[食品人文学]本来冷麺は冬が本来の味だが…
2014/05/16
平壌冷麺、ヘジュ冷麺の次にソウル冷麺を指を数える程もうソウル冷麺が冷麺軸で公然に一役買うのを見ることになりました。しかしソウル冷麺はいわば平壌冷麺の延長に過ぎません。難しいソウルの人の味覚を征服しようと平壌冷麺を売った商人が一流の技術者を連れて京城に進出し始めてもう固い地盤を積み上げました。 夏の季節さらには各官庁の昼休み裏面は冷麺家の受話器では火を吹く状況です。
1936年7月23日付の<毎日新報>に掲載された‘冷麺’の記事だ。
白雪の舞う冬日の珍味
本来冷麺は冬に食べる料理だった。前の<毎日新報>冷麺記事の最後でもこの点をのがさない。
“夏冷麺はすっきりした味に多く食べるけれど本当に冷麺らしい冷麺を味わうには冬冷麺が一番です。すっきりしたトンチミ汁だけのトンチミ冷麺こそ一度食べれば人柄が表れてしまうあきれた料理です。寒い冬日に冷たい冷麺の味も格別であることであり香ばしくて暖かいククス水の味また格別なのです。”
平安道出身でフランス留学に行ってきた李晶燮は自身が外国にある時最も多く思い出した料理にキムチとカルビ焼き、そして冷麺を挙げた。
“同志師走白雪がひらひら舞えばオンドルを焼けるように温かくして3~4人の友人が互いに座ってカルビ焼いて食べることや冷麺を持ち寄ったりするのもとても懐かしかった(<別乾坤> 1928月5月1日時).
雪が降る外の風景と焼けるように暑い部屋のオンドル、そしてそちらでこのシリン冷麺を食べる姿が鮮やかに目に浮かぶ。 事実冷麺が‘冷たいククス’になるには氷が必要だ。朝鮮時代王室でも冬にドーンドーン凍った漢江で氷を離して東氷庫と西氷庫に保存しておいて食べた。 だが、陰暦5月5日端午の頃になればこちらの氷も跡形もなくなってしまう。しまいには、王が最後に残った氷を寵愛する臣下に分けてやる行事を行ったのだろうか?
氷ドンドン~夏冷麺の誕生秘話
1910年代になると人々は夏に冷麺を探し始めた。冷麺の変身には近代的製氷技術と冬に掘り出した氷を夏まで保管する冷蔵施設の誕生が決定的な役割を果たした。大韓帝国度支部は1909年釜山港に製氷工場をたてた。だが、運営費がなくて日本人水産会社に移った彼らは済物浦と原産、群山などの地にも製氷工場をたてた。 本来これら製氷工場は魚に氷を満たして永らく流通するのに必要な施設であったのにその値が安いものではなかった。すると古くなった採氷方式が冷蔵施設と連結された。冬に漢江と貯水池などが凍ればそれを掘って保管する工場が入ったのだ。電気が充分でなかった当時の製氷工場も冬に掘り出た氷を保管する方式で運営された。
1913年4月、列車の中で冷たい飲物を提供するために日本人が龍山第1鉄道近くに製氷工場を建てた(<毎日新報> 1913年4月6日 時).こうなると、1910年中盤以後夏なら京城には間違いなく氷水店が常設店舗や屋台形態で路上に定着し始めた。もちろん冷麺家人気もすごかった。
夏冷麺食べようか? 冬冷麺食べようか?
実際に1920年代末、ソウル清渓川北側には40ヶ所余りを越える冷麺屋があったが通常のレストランと違う姿があった。冷麺屋では看板のそばに長い棒を空高く挿しておいてその先には長く伸びた紙束が飛び散るようにした。紙束が風に揺れる姿があたかも製麺機の穴からちょうど押し出されるソバタレに似ていた。その当時、鍾路には高い建物があまりなくて電車からおりて北岳山側を見上げてみると、この紙束が即座に目についた。真夏の炎天下、紙束の靡く姿を見るだけでソウルの人々は冷麺を考えて前後を問わず歩みを冷麺屋へ向かった。これも夏冷麺誕生の秘密だ。
それでも冷麺味は真冬に味わってこそ適当だ。茶山・丁若鏞(丁若鏞、1762~1836)先生も真冬黄海道で味わった冷麺味を忘れることができなくて次のような詩を詠じた。
十月に入って西関にした者かなり雪積もればドアに二重に幕を張ってふんわりとした毛布を床に敷いてお客さんをつかんでは、新鮮な形のチェンゲビにノロジカの肉を薄く切って焼いて、長く選んだ冷麺に白菜漬物を添えるよ。
冷麺が夏料理という固定観念は忘れなさい。冬冷麺を味わう今年の冬がすでに待たれる。
http://mediask.co.kr/1655
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