[ジュヨウンハの食べ物100年](20)蕩平菜
ジュヨウンハ|韓国学中央研究員教授
入力:2011.07.19 21:25:08 修正:2011.07.20 11:03:20
・“思索党争捨て和合せよ”英・正祖の蕩平飲食由来説
このごろ韓定食レストランに出てくる料理のうちで蕩平菜ぐらい政治的意味を持って人々うわさにのぼるのもないようだ。 コラムリスト 李奎泰(1933~2006)は蕩平菜を置いて“黄色い菖蒲ムクに赤い豚肉、青いセリ、黒い海苔を最初につけて食べる3月の時食だ。 黄色くて赤くて青くて黒い思索党争を蕩平高座正祖は随所に蕩平費をたててこのように料理まで作るようにすることによって派閥を和合するようにしたのだ”(朝鮮日報1987年3月17日付)といった。 それと共に当時の政治的状況を遠回しに言って“今野党の内部事情で推し量って指を考えでなく手の平を考える時や蕩平菜をたっぷりあるように混ぜ合わせて分けるところで今がその鉄というものを教えたい”と書いた。 ところで問題は正祖王が蕩平菜を食べるようにしたという記録がまだ発見されなかったというところにある。
1940年6月に朝鮮食饌研究所の洪善杓が出版した <朝鮮料理學> という本では蕩平菜の根源を英祖王に置く。 “以前には私たちの朝鮮にも泊まるそのまま油に送る方法は分かったがムクにモヤシでもその他ナムルを混ぜる方法を追い立てようとしたことでも200年余り前英祖の時老少論を廃止しようという祭りにムクに他のナムルを混ぜて蕩平菜といおうがことがチョナムルに開始ということだ。”洪善杓は蕩平菜を酢味がよいチョナムルで見た。 だが、このような洪善杓の主張を後押しするほどの記録はまだ発見されなかった。
これに対し比べて朝鮮後期学者・趙在三(1808~1866)は1855年(哲宗6年)に完成した本 <松南雜識> で蕩平菜の理由を他の所に置いた。 “蕩平菜:青布に牛肉と豚肉を混ぜてこれを作るのでまもなくナムルの骨董だ。 宋寅明が若い時期に店を過ぎ去って蕩平菜葱は声を聞いて思索を混ぜて登用しなければならないということを悟った。 それで蕩平事業をしたと伝えられる。”宋寅明(1689~1746)は1719年(粛宗45年)増広文科で乙科で及第、芸文館検閲を経て世子侍講院ある時当時世子であった英祖の寵愛を受けた。 英祖が賃金で即位した翌年である1725年に東部承旨になって朋党の禁止を王に建議した。 特に1731年吏曹判書になった宋寅明は老論と少論を問わず穏健な人物をあまねく登用して党論を調整した。 1740年左議政になった宋寅明は党派争いを押さえ込んで蕩平の政策を強く推進した。 これだから宋寅明は蕩平事業の主動人物だった。 おそらくそのような事情によって <松南雜識> で‘蕩平菜’という料理を言及して宋寅明の理由を添えたと見なされる。
宋寅明が亡くなって3年後に生まれた柳得恭(1749~1807)は当時漢陽の風俗を書いた <京都雜志> で“蕩平菜というものはサビ豆乳と豚肉、セリ芽を糸のように切って最初をばらまいて作る。 非常にすがすがしくて春の日夜に食べれば良い”と書いた。 それから約50年後に出てきた <東国歳時記> の3月篇で洪錫謨(1781~1857)は“ノクトゥポを作って細かく切って豚肉とセリ皆、海苔を混ぜ合わせて最初をばらまく。 非常にすがすがしくて春の日夕方に食べれば良い。 その名前を蕩平菜と呼ぶ”と書いた。 ところで <京都雜志> よりは遅れて <東国歳時記> よりは先に執筆された金邁淳(1776~1840)の <洌陽歲時記> (1819)では蕩平菜に対する言及がない。 さらに蕩平菜を言及した二つの歳時記でもこれが‘蕩平事業’と関連したものと明らかにすることもなかった。
さらに <京都雜志> では海苔が入らなくてその材料も三種類に過ぎない。 だから思索を象徴する四種類の材料が持った蕩平菜の意味を確認し難い。 <松南雜識> ではすでに蕩平菜という料理を漢陽の店で売っていたといわなかったのか? もし趙在三の記録を事実で受け入れるならば、宋寅明の蕩平事業は蕩平菜という料理の名前で得たことであって決して英祖や正祖の蕩平の政策によって蕩平菜という料理が生じたと見るのが難しいこともある。 かえって色々な材料をまんべんなく混ぜたという意味で蕩平菜だと呼んだ可能性がさらに多い。 実際に‘蕩平’という話は朝鮮時代高尚な人の文でしばしば出る。 思索党派が深刻な政治問題に浮び上がらなかった朝鮮中期以前に蕩平という話は主に‘ナンを平定する’という意味で使われた。 英・正祖時期にきてはじめて思索党派と関連した文でどちら側にも偏らないという意の‘蕩平定平’の‘蕩平’が登場した。
料理書中の料理名で‘蕩平菜’を言及した本はハングルで書かれた <閨壼要覽·음식록>と <是議全書・飮食方文>これだ。 <閨壼要覽·음식록>銀まだ筆者が知られていない。 ただし本の表紙に‘建陽遠緣’と‘丙申五月’と書かれたことから見て高宗が皇帝に即位した元年である1896年に執筆されたと見られる。 この本では版面の位の千頭に料理の名前を漢字で書いておいた。 ところでこの本では蕩平菜を‘炭平采黙’と書いた。 おそらく蕩平菜の他の名前である坦平菜を音だけ借用してこのように書いたと見られる。 だが、ハングルでは‘緑豆のムクタンピョンまだ’と書いた。 その調理法をこのごろ言葉に移せば次のとおりだ。 “澱粉泊まる細かく打ってユッケを細かく打って彩輿炒めてセリさっと湯がいてしてこすってニンニクとネギを色々な高名にセリ切ってしたがあえて初めとして含まれてしてこすったのをひっくるめて切る上にみなばら撒いて松の実の粉粉唐辛子を根元出るのだ。”
ほぼ同じ時期にハングルで書いた<是議全書・飮食方文>でもその名前は‘タンピョンまだ’で出てくる。 “ムク細く打って宿主セリ湯がいて切って味付けして宿主とともにあえて精肉確かめて炒めて入れて熟肉は鞭打って入れて海苔ブッシュ入れてゴマ塩粉唐辛子油初め合わせてチロン(醤油)にハムダム(塩辛くて水っぽい)合わせて黙過したがあえて入れて上に海苔をブッシュのせてゴマ塩粉唐辛子をばらまきなさい。” <閨壼要覽·음식록>と<是議全書・飮食方文>の蕩平菜の調理法はその材料は似ているが、味を出す方式には差がある。 <閨壼要覽·음식록>ではカラシと酢でソースをみなしたとすれば、 <是議全書・飮食方文>ではゴマ油と醤油、そして酢で味を出した。
1924年に李用基が出した <朝鮮無双新式料理製法> では‘蕩平菜青布’と書いた。 その調理法は次のとおりだ。 “チョナムルのようにつくしておいて白い泊めるが黄泊まるコップルはがして細長くて長さはチ タップン(一寸五分、約4.5㎝)でもするようにてきぱき打って入れて海苔を院長(まったく)ごとこすってごみを取り除いてメンニで口語ブース怒鳴って入れて某すべてしたがゆすって墨出るのだ。 わらぶきの家一番上とかたくさん打つことだマテ貝の身や貝の剥き身を僅かの間湯がいて入れればチョフニラ.”チョナムル調理法はムク青布直ぐ前に書いておいた。 “宿主とセリを湯がいて組んでおいて漿果初めと油とゴマ塩粉唐辛子としてネギ湯がいて入れて水かじく入れてモンナニ牛の胸肉に車道を百や豚肉をソロ入れればチョフニラ黄色いネギをたくさん湯がいて入れることがチョフニラ.”結局李用基が紹介したムク青布はチョナムルに緑豆のムクを入れて海苔を壊して入れる調理法といえる。 <朝鮮料理学> を書いた洪善杓もチョナムルに泊まる入れた料理を蕩平菜だと呼んだ。
蕩平菜がチョナムルと違った理由は緑豆のムクが入るためだ。 緑豆のムクは非常に古くなった料理で見なされる。 他の言葉でサビ豆乳あるいはノクトゥポあるいは緑豆青布あるいは青布と呼んだ。 1866年(高宗3年)に作成された <各祠堂各墓所祭享新定式謄錄> には三梁を入れて青布と餅を市中で買ってきたといった。 すでに <松南雜識> エソも蕩平菜を店で売るといったように緑豆のムクを専門で作って売る人が当時にもいたようだ。
<荷齋日記> という本にもそういう記録が出てくる。 この本は1890年頃から司饔院の貢人仕事をした池圭植が彼の生活を漢文で記録した日記だ。 日記には1891年から1911年までほとんど20年を越える期間に毎日のように物を買って宮廷に納品したこと、そして司饔院分院でおきたことなどが記されている。 その中で1892年陰暦3月22日日記に青布が出てくる。 “朝霧が立ち込めて晴れる。 5両は精肉値、9銭は青布値、4銭また、3銭はタバコの値段だ。 ソウル主人老婆に朝を接待した。”今の京畿道広州市雨天近所に住んだ池圭植はソウルに行けば宿泊をする家の主人老婆がその前日彼の家にきたので朝食で精肉と青布で蕩平菜を作って接待したようだ。
1930年代になれば蕩平菜は‘必ず知っておく今月料理法’(東亜日報1931年4月24日付)まで一般に紹介された。 すでに1920年代中盤から忠清北道鎮川には路地ごとにソバ豆腐を販売する食堂が席を占めていた。 ソバで作るソバ豆腐にも肉が入って蕩平菜をまねた。 ただしククスのように長く切って高記帳国にやめて賭けに酒のつまみであつらえ向きといった。( <別乾坤> 24号、1929年12月1日付)京城には冬の夜にソバ豆腐を売りに通う商売人がいたほどであった。 蕩平菜やはり植民地時期に各種料理書に登場するほど代表的な接客料理として地位を確立していった。
だが、韓定食を販売するレストランで蕩平菜がなくてはならないメニューになった時は概略1970年代以後で見なされる。 春に食欲をかきたてる京畿道の土俗料理で浮上(京郷新聞1971年3月18日)すると、ついにお客さん上の中心メニューになった。 “お客さん膳を調える時大きい皿中心位置にムク切ったのをうずたかく入れてその周囲に色々な野菜肉炒めなどを色合わせて九節坂入れるように入れて、たれを添えてだしておけばお客さんが黙過野菜を減らしてたれにあえながら入るようにすれば多彩だ。”(東亜日報1971年3月29日付、尹瑞石)たとえ蕩平菜は古くなった料理だが、その容貌は時代ごとに変身を繰り返してきた。 1970年代中盤経済発展がスピードを出してソウル江北の韓定食料亭には毎日政治が・経済人・高位公務員たちですごい盛況を成し遂げた。 その渦中に蕩平菜は交子床の上で韓国料理を象徴する地位を捉えた。 それも英祖と正祖の名前を抱いて。
http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?artid=201107192125085&code=960100&s_code=ac094
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