2016年10月1日土曜日

塩は罪がない

嘘を読みます<2>真っ白に蒸発された記憶、天日塩

産業革命終列車乗った日本帝国
工業用莫大な塩必要になる
1907年から韓半島で生産開始
‘千年の神秘・先祖の知恵’は虚構
私たちの塩は火をたいて作る煮鹽
朝鮮戦争の後山林き損防ぐために
やっと受け継いできた煮鹽命脈すぐ切れて
塩田奴隷のようなうわさ回る現実
‘天日塩世界最高’論じることができるだろうか


 
天日塩は1,000年を受け継いできた民族の神秘であろうか。
でなければ苛酷な労働上に立っているしん気楼であるだけであろうか。

いったいどうしようもない程かわいそうな嘘がある。 すぐに共同体の盲信が産んだ嘘だ。

善悪を問わず、手放しで信じるのは盲信だ。 実際と状況に目をとじた食べ物の話は食べ物だけ台無しにするのではない。 考える方法と対話する方法を壊す。 その悪影響は次世代にまで及ぼす。 事実と実際に正直に相対する人、現実を具体的に説明しようとする人は敵に追い出される。 共同体の敵にならないために盲信に巻きこまれたり、信じるふりをしたり、分かっても分からないふりをするとき、悪循環は救済不能状態となる。

身土不二は答でない

今からしようとする話は誇らしい話ではない。 盲信が産んだ代表的な韓国人の嘘、不便だが必ず一度つかなければならない塩を囲んだ盲信と嘘に関する話だ。

韓国産天日塩はこの土地の神秘と先祖の知恵で成し遂げた世界最高の塩か? いわゆる専門家という人々がそうだという。 大衆はその話を無条件に信じる。 だが、どんな根拠で天日塩を褒め称えるのか尋ねれば黙って、返答がない。 身土不二は正しくなされた返事でない。 天日塩を盲信する人々には共通点がある。 彼らは私たちが食べてきた塩の歴史、塩生産の条件、労働問題などには関心がない。 実際と現実に無知でまた無感覚だ。

当然の話だが塩は韓国だけで私は物質でない。 世界あちこちで、あちこちの自然条件により多様な塩が多様に生産されている。 良い塩の基準は特定成分だけで決めることはできない。 安全と衛生が担保されて、人間と環境に対する尊重が宿った食べ物はどの共同体でも大切だ。 塩が例外にならない。 必ず必要かつ大切なので必ず念頭に置かなければならない部分だ。 塩には与えられた自然環境で生き残るために奮闘した共同体の歴史が宿っている。 塩の話はこれを確認して始めるということが正しい。

日本帝国の企画品、韓国天日塩

天日塩. この土地で1907年に始まったので100才を越えた塩だ。 100年の間有難くよく食べた。 しかし千年の神秘や先祖の知恵とは何の関係がない。 天日塩盲信者などはこの年代記を全く分からない。

韓国人が天日塩を食べる前まで、韓半島塩の大半は煮塩または火塩だった。 煮塩は焼いたという意味で、火塩は火をたいて得たという話だ。 ‘ファリョム’というギョトマルもある。 干潟土を掘り起こして作るという点では土塩とも呼ばれた。 “達人塩” “煮つめた塩”という話もある。 日本では煮詰める煎、炒める熬を使って煎熬塩といった。 どのような話でも人の力で濃度濃厚な塩辛い水を集めて、その水に火をたいて塩結晶を受ける過程が宿った言葉だ。

韓国天日塩生産は産業革命の終列車に乗った日本帝国が企画した。 化学工業に莫大な塩が入るためだ。 日帝は1895年台湾を飲み込んで台湾を通じて天日塩製法を習う。 1905年韓国(大韓帝国)に統監府を設置しては韓半島に天日塩田を作る構想を始めた。 日帝の企画と韓国の財務部署である度支部の反応が動力になって1907年仁川主眼と釜山龍湖洞で天日塩試験が成り立った。 1908年には平安道広梁湾で天日塩田が拡大した。 1907年で1944年まで日帝が韓半島に作った天日塩田の面積は概略6,090町歩(1町歩は3,000坪)に達する。 韓国天日塩の歴史はその年代記がとても明らかだ。

 
鹽造之人. 19世紀風俗画家金俊根が描いた塩焼く姿.
火を沸かしながら塩を勝ち取る風景だ。 オーストリー・ウイーンの民族学博物館所蔵.

100年前の問題も労働

天日塩盲信者などは塩の歴史が労働の歴史という事実に絶望的であるほど関心がない。 100年前その時、ちょうどできた天日塩田で塩釜役割をしようとする韓国人はなかった。 塩釜の仕事は、当時韓国人が見るには代々塩だけ焼いて死ぬ貧しい人々の仕事、奴婢の仕事、軍役のためにやむを得ず一手に引き受けた水軍の仕事だった。 仕事をしようとする人がいない? 今日と全く同じだ。 初めには山東から数千人の中国人労働者を輸入して使った。 これらが基盤を磨き上げた後に韓国人が天日塩田に入り始めた。 当時大型塩田の所有者であった韓国度支部は賃金もまともに与えることができなかった。 移住労働者は爆発した。

1910年4月広梁湾塩田で仕事をした中国人労働者は処遇改善を要求して争議を始めた。 そうした中で6月には韓国人と中国人が組に分けて投石戦まで行った。 結局1910年6月20日854人の労働者が船に乗って再び故郷山東に戻った。 この中ごく少数が農業移民に定着する。 金東仁小説‘ジャガイモ’に出てくる白菜畑は多分山東出身塩釜の後裔が育てた畑であっただろう。

その争議の細部は詳しくない。 ただし主謀者19人の逮捕の便りだけは明らかに残っている。 移住労働者854人が“トェ、仕事ないし!”と戻るところなのに、当局は争議の主謀者だけは確かに逮捕した。 100年前塩田の労働はこうだった。

1920年代に入って天日塩田は朝鮮人労働者の占めるようになった。 農地ない農民、鉱山の日当より安い日当でも受けて仕事をするという人々が天日塩田に集まった。


 
広梁湾塩田で広がった韓国人労働者と清国人労働者の衝突を報道した
皇城新聞1910年6月5日付記事.
天日塩神話は塩釜の苛酷な労働実態を区別する。 国立故宮博物館所蔵
 
大韓民国、煮塩生産を終わらせる

煮塩生産も大変疲れることは同じだった。 塩を焼こうとするなら多くの燃料が必要だ。 だが、国家は燃料を支給しないで塩を焼くようにした。 燃料調達は労働者に押し付けた。 塩労働者はいつも燃料が惜しかった。 これらが燃料を救うために他人の山に入って山主に侮辱にあった。 国有林に入ったら村のお上が捕えて殺した。 塩労働者が当てられた苦境とくやしい死は‘朝鮮王朝実録’等の記録に一杯になって溢れる。 安い労働力をいくらでも使えて、燃料も入らない天日塩は即座に煮塩を押し出して韓半島を席巻した。

朝鮮戦争以後大韓民国政府もまた、山林き損を防ぐために煮塩生産に干渉した。 政府は1960年‘塩業臨時措置法’を公布してそれなりに少し残っていた煮塩生産を完全に切ってしまった。 以後塩を囲んだ韓国人の想像力は明らかだった。 塩とは海辺塩田で出る天日塩で固定された。 煮塩の歴史も天日塩の歴史も神秘に覆われた。 そうするうちに最近煮塩生産も再び伸びをしている。 天日塩に続き煮塩にも‘神秘’や‘先祖の知恵’を持って付ける。 その一方で韓国塩の歴史で天日塩登場と煮塩退場の意味を見て回ったことはない。 神秘たわごと、先祖たわごとは無知や無感覚の他の顔なのかも分からない。 歴史を分からないから教訓もない。

塩の衛生と品質を論じてこそ

天日塩は韓国歴史最近100年の産物であり厳重な現実の産物だ。 私たちは盲信に惹かれてその間私たちが本来確かめてみなければならない塩の話はのがしていた。 安全と衛生に対する正当な要求、新しい調理法と新しい食べ物登場にともなう多様な需要そして品質の国際的比較という状況にまだ目をあけられなかった。 塩微粒子1,2トールで味を増幅する食べ物が良い塩を要求する時代だ。 塩が家庭とレストランと食品産業など多様な消費者の選択を受けようとするなら具体的な細目に目を開かなければならない。

安全と衛生は基本のうちの基本だ。 塩決定の大きさ、形、色、水分などに対する精密で洗練された接近が必要だ。 先進食塩産業は今日サイコロ、多面体、多孔質立方体、うろこ、球、棒に達する多様な決定の形態に食い込んでこれを品質の実現の踏み台としている。 燕巖・朴趾源が1757年に使った‘閔翁伝’だけ見ても“水晶塩”と“素金塩”が登場する。 結晶形態を区分したのだ。 韓国で塩専門家のふりをしてきた人々の中で現実と細目に対する感覚を持った人がいるのか。

海辺に塩田が造成されたとすれば景観産業は基本だ。 しかし労働問題を解くことができない限り景観産業はない。 “塩田奴隷”のような荒々しいうわさの中で景観産業が可能だろうか。 専門家ならば塩田の地主小作制に食い込む工夫からしなければならない。

“塩は韓国天日塩が世界最高!”という宣言ができることはない。 事実と現況を直視しよう。 1,000年を受け継いできたことは神秘ではない。 塩生産にともなう環境と労働、適正生産費用、適正価格、持続可能な塩生産の条件を囲んだ問題が解けなくて続いている。 塩は罪がない。

孤影(食べ物文献研究者)

http://www.hankookilbo.com/v/f91621ebd54b49068593a80ae716d987

2 件のコメント:

  1. ファン・キョイク、自らの天日塩の文について公開謝罪した理由
    http://www.entermedia.co.kr/news/news_view.html?idx=4793
    天日塩が私たちの固有の伝統的な方法で作られた塩というのは捏造されたものであった。天日塩は1907年に日本が台湾の技術を取り入れて朝鮮の土に移植した塩の製造方法であった。だが、台湾ですら天日塩よりは精製塩をより多く使っていた。台湾の七股塩田から出るのは工業用塩であり、それは洗浄工程を経てはじめて食用に可能だと述べた。私たちの天日塩が過去の工業用の基準をそのまま取り入れており、きちんとした衛生基準を設けずにいるのとは全く対照的な話に違いない。

    私たちの伝統的な方法の塩というのは天日塩でなく、干潟を集めて濃縮された塩水を沸かして作る『煮塩』だった。高麗時代と朝鮮時代の史料にも残っているこの煮塩は、しかし、現在は歴史の中に消えた塩である。その空席を天日塩がまるで私たちの伝統的な塩のように占めているというのである。

    ファン・キョイクは日本が移植した天日塩は主に化学産業用で使われる値段が安い天日塩を製造するためのものだったと述べた。

    返信削除
  2. 天日塩が伝統塩?100年前にはなかった

    キム・ギチョル記者
    入力:2012.08.04 03:18

    天日塩は、1世紀前、台湾を真似て導入... 私たちの伝統的な塩は、海水煮た「煮塩」
    塩が珍しくなくなったのは李承晩政権の時から

    小さいながらも大きな韓国史、塩
    ユ・スンフン著|青の歴史| 420側| 2万

    1946年4月、ソウル龍山塩配給所に人波が押し寄せた。塩を二斤ずつ配るという報せがあったからだ。2カ月以上塩を見ていない住民たちはお吸い物に入れる塩さえすっかり無くなって不満が溜まっていた。ところが手に入れて見ると、塩には銀色の砂のような異物が混ざっていた。苦味まであった。この塩を食べ物に入れた住民たちは腹痛と下痢に苦しめられた。新聞には「配給塩有毒説?」のような記事が載った。 銀色の砂のような異物は澗水が固まってできた硫酸マグネシウムだった。澗水が十分に抜けない不良塩を配分したのだ。

    解放後の一時的混乱のように見えるが、不良塩騒動は日帝強制支配期、日本が北朝鮮だけに天日塩田を集中的に設立したので起きた構造的問題であった。8・15解放で南北が分かれ天日塩田が絶対的に不足した南側は塩飢謹に苦しめられたのだ。

    歴史民俗学専攻者のユ・スンフン(42)釜山博物館学芸研究員は塩を材料にした韓国史を再構成する独特の本を書いた。国は、早くから塩の生産と販売を介して、税金を収めて財政を確保するために目を入れた。

    ◇高麗チュンソン王時に導入した塩専売制

    元国の支配を受けた高麗末、初めて塩専売が実施された。子供の頃の大部分を元の国で過ごしたチュンソン王この塩転売を介して財政収入の3分の2をおさめドゥルイドン元国の制度をベンチマーキングしたものである。国家財政は丈夫たが、塩を生産していた鹽戶は、税金を払うのになどが曲がる状況だった。「性理学の国」朝鮮では、調整が民と塩の利益を争うことに対して批判的視点が優勢だった。しかし、壬辰倭乱が勃発する柳成龍は兵糧・軍備確保のために、塩と鉄の生産・流通を管理する鹽鐵使制度を提案した。18世紀の実学丁若鏞も民のための染法改革案を発表した。しかし、朝鮮は、塩の問題を解決できないまま、開港と日本の侵略を迎えた。

    韓国最大の塩の産地である全羅南道新安郡の証太平塩田。1953年に設立された太平塩田は登録文化財360号に指定された近代文化遺産である。

    ◇韓国の伝統塩、「煮塩」

    著者は天日塩を私たちの伝統的塩と考えている現実が不満だ。天日塩が入ってきたのはわずか一世紀前の事。日帝が朝鮮末、台湾のものをまねて持ってきたということだ。我が民族が本来使っていた塩は海水を沸かして作った'煮塩'。特に西海岸に発達した干潟を利用して塩を得る方式が盛んだった。干潟の有機物が塩に混ざり、おいしくて身体に良い塩が作られた。
    問題は海水を沸かす塩釜に使う燃料であった。朝鮮時代はずっと木材のほか適当な燃料がなく、塩田の周囲は禿山になってしまった。

    ◇塩言葉米言った言葉?

    日帝は1907年仁川に初めて天日塩塩田試験場を設置した。李完用をはじめとする大臣たちが直接視察に来て塩を焼く広場を視察する程、関心を傾けた懸案だった。天日塩は食用だけでなく、武器・軍需産業に必要な化学工業の必需品だったからだ。日本には天日塩を生産できる地理的条件を整えたところがなかった。このために立地条件が優れた朝鮮を天日塩供給地に決めて、集中的に天日塩田を設立した。

    この時から伝統的な塩生産地であった忠清、全羅、慶尚道の塩生産は衰退した。さらに日帝は塩生産の産業が弱い北朝鮮に集中的に天日塩田を作った。解放後、塩飢謹に苦しめられた南側では、6・25の時、市場で米一斗と塩一斗を交換したほどだった。李承晩政権は1952年から'塩増産5カ年計画'を進めて大々的に天日塩田増設を行い、結果は大成功。1957年には10万トンの塩が過剰生産された。このために1960年代以後、塩生産はずっと下り坂だった。

    著者は'塩'を主題に高麗大文化財協同過程で博士学位を受けた。歴史学科文学、民俗学の境界を行き来する柔軟な研究方法も興味深いが、各地の天日塩田、塩田跡を見て回った踏査記の文才もある。

    http://news.chosun.com/site/data/html_dir/2012/08/03/2012080302609.html

    返信削除