2022年1月10日月曜日

江原道ジャガイモ栽培の歴史

 ジャガイモで作った酒、何だろうか?[ミョンウクの房人文学]


記事入力 2019.12.21。午後7:02


先週、食品業界のホットイシューは、まさにジャガイモだった。また、商品性の小さいブスジャガイモ。ベクジョンウォンさんが放送を通じて販売にくいブスジャガイモを新世界ジョンヨンジン副に知らせ、それをEマートで購入した。すると30tが瞬く間に完売となった。

次に、ジャガイモはいつできたし、いつ韓国に入ってきたのか。ジャガイモの開始は、南米の中央アンデス高地と知られている。そしてスペインで南米を征服しながら、16世紀の頃のヨーロッパに流入される。しかし、聖書に出てこない作物であるうえ、芽が出たら毒性が生じジャガイモはヨーロッパ人が好ま作物の一つであった。

しかし、ジャガイモは巨大な可能性を持った農産物であった。地の下育つほど酷寒の状況でも耐えることができて、何よりも戦争が起こったとき、小麦・大麦はすべて火に乗ってしまうが、ジャガイモだけ地中で生き残ることができた。

代表的なきっかけが宗教戦争だった‘30年戦争」(1618~1648)である。ドイツ地域を中心に起こった戦争を契機に、当時ジャガイモ栽培が増えることになる。また、ヨーロッパの各地で数多くの戦争を重ねるごとに、ジャガイモの栽培面積は大きくなるしかなかった。この時、ジャガイモは食用として使われたりもしたが、豚の飼料としても多く使用された。だからジャガイモをたくさん育てたドイツハムとソーセージが発達することができた。

ナポレオンのモスクワ進軍により東ヨーロッパ、ロシアのまでジャガイモが普及になった。この時、東ヨーロッパで始まった酒がすぐジャガイモで作ったウォッカだ。すなわち、ジャガイモは、戦争に普及し、作物に位置、酒も発展したものである。

韓国では、1824年ころ清の人々が山の人参を掘るために隠れ入っジャガイモをこっそり食料に培養されたのが始まりだという。以後、1920年代江原道会両軍はドイツ人毎グリーンが難曲というジャガイモの品種を開発し、自分の土地を失った火田民がたくさん集まった江原道は、ジャガイモの栽培を本格的にしながら、本格的なジャガイモ主産地で浮かび上がらされる。

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もうね、あまりにも嘘だらけで、困ってしまう記事です。

ドイツのジャガイモ栽培とか別のスレにします。

とりあえず、江原道に絞ります。


論文、ドン!



火田民の焼畑で不毛の大地になっていたのを、愛知の地主が出資して、農場を作り、近代機械を導入しつつ、作り上げていったものです。

新品種の導入だけでなく改良もしています。


歴史を改ざんしてまで自尊心を維持しようとするから、いつまでたっても韓国人は文明人にはなれないんです。


前回に続き、ドイツにおけるジャガイモ栽培の歴史の話。

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ジャガイモで作った酒、何だろうか?[ミョンウクの房人文学]

記事入力 2019.12.21。午後7:02


(略)


次に、ジャガイモはいつできたし、いつ韓国に入ってきたのか。ジャガイモの開始は、南米の中央アンデス高地と知られている。そしてスペインで南米を征服しながら、16世紀の頃のヨーロッパに流入される。しかし、聖書に出てこない作物であるうえ、芽が出たら毒性が生じジャガイモはヨーロッパ人が好ま作物の一つであった。

しかし、ジャガイモは巨大な可能性を持った農産物であった。地の下育つほど酷寒の状況でも耐えることができて、何よりも戦争が起こったとき、小麦・大麦はすべて火に乗ってしまうが、ジャガイモだけ地中で生き残ることができた。

代表的なきっかけが宗教戦争だった‘30年戦争」(1618~1648)である。ドイツ地域を中心に起こった戦争を契機に、当時ジャガイモ栽培が増えることになる。また、ヨーロッパの各地で数多くの戦争を重ねるごとに、ジャガイモの栽培面積は大きくなるしかなかった。この時、ジャガイモは食用として使われたりもしたが、豚の飼料としても多く使用された。だからジャガイモをたくさん育てたドイツハムとソーセージが発達することができた。

ナポレオンのモスクワ進軍により東ヨーロッパ、ロシアのまでジャガイモが普及になった。この時、東ヨーロッパで始まった酒がすぐジャガイモで作ったウォッカだ。すなわち、ジャガイモは、戦争に普及し、作物に位置、酒も発展したものである。


(後略)


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一般的には、フリードリッヒ大王のジャガイモ命令が挙げられますが、興味深い指摘があります。

長いですが。

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じゃがいもがドイツ人の「国民的」食物となるまで



ドイツがじゃがいもの名産地となり、「ドイツ=じゃがいも」というイメージが定着したのは、実はそんなに昔の話ではない。約300年前にドイツに入ってきたじゃがいもが、ドイツの国家的危機を救い、国民的ソウルフードとなるまでの道のりを、西洋史学と食文化を専門としている京都橘大学の南 直人教授と一緒に振り返ってみよう。


南 直人 Naoto Minami南 直人 Naoto Minami
専門は西洋史学、食文化研究。博士(文学)。京都橘大学文学部教授(2005年~現在)。主な業績:『<食>から読み解くドイツ近代史』(ミネルヴァ書房)、『世界の食文化⑱ドイツ』(農山漁村文化協会)、『医療の社会史-生・老・病・死』/「母乳が政治性を帯びるとき-世紀転換期ドイツにおける乳児保護の実態と言説」、ポール・フリードマン編『世界 食事の歴史-先史から現代まで』(東洋書林、監訳)、『ヨーロッパの舌はどう変わったか-十九世紀食卓革命』(講談社)ほか。


日本を代表する「すし」の源流が東南アジアであるように、ある国を代表する料理が遠く離れた外国にその起源を持つということがしばしばある。ドイツのじゃがいも料理もそれに当てはまるといえる。アンデス山地からはるばる海を越えてヨーロッパにやってきたじゃがいもは、数世紀かけてここドイツの地に定着し、ドイツ人にとってアイデンティティーを感じさせる存在となった。しかしそのプロセスは決して平坦なものとはいえない。

じゃがいもがヨーロッパではじめて食用とされたのは、16世紀末のスペインであるとされる。ドイツではというと、食の歴史研究のパイオニアである故トイテベルク教授によれば、じゃがいもが食用として導入されたのは17世紀末から18世紀初頭のことで、場所はプファルツおよびフォークトラント地方に限定されていたらしい。いわば山がちの僻地である。そしてそこからはなかなか広まらなかった。じゃがいもが敬遠された理由はさまざまあげられるが、要するになじみのない奇異な作物だったことが大きい。

しかし18世紀末頃になると、ようやくドイツ各地でじゃがいもが栽培されるようになる。この理由もまたさまざまであり、エピソードめいた話が数多くある。筆者としては、この時期におけるじゃがいもの普及には、直接的物質的要因間接的精神的要因の二つが特に大きな役割を演じたと考えたい。前者は飢饉と食料不足である。18世紀は人口増や寒冷化を背景に食料供給がひっ迫した時代であり、特に1770年代初めには穀物生産が壊滅的打撃を受け深刻な飢饉が生じた。しかしじゃがいもはそうした悪影響を免れたため、生産が急速に拡大したのである。

後者の要因としてあげられるのが、じゃがいもについての知識の普及であり、そこではとりわけ民衆啓蒙主義者達が重要な役割を演じた。じゃがいもに対する民衆の偏見を彼らが徐々に取り除いていったのである。たとえば、代表的な民衆啓蒙家としてルドルフ・ツァハリアス・ベッカー(1752-1822)という人物がいる。彼が1788年に著した『農民のための生活の手引き』という文献は、生活改善のための実用的知識を農民に広めることを目的として書かれ、当時一大ベストセラーとなったものだが、この中ではじゃがいもも一節を割り当てられ、多収穫であることやさまざまな食べ方があることなどが紹介されている。フリードリヒ大王(在位1740-1786)がじゃがいもを奨励したこと(Kartoffelbefehl=じゃがいも令)がしばしば喧伝されるが、上からの命令で一挙にじゃがいも栽培が広がったとは考えにくい。むしろこうした民衆に近いローカルな知識人達の地道な活動をもっと評価すべきであろう。

19世紀になるとじゃがいもの栽培は順調に拡大していった。世紀中葉までのドイツでは人口の急増の下で食料不足がいまだに続いていたため、人口扶養力の大きいじゃがいもは食料としての重要性を高めていった。世紀後半になると栽培面積はますます拡大し、収穫量でみれば他の穀物を次第に圧倒するようになる。そして19世紀末頃には、ドイツは世界最大のじゃがいも生産国となったのである。

それに伴い、消費面でもじゃがいもはドイツ人の食生活に定着し、食物としての地位を確立していく。もともと救荒作物として普及したという経緯から、じゃがいもには貧民食というイメージがあったが、19世紀を通じてそれが次第に払拭され、市民層などにも受け入れられていくのである。トイテベルク教授と並んでドイツの食の歴史研究のパイオニアである故ヴィーゲルマン教授が、有名なダヴィディスの料理書などの分析を通じて、そうした様子を具体的な献立のレベルから明らかにしている。紙幅の関係で詳しくは紹介できないが、ブラートカルトッフェルン、ライベクーヘン、ポメスフリットなど、おなじみのじゃがいも料理が必ず料理書に登場するようになり、19世紀末には日常食としてだけでなく、祝祭時豪華な料理の中にもじゃがいもが堂々と取り入れられるまでになった。じゃがいもは晴れてドイツ人の「国民的」食物として認められたといえよう。

ただし「国民的」とはいっても、じゃがいもの受容については地域差の問題を指摘しておかねばならない。じゃがいもの消費に関して社会層の差は縮まったが、地域間の差はなかなか縮まらなかった。具体的にいえばマイン川の線で大きく南北に分かれ南側はじゃがいもの消費量は相対的に少なかった。もっとも、ドイツの食文化の南北差はじゃがいもに限ったことではなく、小麦とライ麦の比率やミルクの消費量などいくつもの例が挙げられる。ステレオタイプの「国民」イメージは一皮めくると容易に覆されるのである。

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17世紀前半だとほとんどが食用ではなく観賞用だった時代です

丁度、7年戦争の頃、フランスの農学者がプロイセン軍の捕虜になり、その有用性を広めたという話がありますけど、前述の話と微妙に食い違うのが気になります。

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