2022年1月10日月曜日

 パンソリの水宮街の主要大木を現代的な感覚にして人気を集めている国楽グループの「魚類図鑑」の歌詞だ。韓国代表魚種がリストされたが、この魚の名前は抜けた。資産漁船では青い模様があり、碧紋魚と呼ばれ、東国女子乗覧では古刀の模様に似ているため古刀魚と呼ばれた。うろつきのない寒い魚だからといって霜に上げなかったが、安東地方は上げた。’海洋水産認識調査’で韓国人が一番好きな魚で昨年まで3年連続で1位に上がり、今年はイカに続いて2位を占めた魚だ。冷たい風が吹き始める晩秋から初冬に脂肪が存分に上がり、味が絶頂に達し、海の大麦と呼ばれる国民の魚だ。


サバを大量に捕まえ始めたのは1920年代からだ。日帝強占期に巨済チャン・スンポ、蔚山防衛陣、慶州監砲、浦項九龍浦、巨文島などに日本人移住漁村を建設してサバを捕まえた。特に統営の欲張りは日本の建着船500余隻、運搬船290隻以上が操業するほどサバ集結地となり、1970年代までにヨガマップ左部砲はサバ村に名声を続けた。漁獲量が減少しているにもかかわらず、2000年代以降、連近海漁業でずっと3大魚種の席を守っている。しかし統営と秋子も沖で捕まえたサバを、済州島南方まで行って漁獲する。水温上昇と乱獲が主な原因として指摘されている。雪上家で中大型サバは減り、商品性が落ちる小さなサバがたくさん捕まる。




[食品人文学]煉炭上に横たわりカルビまねるサバの塩焼き


2014/11/07 

真夜中に喉が渇いて冷蔵庫を開けてみると、片隅にサバが塩漬けにされているよ。お母さんいびきをかく声小さく聞こえるよ。お母さんはサバを焼こうとしたようだ。塩漬けにしておいて安らかにおやすみになるんだな。私は明日朝には塩さば焼きを食べることができるよ。お母さんはサバを漬けておいておやすみになるんだな。私は明日朝には塩さば焼きを食べることができるよ。

 

キム・チャンワンが詠んだ‘お母さんとサバ’という歌だ。サバは大きく真サバとゴマサバで区分する。サバは朝鮮時代文献にも結構しばしば登場する。漢字では‘碧紋魚’といったが、背に青色をいっぱい抱いているので、青色を意味する‘碧’の字を付けたと見なされる。
  
だが、最も広く呼ばれた名前は‘皐登魚’だ。朝鮮時代の人々が食べた魚に比べてとりわけ背が高かったためだと推測する。丁若銓(丁若銓、1758~1816)は《茲山魚譜》でサバを“長さは二尺程度だ。からだが丸くてうろこが非常に細かい。背は青くて模様がある。肉は甘くて酸味が出て汚れている。 スープをとろ火で煮たり塩辛を作ることができるが膾や捕虜食べることはできない”とした。 
  
ソウルではサバを見かけるのが一番難しかったよ 
  
丁若銓より190年前に生きた許筠(許筠、1569~1618)は“古刀魚は東海で出るのに内蔵で塩辛を漬けたのが最も良い”と書いた。多分朝鮮時代の人々はサバを焼き物にして食べることより内蔵で塩辛を漬けて食べたようだ。なぜそうしたのだろうか? 
  
サバは漁師に捕えられるその瞬間死ぬ。また、死んだサバの肉は早く腐敗する。万一、腐敗したサバの肉を食べることになればすぐに腹痛や嘔吐を起こす。丁若銓が“スープの材料にも良い”とある理由を十分に分かるに値する。しかしそれも新鮮なサバを手に入れることができた黒山島では可能だったことだ。内陸に住む人々は内蔵の塩辛で満足するほかはなかった。こうしたために朝鮮時代料理の本にはサバを食材に使った料理法がない。 
  
それならいつからサバが韓国人の食卓に自身満々に上がってくることになったのだろうか?
日帝強制占領期の食品学専門家・李用基(李用基、1870~1933)はサバを置いて“生鮮はソウルでは見られないで佐飯だけが近くに鉄道でくることなのに、焼けばサバ味は当てられるだけのことはあってサバより生臭いのはない”とした。 1920年代初期にこの文を書いたソウルの人李用基の立場では生サバを見ることもできなかったし、塩漬けにした佐飯サバもやっと見ることができたという話だ。 捕えられる瞬間死んでしまい死ねばすぐ傷ついたので朝鮮時代の人々は海辺に住まない以上生きているサバの姿を見た人は殆どなかっただろう。 
  
ところで1920年代から秋には浦項、巨済島で捕えられるサバが釜山漁港に山のように積まれ始めた。浦項の竹島市場近所にはサバをはじめとしてイワシやニシンを捕えて燃料や石鹸そして肥料を作る工場が入るほどであった。あら塩をばらまいたサバを貨物列車にのせて大邱、大田そしてソウルに送った。 
  
 両手に握ってがっちりちぎって食べたサバの塩焼き 
  
1960年代にサバは日本に輸出する孝行息子商品だった。今時分釜山龍頭山の下光復洞路地にはマッコリ居酒屋が幾つもあった。1970年代初期になるとすぐに光復洞路地はお客さんで足の踏み場さえなかった。居酒屋では日本に輸出して残った新鮮なサバの腹を両側で分けてあら塩をばらまいた後、煉炭火で焼いて‘二匹で100ウォン’建てのおつまみに出した。 そのまま塩さば焼きなのに人々は‘サバの塩焼き’と呼んだ。あたかも牛肉カルビを二切れで出したようにサバも二切れで出して焼いたためだ。1980年代までサバの塩焼きは釜山光復洞居酒屋路地ですごい人気を享受してその時期財布が軽い学生たち、会社員に有難い酒のつまみになってくれた。 
  
しかし1990年代に入るとビールが大学生のアジトになって、サバの塩焼きもマッコリとともに痕跡をなくし始めた。そしてサバも消え始めた。1990年代後半韓半島沿岸でサバを捕えるのが容易でなかったためだ。それで‘サバの塩焼き’と書いておいて焼きホッケを出すレストランも幾つもあった。 さらに塩さば焼き上にいろいろな調味料を成し遂げておいてサバの塩焼きだと言い張るレストランも登場した。 
  
丁若銓は“1806年以後には毎年減って今日ではほとんど痕跡をなくしたという。 近頃嶺南地方の海で新しくこの魚が現れたと聞いたがその道理が分からない”とした。サバが韓半島沿岸を回遊したために生じたことだった。だが、今やサバは韓半島沿岸を回遊しない。サバの塩焼きもそうである。

http://mediask.co.kr/1882


意外にも、朝鮮では鯖は食べられていませんでした。

例外的に黒山島に流された丁若銓が食べた記録がありますが、

それも煮て食べています。


現在、釜山では焼き鯖が有名になっていますが、

実のところ歴史は浅い食べ方だったりするんですね。

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