2016年10月1日土曜日
スープにキジ肉で風味加えたトック…パスタぐらい多様な変奏
嘘を読みます<26>トックには四骨汁が私の格という伝統
朝鮮時代文献の中料理法は
杵で打って手でこすって細く選んで
スープ基本に牛・鶏など多様な肉汁追加
塩辛の汁も利用…香辛料バン初雪で仕上げ
想像力加えた多彩な韓国式お雑煮は
四骨などスープの材料に閉じ込められた汁抜け出して
カキ・カプサアオノリ等でジェロ拡大うれしくて
切ること・かもす方式よって無数の組合可能
トックを見過ごせない新年がくる。 それ自体で完結性が高いという食べ物であるトックをどのようにすればおいしく食べることができるだろうか。 ケティイミジベンク
“歳時にモチを打って作って切ってトックを沸かす。寒くて暑かったという天気気まぐれにもよく傷つかないで長く耐えるだけでなくその質素できれいな中がより一層良い。" 看書痴、自ら自身を示して‘本だけ見るバカ’と達した朝鮮末期文人李徳懋(李徳懋・1741~1793)が正月に食べるモチに送った言葉だ。
正確には自身の詩‘添歳餅’に付けた注釈だ。チョムセビョンという“年を取るようにするモチ”という意味だ。今でも子供たちに“君何歳とか”を“トック何皿食べたの”と回して尋ねないか。ア何とや正月を迎えて選んだモチを早くて“その質素できれいな中がより一層良い(取其凈潔)”といったその話と表現もまた、小胆なことこの上ない。 あの原文、ぴったり四つの文字で捕らえたモチの集中力と完結性が読む目だけツンと刺さる。
2017年、正しくなされた韓国式お雑煮ハンさんのために
今日のようなモチ選ぶ機械がなかった時、人々は手でこすって選んでモチを長く伸ばした。 杵でむやみに打った後、その塊りが返品してやわらかい時こすりながら長く選ぶ形だった。 このような手動作で作ったタコ足同じ白い餅を“拳模”、すなわち“こすって選んだモチ”ともした。 難しくモチを伸ばして選んで沸かす韓国式お雑煮の汁はどうなのか. 汁には多様な材料を使った。 金邁淳(金邁淳・1776~1840)の‘洌陽歳時記’にはこういう話が出る。
“先にスープを沸かして汁がグラグラ沸く時モチをコインのように薄切りにしてスープに入れる。 モチがべたつくこともせずつぶれることもなければうまくいったのだ。 ところで豚肉、牛肉、キジ肉、鶏肉などで味を出したりもする。”
スープを基本で多様な肉汁を使った。 そしてここに必ず風味を培う香辛料を加えた。 また他の記録である洪錫謨(洪錫謨・1781~1857)の‘東国歳時記’にはこのように出てくる。
“米粉を蒸して大きいモチをのせる板の上に置いて杵で数えきれない程打って長く選んだモチを白いモチ(白餅)という。 これを薄く小判厚さで切ってスープに入れて沸かした後牛肉やキジ肉を加えて蕃椒屑を打って料理したのを餅湯という。”
キム・ジュングンの図'舵柄地形'で描写された餠をつく形.オーストリア、ウィーン民族学博物館所蔵.
ここに出てくるバン初雪というのは胡椒である事もあって、山椒である事もあって、または、貂皮粉でもある。 金邁淳や洪錫謨の記録に先立ち、柳得恭(柳得恭・1748~1807)は‘京都雑志’にトックはキジ肉と胡椒(胡椒屑)で味を出すという記録を残したことがある。
食べ物を置いてこのように笑談した話をしたい。 問い詰めて争って正誤表を作る食べ物の話のほか、強情でしつこい隈とは一切ない質素ながらもきれいな食べ物風景を描きたい。 大事な資源を尊くなでつけて尊く食べてきた話を淡々と解きほぐしたい。 そうした中で文献の中に寝ている感覚、方法、感受性、態度などをそっと起こしたい。
今日私たちが感心するイタリア パスタの多彩さというのはその試みの多彩さということではないのか。 私たちは今モチを、また、トックをどこまで食べてみたのか。 どこまで試みたのか。 どれだけ感じて表現してみたのか。 食べ物文献探求は、歴史の中食べ物跡検索はこのような質問とつながり接しなければならない。 目覚めた記録が今日の食文化に想像力を加える元手にならなければならない。
問い詰めて争ってあえて正誤表を使う行為が必ず楽しいだけではない。 だが、質素できれいな食べ物の話を始めるためにも必ず嘘はつかなければならない。 反省して清算しなければならない誤りをついた次に正しくなされた食べ物感受性、食べ物想像力に近寄ることができる。
王と両班の食べ物といってこそさらにおいしいか
たとえばこういうものだ。 文献に見える多様な方法と材料に対する態度と感覚は習うことができなくて物理的に不可能な“復元”を云々する。 全世界とともに血流して解放をむかえて、血流して共和国をたてたがホあご“半額”と“王室”という話を食べ物に持って当てて、その一言で食べ物に威厳が宿ると勘違いする。 そこで終わる。 どこにや持って付ける“千年の神秘” “先祖の知恵”のようなむなしい捜査は本来食べ物に、食べ物の歴史に何をどのように尋ねて答えるべきかに対する筋道を失うようにするアズー悪い効果がある。 再び食べ物文献に戻ってみよう。
1921年版パン・シニョンの'朝鮮料理製法'中モチ項目.国立中央図書館所蔵.
“モチをきれいに作って薄切りにして肉スープがぐらぐら沸く時モチを少しの間入れてすばやく浮かび上がる。 キジ国はおいしく沸かして、肉炒めた汁を乗って再びモチを巻いて、上に薬散炙を豊かにのせる。 胡椒を振りかけなさい。 おいしいスープをあたたかく沸かしてそばに置いて、そのスープを注いで食べろ。 塩辛の汁にクミを入れて沸かせば病気にかかった人力を回復するのに第一だ。”
19世紀末料理で‘是議全書’にあるトック項目を今日の韓国語で解いて書いてみた。 味を出す方法、スープの風味をキジを使って増幅する方法が異彩を放つ。 あの簡素な備忘録に香辛料使用だけは別に一行を割愛した。 スープを注いで、一杯すべて食べる時まで暖かいぬくみを維持する方式は想像だけでもおもしろくてほほえましい。 スープに終わらないで、塩辛の汁まで土台の材料を広げた点も目につく。 材料と副材料の結合、風味を増幅する方式、食べる方法、スープと塩辛の汁の使われる等等が真に多様さと豊富だ。 見ていればあ、トックにこのような試みもやれるだろうという想像力が起こる。 本当に私たちに必要なことは、私たちが歴史の跡で呼び覚ますことはこれに対する私の態度と私の想像力だ。 過去の本を積んで時が過ぎた両班遊びをする時ではない。
伝統から解放されて多様なトックを作ろう
その間私たちはただし“昔にそうした”だけ繰り返す食べ物文献読むことをするだけだったし、論証不可能な領域で復元をするという幻想に捕われて生きた。 もうちょっと違われる時もなった。 記録の中で私の想像力を発揮して、その想像力を基に料理の実際で今日の資源と今日の技術を十分活用して多様な試みをしてみそうだ。
トックを沸かす時モチを斜めに切ったりもしたし、ウォンでも切った。 チョレンイも押したし鈴やドングリ形でもかもした。 より細くて長い音調をトックに使うこともした。 打ってモチを作らないで米の粉をすぐに一つになった“セントク”を使うこともあった。 形により質感がみな違うはずだ。 形によりいわゆる式感、歯疳が変わる。 楽しい多様さが生まれる余地がここにある。
肉汁材料もそうだ。 18世紀以来続いた記録を読んでいれば売り次第山‘スープの材料’エガチン汁、四骨汁に終わる今日のトックがかえってみすぼらしく感じられる。 逆にカキ、カプサアオノリなど文献の外に存在する多様な材料がどれくらい大切な資源で想像力の元手なのかが鮮やかになる。 考えがここに早ければまずなじんだ通り牛肉一つでも繊細に接近したい心が育つ。 日の当る場所、事態、カルビ、右足、尻尾などは風味がみな違う。 スープと塩辛の汁も風味が全く違う。 多様なモチに多様な汁がそれぞれ違う方式で手を握れば無数の組合が可能でないだろうか。 本当に私が好きで、本当に私に合う新しいトックを沸かすことができないだろうか。
1913年2月2日付毎日新報にのせられた'陰暦年末、年初のトックの種'.
パスタぐらい多様なトックのために
香辛料もそうだ。 私たちはまだ文献の中“バン初”の正体をよく分からない。 ついに分からないこともある。 ところが漢字“椒”が表わすコショウ、山草、貂皮の想像力、必ず肉汁に香辛料を加えるようにした態度は1本司書私の香り失うようににおいを発する今日のコショウを振り返ってみるようにする。 今日私たちには肉汁の風味を培うどんな香辛料があるのか。 本当にコショウをよく使ってみたことはあるのか。
ここで終わらない。 モチがトックで伸びるように、トックはトック上で伸びることができる。 テーブルの足曲がるようにならべて食べる間私の温度を失って、この人あの人の箸の上げ下ろしが重なって身だしなみが散らなければならない食膳の中で一年を始めることが正月食事で穏当なのか。 トック相談例も伝えてくる。 トックはトック自体で集中力あって完結性高い味を害しないほどのあまり濃厚でないキムチとともにした。 ソウル景気側ではトックにナバクキムチを置いて、やはり集中力高い派手な膳をぴったり置いて点置いて、食膳の画竜点睛になる甘い併科類と飲み物でトック膳を調えた。 中心料理を置いて、他の食べ物の配分とバランスを取ることを通じてある相談完成度を高める方式こそ今日私たちが本当に学び呼び覚ます道理が正しい態度だ。
その間私たちは感覚も態度も今日も失って食べ物の無駄な捜査ととても重要なのにない昔の話の中でとても長くさ迷った。 それで支離滅裂になった。 解放されて何歳なのか。 もう子供ではない。 ぶつぶつつぶやく年齢でもない。 2017年、さらに変わらなければならない。 そうしようとするなら無駄な捜査の上に積んだ食文化史の嘘と無常に決別もしなければならない。 送旧迎新だといった。 本当に送旧迎新を待望する。
孤影食べ物文献研究者
http://www.hankookilbo.com/v/81fe098203ed42049889bf7ac4144fa1
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