17日付)といった。 それと共に当時の政治的状況を遠回しに言って“今野党の内部事情で推し量って指を考えでなく手の平を考える時や蕩平菜をたっぷりあるように混ぜ合わせて分けるところで今がその鉄というものを教えたい”と書いた。 ところで問題は正祖王が蕩平菜を食べるようにしたという記録がまだ発見されなかったというところにある。

1940年6月に朝鮮食饌研究所の洪善杓が出版した <朝鮮料理學> という本では蕩平菜の根源を英祖王に置く。 “以前には私たちの朝鮮にも泊まるそのまま油に送る方法は分かったがムクにモヤシでもその他ナムルを混ぜる方法を追い立てようとしたことでも200年余り前英祖の時老少論を廃止しようという祭りにムクに他のナムルを混ぜて蕩平菜といおうがことがチョナムルに開始ということだ。”洪善杓は蕩平菜を酢味がよいチョナムルで見た。 だが、このような洪善杓の主張を後押しするほどの記録はまだ発見されなかった。

これに対し比べて朝鮮後期学者・趙在三(1808~1866)は1855年(哲宗6年)に完成した本 <松南雜識> で蕩平菜の理由を他の所に置いた。 “蕩平菜:青布に牛肉と豚肉を混ぜてこれを作るのでまもなくナムルの骨董だ。 宋寅明が若い時期に店を過ぎ去って蕩平菜葱は声を聞いて思索を混ぜて登用しなければならないということを悟った。 それで蕩平事業をしたと伝えられる。”宋寅明(1689~1746)は1719年(粛宗45年)増広文科で乙科で及第、芸文館検閲を経て世子侍講院ある時当時世子であった英祖の寵愛を受けた。 英祖が賃金で即位した翌年である1725年に東部承旨になって朋党の禁止を王に建議した。 特に1731年吏曹判書になった宋寅明は老論と少論を問わず穏健な人物をあまねく登用して党論を調整した。 1740年左議政になった宋寅明は党派争いを押さえ込んで蕩平の政策を強く推進した。 これだから宋寅明は蕩平事業の主動人物だった。 おそらくそのような事情によって <松南雜識> で‘蕩平菜’という料理を言及して宋寅明の理由を添えたと見なされる。

宋寅明が亡くなって3年後に生まれた柳得恭(1749~1807)は当時漢陽の風俗を書いた <京都雜志> で“蕩平菜というものはサビ豆乳と豚肉、セリ芽を糸のように切って最初をばらまいて作る。 非常にすがすがしくて春の日夜に食べれば良い”と書いた。 それから約50年後に出てきた <東国歳時記> の3月篇で洪錫謨(1781~1857)は“ノクトゥポを作って細かく切って豚肉とセリ皆、海苔を混ぜ合わせて最初をばらまく。 非常にすがすがしくて春の日夕方に食べれば良い。 その名前を蕩平菜と呼ぶ”と書いた。 ところで <京都雜志> よりは遅れて <東国歳時記> よりは先に執筆された金邁淳(1776~1840)の <洌陽歲時記> (1819)では蕩平菜に対する言及がない。 さらに蕩平菜を言及した二つの歳時記でもこれが‘蕩平事業’と関連したものと明らかにすることもなかった。


さらに <京都雜志> では海苔が入らなくてその材料も三種類に過ぎない。 だから思索を象徴する四種類の材料が持った蕩平菜の意味を確認し難い。 <松南雜識> ではすでに蕩平菜という料理を漢陽の店で売っていたといわなかったのか? もし趙在三の記録を事実で受け入れるならば、宋寅明の蕩平事業は蕩平菜という料理の名前で得たことであって決して英祖や正祖の蕩平の政策によって蕩平菜という料理が生じたと見るのが難しいこともある。 かえって色々な材料をまんべんなく混ぜたという意味で蕩平菜だと呼んだ可能性がさらに多い。 実際に‘蕩平’という話は朝鮮時代高尚な人の文でしばしば出る。 思索党派が深刻な政治問題に浮び上がらなかった朝鮮中期以前に蕩平という話は主に‘ナンを平定する’という意味で使われた。 英・正祖時期にきてはじめて思索党派と関連した文でどちら側にも偏らないという意の‘蕩平定平’の‘蕩平’が登場した。


料理書中の料理名で‘蕩平菜’を言及した本はハングルで書かれた <閨壼要覽·음식록>と <是議全書・飮食方文>これだ。 <閨壼要覽·음식록>銀まだ筆者が知られていない。 ただし本の表紙に‘建陽遠緣’と‘丙申五月’と書かれたことから見て高宗が皇帝に即位した元年である1896年に執筆されたと見られる。 この本では版面の位の千頭に料理の名前を漢字で書いておいた。 ところでこの本では蕩平菜を‘炭平采黙’と書いた。 おそらく蕩平菜の他の名前である坦平菜を音だけ借用してこのように書いたと見られる。 だが、ハングルでは‘緑豆のムクタンピョンまだ’と書いた。 その調理法をこのごろ言葉に移せば次のとおりだ。 “澱粉泊まる細かく打ってユッケを細かく打って彩輿炒めてセリさっと湯がいてしてこすってニンニクとネギを色々な高名にセリ切ってしたがあえて初めとして含まれてしてこすったのをひっくるめて切る上にみなばら撒いて松の実の粉粉唐辛子を根元出るのだ。”

ほぼ同じ時期にハングルで書いた<是議全書・飮食方文>でもその名前は‘タンピョンまだ’で出てくる。 “ムク細く打って宿主セリ湯がいて切って味付けして宿主とともにあえて精肉確かめて炒めて入れて熟肉は鞭打って入れて海苔ブッシュ入れてゴマ塩粉唐辛子油初め合わせてチロン(醤油)にハムダム(塩辛くて水っぽい)合わせて黙過したがあえて入れて上に海苔をブッシュのせてゴマ塩粉唐辛子をばらまきなさい。” <閨壼要覽·음식록>と<是議全書・飮食方文>の蕩平菜の調理法はその材料は似ているが、味を出す方式には差がある。 <閨壼要覽·음식록>ではカラシと酢でソースをみなしたとすれば、 <是議全書・飮食方文>ではゴマ油と醤油、そして酢で味を出した。

1924年に李用基が出した <朝鮮無双新式料理製法> では‘蕩平菜青布’と書いた。 その調理法は次のとおりだ。 “チョナムルのようにつくしておいて白い泊めるが黄泊まるコップルはがして細長くて長さはチ タップン(一寸五分、約4.5㎝)でもするようにてきぱき打って入れて海苔を院長(まったく)ごとこすってごみを取り除いてメンニで口語ブース怒鳴って入れて某すべてしたがゆすって墨出るのだ。 わらぶきの家一番上とかたくさん打つことだマテ貝の身や貝の剥き身を僅かの間湯がいて入れればチョフニラ.”チョナムル調理法はムク青布直ぐ前に書いておいた。 “宿主とセリを湯がいて組んでおいて漿果初めと油とゴマ塩粉唐辛子としてネギ湯がいて入れて水かじく入れてモンナニ牛の胸肉に車道を百や豚肉をソロ入れればチョフニラ黄色いネギをたくさん湯がいて入れることがチョフニラ.”結局李用基が紹介したムク青布はチョナムルに緑豆のムクを入れて海苔を壊して入れる調理法といえる。 <朝鮮料理学> を書いた洪善杓もチョナムルに泊まる入れた料理を蕩平菜だと呼んだ。


蕩平菜がチョナムルと違った理由は緑豆のムクが入るためだ。 緑豆のムクは非常に古くなった料理で見なされる。 他の言葉でサビ豆乳あるいはノクトゥポあるいは緑豆青布あるいは青布と呼んだ。 1866年(高宗3年)に作成された <各祠堂各墓所祭享新定式謄錄> には三梁を入れて青布と餅を市中で買ってきたといった。 すでに <松南雜識> エソも蕩平菜を店で売るといったように緑豆のムクを専門で作って売る人が当時にもいたようだ。


<荷齋日記> という本にもそういう記録が出てくる。 この本は1890年頃から司饔院の貢人仕事をした池圭植が彼の生活を漢文で記録した日記だ。 日記には1891年から1911年までほとんど20年を越える期間に毎日のように物を買って宮廷に納品したこと、そして司饔院分院でおきたことなどが記されている。 その中で1892年陰暦3月22日日記に青布が出てくる。 “朝霧が立ち込めて晴れる。 5両は精肉値、9銭は青布値、4銭また、3銭はタバコの値段だ。 ソウル主人老婆に朝を接待した。”今の京畿道広州市雨天近所に住んだ池圭植はソウルに行けば宿泊をする家の主人老婆がその前日彼の家にきたので朝食で精肉と青布で蕩平菜を作って接待したようだ。


1930年代になれば蕩平菜は‘必ず知っておく今月料理法’(東亜日報1931年4月24日付)まで一般に紹介された。 すでに1920年代中盤から忠清北道鎮川には路地ごとにソバ豆腐を販売する食堂が席を占めていた。 ソバで作るソバ豆腐にも肉が入って蕩平菜をまねた。 ただしククスのように長く切って高記帳国にやめて賭けに酒のつまみであつらえ向きといった。( <別乾坤> 24号、1929年12月1日付)京城には冬の夜にソバ豆腐を売りに通う商売人がいたほどであった。 蕩平菜やはり植民地時期に各種料理書に登場するほど代表的な接客料理として地位を確立していった。

だが、韓定食を販売するレストランで蕩平菜がなくてはならないメニューになった時は概略1970年代以後で見なされる。 春に食欲をかきたてる京畿道の土俗料理で浮上(京郷新聞1971年3月18日)すると、ついにお客さん上の中心メニューになった。 “お客さん膳を調える時大きい皿中心位置にムク切ったのをうずたかく入れてその周囲に色々な野菜肉炒めなどを色合わせて九節坂入れるように入れて、たれを添えてだしておけばお客さんが黙過野菜を減らしてたれにあえながら入るようにすれば多彩だ。”(東亜日報1971年3月29日付、尹瑞石)たとえ蕩平菜は古くなった料理だが、その容貌は時代ごとに変身を繰り返してきた。 1970年代中盤経済発展がスピードを出してソウル江北の韓定食料亭には毎日政治が・経済人・高位公務員たちですごい盛況を成し遂げた。 その渦中に蕩平菜は交子床の上で韓国料理を象徴する地位を捉えた。 それも英祖と正祖の名前を抱いて。

http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?artid=201107192125085&code=960100&s_code=ac094

2016年12月11日日曜日

[ジュヨウンハの食べ物100年](19)明太子

ジュヨウンハ|韓国学中央研究員教授
入力:2011.07.12 21:28:57 修正:2011.07.13 11:05:35

1922年10月1日京城の長谷川公会堂で京城商工会主催で朝鮮食糧品品評会が開催された。 毎日新報当日付新聞では‘物価調節問題が高まった昨今食糧品評会開催’という題名を付けてこの内容を報道した。 それと共に“値段が安くて簡易な生活をしようとこと減らした必ず一度見物すること”と強調した。 特にこの品評会観覧は一般人にも必要だが夫人に対しては最も切実だと使った。 食糧とか当然料理が中心となった展示会であった。 展示場は日本・朝鮮・中国・西洋に分けられたし、審査委員による品評会も進行された。

“朝鮮料理は食道院で出品下野毎日行きに置いて軍隊料理は軍隊でしながら汽車弁当は、会期のうち全朝鮮のことを出品して公衆審査に付けて学生弁当は、毎日カロソ回で出品して栄養なる料理は東京栄養研究所発表にホンリムによるが京城第一高等女学校で毎日カロソ出品するところである一日二千五百エイ(カロリー)の栄養を摂取する値段が安いのをホンリムする。”

この品評会では審査を経て全271人の受賞者を選定した。 その中で優秀賞は20人、1等賞は37人、2等賞は65人、3等賞は149人が受けた。

不幸にも優秀賞は全部日本人が運営する業者に戻った。 だが、1等賞には朝鮮人受賞者が一人とした業者がいた。 その人は朝鮮焼酒を出品した高揚のシン・テヨンであったし、ある業者は朝鮮菓子を出品した京城の食道院だった。 前の毎日新報記事に出てくるように食道院は彼らが扱う朝鮮料理を全部出品するようだ。 なぜなら土蔵と明太子で3等賞も乗ったためだ。 だが、この3等賞の受賞者は食道院でなく安淳煥に出てくる。 20世紀最初の朝鮮料理屋の明月館主人安淳煥(1871~1942)がまさに彼である。 彼は1919年3・1運動にかかわって監獄生活をした後ミン・ポンホという人物に明月館光化門本店と仁寺洞地点を売った。 その後1921年頃安淳煥は南大門近所今の中央郵便局北側道に食道院という朝鮮料理屋を整えた。 だから安淳煥の名前で3等賞を受けた土蔵と明卵は食道院で出品した作品だと見ても関係ない。 だが、土蔵は淳昌のキム・ヨンムとともに賞を受けた。 これに対し比べて明卵だけは安淳煥一人で受賞者になった。 したがって明卵は食道院で料理膳に上がった料理だったことが明らかだ。


1922年10月2日付東亜日報にのせられた朝鮮食糧品評会写真.

明卵というのは全部知ってのとおり明卵漬を示す。 干し明太の卵を明卵だと呼んで、それを塩辛に漬けたのを明卵漬だと呼ぶ。

李圭景((1788~1856)は <五洲衍文長箋散稿・北魚辨證說>で19世紀初期干し明太の事情を詳しく聞かせる。 “朝鮮東北海中にある魚だ。 できるということが狭くて長がるように程度だ。 口が大きくてうろこが殆どない。 和らげた赤黒い色だ。 頭にはカボチャのように楕円形の骨がある。 腹には卵があるが、小さくて細くて冷たくなる。 また、肉は羊の油や豚の灯心肉と似ている。 それで膏脂美だと呼んだりもする。 その名前は北魚で、民間では明太と㴑呼ぶ。 春に捕えられるのは春太だと称して、冬に捉えるのは凍太だと称する。 同こと月に市場に出てくるのは凍明太だと呼ぶ。 塩辛に漬けた卵醢(卵해)は明卵だと称する。 生ものの肉は質が荒いが味は淡白だ。 乾燥させればフォーとなる。 一箇所集まっていて一匹を捉えれば数十匹がついてきて四方がぎっしり埋まる。 毎日のようにご飯おかずで使われる。 余抗の貧しい人々は神霊に祭祀を迎える時乾燥することで重要な除数とする。 貧しい士の家でも祭祀の時上げなければならない各種肉お供えをこれで代る。 だから価格は安いのに比べて尊く使われる。 単に食べることができるだけその名前を分からないから果たして正しいだろうか!”

推測してみれば北魚(注:干し明太)は19世紀の時朝鮮半島で最も広く食用された魚中の一つだったということがわかる。 それでも明卵が広く広がったことではなかった。 ぼら・サケ・ニベなどの卵を卵巣ごと別に取り出して塩漬けにして太陽の光に半分ぐらい止めた料理である魚卵は長期間常温で保管が可能だ。 これに対し比べて明卵は卵巣が丈夫でなくて単に塩漬けにして漬けるだけだ。 冬でなければ常温で簡単に腐ってしまう短所がある。 それで冬にだけ咸鏡道から南側の韓半島に流通した。 1909年一年の間咸鏡道から釜山に720ウォン分の明卵が流入(皇城新聞1910年1月29日付)なった時も主に冬だった。

1934年版方信榮の <日日活用朝鮮料理製法> でも‘明卵漬’と書いて、“冬に食べることであるから北魚卵(注:干し明太の卵)で作ったことで日にも食べて蒸しても食べナニ(中略)生で食べるのは明卵をまないたに置いてよく入る刃物で五分の長さで切って-違うものを切るように切らずに刃物でぷつんと処暑よくルラ-皿に盛って黄色いネギを一寸の長さで切って鞭打って皿あるそばにものなどで置いて初めを少しうって上に置くということなのだ”とした。 ところで先に出版された1921年版 <朝鮮料理製法> ではこの明卵漬に対する言及がなかった。 おそらく1910年代初期だけでも特別な場合でなければ明卵漬を京城の人々が接することは容易でなかったためでないか?

1914年9月16日京城と元山の間に京元線が開通して明卵の流通はその以前元山と釜山の間を行き来した船ぐらい近づいた。 それで例の朝鮮食糧品品評会で安淳煥が新しい料理で明卵を出品することができた。

明卵漬調理法は1924年に出版された李用基の <朝鮮無双新式料理製法> ではじめて言及された。 “明卵漬:明卵漬はチゲをしても生で食べるのに黄色いネギやこと差し上げれば普通冷えて(嫌い)という人がオムナニ. この塩辛は正月が過ぎれば食べることを少なくハ出るのだ。 この塩辛の元悪(あまりにも)フナヤ マニ食べるが味は格別味アップ出るのだ”とするほど1920年代に冬珍味で京城の人々の食欲をかきたてた。

元山では鉄道の完工と共に始まった元山と清津をつなぐ咸鏡線が次第に北につながって明卵は京城で発行される新聞記事にその名前が次から次へ登場する。 元山をはじめとして咸鏡道の主な漁港に進出した日本人たちは朝鮮人が干し明太を非常に好んで食べるという事実を知って発動船で独占し始めた。 本来朝鮮人漁師はゴルグ網と呼ばれる刺網で明太を捉えた。 横に非常に長い四角形の網を明太魚群が過ぎる通路に垂直で広げて網目にささるようにして捕まえる方法であるが刺網漁法は発動船を利用した旋網漁法を耐えがたかった。 旋網漁法は網で明太魚群をくるっと回って行かれるその区域内の明太をさらって捕まえる方法であるためだ。

日本人の発動船と旋網は干し明太漁で絶対的な位置を占めた。 たとえば1930年咸鏡南道の漁港で稼動した発動船は全24隻だったが、その中21隻が日本人所有であった。 最も大きい問題は干し明太の稚魚さえも全部捉えてしまう日本人所有の発動船にあった。 結局1920年代末から咸鏡道の主な漁港で活動した朝鮮人漁民がこの問題を世論化させた。 1930年3月4日付東亜日報では‘咸南の明太魚’を扱ってこの問題を持ち出した。 さらに同じ新聞1931年3月8日付では咸南の中部海岸に位置する洪原郡有志が‘密漁発動船横行’問題を地方世論で当局に求める記事まで掲載されるほどであった。

特に明卵の改良問題は深刻だった。 すでに日本人によって干し明太の加工はもちろんで明卵さえも缶詰めで加工されて日本列島はもちろんで台湾と満州に輸出されるほど盛業を成し遂げるとすぐに朝鮮人貿易商の心配が山ほどだった。 座談会に参加した大貿易商ジョンジョンソンは“明卵においてはそれが輸出することになったことは今からわずか4~5年前のことなのにたいてい日本と台湾でたくさん需要します。 これも外人の加工品よりは品質が良好で値ない下野販売価格において朝鮮の人の調製明卵は約2割引になるといいます。 しかし地帯上で見てからは私たちは加工品製造に対してこそ場所と気候が非常に適当下野とても発展する余地が万朶で考えます”という意見を表明した。

1920~30年代洪原郡の三湖は全国で明太漁獲量が最も多い漁港だった。 1933年8月25日に‘三湖まるぼし(代表:紙標準)’という運送店主催で明太漬(明太子)まもなく明卵問題協議会を結成して面長など有志らと漁民が対策を議論するに至った。 彼らは朝鮮運送株式会社と朝鮮総督府鉄道局に明卵運賃を引き下げてほしいと要請することに決議した。 同時に明卵製造を改良する方法に対する議論をすることにした。 詳しい改良方法が出てこないけれど、明卵を洗って水気を抜いた後に塩漬けにして粉唐辛子をそばに塗る方法でないか推定してみる。

今日日本人たちは明卵を辛子明太子と呼ぶ。 ここでカラシとは唐辛子を示す。 明卵の塊りのそばに粉唐辛子を塗ったのでできた名前だ。 このような明卵調理法は19世紀以前にもあったことだと見なされる。 ただし1908年に福島出身樋口伊都羽(1872~1956)が釜山で明太子製造をして下関に送ったが、それはやはりこのような製造方法を使ったと思う。 1920年代中盤以後から解放以前まで釜山所在樋口の商店は非常に繁盛したと分かる。 だが、今日日本列島で辛子明太子は福岡の博多が名産地で有名だ。 博多明太子の由来に対しては色々な主張があるが、川原俊夫(1913~1980)が1949年1月10日から博多で‘味の明太子’という商標で販売をしたことは明らかな事実だ。 おそらく植民地時期から釜山と福岡の間の人的交流が韓国語明太の日本式表現である‘メンタイ’を維持させた力だった。 ‘味の明太子’は1970年代中盤以後福岡はもちろんで日本列島全体からすごい歓迎を受けた。 だから今日多くの日本人たちは明太子を自分たちの古い料理で知っていたりもする。

今日韓国で明卵は‘あまりにもありふれている’でした李用基が生きた1920年代初期とは事情が余りにも違う。 南北分断は咸鏡道の明卵をこれ以上越南させなかった。 それでも姿を見せた古城近海の干し明太も1990年代以後地球温暖化によってさらに北に移動してしまった。 結局今日韓国人の食卓に上がる高価格な明卵はほとんどのロシアから持ってくる。 李圭景が明らかにしたことと反対にもう干し明太や明太子や価格は高くて味見も難しくなった。 これら全て人間の欲が持ってきた結果だ。

http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?artid=201107122128575&code=960100&s_code=ac094
[ジュヨウンハの食べ物100年](18)片肉

ジュヨウンハ|韓国学中央研究員教授
入力:2011.07.05 21:13:45 修正:2011.07.13 10:52:04

・スユクを薄く切った料理が片肉…豚頭が逸味

朝鮮時代の人々が料理を上に整える時どんな規則を有していたのか非常に気になるが不幸にも19世紀中盤以前の文献のうちでまだこれが発見されたことはない。 ただし19世紀末頃に使われたと思うようになる <是議全書·飮食方文>の末尾に‘飯床食刀’が出てくるだけだ。 この本の‘飯床食刀’には九妾飯床・七妾飯床・五妾飯床・そば床・酒床・神仙炉床・イムメ床の食膳規則が図で描いている。 ところでそば床・酒床・神仙炉床を除いた残りの床には皆にはハングルで書かれた‘熟肉(숙육)’との料理が出てくる。 それだけこの本の著者は熟肉を膳を調える時必ず出さなければならない料理で理解するようだ。 熟肉とはどんな料理か? 当然この本にその調理法が出てくる。 漢字で‘孰肉’と使ったが、おそらく‘熟肉’の誤りと見える。 “牛の胸肉・孵化・道ホ・乳筩・牛嚢・牛頭・事態・利子・猪肉をみなゆでて切ってスナニラ. ゆで骨カルに合わせてボーに安くて押して使えば良いのだ。 猪肉は醋醬と塩辛汁とコ・朝粉入れて使ってニンニク チョミョ包んで食べることでいやハ出るのだ。”

知ってのとおり牛の胸肉は牛の胸についた骨と肉を示す。 孵化は肺を示すボアの誤りと見える。 道壊す脾臓で脾臓部位を示す。 乳筩は牛の乳房の肉を呼ぶ言葉だ。 牛嚢は牛嚢で鉄金玉を意味する。 牛頭は牛の牛頭肉だ。 事態は牛のひかがみについた肉塊を示す。 利子はすい臓の他の言葉だ。 猪肉は低肉(저肉)まもなく豚肉と呼ぶ百姓らの言葉だ。 たとえこの本では牛肉の肉塊あるいは内蔵部位、そして猪肉だけを言及したが、広い意味で熟肉は肉をゆっくりゆでて出して水気を抜いた料理を示す。 ところでゆでて骨を選んだ後に風呂敷に安くて押して使えば良いといった。 熟肉を薄く薄く切った片肉を念頭に置いてこのように書いたようだ。

朝鮮時代文献で‘片肉’という単語は大きく二種類の意を持って使われた。 その一つは肉切れを示す時使った。 他の一つは料理の名前としての片肉だ。 概して19世紀中葉から熟肉を薄く切った料理を最初から片肉だと呼ぶようだ。 1865年(高宗2年)陰暦10月1日景福宮の光化門左側に議政府が改築した。 同じ年のような月12日、これを記念して高宗が議政府を直接訪問した。 議政府では高宗が座った席に藥果・茶食・梨・柿・ユズなどと共に肉類で片肉・煎油魚・華陽炙・甲膾と各種焼き物をした皿ずつ上げた。 この内容は <親臨政府時儀軌> という本に出てくる。 おそらく現在まで片肉が独立した料理名前で登場した文献はこの本が初めてではないか見なされる。

1924年出版された <朝鮮無双新式料理製法> で李用基は‘片肉食べる方法’という項目を置いて本格的に片肉に対して扱った。 ところで彼の片肉に対する論評が全く肯定的でない。 “片肉というのは自來食性であり風俗であり習慣というだけのものとか、わずかな違いにすぎず、薬は捨てて残滓を食べるわけだから、円、良い肉味はみな抜けたもので何でそんなにおいしくて滋養になるだろう。”このように片肉に対して言及して李用基はひたすら古くなった慣習だとやむを得ずこの本に書いただけという心情を明らかにした。

この本の他の項目では主に‘作る方法’と書いたが、唯一片肉では‘食べる方法’と書いた。 それと共に牛の胸肉片肉・オプジン片肉・猪肉片肉・牛の頭片肉四種類を扱った。

この中でオプジン片肉のオプジンは牛の胸についた肉を示す。 オプジン片肉は“日増しに持って行ってゆでればスープが第一ですあるいは肉は味も良くてククスにかって食べるのが一番良いから片肉のうちで相等になって出るだろう”とした。 実際に日帝時代調理所と新聞・雑誌に紹介された片肉は主にそれ自体よりは他の料理の材料で使われた。 日帝時代平壌料理で有名だった魚腹錚盤に入る片肉もオプジン片肉が一番上だった。 “当初には牛肉で作るのかを違って魚内蔵もって作ったことだと魚腹といったことのようだがその後には牛の内蔵に牛の骨髄を混ぜておいて作ったようで次には牛肉に牛の骨髄を混ぜて入れて作ってついに今の魚腹醤湯になって話はようです。 ところで今の魚腹醤湯は純然な淡い雌牛の胸パックが購入-京城で‘ジュプジン’といわゆる片肉を作る肉-で作るのにその中にもよく作る魚腹には今でも骨髄を入れたというが大慨は値が高くて救うのが難しい理由で骨髄は入れないで‘ジュプジン’肉でだけ作るといいます。”(東亜日報1926年8月22日付)


<是議全書·飮食方文>に出てくる‘飯床食刀’.
図上の九妾飯床は外側の下で左に半分、塩辛、佐飯、煎油魚、熟肉、キムチ、膾、ナムル、サム、焼魚、ユク焼き、羹.
内側は下で左に最初、カラシ、チロン(醤油)、両ジョチ、魚ジョチ、澄んだジョチ.
下の図は七妾飯床で外側の下で左に半分、塩辛、佐飯、膾、キムチ、熟肉、ナムル、サム、焼き物、羹.
内側の下で左に醋醬、カラシ、チロン、味噌チゲ、澄んだジョチ.

ここの‘ジュプジン’がまさにオプジンだ。 李用基はオプジン片肉をアミの塩辛に油と粉唐辛子を打って片肉を細かく切って入れてしたが混ぜ合わせ食べたりもするといった。 前の東亜日報の魚腹錚盤を書いた人‘ポ・ドゥルスェ’も“ソウルのいわゆる牛のスープ具味付けするように色々な調味料(ヤンニョム)を下野その肉を煮出した湯に入れておいたので果たしてどれくらいおいしいでしょうか”と感心をした。

1921年版方信榮(1890~1977)の<朝鮮料理製法> では別に片肉調理法を言及しないまま、ククスビビンで“ククスをお湯にゆすいでおいて器に入れた後おいしい大根キムチやナバクキムチと梨と片肉と猪肉片肉をまま打って入れて少しの間混ぜておいてまた油をさしてセリ油で炒めて切って入れて擦って接待に入れた後いろいろまま打ったのと錦糸卵まま打ったのとまた、椎茸ソクをまま打って油に炒めて上に根百合と”とした。 冷麺にも“片肉と猪肉片肉をまま打って入れて”、さらにトンチミ汁の冷麺にも“ダイコンと梨とユズを薄く薄く切って入れて猪肉切って卵送って鞭打って入れて胡椒実柏子を入れて墨出るのだ”とした。 おそらく片肉はオプジン片肉が明らかに見える。

李用基は彼の本で‘猪肉片肉’を言及して括弧中に‘猪肉’と別途表記をしておいてそれが猪肉であることを確認させる。 “猪肉は色々なものが片肉で使うので頭が一番上になるのは皮と耳と鼻がみなそれぞれおいしくてその次には乳筩が良くて足首は八珍味に入ると言って好きだが丈夫な心列が足首にはあって足首一つに骨が緑豆半チャゲ(緑豆を半分で裂いたこと)のようなものがあって数が二十六個とし、味も格別ヤン良くなくて食べるにも苦しくてかえってカルビがおいしいから育成紙を蒸し器に蒸してこそおいしいのだ。”まもなく猪の頭片肉が最もおいしいという事実を強調している。 普通ソウルや南部地域の人々はこの猪肉片肉を食べる時必ずアミの塩辛につけて食べた。 だが、北側の人々は塩につけて食べてこそ良い味が出ると感じる。 李用基はこれに対して北側にアミの塩辛が尊くてそうなのではないか考えた。

オプジン片肉や猪肉片肉は今でもなじむ片肉だ。 これに対し比べて李用基が言及した牛の頭片肉食べる方法は非常に特異だ。 “牛の頭を脆くして大きく切って夏に冷水に氷入れて牛の頭の部分を入れて漿果葱とゴマ塩・粉唐辛子・カラシなど水を入れて青唐辛子を分けて入れて汁をすくって食べて肉は最初につけて食べるものの大根の葉キムチと付け加えれば合奏(夏に飲むもち米で漬けたドブロク)酒のつまみに上騰されて出るだろう。”これだから朝鮮料理屋で片肉は酒の肴で人気が高かった。

前の <是議全書·飮食方文>でも見たように牛の胸肉は熟肉の材料のうち一番上に選ばれた食材料であった。 李用基やはり牛の胸肉片肉を四種類片肉のうちで一番最初に挙げた。 “牛の胸肉は牛の肋間の肉がいいが硬く告訴するブンイヨの中では硬くて丈夫な味がなく後方にフドゥルドゥルしたのが香ばしくて味が一番良いから草の葉っぱのように切ってモスム(一握り中に入るほどの分量)ごと醋醤につけて食べて株漬けキムチやカクテキに付け加えるのも非常に良いのだ。 また、アキアミの塩辛につけて食べることがより一層良いのだ”とした。 ひたすら牛の胸肉片肉だけがそれ自体で立派な一品料理になった。 高宗が1865年陰暦10月2日改築した議政府で召し上がった片肉も明らかに牛の胸肉片肉であっただろう。 ところでこのごろの人々は片肉といえば猪肉で作ったことで、スユクといえば牛肉で作ったものと考える傾向が強い。 スユクは熟肉と漢字語を発音するのに良くさせた民俗語彙だ。

片肉と似た料理の名前でこのごろ流行するのは‘ポッサム’だ。 本来‘ポッサム’はゆでて骨を抜き出した豚などの牛頭肉をボーに包んで重いことに押して丈夫にさせた後切って食べる料理という主張(パク・カプス、‘八字(注:運命)のせい、ポッサム - 褓(ポー)’、 <ハングル漢字文化> 114,2009)もある。 前の <是議全書·飮食方文>でも出てくるように風呂敷に包んで押さえられたので‘ボー’がついてこれを白菜キムチに安くて食べるのに‘サム’になった。 今は豚の三枚肉を主に使うが、本来は李用基が猪肉片肉で明らかにしたように猪の頭肉がたくさん使われた。 1966年7月28日付東亜日報では豚値が暴落したという便りを知らせた。 ところでその理由が逆説的だ。 “アメリカ余剰農産物の導入量が減ってふすまの値が上がったためだ。 政府が豚を育てろと奨励したし予防注射薬の発達で伝染病の威嚇は少なくなったので豚家族は増えたが食べさせるのが大変だ。 高い飼料に育ててこそ飼料値も出てこないとむやみに部屋鷹するという。 一ヵ月前に3千ウォンずつしたことが今は半額に売買されると(京畿道利川の場合).”

別名‘ポッサム家’の流行やはりそれほど古くならなかった。 概して1980年代中盤以後だ。 片肉材料の代名詞であった牛肉がその場を豚肉に渡した時も概してこの頃だった。 知ってのとおり豚肉は韓国の人に別に人気がなかった。 漢方薬を食べて豚肉を食べれば髪の毛が白くなるといううわさ、豚肉に寄生虫があって誤って食べれば死ぬことになるという俗説、さらに豚は牛とは違い人の料理を共に食べるので競争者だったので。 牛肉値の暴騰を防ぐために1970年代初期以後政府では食品学者と料理学者まで動員して絶えず豚肉の栄養と調理法を広報した。

結局1980年代初期以後豚肉消費量は牛肉を越えた。 豚ポッサムの流行も分かってみればこのような政策の結果であった。 脂身を抜いてあらゆる薬剤で煮込んだ豚肉片肉の変身である豚ポッサムは明らかに栄養価多くの料理だ。 さらに白菜キムチとともに付け加えるので逸品にならざるをえない。 だが、その後には国民の食欲も管理する政府があった。

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