ジュヨウンハ|韓国学中央研究員教授
入力:2011.04.12 21:06:46 修正:2011.04.13 17:06:15
・開城婦人の調味法がもたらした「味の恍惚の境地」
「開城ピョンスの中にも翰林した家で勝手に作ってピョンス食べるという気持ちだけ味わうようなそのようなピョンスはソウル、鍾路通レストランで一金20銭に大きい接待に一つずつあたえ餃子味にはおよばないかもしれない。 それは肉は殆どなくて、もやしと豆腐の混合物に過ぎないためだ。 本当に他の人々が称する開城ピョンスはそんなものでなくそのピョンスの中の主成分は牛肉・豚肉・鶏肉・生ガキ・松の実・キノコ・モヤシ・豆腐その他の薬念などこのように色々な種類だ。 これを適当な分量ずつ配合して入れるもののおいしいものを作るには少なくとももやしと豆腐の合わせた分量が全体分量の3分の1を越えてはいけないだろう。 それで本当においしいという開城ピョンスはそんなに廉価に得られるのではない。」
この文は1929年12月1日付「別乾坤」雑誌に「天下珍味開城のピョンス」という題名でのせられたのだ。 筆者は秦學圃だが、おそらくペンネームで見なされる。 他の新聞で秦學圃は「胡餅商売.徳性が」(東亜日報・1929),「クリスマスのスンギル」(東亜日報・1930),「沈清の話」(毎日新報・1934),「龍王の玉」(毎日新報・1934)のような童話を連載した。 これで推察して1920~30年代の童話作家だったことを察することができる。 だが、まだ彼の実名が何なのかを知らない。 ただし「別乾坤」の記事を通じて秦學圃という人物が少なくとも開城出身であることは明らかに見える。 開城ピョンスに対する彼の博学な知識のためだ。
それならピョンスはどのように作る料理であろうか? 1890年代に使われたハングル筆写本料理書 <是議全書> にその調理法が出てくる。 「小麦粉を冷水でこねて薄く押して真四角に切るもののとても小さくしないで狭いギョーザの具のように作って耳を歩いて安くて真四角にするものの舌を必ずつくようにしてゆでる方法も餃子と同じなのだ」とした。 同じ本に出てくる「餃子」でピョンスの小作る方法を察することができる。 「所感では牛肉・キジ肉・豚肉・鶏肉を全部使う。 セリ・もやし・大根みな茹でて豆腐と白菜キムチはみじん切りにし、肉もみじん切りにする。 みじん切りにした野菜と豆腐・鶏肉にパー(ネギ)・ショウガ・ニンニク・粉唐辛子・ゴマ塩・油を入れて味付けをして味付けする。 油をたくさん入れて中に松の実を置いて本ずつ入れてとても薄く仕込んだ肉汁でゆでる。 ギョーザは水がぐらぐら沸く時入れて釜蓋を覆わないでゆでるが、ギョーザがふわふわ浮かび上がったら取り出してボウルに入れて胡椒を振りかける。」
<是議全書> の著者はピョンスと餃子はその牛やゆでる方法では違うところがないが、ただしピョンスの形が真四角なのに差があると見た。 だが、秦學圃が礼賛した開城ピョンスに入る所は <是議全書>の餃子とは若干違う。 「色々な物が開城婦人の特殊な調味法でよく調味されてちょうど良く熟してそれが私たち口の中に入る時その味が果たしてどのようだろうか。 三種類の肉味、カキと松の実味、もやしと豆腐の味が別々に出ることでないですよその色々なものがよく調和してその色々な味のうちで良い部分だけが一ケ所合わさって新しい味を成し遂げて私たちののどで溶けて移ることであるからその新しい調和した味それが開城ピョンス味だ」といった。 ピョンスは夏に冷たくして食べる料理だった。 牛の食感を満喫するために普通、醋醬につけて食べた。
2008年北朝鮮の勤労団体出版社で発行した <私たちの民族料理> でもピョンスを開城食品に選んだ。 それと共にピョンスという名前は水にゆでてすくい出したという意でできたと明らかにした。 普通ピョンスは漢字で「片水」と書く。 水の上に彫刻が浮いているようだといってこのような漢字名前が生じたと見ることもできる。 だが、1870年頃使われた本で知らされた黃泌秀の <名物紀略> では匾食をピョンスと誤って読んでできた名前といった。 中国明国時の宮中風俗を書いた劉若愚(1541~?)の<酌中志> でも陰暦正月の一日お湯につけた餃子である匾食を食べると書いた。 「匾食」でも「扁食」は同じ意だ。 明国の人々は今の中国料理渡す者を匾食だと呼んだようだ。 朝鮮時代開城商人である松商は今の北京である燕京から朝鮮使節が離れる時高麗人参を持って行った。 その過程で匾食を分かったし、19世紀になれば開城の独特の料理でピョンスが席を占めた。 その形も松商の意志を入れたように風呂敷で牛を包むようにできた。 それで名前もピョンスに変わった。
はっきり調べればピョンスやはり餃子の一種だ。 だが、中国人が食べる「餃子」は中が入ったのと入らないことに分かれる。 中が入らないのは他の言葉で白饅頭だと呼んだし、中が入ったことは餃子あるいは包子あるいは匾食だと呼んだ。 早くから小麦粉料理が発達した北京をはじめとする華北地域の人々に餃子はまもなく白饅頭であった。 今でも中が入って沸いているお湯でゆでるのは餃子のうちでも水餃子だと呼ぶ。 韓国語では水餃子だ。 朝鮮時代宮中では水餃子のように汁がある餃子を漢字で「餅匙(ピョンシ)」と書いた。 ここで「餅」は小麦粉で作った料理を総称して餅だと呼んだ漢(注:中国)以後の慣習に従ったのだ。 「餅」は必ず小麦粉で作った疲労の中をかばわなければならないと信じた。 ピョンスやはり「スプーンですくって食べる小麦粉で作った餅」という意味を含んでいる餅匙の一つであった。
ピョンスは朝鮮時代開城商人である松商が中国燕京と貿易をする時持ってきた餃子の一種である匾食が変形された料理だ。
特に黄海道では品種が良い小麦を栽培して得た小麦粉でピョンス血を作った。
写真は2000年代開城市内ククス家の姿.
特に黄海道では品種が良い小麦を栽培して得た小麦粉でピョンス血を作った。
写真は2000年代開城市内ククス家の姿.
当然ピョンスを食べるためには小麦粉を簡単に確保することができなければならなかった。 全部分かるように小麦は年間平均気温が3.8度であり夏平均気温が14度以上である地域で栽培されてこそ品質も良くて生産量も多い。 韓半島は品質良い小麦を生産するのに適合した地域ではない。 それでも在来種小麦は朝鮮時代にも栽培された。 だが、小麦農作業が可能なところといっても稲作が終えられる晩秋に種まきをした。 品質も良くないだけでなく生産量やはり少なくほかはなかった。 だから宮中でも金持ちだけがやっと品質良い小麦粉を確保してピョンスをはじめとして小麦粉、疲労作ったギョーザを作ることができた。 もし小麦粉を救うことのできない場合、ソバ粉がその場に代わった。 それで朝鮮末期の料理書ではほとんどのソバ粉で血を作ると書いた。 さらに肉餃子・魚肉餃子・東亜餃子とともに最初から血を牛肉・魚・冬瓜で作ることさえした。
1931年に発刊された <朝鮮総督府農業試験場25周年記念誌> によれば、朝鮮の在来種小麦は黄海道・平安南道・江原道で主にたくさん生産されるといった。 特に黄海道でその生産量が最も多かった。 在来種小麦中でその品種が最も良いことやはり黄海道で栽培されるということだった。 このような事情によって開城の人々は小麦粉疲労ピョンスを作ることができた。 <是議全書> は小麦餃子がまもなくピョンスだと書いた。 朝鮮末期にも開城の貧しい人々さえも豆腐ともやしだけで牛を作って比較的豊富な小麦粉で作った疲労ポッサムキムチ安いようにピョンスを作っただろう。 開城の金持ちはそれを妬んであらゆる肉と生ガキまで入れたところ、自分たちだけの開城ピョンスを作った。
こうなっては開城ピョンスは20世紀になっても決して大衆料理に変身できなかった。 これに対し比べて餃子と包子と呼ばれた餃子は20世紀に入ってきて大衆化の道を歩いた。 餃子の大衆化には小麦品種の改良と積極的な栽培が重要な役割をした。 事実朝鮮総督府は初めに小麦農作業を推奨するよりはロシアと中国から小麦粉を輸入する政策を広げた。 1910年代だけでも韓半島は彼らに米の補給基地だったためだ。 ところで第1次世界大戦以後食糧の重要性を自覚した朝鮮総督府は1923年から在来小麦品種改良に出た。 水原小麦6号を筆頭として生産量が多い品種が次から次へ作られて農村に普及した。 こういう過程を経て人々に小麦粉は以前に比べてはるかに求めやすい食材料として地位を確立した。
餃子の大衆化の道には1882年壬午軍乱以後に済物浦とソウルに移住をしてきた山東出身中国人もあった。 外国に出ても集団居住をする華僑だが、19世紀末に韓半島に移住してきた中国人は「つばめ」というニックネームを持つ男たち中心の流動人口集団だった。 1920年代になっても再朝鮮中国人は普通男10人に女1~2人の比率だった。 これだから中国人集団居住地内には男のための食堂が必ず必要だった。 彼らは家庭の一角や商店の一方を借りて三,四個の食卓を備えて営業をした。 彼らが販売した料理はやはり食事中心の極めて簡単なものなどだった。 すなわちジャージャー麺と煎餅(胡餅)そして餃子が主なメニューであった。
近代都市ソウルに引っ越してきた黄海道と平安道出身の人々やはり餃子のまた他の大衆化に寄与した。 開城ピョンス礼賛論者秦學圃が当時ソウル、鍾路で一金20銭に大きい接待に一つずつあたえる餃子がすぐに平安道餃子だ。 朝鮮最初の味紀行本である <屠門大嚼> を書いた許筠(1569~1618)は「大餃子は義州の人々が中国の人のようによく作る」とした。 1945年解放以後にはより一層牛がたくさん入った大餃子が人気を集めた。 日帝時代に日本人居住地域だったソウルの獎忠洞・忠武路・筆洞一帯には1945年年末になるとすぐに積算家屋天地になった。 平壌が共産化の道に行く姿を早目に感づいた平安道の金持ちはこの積算家屋に引っ越してきた。 今日までも獎忠洞と忠武路、そして筆洞一帯に平安道式の大餃子を売る「ミョン屋」が多くの理由がすぐにここにある。
大餃子と中国餃子の流行と違い開城ピョンスは開城出身が運営する食堂で命脈を維持しただけだ。 開城ピョンス礼賛論者秦學圃は「開城の有名な松筍酒一杯を飲んで名のあるポッサムキムチ)とともにこのようによく調和したピョンス一個を添える時私のような食道楽の味覚は敷地頃にこのからだを恍惚の境地に導いていくことだ」といった。 料理が豊富なことは今日、以前の高価料理開城ピョンスを大衆的な料理で作ることはできないだろうか? だが、まともに漬けた松筍酒も、開城白菜で漬けたポッサムキムチも簡単に入手ができないから秦學圃の文を読んで食欲だけ舌鼓を打つだけだ。
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