[食品人文学]その頃私たちが愛した料理、トンカツの大韓海峡往来記
2014/05/02
トンカツは日本料理だが初めから日本料理ではなかった。韓国語‘トンカツ’は日本語‘トンカツ’からきた。トンカツの‘トン’は豚を意味する漢字語豚の日本語音だ。‘カツ’はフランス料理である‘コットレット(Cotelette)’の日本語‘カツレツ’前二つの発音からきた。だからトンカツの誕生にはコットレットという料理が位置している。
コットレットは小牛や羊、豚骨についたロースとヒレ形態で切った肉を示すコート(Cote)に塩とコショウをかけた後小麦粉、卵黄、パン粉で覆ってバターを塗って両面が茶色になるべく焼いた料理だ。英語では‘カツレツ(Cutlet)’と呼ぶ。
ウスターソースとポークカツレツの幻想相性
江戸時代だけでも幕府では仏教を前に出して牛肉と豚肉食べるのを禁止した。1868年明治維新を通じて開国した日本は1872年天皇が直接牛肉を食べる試食会を披露して国民に牛肉と豚肉を食べるように許諾した。西洋を習うと施行した明治維新以後日本知識人が広げた肉食礼賛はすごかった。 当然東京と大阪に西洋人レストランが入った時もその頃だった。 かと言って日本人が即座に肉食料理をなじむように食べたのではない。
トンカツは肉食解禁以後23年が過ぎた1895年に誕生した。東京でお金が最も多く集まる銀座にドアを開けた‘煉瓦亭’という西洋レストランで誕生した。事実が飲食店主人とコック長は日本人だった。当時メニューの名前は‘ポークカツレツ’、すなわち豚肉で作ったカツレツという意だ。 このメニューが初めて登場した時は人気を享受することができなかった。 その理由はテミグラスソースのためだった。 肉と野菜を炒めた後にスープとトマトピューレ(Puree)を入れて沸かして作ったこのソースは日本人の口に合わなかった。
それでできたソースがすぐにウスターソース、すなわちトンカツソースだ。日本醤油を基本で作ったウスターソースはキャベツを細かく切って入れた野菜とともに日本式ポークカツレツを作るのに決定的寄与をした。 1929年東京、上野にあった‘ポンチ軒’という食堂料理人島田信二郎は分厚い豚肉に厚いパン粉で覆って揚げたポークカツレツに‘トンカツ’という名前を付けた。
モダンボーイ・モダンガール食欲ひきつけた「ポークカツレツ」
カツレツの日本式料理であるカツレツを韓半島に初めて登場した時は1883年陰暦7月23日.現在のソウル憲法裁判所の場所にあった統理機務衙門で朝日修好條規締結を記念するパーティーが開かれた。統理機務衙門は今の外交通商部に該当する部署であり当時西洋人を接待するために雇用した日本人コック長が作ったメニューがすぐにカツレツだ. その後日本人が今のソウル明洞と忠武路一帯に席を占めてポークカツレツも彼らが運営した和洋飲食店で販売された。
それでも1900年代朝鮮人の間でポークカツレツが相当な反響を受けたのではない。1930年代にもなってモダンボーイ・モダンガール間で‘ポークカツレツ’という名前で広く知られることになった。 1939年9月13日付<東亜日報>で料理研究者趙慈鎬(趙慈鎬、1912~1976)は‘今晩にはこのようなおかず’というコラムで‘ポークカツレツ’作る方法を紹介した。材料は豚肉、卵、小麦粉、パン粉、揚げ油、塩、さつまいもを挙げた。キャベツが韓半島にまだ広く栽培されなかったためにさつまいもがその場に代わった。 さらに天ぷら油も不足したので趙慈鎬は“油はゴマ油もチョフムニだ”と別に書いておいた。
トンカツかとんかつか、‘トンカツ’の本当の源は?
解放以後トンカツは韓国レストランで‘とんかつ’という名前で販売され始めた。1951年12月2日付<東亜日報>では“とんかつを場クッパや冷麺と共に一般料理に分類してその値がビビンバより500換が高い2,500換”といった。すでに韓国人にトンカツは一食食事で十分な大衆料理として位置を確立したのだ。 もちろん正しくなされたトンカツを食べるためには別名‘洋食レストラン’という所を探さなければならなかった。
1980年代後半以後トンカツが冷凍食品で販売されて粉食店でもトンカツを食べることができるようになった。 工場製トンカツが流行した1990年代から人々はかえって手製トンカツを探し始めたし、1990年代後半以後日本生活経験が多い20代が増加して再び‘日本正統式トンカツ’が韓半島に入ってきた。 そのためか1980年代に生まれた韓国人はトンカツを日本料理‘トンカツ’で理解している。 たとえ彼らのお父さんとお母さんは相変らずトンカツを洋食だと感じているが。
http://mediask.co.kr/1627
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