2016年10月1日土曜日
冷麺秘法より重要なのは労働だ、100年前冷麺屋ゼネスト
嘘を読みます<22>冷麺屋労働運動史
平壌冷麺店32ヶ所が集まって作られた組合‘平壌麺味会’. 日本の調味料会社味の素が冷麺に調味料使用を増やすために作ったと伝えられている。 向かい合って座った中で四角形味の素桶が見える。 KBS画面キャプチャー
日帝下朝鮮平壌部大同門通に席を占めて、主人の名前を屋号に掲げた林仲植麺屋は相当な規模の麺屋だった。
従業員が10にもなったという話だ。 しかしこの家の従業員待遇は不十分だった。 1927年2月7日夜に広がったことだ。 渇望した従業員十人の前にリム昼食が出したご飯は何日泊まったうえに凍ることさえしたご飯だった。 従業員は私の役割の食事を見て“暴悪”だと感じた。 また“憤慨”した。 生地屋で仕事をしたキム・チムンは行動が先んじた。 キム・チムンは茶碗を投げた。 キム・チムンは“主人に乱暴”して、その後全従業員ストライキが始まった(‘朝鮮日報’ 1927年2月11日付).
王朝の実録と儀軌、そして古料理書といわゆるうれしい終値に伝えてくるという秘法だけを伝統の全部と考える瞬間、韓国料理文化史に対する理解と説明は過度に激しくなる。 激しくなっていて嘘になるほかはない。 およそ100年間韓国料理文化の衝撃というのは、要するに以前になかった食べ物商品化の衝撃だ。 食べ物が利潤と賃金労働という脈絡で生まれるほかはない世の中をむかえた社会経済社の衝撃だ。 レストランという以前になかった制度を初めて対する大衆が感じた衝撃だ。 また、レストラン食べ物と工場生産食品に対する羨望を大衆と大衆媒体が互いに共に増幅させて作り出した衝撃だ。 この衝撃を普通の人の家庭がそっくり受け入れた衝撃だ。
実録と儀軌と古料理書と一家族秘法はこれを入れる理由がない。 これらの資料はかえって先立って話した衝撃が以前にはなかったことを逆説的に表わす資料だ。 国家と一族の儀礼に出てきた食べ物にどこ官能上の評価が持ち上げるだろうか。 共同体中に留まった食べ物と大衆を相手にする食べ物は生まれが違う。
“主人に横暴”食べ物労働者ブラックリスト
再び1927年に戻ろう。 この時は朝鮮大都市のレストラン営業が完全に席を占めた時だ。 しかも朝鮮の第2の都市平壌は1924年に人口10万を突破して、1930年代末人口30万を突破するなど恐ろしいほど成長する都市であった。 平壌は都市成長と共に何と50ヶ所にもなる麺屋が盛業した冷麺の都市であった。 もう氷は四季ずっと供給される。 古料理で製麺の前提は製粉だ。 ところで製粉業が成長して工場が供給したソバ粉がいくらでも市場に出てきた。 肉汁味に妖術を働かせる人類歴史上初のMSGである味の素は1910年8月朝鮮に上陸した。 麺に弾力を加える“麺ソーダ”、すなわち食用炭酸水素ナトリウムも主人が使うことに決心すればなくて使えないことはない世の中になった。 冷麺の本当に大衆化が成り立ったし、それだけ冷麺仕事をする人材がさらに必要だった。
冷麺味を出す調味料という点を前面に出して宣伝した1930年代初め味の素新聞広告.
麵屋仕事はした鉄の日雇で耐えられることはできなかった。 麵屋は労働者を雇用して分業体制を整えた。 麵屋の台所に練り粉を引き受けた練り粉屋、メンをゆでる足大屋、メンを冷たい水に洗いおとす手先、お客さんに出て行く直前冷麺の画竜点睛装飾を担当した高名屋同じ新しい台所労働者が現れた。 台所外でも人が必要だった。 通常のレストランで配達を引き受けたこれらはただ配達人と呼ばれたが、冷麺を配達するこれらは別に“中頭”と呼ぶほど大衆に変な存在と認識された。 面玉営業は都市に異彩を加える新しい文物だった。
泊まって凍ったご飯を投げた生地屋は熟練労働者であった。 先んじて出た乱暴という方をこらえることができない者の悪口と腕力であっただろう。 最初から食卓までひっくり返したかもしれない。 熟練労働者をはじめとする従業員がストライキを決心するとすぐにリムランチ麵屋も立ち止まった。 持つ人々の対応もまたはやくて確実だった。 麵屋主人が結成した平壌麺屋組合は直ちに臨時評議員会議を開催した。 彼らは“主人に横暴な行動をする職人は一切使用しないことで決議”した。 食べ物労働史上ブラックリストの誕生だ。 合わせてこの決議を破った麵屋に対しては3ウォンの罰金を払わせることに決議した。
ここで終わるはずがない。 日帝平壌警察は平壌麺屋組合の決議直後キム・チムンを含んで全4人の組合員を拘束した。 これらを捕まえて警察署に追い詰めるのは“高等係”が出た。 日帝高等係とは独立運動と反帝国主義活動を監視して政治犯と思想犯を担当した高等警察を言う。 労働運動弾圧もまた、高等警察の重要業務であった。
1927年平壌キム・チムン事件を扱った朝鮮日報記事. “夕食を凍ったのを与えた雇主に乱暴した後ゼネスト”という文句で事件を説明した。
朝鮮末行商人が居酒屋で食事する姿. 軒にかけておいた広いひも束が冷麺を売るという表示だ。
平壌麺屋労組‘搾取’に対抗して一つになる
新しい時代の冷麺が飛ぶように売れて、とりわけ麵屋が成長するだけに麵屋に雇用された労働者の労働運動もまた、着実に成長していた。 キム・チムンが茶碗を投げる前に、すでに麵屋労働者は日帝高等警察が神経を尖らせるほどの行動をしたことがある。
1925年平壌市内麵屋労働者は“搾取”と“虐待”から抜け出すために組織化に入ったし、1925年4月には270人組合員の中で208人の労働者が同盟ストライキに入った。 仕事場は違ったが労働者は団結の力を知っていた。 平壌麺屋労働組合と呼ばれたこれらは産別労組のように行動した。 1925年4月25日これらは雇主を相手に賃金引き上げの他に本組合に加入しない者を採用しないこと、採用と解雇で本組合の承認を得ることなどを要求した。
より一層目に映るのは日曜日と各麵屋の休業日を有給休暇にすることを要求した点だ。 これらはその誰より現代を理解した現代人だった。 これらは戦略を持って動いた。 組合員208人は4月30日再び平壌市内に集結した。 それから一層程度が高いストライキを決議する。 初八日即ち釈迦生誕日は当時祝日ではなかったがちょうちん行列のような見どころがあって祭りの雰囲気がある日だった。 大都市市民はこの日を休日でない休日と感じた。 おかげで冷麺注文が急増する麵屋の大きな課題だった。
1925年初八日、平壌市内麵屋はかろうじて門だけ開いた。 主人と家族皆がぶらさがって労働者なしでドアを開けたのだ。 しかし中頭の配達はあきらめなければならなかった。 やがて平壌警察署高等係が仲裁に出た。 この日午後3時平壌麺屋労働組合員は仲裁を受け入れて復帰した。 賃金引き上げ案、有給休日保障、今回の総同盟ストライキを理由にどんな解雇者も出さないことなどを警察仲裁で麵屋主人らと合意したためだ。 しかし再びどこで見たようなことが広がった。 平壌麵屋の中でキムジェリョン冷麺家、ソッキテ冷麺家、シニョンウ冷麺家などで50人の労働者を解雇したのだ(この期間‘東亜日報’参照).
仁川冷麺屋家寿町屋の1930年代初めの姿. 自転車で冷麺配達する人は‘中頭’と呼んだ。 KBS画面キャプチャー
“組合員は悲痛さをこらえることができなくて泣いた”
時代が変わった。 仕事場が新しくて、仕事が新しかったが資本家または、実業家だと下記何をした“主人”らは台所で家父長役割をした。 彼らの日帝警察依存は農民の抵抗が起きれば殿様ズボンの裾をつかんだ土班地主の形態と別に違わない。 こういうおかしなこともした。
1925年11月平壌内麵屋主人は肉汁に鶏肉汁を重ねて国で使ったり味の素を使わないことで決議して世の中のあざ笑いを買った。 麵屋間競争を減らし、一日2~3ウォンを惜しむためにというこの決議は現代的経営とかけ離れた旧時代的ふるまいだけのことだ。 私域で仕事をする人に凍ったご飯出す心がここに宿っている。 日帝警察は日帝警察隊で朝鮮労働者団結がこの世で一番見ることがいやな役割であっただろう。 こうした時に麵屋労働者は私の人生を誰にもの乞いしなかった。 団結した。 連帯した。 そして旧時代人物と日帝警察を交渉と仲裁の席に引き出した。
気がせいせいしたある部屋の解決を手に握れなかったが麵屋労働者はひざまずくこともなかった。 同じ年12月には釜山でストライキ中の印刷労働者に29ウォン32銭を募金して伝達することもした。 組合員と市民に向かった講演会も着実に継続した。 これらが招へいした演説者はたいてい日帝警察が“不穏”紙切れを付けるほどの人物だった。 1930年には平壌市内七ヶ所悪徳麵屋を襲撃して暴動を起こすこともした。 1931年には組合結成記念式まで盛大に開いた。 平壌の他にも沙里院、ヘジュ、元山、新義州など現在でも冷麺と共に浮び上がるソウル北側都市がみな麵屋労組がすごかった所だ。
しかし1930年代後半ならどんな労働運動も日帝の弾圧をこれ以上耐え難かった。 平壌麺屋労働組合の便りもだんだんなくなった1936年4月23日、去る11年間活動した沙里院麵屋労働組合まで日帝警察の解散命令で一日で解散する。 団結と相互扶助を通じて沙里院市民の支持と共感を引き出した労働組合だったがドイツ、イタリアとパートナー割って行ってなった凄じい日帝を勝ち抜く道はなかった。 解散する日“組合員五十人余りは悲痛さをこらえることができなくて”泣いた。
最近100年の食べ物文化史を追ってみるならば間違いなく会う風景がある。 すぐに田畑と山奥と入り江で食べ物資源を置いて広がった以前になかった戦いだ。 新しいレストランぐらい新しい労働運動の誕生だ。 以前になかったことは冷蔵庫や味の素だけでない。 1919年3・1運動は時にならなかったが無駄に距離に出て人々がケガしたり死んだことであろうか。 平壌麺屋労働組合のゼネスト、キム・チムンの茶碗、沙里院麵屋労働組合の涙がみな忘れることはできない食べ物文化史の一場面だ。 私たちが冷麺一杯食べるまで侮れない歴史をすぎてきたことを思い出させる限り瞬間だ。
孤影食べ物文献研究者
http://www.hankookilbo.com/v/8d34db27c23b4eff8ec4ad025677825d
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