[食品人文学]高麗人参の歴史が参鶏湯の歴史だ
2014/07/11
参鶏湯はいつから韓国人の食卓に上がったのだろうか?参鶏湯を朝鮮時代文献でいくら探そうとしても探すことはできない。それなら主材料である高麗人参と鶏の淵源について先に調べるしかない。 知ってのとおり高麗人参は加工方式により大きく水蔘と白蔘、紅蔘に分かれる。水参は、乾燥させて多くの人参になるが、他の言葉で生蔘とも呼ぶ。 水参は水気が消えれば腐るので人参畑から掘り出た水参は普通10°C程度で10日しか保管できない。だから高麗人参を永らく保管するためには白参や紅参に加工しなければならない。
白熟(水炊き)は白参粉で煮たダルグクだ
白参は普通4年の間栽培した生参の皮を剥いだ後天日で干して作る。その色が赤いといって名前がつけた紅参は普通6年の間栽培した生参をきれいに洗って水蒸気で蒸して出したのを熱風で乾かした後水分が12.5~13.5%程度残るように天日で干して作る。紅参は高麗人参を永らく保管するために開発された結果だ。
白参は高麗時代以来中国と日本に輸出した名産品だった。だが、紅参は1810年頃に紅参を加工する蒸包所が開城に設置された程に遅く開発された加工法だ。だから朝鮮時代一部階層が食べた高麗人参は白参を細かくひいた白参粉だったのだ。
鶏を捕まえて内蔵を抜いて足と翼の端と頭を切ってしまい腹の中にもち米3匙と人参粉1匙を入れてあふれないように束ねた後に水を十譜時期ぐらい注いで煮る。
植民地時代、最高のベストセラーであった方信栄の1917年版《朝鮮料理製法》に登場した白参粉を利用したダルグク調理法だ。ところで1942年版《朝鮮料理製法》ではダルグクが‘白熟’という名前に変わった。その調理法は1917年版とほとんど同じだが最後の部分に“水を十譜時期ぐらい注いで沸かしてハンポ時期ぐらい作って塩辛くて墨出るのだ”という内容が添加された。白参粉を入れて沸かした白熟のスープを組んで薬のように食べるという情報だ。
高麗人参から始まった参鶏湯に対する誤解
人々はよく参鶏湯が朝鮮時代からあったと考える。1987年8月主な日刊紙にこのような内容の消化剤広告がのせられた。“よく知っていることと違い参鶏湯の本来名前は鶏蔘湯です。柳得恭の《京都雑誌》、金邁淳の《洌陽歲時記》、洪錫護の《東国歳時記》などには鶏参湯に対する記録があまねく現れています。また、韓国語辞典にも鶏参湯を‘幼い初物の鶏の内蔵を抜いて高麗人参を入れた漢方薬’と解説していて参鶏湯という単語は参照できないです。”だが、広告文句には致命的誤りがある。この広告で根拠に掲げた《京都雑誌》、《洌陽歳時記》、《東国歳時記》をいくら探しても鶏参湯という料理はそのどこにも出てこない。 さらに朝鮮時代の数少ない料理本にも鶏参湯はもちろん参鶏湯という料理は登場しない。それにもかかわらず、なぜこのような認識ができたのだろうか?その理由はまさに‘高麗人参’ためだ。
ダルグクと白熟に高麗人参を入れると?
前述したように日帝強制占領期にダルグクや白熟に入る高麗人参は白参粉であった。しかし1960年代以後からは参鶏湯に白参の代わりに生参を入れ始めた。この時から冷蔵庫が普遍化して生参が全国的に流通し始めたためだ。高麗人参生産と流通で今でも有名な忠清南道錦山は6.25動乱以後南北が分断されて韓国の代表的な高麗人参市場として地位を確立した。
そちらの年配の商人の話によれば1960年を前後して錦山邑の金星橋の近くには20余号の生参販売店があったという。 1966年になれば錦山市場に生参だけを専門で販売するチャンオクが席を占めたし1973年には最初から牛市場が立つ席に生参市場が入った。1960年代、生参の普及が円滑になりながらソウルを中心に白熟を売った食堂が名前を参鶏湯に変えて売り始めた。 真夏蒸し暑さを避けてソウル洗剣亭遊園地や纛島遊園地に避暑に行った家族は参鶏湯を飲んで暑さを冷ました。 さらに1973年になれば国内のある食品会社は缶詰めに参鶏湯を入れて東南アジアに輸出までした。 結局20世紀以後粘り強く進行された国家の養鶏業振興と高麗人参栽培拡散が1960年代以後参鶏湯を専門食堂で販売される料理として作った原因になった。
参鶏湯は本来ダルグクと白熟から進化した料理だ。ここに高麗人参を入れて保養効果がより増して名実共に参鶏湯は夏保養食の代名詞で位置づけることになったのだ。だが、その歴史はそれほど古くないことを分かる。
http://mediask.co.kr/1735
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