2016年10月1日土曜日

宮中・班家料理復元? 一知半解式虚像だけ


嘘を読みます<14>復元食べ物という幽霊



韓国料理世界化風に乗って伝統食べ物を復元したという話が相次いでいる。 ところでこの食べ物は本当に過去の食べ物を復元したことだろうか。

李舜臣食卓に三国時代酒
韓国料理原形復元しようと相次いで
過去の文献には最小限の内容だけ
時間・分量など‘計量’は皆無
食材料と料理技術も急変
元の状態に回復は物理的不可
自己満足過ぎない‘復元’代わりに
制約認める‘再現’努力してこそ


朝鮮宮中料理や班家食べ物を復元したという主張があふれる。 大韓民国農林畜産食品部所管のある財団は今日も‘韓国料理原形復元事業’をしている。

李舜臣将軍の食卓が復元されたという便りも聞こえる。 儀軌、農業書、料理書によりあらゆる食べ物に、醤に、酒を復元したという便りもあふれる。 百済と新羅酒の復元を宣言した人もいる。 これに伴う復元品見本とその写真は大衆と食べ物勉強に飛び込んだ人に深い影響を及ぼす。 復元の意味と意義を尋ねて考える余地もなしで、ひたすら急いで復元品を作り出す工夫だけだ。

言葉の意味を正しく知っているのか、その意を他人に説明できる程理解しているのか。 この問いを肥料網すれば多くの嘘を免じることができる。

復元(復元/復原)とは‘本来のとおり戻る’ ‘本来状態を回復する’という意だ。 この言葉は日常で使う言葉だ。 しかし物理と実際では不可能な行為だ。 以前その時の本来状態はただしある瞬間だけのことだ。 以前と同じ状態を取り戻すことは物理的に不可能だ。 実際に可能な行為は‘過去の姿を回復’ということぐらいなる。 これを‘復旧’という。

復旧は記録に残った特定時点の姿により何か新しく持ってきて、埋めて間に合わせて縫って成り立つ。 私たちが日常で使う復元という話は実は復旧の真意を借りた言葉だ。 復旧としてもさらに考える点がある。 その過去の姿とは何か. 建築で言葉を借りれば、廃虚の上に再び作る‘再建’も復旧の方便であり、壊したのを基に修理を加える‘重修’も復旧の方便だ。 この時‘過去の状態’ ‘廃虚’ ‘壊したこと’と呼ばれる各々の速成科蹴られる明快なのか。

340年前の卵麺

具体的に食べ物を調べれば復元の不可能と復旧の不明瞭さがより一層明らかになる。 17世紀安東両班家女性張桂香がハングルで書いた料理書‘飲食知味方’には卵麺法、すなわち卵ククス調理法が出てくる。 国語学者ペク・トゥヒョン教授など皆さんの研究を参考にして移して書くとこのようだ。

“卵を集めてその卵白ければ粉をこねて切ったりククス枠組みに押したり、通常の焚くメンのようにゆでて出して脂っこいキジ肉人生は国に巻いて使いなさい。 高名はただメンのようにしなさい。”

この文章が指示することでは明らかなのか。 ‘卵を集めてその卵白ければ’は何の意味であろうか。 これを“卵を集めて解いて卵が白くなれば”で読む方もあるが明快でない。 “白い卵を集めて”と読む方もあるがこれもまたすがすがしくない。 ‘酒食是儀’ ‘閨閤叢書’ ‘尹氏飲食法’ ‘李氏飲食法’等の色々な食べ物文献にも‘卵麺’が登場する。 ところでこれら文献が‘卵麺’に使うのは一様に卵の黄身だ。 メンをやわらかくして見栄えが良い色を上げようとするなら卵の黄身がさらに自然ではないか。 卵の黄身でやわらかいということと黄色の光を加える練り粉法はイタリア パスタにも、中国麺にもある。 今日ソウル空の下でも‘モンノ’パク・チャンイルシェフが小麦粉1㎏に卵40粒の卵の黄身を混ぜて作ったイタリア パスタ‘クァランタ’(イタリア語で‘40’を意味する)を選んでいる。 始めるやいなや迷宮だ。


飲食知味方の卵麺法部分. 今日レシピ水準の詳しい説明ではないので正確な復元には困難がある。 慶北大図書館提供

迷宮は続く。 ‘飲食知味方’で張桂香が家の人に達した‘通常の焚くメン’はいったいどんなメンなのか。 そのまま‘普通のククス’で読みさえすれば340年の歳月を跳び越えて‘普通’は自ずから明白になるのか。 ‘高名はただメンのようにしなさい’という話やはりその具体的な姿は鮮やかでない。 その他にも‘飲食知味方’には卵と小麦粉と汁用キジの分量も、調理に伴う具体的な行為と動作も、料理に入る用具も、火調節の細部も見られない。

最小限の内容だけのこの記録は、時間と分量に対する‘計量’がない。 これは今日の‘レシピ’や‘フォーミュラ’ではない。 一単語だけで特定食べ物の脈絡を把握できる、張桂香といつも日常を共にするこれのための簡略な備忘録だ。 細部は空いている。 過去の料理でそのまま復元するという人々は結局料理の実際に入っては自身が持っている今日の食べ物感覚と料理感覚を持って記録上の卵麺法を‘再構成’、‘再創造’するほかはない。

飲食人だけなぜ分からないか

人類学、歴史学では復元が本来不可能な作業であることをすでによく知っている。 よく分かるのに一次元さらに謙虚だ。 文化と歴史探求で正当な方法を悩む人は私の知識と認識の限界を謙虚に受け入れる。 全能なふりをして復元しようとしない。 彼らが努めるのは‘再現’だ。

再現は今日と昔の距離を受け入れる。 私が皆知ることができるという慢心を取り払う。 再現は悪い下心のいんちき、模造品を狙ったでたらめ復元を押し出す良い効果もある。 再現は外見だけでなく内容と過程まで念頭に置く。 なぜ再び作らなければならないのか几帳面に尋ねて始める。 私が試みる再現の目標は何か進行ごとに点検する。 再現の後には厳正な評価が伴う。 このように再び作り出した結果で今日私たちが本当に悟らなければならない場合を再確認する。

特定食べ物の復元を主張したり宣言した側が必ず出さなければならない返事がある。 一貫性はなければならないと。 たとえば生物種の問題はどうなのか. 去る100年間に韓国人の農水産業は完全に変わった。 韓国人が‘小麦粉を’を本格的に食べたのが100年度ならない。 その時期は基本技術製粉が粒子の重さまで数える先端技術製粉に変わった時期でもある。 稲もそうだ。 もう100年前稲はチャチがない。 100年間にパンア質、体質とは比較できない先端技術の脱却、道程時代を迎えた。 私たちは超高性能カメラが瞬間的に不完全米と完全米を選び出す時代を生きている。 純白小麦粉、本当に白米は以前になかった新しい食べ物材料だ。

台所の科学技術も忘れてはいけない。 指だけはねて炎を上げてその炎を自由自在調節できる火口で出した食べ物とかまど火や火鉢の火で成し遂げた食べ物の間はまた、どれくらい広がろうか。 上下水道が私の目の前にあって、指少しも動いて水と火を得る台所、電気銅力機構に冷凍冷蔵施設ある台所という(のは)以前の台所と全く違う空間だ。

文献解釈、素材、技術、感覚の制約を知っている人は生半可に復元を口にするはずがない。 生半可な復元宣言は農業と科学技術と食べ物の歴史に、また、今日の現実に無神経な時出てくる行為だ。

会議・煩悶ない復元は偽物

正当な悩みを抱いた復旧または、再現は変わった環境と条件でできる限りの復旧または、再現を企画する。 そこで今日の食べ物文化史のための知識と知恵を掘る。 前提と制約を見回して受け入れる過程が過ぎた歴史を今日に受け継ぐ貴重な作業に昇華されることができる。 これは韓国料理の明日のための準備につながる。 歴史で習って未来で行く道に道しるべをたてることだ。 しかし復元という話を不正乱用する人々には会議や煩悶がない。 ここが急所だ。

そのまま“復元した”ということだけで一人で誇らしいので、自足的な復元に終わるだけだ。 復元という話をむやみに使って、復元したという食べ物の写真と映像で利益を得た人々が知識の成長に押さえられてそれとなく‘再現’で言葉を変える頃だ。 一時復元を掲げた団体と機関がヌリ家でさっと復元という話を再現という話で交換する時代がきた。 ところで地域は、普通の人々は、考えとからだがそんなにはやくなれない。

ある人物、特定記録に期待復元したという食べ物が相変らず地域と地方自治体を飛び交っている。 失敗したごり押しストーリーテリングと、すぐにたたむ方がむしろマシなみすぼらしいレストランだけ残したまま‘復元’は今日も私たちのそばを飛び交っている。

孤影食べ物文献研究者

http://www.hankookilbo.com/v/aa0b27c1d11c40cdac75cf1d0bb6f09f

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