ジュヨウンハ|韓国学中央研究員教授
入力:2011.05.10 21:26:13 修正:2011.05.11 16:22:49
・朝鮮時代食後飲み物で愛、祭祀の時は茶の代わりに上げることも
・電気釜登場で遠ざかって
“熟水(スクス)は薬剤を煮詰めて沸かすのに使う水だ。 (中略)たいてい我が国の人々はご飯を炊いてすでに熟したら直ちにノグソッの底辺が焼けることになるのにここに水を注いで一度沸けばゆでご飯が作られる。 これを示してスクスだと呼ぶ。 すなわち同じ名前だがその実体は違う。”
この文は朝鮮後期の学者徐有榘(1764~1845)が筆で書いた本である <林園經濟志・鼎俎志>に出てくる。 本来中国宋の国の時代の人々は熟水を薬剤を煮詰めるのに使う良い水を示したが朝鮮の人は窯の下に残ったおこげが熱い時水を注いで作ったゆでご飯であるスンニュン(おこげ湯)を示すという説明だ。 たとえ熟水(スクス)からスンニュンという言葉が生じたと徐有榘が言及しはしなかったが、彼が描写した熟水はスンニュンであることに間違いなく見える。
熟水は祭祀を行う時上げなければならないと信じた茶に代わるのにも使われた。 本来朱子の <家禮> では宋の国風俗に基づいて祭祀に飲み物で茶を上げるようにした。 だが、茶の木が良く育たない韓半島の事情によってその多かった祭祀に茶を上げるのは決して容易なことではなかった。 結局李縡(1680~1746)は朝鮮の事情に合わせて <四禮便覽> (1844年、木版本)を編纂して茶の代わりに熟水を使えと注釈に付け加えておいた。 だが、朝鮮時代いくつかの知識人が文献に書き留めた熟水は概して煎薬や茶を入れる時使うお湯を示す場合が多かった。 だから古文献の熟水が必ずスンニュンだと見てはいけない。 熟水とともに熟冷あるいは熟冷水という言葉も出てくる。 正確に表現すれば冷水を温めた熟冷水が正しい表記だが、そのまま熟冷だと書いた文献も見える。 おそらく熟冷水よりは熟冷がさらに簡単で言葉でしばしば書いて見たら文字にも熟冷になるようだ。 スンニュンという話はこの熟冷(スクレン)から変化した。
それでも可能ならばこの熟冷も茶と記して呼ぼうと努力したようだ。 英祖の時生まれて純祖時死亡した黃德吉(1750~1827)は彼の文集で“祭祀で国を片づけてその代わりに茶を上げるのは礼儀だ。 過去の人々は熟冷だと呼ばないで必ず次と呼んだ”と書いた。 茶を祭祀に上げてしまわれることさえしたかった朝鮮の士の欲求がこの文でそのままあらわれる。 そのような事情は黃德吉と同時代の人である柳得恭(1749~1807)が筆で書いた <京都雜志> にも詳細に明らかになっている。 “茶は土産物がない。 燕市(燕市、ヨンギョンの市場)で買ってきたり新茶の芽・ショウガ・ミカンで代る。 官庁ではもち米を炒めて水に入れてこれを茶という”とした。 どれくらい茶を飲みたかったら、ショウガやミカンあるいははったい粉に蜜を混ぜてそれを次と呼んだだろうか。
このような事情は20世紀に入ってきても大きい変化がなかった。 朝鮮総督府の嘱託で仕事をした日本人村上唯吉は1916年に出版した <朝鮮人の衣食住> という本で“食後には茶を飲まない。 熟湯だと呼ぶご飯を炊いて残った飯湯を好んで飲む”と書いた。 これやはりスンニュンを示す。 知ってのとおり水が少しでも残っているカマはいくら火をたいても100度以上にならない。 水が米の中に全部吸収されて蒸らす順序になればカマの底は水気がなくなって100度以上になる。 このように3~4分が過ぎれば釜の底に残っていたご飯は茶色に変わる。 ここに水を注げば茶色のデンプンが分解されてブドウ糖ができることになる。 カマ底についたデンプンはすでに若干乗った。 ブドウ糖と乗った味が似合った熱いスンニュンをぱたぱたと飲めば即座に香ばしいという感じが口の中いっぱいに広がる。
スンニュンの誕生にはご飯を炊く器が大きい作用をした。
おこげが適切になる大きな釜は
香ばしいスンニュンを作り出すのに適格だ。
|京郷新聞資料写真
おこげが適切になる大きな釜は
香ばしいスンニュンを作り出すのに適格だ。
|京郷新聞資料写真
スンニュンの誕生には通常の国とは違い朝鮮の人が使ったご飯を炊く器が大きい作用をした。 <朝鮮無双新式料理製法> (1924年)で李用基は“ご飯を炊く器は石の釜が一番上で奥地湯罐がその次で、銑鉄釜が三番目で、筒老駆が下等だ”といった。 ここに言及されたカマはその良し悪しを離れて全部重い釜だ。 簡単に入って移して洗うのが難しい。 さらにクィハディ貴重な米や麦で作ったご飯のおこげをそのまま捨てることもできなかった。 この過程でスンニュンが誕生した。
真っ最中の6・25動乱が深刻だった1952年3月1日から京郷新聞には問答形式の‘京郷サロン’というコラムが連載された。 本来‘女性サロン’を受け継いだこのコラムは読者が質問をして‘無官者’というペンネームを前に出した編集部記者が答を出す方式に従った。 連載を始めた直後である3月6日付の問答主題の中の一つは‘喫茶店とスンニュン’だった。 “とても多い喫茶店でとても苦いコーヒーを高く売っているがその代わり安価な暖かいスンニュンを安く売るようにすれば主客間の良いから無官者などの意見は若何?”と光復洞喫茶店ファンという読者が質問を送った。 これに対する答は次のとおりだ。 “香ばしい話に疑問がある。 そういうコーヒーはやはりキキ味で、スンニュンもまたスンニュン味があるからと言って‘コーヒーの代わりにスンニュン’ということは絶対朝鮮では許容できません。 時々スンニュンの代わりに冷水を注文する方があったのです。”読者は喫茶店でもスンニュンを売ればどうかという主張をしたし、記者はすでにコーヒーが喫茶店の主なメニューになったが、その代わりにスンニュンを売ることがどうしてできようかという返事をした。 朝鮮時代ずっと茶に押されてその本性をまともに表わせなかったスンニュンは20世紀に入ってきて再びコーヒーの影の中に埋められてしまった。
19世紀後半朝鮮土地に足をふんだ西ヨーロッパ宣教師の荷物の中にはコーヒーが入っていた。 角砂糖の中に入ったコーヒー粉はお湯に入って黒い色コーヒーに変わった。 朝鮮の人はこれを‘洋湯’と呼んだ。 本来スンニュンをはじめとして類似茶の皆が甘み中心だったために砂糖の中に含まれたコーヒーは朝鮮人の口に合った。 1895年10月王妃が殺害される乙未事変を体験した高宗はロシア公使館に避けて身を守っていてこのコーヒー味に飼い慣らされた。 高宗にこのコーヒー味わうようにした人はドイツ系ロシア人アントワネット・ソンタグ(1852?~?)であった。 1902年10月に本来の瓦の家であったチョンドンクラブを壊してしまい2階建ての洋館を作ったソンタグは1階にコーヒーショップを開いた。 1904年3月と翌年11月には韓日併合の主役である伊藤博文と記者の身分だったウィンストン・チャーチルもこちらで泊まってコーヒーを飲んだ。
1910年代になればコーヒーは西洋を象徴することも、近代を表現することもした。 1914年にドアを開けた朝鮮ホテルでもコーヒーを売った。 1920年代になれば今日ソウルの明洞と鍾路には喫茶店という名前のコーヒー飲む所もいろいろな所に生じた。 1935年11月1日付雑誌‘三千里’では当時有名だったソウルの喫茶店相互を名指した。 仁寺洞のピーッと-ナース、鍾路のメグキー時鼻、今の小公洞である長谷川町の楽浪、鍾路のポン アミ、今の忠武路一帯である明治の定義エリジャワ タイナ、南大門通りのポストン、貫鉄洞のユリ院などが挙げられた。 1930年代になれば映画関係者・画家・文人・音楽家が直接運営する喫茶店がソウルの明洞・鍾路・小公洞・忠武路・東大門一帯に数十ヶ所ずつドアを開けた。 結局日帝末期の喫茶店は西洋音楽を聞いてコーヒーと紅茶を飲んで知識人の弱気さを日常の中に隠してしまったところだった。
それでもスンニュンは相変らず普通の韓国人が食後に飲む飲み物であった。 だが、1960年代後半になればその事情は完全に変わってしまう。 電気釜がまさにその主人公だ。 知ってのとおり電気釜は1955年日本の電気製品会社である東芝で初めて開発された。 その後の色々な電気製品会社で電気釜を開発した。 ところで問題は電気消費量がとても多いということにあった。 結局1965年象印魔法瓶の会社で半導体を利用した保温方式の電気釜を開発した。 この製品は以前のことに比べて電気も少し要ったし、保温もうまくいって消費者からすごい人気を享受した。
日本産電気釜は直ちに韓国に輸出された。 金星社では1966年に直接作った製品を販売し始めた。 ちょうど電気生産量が以前に比べて増加して電気釜は便利性という名前で家庭の台所から従来の釜を次第に追い出した。 不良品とにせ物製品、さらに密輸品事件まで体験して1970年代中盤になれば必ず備えなければならない結婚用品でも電気釜が挙げられた。 この時から農村では電気釜を買うための系組織ができるほど電気釜は急速に広まった。 だが、この電気釜ではスンニュンが作られなかった。 おこげができなかったためだ。
1970年代以後スンニュンやおこげを利用した飲み物製品が開発されて市販されたりもしたが、それはしばらく注目をあびただけ大衆化の道を歩くことができなかった。 清涼飲料の甘い味がコーヒーぐらい強力な力で食欲をひきつけたためだ。 同時に労働者の一食の食事値に匹敵したコーヒー一杯値がインスタントコーヒー登場で安かった。 1979年コーヒー自販機とコーヒーミックスの登場はコーヒーを食後飲み物の席に座らせた。 それで都市や田舎、老若男女を分けないでこの頃の人々は食後にスンニュンより自販機コーヒーを当然であるように飲む。 その結果大韓民国は世界でめったに見ないコーヒー消費国になった。 だがそのように作ったところは1000年が過ぎるまで香ばしい味で食後食欲をすっきりするようにしたスンニュンのおかげという事実を知る人が珍しい。
http://biz.khan.co.kr/khan_art_view.html?artid=201105102126135&code=960100
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