2016年12月7日水曜日

[ジュヨウンハの食べ物100年](13)カルビ焼き

ジュヨウンハ|韓国学中央研究員教授
入力:2011.05.31 21:15:06 修正:2011.06.02 12:25:17

・開花期居酒屋で食べた庶民の‘おつまみ’
・人気呼ぶとすぐに料理屋で‘カルビチム’で高級化


“コムタン(牛スープ)を沸かしてカルビと心臓を焼いてペンオジョニャまでも送っておいた。 ジョンナンは刺繍した前掛けを着て慎ましく主人の役割をした。 (中略) ‘本当にそうです。 キムチは料理のうちにナショナル スピリット(民族精神)と言わなきゃ.’とその知恵をほめるというようにサンチョルを見て目をぱちっとする。 サンチョルはプッと笑ってカルビをはがす。 ‘カルビは朝鮮料理の特色ですね。’とどんな学生が、‘カルビを焼いてはがす気勢が朝鮮の人に残った唯一の気勢だと誰がそう言いました。’ ‘ウン、そのような言葉があるだろう。’とハン先生がカルビをはがした手を休んで、‘英国人は血流れるビーフステーキ食べる気勢で生きると。’と笑った。”

この文は李光洙の長編小説 <土> の第1章13節に出てくる。 初めに東亜日報で連載をしたし、この部分は1932年4月27日付にのせられた。 朝鮮青年の教育指導を一生の業として生きてきたハン・ミンギョの家に彼の弟子が集まって晩餐会が開かれた。 ハン先生はまもなくハン・ミンギョだ。 ジョンナンはハンミンギョの娘で、サンチョルは京城大学文科に通う学生だ。 キムチがナショナル・スピリットの表象だと話した人はアメリカに留学に行ってきたイ・ゴンヨンだ。 夕食をしながらこれらは料理に国民性があらわれるという話を交わす。 それと共にカルビはがす気勢が植民地朝鮮人の最後に残った力であることを発見する。 それこそ終わりが見えなかった1930年代初期植民地朝鮮の青年たちが重く負っていた苦悩がカルビ焼きに含まれた。

皆知ってのとおりカルビは牛・豚・鶏などの胸囲を成す左右十二個の曲がった骨と肉を食用と呼ぶ言葉だ。 だが、豚カルビやタッカルビとは違い単にカルビだとすれば牛肉カルビだけを示す。 それだけ料理カルビの一番上は牛肉カルビであった。 丁若鏞(1762~1836)は <雅言覺非> で牛脅(ウヒョブ)を曷非(カルビ)と呼ぶといった。 だが、19世紀末以後1920年代初期に出てきたハングル料理の本ではカルビといわないで‘ガリ’と書いた。 1890年代に使われたと思うようになる <是議全書·飮食方文>では‘カルビグイ’という食べ物名前が見える。 “ガリを二寸三四分の長さずつ切って正に洗って横目に非常に細かく内外を切って縦にも切って中を分けて左右で退けて色々な味付けしてアミの塩辛汁に鹹淡(肝)合わせてもんで測って区なさいと”とした。

1924年に出版された李用基の <朝鮮無双新式料理製法> では‘カルビクイ’と書いた次に‘ガリジェンイム’と‘脅炙(ヒョブゾック)’という他の名称を付けた。 ‘クイ’は焼き物の他の表記だ。 ‘ガリジェンイム’はガリを味付けして測っておいて焼くので付けた名前であるようだ。

その調理法を一度調べよう。 “脂の少ないカルビや雌牛カルビを細かくチョギドェ頭は丈夫だから出しておいて一寸の長さずつ切って水に少しの間洗って手巾をギュッと絞って内外を細かくちょっとされてついた肉を塗りながらみな御印後で濃い醤油に蜂蜜と梨汁とイギヌン 葱とニンニク刻んで入れてゴマ塩と胡椒粉を入れてしたのに解いておいて御印カルビを一つずつ持って高名放ったのを内外でパルドェ塩辛くなくして入れるものの再び重ね重ねゴマ塩と油をさしながら測っておいて口語モンナニ(中略)一体よく積み重ねたガリを焼き網に焼かずに燔鐵に油をぶっかけてぱさっと煎りつけて食べた方が良いがしかし焼くのは脂身がぶくぶくとして味がもっとあるようなのだ。”

ところで李用基はカルビクイを食べる姿を置いてそれほど良く見なかった。 “一体カルビクイとチシャ包みというのは習慣で良くてピョンギを一つだが、これを食べない人が見ることになれば、すなわち醜く見て、すなわち笑うだろう。 その熱い骨片を左右手にみなが欠点つけて握って食べるのは人が食べるようでなくて”といった。 このような啓蒙はカルビ焼きを居酒屋の肴に下げて、その代わりに料理屋ではカルビチム(牛カルビの煮込み)を前に出ささせた。

事実カルビチム作る方法はすでに <是議全書·飮食方文>でも出てくる。“ガリを一寸の長さずつ切って両(牛胃)拒絶したのと孵化・牛の小腸(コプチャン)・トングム・昆布に入れて軟らかくなるように煮て取り出して(中略)岩茸みな切って葱セリも少しの間湯がいて入れて持つ薬念に粉混ぜてもんでアーサーなって汁少しあるように解いて器に入れて上に卵送って岩茸とともに鞭打ってばら撒いて使いなさい”と書いた。 ガリ焼きに比べて材料もたくさん入っただけでなく、その大きさも小さくてあえて両手で握って食べる必要もない料理がすぐにカルビチムだった。  李用基はこれと似た調理法に肉団子まで蒸し物(チム)の上に上げろといった。 “肉団子を作ってボア太いか細かいか作ってのせて松の実をのせれば味が甘くて肉がどろどろして良いのだ”としたほどだ。

1929年になればカルビチムはそれこそあらゆる高名が上がった派手な料理に変貌する。 “鍋中の下にミッエダアが煮出した大根を置いてその上に薬念に主無理、茹でたカルビを置きます。 そしてそこに肉団子・煎油魚の肉団子を煮て入れて岩茸・椎茸、卵白身黄身をそれぞれ千切りにして粉々にならないように置いた後に銀行木根こと、くるみチムジルメッキンこと、松の実、シル苦難をそれぞれ見栄えが良くのせてカルビ煮水に加え、小麦粉をスプーン1杯ぐらい置いて振れば若干どろどろになります。 小麦粉を解く時にはにごりがないように注意しなければなりません。 このようにスープを注いだらもう一度沸かして食べます。”(中外日報1929年11月10日‘晩夏女史談’)

趙豐衍(1914~1991)は <ソウル雑学辞書>(注:1989年刊) で1939年にソウル楽園洞にカルビ屋があったといった。 その家では冷麺と共にカルビ焼きを売った。 当時夕方遅れた時間に劇場や料理屋・カフェ・バーなどが終われば酔いを醒ますのに冷麺が良いといってカルビ家にお客さんが駆せ参じた。 お客さんは当然だというように冷麺と共にカルビ二台をさせた。 なぜかガリ焼きくれと言えば複雑だったし、簡単に減らして‘カルビ二台’といった。 これからカルビとガリ焼きになってしまったという主張だ。 それでカルビ焼きは居酒屋で酒の肴で食べる料理だった。 その値も普通一台にいくらあるいは二台にいくらこのような形だった。 1930年12月7日付東亜日報では江陵の食堂の料理価格を記事で扱った。 クッパ一杯に15銭なのに比べてカルビ一台は5銭に過ぎなかった。 今と比較するとカルビ焼き一台値がソルロンタンの3分の1に過ぎなかった計算だ。 結局1920年代以後カルビグイは居酒屋の酒の肴に過ぎなかったし、カルビチムは料理屋で神仙炉の次に席を占める高級料理になった。


1948年8月31日付京郷新聞にのせられた‘マンナ館’の牛カルビチム広告.

解放以後にもカルビチムの盛況はずっと続いた。 外国使節を接待する宴会でも料亭でも節日の家庭料理でカルビ焼きよりはカルビチムが人気を享受した。 これによって牛カルビは節日プレゼントに最も一番上に聞いた。 前後の荒廃した経済が結構安定状態に入った1960年代になれば節日を控えて各獣肉商店街には牛カルビ販売がその絶頂に達しているという言論報道が列をなした。 “古い昔から節日には相互友情を篤実にするという意味でもあるいは上の人に対する礼儀として行き来する贈り物で牛カルビを取り引きすることが風習化されている。 しかし最近になって牛カルビが行き来する過程でアブお世辞で真相という表現に通じていることがこの頃牛カルビを捧げる称号になっている。”(毎日経済1966年9月28日付)それで節日にはあらかじめ予約しなければ牛カルビを購入することさえ難しかった。 結局雌牛や牡牛や区別しないで牛カルビある相手を4500ウォンもしなければ買うことができた。

経済の成功は韓国人に朝鮮時代以前から最も食べたい牛肉に対する欲求を増大させた。 こうするとすぐにカルビチムと共にカルビ焼きが再び高級料理に変わり始めた。 特に1972年外国で牛肉を輸入し始めて‘韓牛’カルビ焼きはこれ以上酒の肴ではなかった。 本来水原カルビも簡単な酒の肴から始まった。 1945年11月頃水原永同市場サジョンゴリで李貴成という人が‘華春屋(ファチュンオク)’という解腸湯(ヘジャングク)専門店を開いて解腸湯にカルビをいれて人気を集めた。 ここでアイディアを得た李貴成はその翌年である1946年、カルビに薬念をして炭火で焼くカルビ焼きをメニューに加えた。 だが、1960年代初期までもカルビ焼きは華春屋の主なメニューではなかった。 カルビ焼きとともに解腸湯・カルビタン・ソルロンタン・冷麺などを相変らず販売した。 おいしいといううわさが立つとすぐに稲の品種を改良するのに積極的な関心を見せた朴正煕大統領も水原の農村振興庁を訪問して華春屋の常連になった。 結局華春屋のおかげで八達路近所はカルビ家村に変わっていった。 これが今日水原カルビの出発だった。

カルビ焼きのまた他の浮上は1970年代後半から起き始めた。 自家用を持つ家庭が生じて家族が共に野外に出て行ってカルビ焼きを食べることが頻繁になった。 空気がきれい野外で炭火に焼くカルビ焼きは家で味わうことができないことだった。 ソウル郊外周辺の遊園地の名前を付けた‘○○カルビ’が登場した時がすぐに当時であった。 だが、本格的なカルビ焼きの全盛時代は1982年にソウル 江南で門をぱっと開いた。 敷地1000坪余りのフロアには熱帯魚が通って人工滝と水車のような施設が席を占めた森の中公園が新しく開発された新都市江南のあちこちに入った。 別名‘豪華カルビタウン’と呼ばれたカルビ家の名前も‘○○ガーデン’あるいは‘○○公園’だった。

しかしこれらカルビ家は既往の豊かだったカルビを矮小にさせた主犯でもあった。 1960年代水原カルビの場合、斧で切り身を出してその大きさがおとな手の平だけした。 当然カルビのフォーを切り取る時も両側を全部利用した‘両カルビ’であった。 しかしソウル江南にカルビ家ができて片側にフォーを浮かび上がる‘ウェカルビ’で縮小された。 韓牛カルビの値が沸き上がるとすぐに米国産カルビが‘LAカルビ’という名前を得た。 また、牛カルビをはじめとして牛肉値が暴騰するとすぐに1980年代初期から政府では牛肉の半分に半額もならなかった豚肉を利用して作った豚カルビ焼きを積極的に広報した。 あえて牛カルビ焼き物食べる意欲を出せなかった庶民は豚カルビ焼きでその剥奪感を解消した。 春川鶏肉の鉄板焼きやはり牛カルビに代わって開発された炭火タッカルビで生じた料理だ。

色々な事情に照らしてみれば、荷物屋が一日中労働に疲れたからだを導いて家の前路地居酒屋でマッコリ一杯に牛カルビ焼き一台を食べた1920年代が懐かしい。 だが、その夢は決して成り立つことはできない。

http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?artid=201105312115065&code=960100&s_code=ac094          

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