2016年10月1日土曜日

‘おでん’は韓国料理なのか日本料理なのか


嘘を読みます<19>酒、おでん100年食べ物史


熱々おでん. 天気が寒くなるときはいつも探すことになるおやつの材料だ。 韓国日報資料写真

“冷たい風が吹く清酒にかまぼこ”という感覚は100年間に韓国人の季節感覚として地位を確立した。

そのいきさつは倭館、鉄道、税関、会社法、会社名簿、商工会議所、衛生取り締まり、取り締まり規則、食品製造業、飲食業、大衆媒体のような具体的な制度と施設に宿っている。 例えば現代を最も立体的に表わす具体的な文物はやはり鉄道だ。 鉄道は前に見られなかった外来食べ物、そして以前になかった食べ物の風景をこの土地に持ってきた。

“京城駅プラットホームにおでん家:極暑の半島旅行者にオアシスという良い評判を受けている京城駅フォームのビールスタンドバーでは秋風が吹き始めた去る20日からビールのサービスを止めて月桂冠(月桂冠・ケッケイカン),白鶴(白鶴・ハクツル)等酒の他におでんのようなものも売り始めたがおでん一皿に20銭、酒1本に35銭そしてうどん一杯に20銭という安い値段でサービスをしていて夜遅く旅行する人々は少しの間降り立って熱いうどんに舌打ちするのにすでに人気を呼んでお客さんが集まっている。”
(毎日新報1939年9月22日付)


京城駅ビール スタンドバーのオデン開始消息を載せた毎日新報.

メディアが描いた季節感覚は鉄道の上食べ物にのせられて伝えられている。 1939年なら中日戦争が日本帝国思い通りならない頃であり、戦争しているので米を惜しもうという総督府の宣伝が真っ最中である頃だ。 それでもメディアが食べる話をさぼるはずはない。 この短い段落中に“夏にはビール” “冷たい風吹く酒におでん”、そして“熱いうどん”が適当という日常の感覚が含まれている。

清酒、さけ、日本酒、正宗

ビールとか清酒である酒などは1876年朝日守護条規締結以後朝鮮に入ってきた。 以前には‘朝鮮の中の小さい日本’といえる倭館を通じて朝鮮人に日本酒が伝えられた。 このために朝鮮人に最も広く知られた外来酒やはり日本酒だった。 18世紀には日本酒でも大きい変化が起きた。 日本酒流通の中心がどぶろく(濁酒・どぶろく)から酒に移った頃だった。 そして朝鮮の人は倭館を通じて日本列島の酒流行変化を経て酒に適応した。 1876年以後には鉄道がのびるところについて朝鮮八道にさらに深々と食い込んだ。 事大交隣時代の倭館、万国公法時代の条約が影響を及ぼした。


日本酒場に満ちた清酒. 韓国日報資料写真

開港以後本格的に輸入された酒の中で日本清酒‘正宗’の威勢はすごかった。 運が良かった。 1883年海関細則によりワインやビールの関税率が10%、ボルドーワインやシェリーの関税率が25%、ブランデーやウイスキーあるいはシャンパンやジンとラムの関税率が30%だった時日本の酒の関税率はビールより低い8%であった。 他の外来酒類よりなじむうえに関税率まで低いから、正宗は直ちに朝鮮の酒市場に深く食い込んだ。 朝鮮人目に清酒というのはまもなく清酒だった。 現在でも‘サケ’を‘清酒’と称する口癖が相変わらずだ。

サケがおでんを導いたのか、おでんがサケを導いたのかはよく分からない。 とにかく‘かまぼこ’を入れて作った日本食べ物であるおでんもまた、すぐ朝鮮の人をひきつけた。 本来おでんはかまぼこが入った汁料理をいう。 かまぼこはすりつぶした魚にデンプンを混ぜてねった後、形を捉えて蒸したり焼いたりはねたのだ。 おでんとかまぼこの間で私たちは相変らず混乱を経ているけれど、それを離れてこのような料理方式で作った食べ物はできるなら地球どこででも通じるほどの普遍性がある。


オデンの中多様な材料がよだれを回るようにする。 韓国日報資料写真

‘かまぼこ’ 18世紀朝鮮文献登場

18世紀朝鮮文献にもかまぼこという言葉が登場する。書誌が不明な18世紀本‘謏聞事説’には‘可麻甫串’との料理が登場する。この食べ物はぼら、スズキ、鯛で出した魚方に肉、海産物、野菜、キノコなどを確かめた牛を巻いてサビ水粉負わせて沸かした後薄く切る料理だ。かまぼことは違った食べ物なのに名前だけ重なる。実物記録もある。 ‘裁判記録’ ‘毎日記’等日本、倭館の記録によれば朝鮮の人は鍋料理(チゲ類)やすき焼きの副材料で使われたかまぼこに接したりもしたし、独立食べ物で上に上がったかまぼこに接したりもしたとする。

倭館は朝日両国の食べ物通路だから、受けただけかえす。 日本人は朝鮮焼酎、ジュクリョク酒、梨花酒、オホンノなどきつい酒を手に入れた。 酒は食べ物を呼ぶ。 サケにおでんがあるならば、焼酎にはチゲだ。 18世紀倭館で勤めた日本人小田幾五郎(小田幾五郎・1755~1832)は野菜を添えた魚メウンタンに焼酎一杯がついてくる姿を自身の本‘通訳酬酌’に入れた。 小田はツツジのファジョンは気に入ったがきつい焼酎は苦手だった。 このすべての食文化史が‘倭館’という具体的な制度とともにした。

1907年韓国警視庁はコレラ予防のために旅館、料理店、レストラン取り締まりに出て特にタコ、蟹、イカ、海老、かまぼこ、ハンペン(かまぼこの一種)に注意した。 かまぼこは衛生取り締まりで直ちに気を遣わなければならない程飲食業所でありふれている材料または、食べ物として地位を確立したという意だ。


皇城新聞1907年10月18日付にのせられた衛生取り締まり報道. かまぼことハンペンが注意しなければならない食べ物に出ている。

1908年になるとすぐに釜山大昌洞(釜山中区大昌洞)には日本かまぼこ業者が入った。 1911年なら京城にもかまぼこ工場が入る。 1931年に朝鮮日報に連載されたヨム・サンソプ小説‘三代’の重要食べ物モチーフもまた、おでんだ。 ‘三代’の時間背景は1920年代だ。

おでんは一方ではサケとおでんを共に売るおでん家おつまみで解けたし、一方では高級風俗店の一品料理として地位を確立した。 ‘別乾坤’に劣らなかった大衆雑誌‘三千里’ 1935年第10号の座談に出たイ・ソグは今日の獎忠洞に当代の金持ちだけ通うオデン家があるが、金持ちは“そこ行ってオデン一つつかんでも10ウォン、20ウォンを置いてくる”という噂を伝えた。 冷麺一杯が15銭した時だ。

朝鮮総督府という制度にもおでんの跡が残っている。 朝鮮人に日本語常用、創氏改名、神社参拝、徴用を強要した陸軍大臣出身第7代朝鮮総督南次郎はおでんを愛した軍国主義者だったようだ。 1939年11月11日‘国民精神作興週間’の五日目をむかえた南は朝鮮の高齢老人たちを総督官邸に招いた。 その場で82才の附日輩・閔丙奭自作が朝鮮総督に感謝の挨拶を上げたし、咸鏡南道から来た82才のイ・タル老人が‘皇国臣民叙事’を朗唱して拍手を受けた。 この和気あいあいとした席にはおでんが付け加えた。


朝鮮日報1939年11月12日付. 南総督が招いた老人たちとおでんを聞いて話を交わす話が写真と共に載っている。

純粋母国語として味覚はない

南は総督在任中毎年附日輩を総督官邸と呼んで集めるこのような祭りを施した。 ある年には最初から官邸内外を開放したガーデンパーティを開いておでん、寿司、サンドイッチ、主流、ぜんざい(タンパッチュッ)ブースを別に設置するとすぐに版で附日輩を迎えた。 毎年総督の招待を受けた知識人附日輩キム・ファルランはその時のおでんをこのように回想した。

“私はその時食べたおでんの味が思い出されます。 酒を飲むとは思わないのであつあつのおでんだけ食べたがいやに香ばしい味がよかったこと同じです。 空が見られないような真っ赤な紅葉陣の中で食べたことでそうなのか。 とにかく私以外の違った方々もみなそうしたと考えられます。”
(三千里、1940年第5号)

附日輩にも思い出の半分はやはり味だったようだ。

かまぼこという材料、おでんという食べ物は朝鮮人の日常に自然に入り込んだ。 光復の後にかまぼことかかまぼことか名前は紛らわしかったが、そのような中でもかまぼことおでんはおかず、スープ、屋台の串などの色々な姿で韓国化して今日韓国人と一緒にする。

かまぼことおでんの差を“現地”基準として区別することだけではおでんの食べ物文化史、その意義が全てあらわれない。 感覚は具体的な物質と制度を基に歴史的に形象されるはずだ。 味覚だけは‘純粋な母国語’とか‘固有の文化’という強迫はそれでいつも実際と外れる。 入ってくるやいなや席を占めて、100年の間韓国化したし、今日韓国庶民大衆となじむことこの上もない食べ物が表わすこの‘ずれ’こそ注意深く吟味するほどの食べ物文化史の珍景ではないか。

孤影食べ物文献研究者

http://www.hankookilbo.com/v/a42b1fdc6bb8435da651b3c94f9d6242

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