ジュヨウンハ|韓国学中央研究員教授
入力:2011.08.30 19:11:07 修正:2011.09.05 16:19:04
・以前…路地ごとに違った‘ヨ味ソ味’
・最近…どこに行っても同じ‘この味その味’
今は過去の姿をなくした清進洞解酲湯(ヘジャンクク)路地./
1920~30年代カフェ狂を風刺した新聞の挿絵./
庶民が楽しみ探す梨泰院食堂街の夜の風景.(左側から)
“清進洞名物は浮浪者が好きな内外酒店だ。 湖六百号に内外酒店だけ十一家もなってみるので,この村の代表的な名物で堂々としませんか。 この堂々とした名物が昨年には三十余号、一昨年には四十余号もあったそうです。 本当にその時にものすごかったところでしょう。 十家に内外酒店一つずつ! 長官繋いだことと思います。 内外酒店の歴史を掘ってみれば昔には名前のように女が酒膳だけ整えて送りだして内外を着実にした酒場でした。 これがだんだん改名して内外法がなくなって酒膳のそばに付けて座って笑いを売って歌を売ると結局は売淫まですることになってこのごろには内外酒店すれば密売淫が思い浮かぶことになりました。 内外酒店を訪ねて行けば当然油汚れが悪知恵裂こうって流れる若い女が一二ずついますね。 この女がもう話したそれなのにとても風紀を壊乱するので警察署では内外酒店許可を出さないそうです。 この理由で毎年毎年内外酒店が減って行ってこのごろにはすでに瑞山の秘境に聞いたそうです。 この同意名物内外酒店も刃物蹴った百合勢力にはちょっとを出来ないようです。”
この文は1924年7月10日付東亜日報の‘内東里名物’にのせられた。 今日ソウル中区清進洞で名をはせた内外酒店の姿を推察させてくれる。 1900年代以来京城の食堂業は世界化の道を歩き始めた。 日本料理屋が今の龍山と明洞一帯に席を占めたとすれば、清料理屋は徳寿宮南側から南大門の間に席を占めた。 これに対し比べて朝鮮料理屋は鍾路北側で盛業をした。 もちろん各種クッパ店や居酒屋が北村一帯はもちろんで遠く新堂洞まで進出することもした。 それだけ四大門の中の漢陽に比べて京城がその都市的様相を拡張させた結果であった。
たとえ日本の東京と大阪を経由して京城に到着したが、カフェのブームも1920~30年代京城のまた他の一様相であった。 “カフェ-娘子国では小市民国公主たちの‘スウィハートゥ’らを流して行って‘カクテル’と‘フォックストロット’にいわゆる‘蒟蒻’を一番入る一方、字幕待機を睡眠荷物にも振り回して夢の中でもヌッケ酒に酔ってトゥロオは夫を意気込むニョソンドゥルはその間並大抵に夫と争議をしてみるが抱いたことでないが、33年には‘メダム’ビョンデを組織下野棒を各自持ってカフェ-ゴール前で攻略を取るだろう。 ‘カフェ-’光野原カフェ-出入りに‘メダム’の棒にあって明日戦略を考え飴増えているか?”この文は1933年1月15日付朝鮮日報にのせられた‘33年式家庭争議(1)カフェ-城郭占領’という題名の内容だ。 それと共に漫画でカフェゴールの前に棒を入った夫人が両側に並んだ姿を描いた。
レコードで流れ出る‘フォックストロット’は1917年頃アメリカで生じたダンス音楽だ。 これが日本に入ってきて演歌になったし、それが再び植民地朝鮮で大流行した。 カクテルおつまみ‘蒟蒻’という蒟蒻の日本式発音表記で蒟蒻ナムルの根元を粉で作ってここに石灰乳を混ぜて沸かして作った料理だ。 本来中国の唐の時流行した料理なのに10世紀の時その調理法が日本列島に伝えられた。 だが、1933年にカフェに出てきた蒟蒻は蒟蒻だけでなく他の穀物粉まで添加して開発された日本近代の産物だった。 これが東京と大阪のカフェでおかずで登場したし、それが朝鮮のカフェにそのまま移された。 たとえ喫茶店も京城のいろいろな所で西洋クラシック音楽と共に文人と知識人を魅了させたが、カフェやはり内外酒店や居酒屋と違った妙味を植民地男性たちに提供した。
だが、このような経験はひたすら都市のモダンボーイとモダンガールのみ限定された。 さらに1939年からドイツの戦争野心が始まって、朝鮮総督府は節米運動を始めた。 すでに1920年代から農漁村は経済的に疲弊してお粥で春の端境期を渡していた。 たとえ生活改善運動という名前で朝鮮総督府は農漁村の増産に拍車を加えたが、事情はそんなに容易ではなかった。 “一般国民としてはまず米に対する節米思想の育成が極めて重要な部分であることに違いなくて米を原料にする酒類の制石制限と同じ措置又は飯米としての代用食の励行にまた、十分に考慮することがつなぐとせざるをえなくて増産策の確立と並行して節米の旅行は時局下特に必要なことと見られてつなぐ。”(東亜日報1939年8月1日付)
このような朝鮮総督府の節米運動は米以外の穀物でご飯を炊くようにする混食奨励にも続いた。 さらに小麦粉を利用して米粒を作って代用食で食べるように推奨することもした。 解放になるとすぐに混乱した隙間から米価格は空よりさらに高く湧いた。 米軍政庁では1946年6月アメリカ余剰農産物の被占領地域救済援助という名目でアメリカの余剰農産物を導入した。 この時持ってきた小麦はソウルと仁川市民に米一合と共に毎日120gずつ配給された。 この時、ソルロンタンにはご飯が入らないで小麦粉麺だけ入った。 だが、大韓民国政府樹立以後アメリカ小麦が無料ではなかったために大量に持ってくることはできなかった。 結局春の端境期時になれば節米運動を引き続き広げなければならなかった。 1949年12月20日ソウル市警察局では“一般大衆レストラン、食堂、料亭などでは白米使用を厳禁して小麦粉・ソバなど雑穀を使うように指導奨励すること”を指示した。 “白米を飴・餅などを作らないようにすると同時にトック家も取締(管理)して米穀出処を糾明すること”という指示もおりた。 さらに“密酒製造の根絶を期してレストラン・露店・瓶酒家・食糧上を取り締まりして密酒を発見して白米出処を追及すること”を警察に命令した。 朝鮮戦争は食糧不足を極端に推し進めた。 米軍が捨てたゴミで食べるだけのものを選んで作ったクルクリ粥を食べて延命した人も多かった。 だが、1954年6月になれば修復されたソウルにはレストラン数が戦争前より何と3~4倍に増える。 喫茶店(288ヶ所),料亭(236ヶ所),大衆食堂(955ヶ所),モンノジプ(675ヶ所)が盛業をした。 避難民が集まってソウルに人口が集中したためだ。 しかし相変らず富益富の飲食店営業だった。
ファミリーレストランで楽しい時間を過ごす家族./
食欲の一般化を象徴するファーストフード./
外国人に披露した韓国料理世界化料理展示会.(左側から)
外国人に披露した韓国料理世界化料理展示会.(左側から)
朝鮮戦争以後アメリカ政府は彼らの農夫が過剰生産した農産物を強制的に買うように強要した。 その根拠は‘MSA 402条’という法だ。 MSAは相互安全保障法を示す。 1954年に既存のものを改正して援助を提供される国家が援助額の一定比率でアメリカの余剰農産物を購入するようにした規定である402条が挿入されて生じた名前だ。 事実アメリカ政府は第2次世界大戦勃発前に農村の生産システムを大量体制に転換させた。 ところで予想できない過剰生産が発生した。 ちょうど戦争に参戦して軍人食糧でこれが消費された。 前後には西ヨーロッパに軍事同盟を前に出して農産物輸入を強要した。 朝鮮戦争も余剰農産物のまた別の使用先であった。 だが、休戦以後新しい措置が必要だった。 それで生じた法が‘MSA’であり、再び強制購買条項を入れた。 合わせて1954年7月米国議会はMSAを改正してPLO480法(通称余剰農産物処理法)を成立させた。 この法にはアメリカの余剰農産物を援助国の貧困層援助、災害救済援助、そして学校給食には無償で提供するという内容が入っていた。
1955年以後韓国の国民学校に食パンと小麦粉が無償で供給された。 教師たち手にも握手の図が描かれた援助小麦粉砲台が握られた。 これから小麦粉を材料にしたスジェビ・カルグクス・チャンチグクスのような料理が家庭ではもちろんで食堂でも食事を解決するのに使われた。 さらにPLO480法には購入した余剰農産物を効果的に消費させるために栄養教育を施行しなければならないという内容も含まれていた。 当時淑明女子大教授であったキム・ビョンソルは米の量を減らして栄養価を高めようという主張も広げた(京郷新聞1955年11月4日付). たとえ主食である米調理法に対する研究を強化しようという主張を彼は前に出したが、“麺類を奨励して麺料理法をより一層研究してカルグクス、スジェビのようなものの調理法を少しずつ改善してもう少し栄養価が高い合理的な調理法を研究してみましょう”という提案も落とさなかった。 アメリカの余剰農産物転入は小麦粉・砂糖・綿の三白産業が経済の中心軸になるようになった。 当然大韓民国の食品産業も製粉業と製糖業を通じてその基盤を固めた。 1960年代に入ってくればそういう事情はより一層強化された。 インスタント ラーメンが1963年に、インスタントカルグクスが1969年に商品に出てきた。 特に第3共和国が粘り強く推進した魂粉食奨励運動は小麦粉料理の消費をより一層そそのかした。
1980年代になれば韓国経済の成長ぐらい食べて飲んで遊ぶ産業もすごい盛況を成し遂げた。 1983年小説家兼言論人崔一男の指摘は今でも手厳しい。 “産業化が追い立てた一日生活圏までは良かったが、その風は人々の思考または、今話している料理文化までも同質的であると作っておいた感がなくはない。 どこへ行くがソルロンタン・冷麺・ビビンバが大手を振るってお客さん接待のためにはソウルや地方やプルコギを一番上で打つ。 それが便利な交通のせいなのかでなければ何でも同じ色で彩っておくのが好きな産業社会が抱かれてあげた結果なのかは分からないがある都市にガーデンの食品が全く同じだ。 (中略)それで徐々に4千万食欲が一体化が成り立っているわけだ。 発展も良くて変貌も良いが、都市の個性が無視されたこのような形の画一化は本当にうんざりだ.”(京郷新聞1983年11月16日付)
さらに食品の世界化体制は飲食業を外食産業で作るのに一助となった。 1950年代以後米軍部隊を通じて伝えられたアメリカ式ピザ・ハンバーガー・ソーセージ・コーラなどが享受した特殊な権力は1980年代以後これ以上韓半島で特殊でなくなった。 ここに1970年代初期から成り立った各種肉類の輸入は日が進むにつれ増加した。 健康に対する関心は肉類消費とともに平行線をひいて高まった。 すると都市の繁華街には魚刺身料理屋とすし屋がぞろぞろ席を占めた。 1990年代以後韓国人の外国観光経験は2000年以後韓国のどの都市でも外国料理を本土のように味わうようにさせてくれた。 すると韓国料理を世界化しようという主張がスローガンを越えた政策で具現され始めた。 その渦中に韓国の農漁村と農水産物は100年の間病んできた重病によりもう最悪の境遇に達してしまった。 <連載終了>
http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?artid=201108301911075&code=960100&s_code=ac094
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