2016年10月1日土曜日

“平壌冷麺元祖は…”大騒ぎに隠されたもの


嘘を読みます<18>根拠ない'平壌負心'


平壌冷麺熱風が起きて'真の'平壌冷麺は何であり'正しく'食べるのが何か論争が真っ最中起こった。ところでそれがみな根拠ある話であろうか。韓国日報資料写真

韓国人4中3は各々の冷麺論一つ抱いて生きる時代だ。 ‘モンノ’パク・チャンイルシェフの話のように“多様な‘冷麺狂時代’の言説”がそれこそごちゃごちゃに花が咲いた今日だ。

ところで‘冷麺狂時代’は100年前にすでに始まった。 冷麺は文として書いた‘墨房’の常連出演者であった。

冷麺を囲んだ大衆の定石-正統争いは他の韓国料理では探して見当たらない。 それ自体で面白くなりながらも莫大な食べ物民俗紙だ。 だが、100年をすぎても浮び上がらなかったところがある。 すぐに食べ物の物質文明と食べ物の具体的な実際だ。 これは韓国料理文化史議論の虚弱性を劇的に表わす。

1920年代代表的な知識人雑誌であり進歩指向が強かった‘開闢’がなぜ軽い話をする時平壌と冷麺は甘い素材であった。 ‘開闢’ 1924年第51号は“15銭に山積みのような冷麺一杯”が平壌の人々の夏避暑と釣り合うといった。 引退した平壌妓生は冷麺屋社長になった。 “冷麺・焼酎”はその時すでに四季にある平壌の名物だった。


'開闢'第20号目次.'開闢'の高級な姿がひと目で入ってくる。

平壌冷麺大騒ぎ100年前から

検閲と弾圧で1926年‘開闢’が廃刊になるとすぐにその編集人材と製作会社を受け継いでまた他の雑誌‘別乾坤’が生まれる。 ‘別乾坤’は大衆雑誌を標榜した。 今日の“総編芸能”と違わない企画で植民地朝鮮人をひきつけた。 ‘別乾坤’の墨房は一歩進んだ。

1929年‘別乾坤’24号は“四時名物平壌冷麺”を掲げた。 春風がざっと吹く春は大同江青い水よって遊びやすい時であり“いっぱい入れた一杯の冷麺”を楽しむ旬とのことだ。 “綾羅島柳の間に照らして入ってくる月の光をむかえる”秋は冷麺を長い間の友達とともに食べやすい季節とのことだ。 “筋ごとに長い-冷麺を求める切断語”猟もよう友情もそうなんだ。 そして夏. もう夏が新しい季節だ。 この取っ手が描いた夏冷麺はこうだ. “大陸の影響で夏の日列島が相当高い平野で暑さがとても熱くなる時白いむくっと接待にげんこつのような氷塊を隠してぐるぐると魂つけた冷麺! 氷に暑さをはね除けてカラシと酸味に倦怠をぬぐい去るだろう。”

文にする墨房は観念上の旬、冬に達して絶頂に達する。 “ボタン雪がさらにバックさらにバックおりる時房庵には針仕事して‘三国志’を聞かせるお母さん声だけ静寂に静寂に鳴っている。 (中略)お母さん話声がだんだん細く聞こえてくる時“スープよー”という大きい声とともにドアを開けて入れるのはぐるぐると作った冷麺だ。 かちかちに凍りついたキムチスープをまいて薄氷が浮いた濃醤キムチスープに一串二串解いていっせいに震えてオンドル部屋上座へ行く味!”

大衆雑誌を標ぼうしただけ女性美品評は‘別乾坤’の重要企画の中の一つであり、妓生とカフェ ガールと女性芸能人と名士の噂と醜聞もまた精魂を込めた記事であった。 犯罪と売春、麻薬と歓楽街探査も抜けなかった。 ハリウッドの便りもこまかかった。 チョコレートを吟味したりコーヒー一杯飲む女性を引き降ろした色々な寸評は‘味噌女’論の先祖というに値する。

‘別乾坤’は高級な墨房も抱いた。上の冷麺の話に先立ち発行された‘別乾坤’ 1928年第12・13号は大衆が羨望した留学生を呼び出した。留学生に“外国へ行って思い出した朝鮮こと”を尋ねたし、留学生は“朝鮮の月の光”に“カルビ” “冷麺”とうなずく返事をした。 “同志師走寒い日に白雪がグラグラ飛び散る時オンドルにふくらむささやかに時で3~4友人が互いに座ってカルビ焼くことや冷麺割り勘をするのもとても懐かしかった。”


映画'美しい青春'で登場人物が冷麺配達をお願いしている。字幕は'蕎麦'になっている。

冷麺全季節食べ物作った冷蔵庫

解放前新聞、雑誌、映画、文学、その他資料の中で、冷麺の話はどこからともなくあふれ出る。 1941年封切りした映画‘美しい青春’を見よう。 登場人物はお客さんをむかえて下宿屋おばさんに求める。 “主人おばさん、冷麺三皿だけさせてください!”下宿生の甘い配達食べ物が冷麺だ。 冷麺を抱いた大げさと冷麺がある風景は多様な経路で今日に伝えられた。 今日では卵食べる時点、酢とカラシを打つので大変争い、純蕎麦麺だけ正しいという主張、肉汁物とトンチミを囲んだ正統論にひとの家案いきさつを検索して描いた桂報道まで登場した。

冷麺は“冷たい”という感覚を私のものにした食べ物だ。 冷めたとも違って、常温に比べて冷たい程度よりもさらに冷たい食べ物だ。 これは常温との関係で相対的である。 韓半島は春・秋と夏、冬の常温が全く違う所だ。 冷麺の冷たいことは“常温に比べていかなる”感覚だ。 伝統的には常温抜いては他の脈絡がなかった。

感覚転換の契機は冷蔵-冷凍技術の発明からきた。 1862年非電気式冷蔵庫が登場する。 1870年代は大量生産した氷と海運業が本格的に手を握る。 技術は急流に乗って1880年代には氷の大量生産が全世界に広がった。 1890年代には朝鮮にも製氷および氷保存業者が設立されて氷を利用した水産物保管と流通が始まる。 1910年代には現代式冷蔵庫が本格的に普及する。 いよいよ冷麺は人類史になかった常温の感覚の下“事実名物”に入り込む基盤を用意した。

季節感は意外に難しい問題だ。 蕎麦はたいてい10月末から11月中旬間に刈り取る。 製粉は難しい。 農繁期に製粉とは。 当然蕎麦粉は秋以後農閑期にでも触る材料だ。 冷凍-冷蔵技術がなかった時代には、王の氷庫を除いては夏に冷たい水に冷ます方法のほか冷たい食事を作る方法が全くない。 冷めた程度でなく冷たい汁ならば、肉でとった肉汁スープでもトンチミでも何でも、結局冬にもなってこそ手に握ることができる。 麺の材料も汁材料もみな冬に限り存在した。 そうするうちに最近100年、先んじてみた通り冬を越えた。

湿気までいっぱいである真夏、それこそむくっと接待に受けた肉汁をがぶがぶ渡して感じる清涼感とさわやかなことはなぜ冷麺の良い味でないということか。 それでも秋大根とハクサイから来た、チョンハン キムチ汁にちょうど刈り取った蕎麦で作ったメンを加えた冷麺がどこ良い味から抜け出るだろうか。

だが、私たちは平壌冷麺を分からない

“押して暮らす人:それは違うものでなく夏の冷麺屋だ。 平安道のようなところは夏より冬冷麺をさらに味がつないでおもむきあると分かるがソウルでは夏に冷麺をたくさん食べる。 いや平安道でも実際たくさん食べることは夏だ。 (中略)夏に押して暮らす人は冷麺屋しかまた、何があるだろうか。 ソウルにも今は冷麺屋が毎年増える。 (中略)手並みに従って味がそれぞれだ。 軟調できれいなのは鍾路平壌楼ガー何番目いや行かない純平壌式で鶏肉多くて汁味良いのは無校正陳平屋が第一であろう。”

‘別乾坤’ 1931年第41号にのせられた記事ある取っ手だ。 もう夏はかき氷集は氷取り替えて暮らして、アイスクリーム集はアイスクリーム筒を振って暮らして、冷麺屋は冷麺押して暮らす時代になった。 1930年代平壌の人々も夏に冷麺をさらに探す。 技術が夏風景を完全に変えた。 純平壌式に鶏肉が上がる。 この頃想像する“本来冷麺”してもまた違う。

“押して暮らす。”が時は機械式ククス枠組みだ。 機械式ククス枠組みは冷麺大衆化のまた他の条件だった。 ここに1885年以後1914年まで200倍も輸入が急増した砂糖、そして1910年朝鮮で販売を始めて冷麺と手を握った初めてMSGである味の素まで割り込んで以前になかった環境を作った。 食べ物の条件、味覚の脈絡が完全に変わった。

私たちは“故郷” “伝統” “正統” “本当に”のような語彙をぐるぐる回って冷麺を食べてきた。 その間食べ物が視空間の制約を受ける厳重な物理的実際という点をしばしばのがした。 冷麺材料の供給、冷蔵庫、機械式ククス枠組み、砂糖と味の素、台所内外の食べ物労働に対して私たちはまだよく分からない。

もう一度、ここが急所だ。 視空間的制約から来る文明と物質をさぼれば各自の記号と選好に関する話だけ生い茂るように育つだけだ。 これは食文化社で色々な嘘を助長できる口実になることができる。 平壌冷麺を囲んだ色々なお話はおもしろい遊びであることに明らかだ。 そのおもしろい遊びだけでは雨は隈ができる。 冷静に見て回る時もなった。
孤影食べ物文献研究者

http://www.hankookilbo.com/v/5c94e5f87ba448fd84feab2ac68c062d

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