2016年12月22日木曜日

[食品人文学]饅頭、真実か嘘か

2015/03/11

“諸葛亮が遠く南蛮を征伐して帰り道に暴風に会うことになるとすぐに誰かの人の頭49頭を‘水の神’に捧げなければなければならないと進言しました。これに対し諸葛亮は殺人をすることはできないから万人の頭の形を小麦粉で仕込んで祭事を行おうといってそのようにしたところ暴風が止みました。”
 
この話は‘饅頭の由来’と多く伝えられます。 諸葛亮(181~234)が出てくるので他の資料ではこの話が三国志演義に出てくると書いたりもしました。 しかしこれら全て歴史上の事実ではありません。 当然≪三国志演義≫にもこの話は出てきません。 それならこの話の根拠はどこにありましょうか?
 
諸葛亮の知恵込められた饅頭
 
中国北宋の神宗(神宗、在位1067~85)時の人で知られている高承が書いた≪事物紀原≫ こういう話が出ます。
 
“昔に諸葛亮が中国西南部四川省の孟獲(孟获)を征伐する時のことだ。人々が言うことを神霊に祈れば必ず秘密の兵士を送って助けるという。ところで祈祷を捧げるには必ず人を殺してその首で法事を行うという話を聞いて、諸葛亮は方法を変えました。 羊か豚の肉を混ぜて小麦粉で作った餅で包んで人の頭の形を作って祭祀を務めた。神霊もそれを受けて戦争を助けてくれた。これから後世の人々がこの料理を饅頭だと呼んだ。”
 
それでも諸葛亮がこの饅頭を初めて作ったと見るには難しいです。 それよりは高承の時代に饅頭が有害だったし、それの起源を問い詰める人々が増えるとすぐに神秘な人物である諸葛亮に対し遠回しに言ってこの話が作られたと見る方がより確実です。
 

韓・中・日、満州の三色の美学
 
たとえ今から3,000年以上前には中央アジアから今の華北地域に小麦が伝えられたが、流行した時期は紀元前西漢の時でした。 特に霊帝(霊帝、156~189)は北方民族の料理をとても好きで‘胡食天子’と呼ばれるようになりました。 ここで胡食というのは小麦粉で作った料理を示しました。
 
事実今日中国人が言う饅頭は具が入らない蒸し饅頭だけを称します。 これに対し具が入ったことは餃子または包子だと呼びます。 ところで漢の時代に皇室と貴族の間だけで流行した小麦粉料理が北宋の時代になれば開封と同じ大都市に暮らした人々皆にすごい人気を呼びました。 その時だけでも饅頭という料理は今の餃子や包子でした。
 
北宋が滅びて南宋が新しく起きて開封で有名だった小麦粉料理店が今の杭州に移りました。 この時から南宋の人々の間でも饅頭が人気を呼んだし北宋地域を占領した北方民族は具が入らないのは饅頭だと呼んで具が入ったのを餃子または包子だと呼びました。
 
高麗末元に留学に行ってきた李穡(李穡、1328~1396)は老年に冠岳山新房寺に留まったことがありました。 その時、住持に饅頭をもらいました。李穡が味わった饅頭は具が入らなかった饅頭だった可能性が高いです。なぜなら‘白雪が積み重ねて積み重ねて積もったような饅頭を蒸して’もらったといったためです。


韓半島では中国北部地域の人々のように饅頭や包子または餃子を思う存分食べることができる人々が珍しかったです。 食べることができる機会が少ないと見ると具が入らなかった蒸し饅頭のような饅頭や具が入った包子や餃子を全部饅頭だと呼びました。

韓国人が饅頭を思う存分食べ始めた時は20世紀になってでした。 それも6.25動乱以後アメリカの余剰農産物に入ってきた小麦粉が支流に敷かれて可能でした。だが、饅頭の名前は相変らず饅頭でした。
 
日本も韓半島と事情が似ていました。しかし日本人たちは饅頭だと呼ばないで餃子だと呼びます。
 
日本で餃子が人気を呼んだ時期は20世紀初期、華僑の日本定着と関連があります。横浜や神戸そして長崎に中華街を形成した日本華僑が食堂で最も多くの料理がうどんと餃子だったためです。それが日本人が運営するラーメン食堂にも伝えられました。


当初にこれら料理が皆華僑によって広まったためです。 これに対し比べて韓半島の饅頭は華僑でなく韓国人の手によってでありました。それで今でも包子や餃子でなく全部饅頭だと呼びます。
 

http://mediask.co.kr/2008

1 件のコメント:

  1. 「さいまんぢう」位は知ってるのかと思いましたが。
    日本の文献については、多分、一般人よりも知識がなく、嘘だらけです。

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