2016年12月20日火曜日

[ジュヨウンハの食べ物100年](24)コウライケツギョのメウンタン

ジュヨウンハ|韓国学中央研究員教授
入力:2011.08.15 19:23:57 修正:2011.08.18 16:13:07

・魚なのにまれに‘豚肉味’

1933年9月3日付東亜日報の‘紙上病院’というコーナーにこのような記事がのせられた。 “20才男子だが年前に肋膜炎で苦労してナアソンヌンデ今から畑人参が苦しくてヨプ銅と残灯人がとてもスクスクずきずきと痛んでアプムニだ. からだがとても弱くて何の仕事をしてもすることが糸鼻力がトゥムニだ. せきがひょっとして出てきて黄色いタン唾が出てきます。 このような病気にコウライケツギョをサルモ食べれば良いというのはどうですか。 病名と薬方文をカルキョジュヨ.(開城の苦痛生)”この質問に対して当時京城府診察所内科パク・ジョンヨン博士の返事はこのようだ。 “肋膜炎の再発が中なのか考えられます。 一次医師の診察を受けて病名を確かに分かった後に治療方針を定めてください。 お問い合わせのコウライケツギョは摂取しても関係がないでしょう。”

知ってのとおり肋膜炎はほとんどの結核菌が原因になって発生する。 他の名前で胸膜炎だ。 植民地時期に多くの若者たちが栄養状態が良くなかったし、それによって結核や肋膜炎をたくさん病んだ。 当時には特別な薬が多くなかったために一種の民間療法でコウライケツギョを煮込んで食べた。 憑虛閣李氏(1759~1824)は <閨閤叢書> で中国元国時の医書である <養生記> でコウライケツギョを食べれば虚弱さを助けて胃に良いといった。 だが、背中床骨に毒があるので全部除去して食べろと申しつけておいた。 だから上の‘紙上病院’処方でコウライケツギョを食べても大丈夫だといった理由を十分に察して残る。 公的な医療体系が席を占められなかった朝鮮後期以来このような養生関連資料が民間では病気を良くなるようにする処方であまねく使われたためだ。

ところで <閨閤叢書> ではこの魚をソガリ(쏘가리、コウライケツギョ)だと書かなかった。 単にハングルで‘クォロ(궐어)’とだけ書いた。 クォロ(魚厥魚)はソガリの他の名前だ。 憑虛閣李氏を兄嫁で置いた徐有榘(1764~1845)は漢文で書いた <林園經濟志·佃漁志>で クォル(魚厥)を置いて‘ソガルガ소갈이’とハングルで書いておいた。 朝鮮総督府殖産局水産課の技手であった鄭文基(1898~1995)は“南鮮地方ではソガリ(쏘가리)だと呼ぶ。 言語学者の言葉を借りれば‘ソ(소)’は‘ソ(쏘)’の進化した手形だとソガリという名称がモンジョセンギオスリとする”(東亜日報1938年7月29日付)でした。 だが、文献資料の表記を見ればかえって朝鮮後期にソガリ(소가리)と呼んで植民地時期をたどりながらソガリ(쏘가리)になった。

徐有榘はコウライケツギョの味を置いて“別名水豚なのに、その味が豚肉のようにおいしいためだ”といった。 大きさや厚さはもちろんで魚であるのに豚肉味がよいのでこのような名前が生じた。 また“我が国の人々はこれを錦鱗魚だと呼ぶ”とした。 徐有榘よりほとんど200年も先立って生きた許筠(1569~1618)は自身が食べてみた料理を数え上げた文‘屠門大嚼’で“錦鱗魚:山奥にある村に全部いるが、楊根が最も良い。 初めには天子魚だと呼んだ。 董圭峯が食べてはおいしくて、名前を尋ねた。 通訳がうっかりして答えることを錦鱗魚だと話した。 人々が皆これを良いといった”と書いた。 董圭峯は明国の人で朝鮮にしばしば使節にきた董越(1430~1502)を示す。 本来朝鮮の人はコウライケツギョの味がとても良くてそのまま‘天子魚’と呼んだ。 ちょうど明国使節がその名前を尋ねるとすぐにあえて魚に‘天子’云々することができなかった。 それで新しく生じた名前がすぐに錦鱗魚だ。 それでも錦鱗魚卵名前がとんでもなく建てられたことではなかった。 コウライケツギョはうろこが細くて黄色を帯びる。 だからその形状で通訳が非常に適切に名前を付けたわけだ。 ところで許筠は錦鱗魚次の次項目に別にクォロを言及した。 “クォロ:ソウル東西側でたくさん出るのに国民らは廉鰻魚だと呼ぶ。”なぜ許筠が錦鱗魚とクォロを区分したのかは分からない。 おそらく錦鱗ある黄コウライケツギョでクォロは一般コウライケツギョを示すようだ。 それで今の楊坪である陽根で出るのは錦鱗魚、漢江で出るのはクォロで見るようだ。

朝鮮時代の非常に多くの文献にコウライケツギョ関連記録が見られるが、それの調理法はまだ発見されなかった。 さらに植民地時期ベストセラー<朝鮮料理製法> でもこれに対する言及がない。 ただし李用基の <朝鮮無雙新式料理製法> (1924年版)で‘ソガリチヂミ’という調理法が出てくるだけだ。 “ソガリはクォロラ下ということだといって古くからイルはことだとそれであるから‘図画流水グォロビ’(桃花流水にコウライケツギョが肥えていたな)とハヤンナニこれがチヂミ中にテイルドゥンイヨまた珍しく出ることだと煮る方法は鯉チヂミ法課がティーマンドゥナニラ.”李用基は同じ本で‘チヂミ作る方法’を言及して鯉チヂミを一番最初に紹介した。 “雨焦げる極地のほか内蔵に胆嚢抜いて種立って頭切って裂いてふるまうようにトゥマクチで水に苦難長をちらつくようにカンマッチュウォ解いて赤身とネギをマニ君鼻消そうと滝壷息下車でも一部分打ったのを君鼻ムルロロク クリダが返品する四度至高ふるまうようにソロノコに消そうと骨が返品するように走った後に食べればチヂミ中に第一兆鼻酒を飲む人がおつまみを相等にハ出るのだ。”ソガリジジムがやはり主材料だけ違うだけこのようにさせるといった。

李用基はチヂミを‘전’と書いた。 このごろの人々は油に地震の料理をあわせてチヂミだと呼ぶが、植民地時期だけでもチヂミは国より汁を少なく捉えて適当に沸かした料理を示した。 <朝鮮無雙新式料理製法> では別にテンジャンチゲ・魚チゲ・豆腐チゲとともに‘チゲ作る方法’に対する言及もある。 李用基は“いったい湯よりチヂミが味が上甲チヂミよりチゲが味がチョフンことは書くようにさせてヤンニョムを上手にする理由だと”とした。 国は汁が多いのに比べチゲは土鍋に材料をたっぷり入れて食事の仕度をする時蒸した後に再び焚き火に沸かして‘パットゥロジゲ’沸かしたのだ。 これに対し比べて骨がくずれる時までいびきをかいた料理をチヂミだと呼んだ。

それと共に鯉チヂミの他の名前で‘パルゲンイチヂミ’を書き留めた。 パルゲンイは食品の色が真っ赤なところで出てきた名前だ。 すぐにコチュジャンで味付けをした結果だ。 だからソガリジジムがやはりパルゲンイジジミの一種だと見ても支障がないようだ。 だが、植民地時期の新聞・雑誌でパルゲンイジジミの他の言葉でメウンタンだと書かれた資料はまだない。 メウンタンという料理の名前は1951年になってこそ新聞に初めて登場する。 1951年12月1日展示下で保健当局は‘高級料亭廃止および無許可レストラン管理’を公布して管理対象料理中に神仙炉とともにメウンタンを言及した。 その値も神仙炉と同じように1万1000換だった。 メウンタンの主材料が何であったかは分からないが非常に高い料理であったことに間違いない。 今日メウンタンといえば海魚や淡水魚を分けないで内蔵とうろこだけかき出して頭・尻尾はそのまま置いたまま沸かす料理を示す。 1976年10月22日付京郷新聞に紹介されたコウライケツギョのメウンタンは次のとおりだ。 “コチュジャンと粉唐辛子を解いた汁にコウライケツギョを入れて骨が返品する時まで沸かす。 ほとんど熟した時準備された青唐辛子、ネギなどを入れて再び10分ほど沸かす。 できた時色々なヤンニョムを入れてナベに表わす。”このようにコウライケツギョのメウンタンは1970年代中盤以後にすごい人気を呼び始めた。

事実コウライケツギョは韓半島の南海と西海に陥る淡水に育つ肉食性の魚だ。 それでも昔から全国で今のようにコウライケツギョのメウンタンを簡単に食べることはできなかった。 植民地時期朝鮮総督府直属機関だった釜山の水産試験場で朝鮮の魚類を調査した內田惠太郞(1896~1982)は1931年6月に平安南道南東側に位置したソンチョンの沸流江でコウライケツギョの生活史調査をした。 その時“ソンチョンに盲人としてコウライケツギョを捕まえる有名な人がいるということを聞いた。 この盲人は一人で川岸を数里も歩いて通ってコウライケツギョが生きる場所をよく知って、潜水して魚を釣ってくるという。 普段の生活はククス店のお手伝いをしているが、暖かい季節にはコウライケツギョ漁で相当な収入を得るということだ。”その盲人は手ぶらでスナモグリまで泳いで大きいコウライケツギョのエラをとらえて現れることもした。 內田惠太郞はその後3年の間この盲人の助けを受けて日本人助手とともにソンチョンの日本人旅館でコウライケツギョの人工孵化を実験した。

たとえ実験は成功したが、それでも直ちに大規模な稚魚生産につながることはなかった。 単に個人が経営する漁場で飼養されている程度であった。 大量生産を可能にした人工孵化は1995年にはじめて成功した。 すでに植民地時期に作られた鴨緑江の水豊ダム、漢江の八堂ダムなどによってコウライケツギョの棲息地は日が進むにつれ減った。 だが、1960年代からリルラクシが流行をしながらコウライケツギョは以前よりはるかに簡単に捉えることができた。 さらに1960年代末から全国が建設現場がなって爆薬TNTが民間にも出回るとすぐに最初からこれを川底に投げてコウライケツギョを捉えることもした。 結局1967年5月12日文化財委員会では漢江一帯に棲息する黄コウライケツギョを天然記念物に指定した。 このような指定は許筠が言及した陽根一帯の錦鱗魚が絶滅危機に直面したことを意味する。

植民地時期から朝鮮総督府は輸出用と村民の不良な栄養を強化するという名目でコウライケツギョをはじめとして鯉・あゆ・ウナギなどの淡水魚を飼養するように推奨した。 朝鮮総督府や大韓民国政府でもコウライケツギョの産卵期である5月中旬で6月上旬を禁漁期に決めることもした。 しかし1973年に昭陽ダムが完工して春川の湖畔近所にはメウンタン専門店が長蛇の列を作った。 需要があるだけに人々は頑として捉えたし、政府では稚魚を全国の川にまいた。 その結果南海と西海に流れる全国の川はもちろんで貯水池近所でも夏になればコウライケツギョをメウンタンで沸かして売る食堂が席を占めた。 1970年代建設ブームと1980年代全国的な料理流行が作り出した結果だ。 結局李用基がチヂミ中で一番味良いといったソガリジジミの主材料は今日稚魚で大量養殖されて再び川にまかれたことが主流をなす。 さらに遠く中国の養殖場で育ってその出身地を変えたりもする。 川を団地開発の対象で見て、淡水魚をひたすら腹満たす料理でだけここは結果だ。

http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?artid=201108151923575&code=960100&s_code=ac094

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