2016年12月19日月曜日

[ジュヨウンハの食べ物100年](23)豚の腸詰

ジュヨウンハ|韓国学中央研究員教授
入力:2011.08.08 19:06:58 修正:2011.08.08 19:07:45

・経済開発が真っ最中だった1960年代後半
・庶民の疲れた生活を慰めた常連おつまみ

 
“しばしば豚の腸詰(スンデ)は豚や牛の内蔵(腸)でするのにもちろん味も良いがこれは値が高くて簡単にすることはできないです。 ところでここに作製も容易で値段が安くて味も良い‘イカの詰め物’があるとのことです。”この文は東亜日報1964年1月19日付にのせられた。 当時豚や牛の腸で作った腸詰が値が高いとは非常に疑わしい。 だが、この話は事実だ。 1960年代中盤だけでも一般庶民が牛肉や豚肉を簡単に食べることができなかった貧しい時であった。 だからその腸で作った豚の腸詰やはり今とは事情が違った。

知ってのとおり豚の腸詰は普通北朝鮮料理だと知られている。 そのような理由なのかは分からないが1994年朝鮮料理協会で発刊した <朝鮮料理全集-民族の伝統料理> では豚の腸詰、熊の腸詰、犬の腸詰などを言及している。 そのうちの豚の腸詰は“豚の血に切り刻んだ豚肉、白菜シレギ、粉湯(米),緑豆ナムル、ネギ、ニンニク、ゴマ塩、醤油、コショウ、おろし生姜、ゴマ油を入れて豚の腸詰素を作る。 粉湯の代わりにもち米と白い米を混ぜて作ったりもする。 トェジベルに豚の腸詰素を入れて二つの終わりを実に縛って沸いているお湯に入れてゆでて針して空気を選ぶ。 熟せば取り出してある香りがなくなった後薄く切って入れて酢醤油のように出す”とした。

ところでこの豚の腸詰の調理法は1910年代に世の中に知らされた <是議全書・飮食方文>になって初めて文献に出てくる。名前は‘豚シュンデ’だ。“腸をトゥィジョボ正にパラ宿主、セリ、ダイコン湯がいて配車キムチと価値固め豆腐ソクこと銃‘ネギ’ ‘ショウガ’ ‘マナル’マニ ティジョ(固め)ノホゴマソゴム、油、苦椒家で、胡椒横脚色ヤンニョムマニ ソクこと血と一ケ所ネズミ物君(もんで)腸に君鼻クチバシ同舌生きますよ使いなさい”とした。 この料理の名前に‘豚’を付けたと見て豚腸を使って作った豚の腸詰だということがわかる。油はゴマ油だ。豚腸の中に何を入れるかとのその時ごとに違うだろうが、非常に多くの材料が入った。ところでこの本には‘豚シュンデ’とともに‘魚膠シュンデ’も出てくる。ここで魚膠は漢字‘魚膠’で民魚の沸かして作ったプルを示す。 すなわち‘民魚プル’だ。 この民魚プルを水に浸けて血を吸ってきれいに洗って宿主・セリ・牛肉・豆腐とともに色々なヤンニョムをもんで入れてゆでて干し民魚の詰め物を作るといった。 民魚はその名前でも知ることが出来るように朝鮮後期の人々が最も好んで食べた魚の中の一つであった。 慶尚北道常駐で発見された <是議全書・飮食方文> で豚の腸詰が登場したことは何を意味するのか?

事実魚や獣の内蔵にあらゆる材料を入れて蒸し物(チム)をする料理は結構古いものである。 慶尚北道 栄州のトゥドゥル村に住んだ張桂香(1598~1680)が筆で書いた <飲食知味方> では犬の腸を利用して腸詰を作った。 “犬をジャバ チョヒ‘きれいに’パラ オあまりゆでないで骨塗って晩稲‘ギョーザ’牛ニギダシ下野後朝、チョンチョ、ショウガ、ゴマ油、チョンジリョン(濃口醤油)下だが性交してツジ(軟らかいだろう)アケして私の腸を後舌(ひっくり返して)罪パラ再び後舌コギ手順がノホシルルェ(蒸し器に)タマ蒸すもののナ席(半日)や漫画(弱火)で蒸して出してオスゴスクひりひりしなさい(切れ). 超口座(カラシ)して思わず最もチョフニ腸という(のは)生でするものの出ない(前日)月化(手入れ)ヤンニョムをするものの性交してトゥッタがイートン日腸のニョホ蒸しなさい。”ところで張桂香はこの料理の名前を‘狗醤’と書いた。 今話にすれば‘犬の腸詰’だ。 張桂香は犬の肉を利用した料理を何と六種類も書き留めた。 その中で‘狗醤’は一番最初に出てくるほど特別な料理だった。

それから約80年後である1766年に漢陽で太醫院醫藥を務めた医官柳重臨は <增補山林經濟> で‘牛腸蒸方’という料理を言及した。 “鉄腸は内外をきれいに洗ってそれぞれある自家量切る。 一方牛の赤身の肉を持って行って刃でずきずきと確かめて色々なヤンニョムと油・漿果まんべんなく混ぜて腸中にぎゅうぎゅうに埋めて入れた次に実に腸両端を結ぶ。 カマに先に火を注いで竹を横でかけて牛腸を竹に美しく座らせて水にぬれなくして釜蓋を覆う。 弱いことも強くもない不老ゆっくりゆでてとても良く熟すことを待って取り出して冷やして冷まして刃物で馬のひづめ形に切って最初につけて食べる。”同時代の人物である憑虛閣李氏(1759~1824)も<閨閤叢書> で<增補山林經濟> と似た内容の調理法を書いた。 ただし鉄腸に入れる肉は、牛肉はもちろんでキジ肉と鶏肉も使うといった。

推測してみれば牛や豚、さらに犬や魚の腸に肉と野菜などを入れて蒸した腸詰あるいは腸蒸し物(チム)は必ず北朝鮮地域で由来したと見るには難しい。 それよりは朝鮮時代知識人が楽しんで読んだ古代中国の本 <齊民要術>(北魏)と <居家必用>(元国)のためだと見なされる。 <齊民要術> では羊の腸で作った‘羊盤腸搗’が出てきて、 <居家必用> では‘潅腸’との料理が出てくるためだ。 羊の腸を求め難かった朝鮮では犬・牛・豚・民魚の腸でそれに代わった腸詰を作る考えをした人がいたし、その結果豚の腸詰という料理が誕生した可能性が高い。 少なくとも解放以前まで北朝鮮の人々は豚肉を、韓国の人々は牛肉が好きだった。 だから豚の腸詰が北朝鮮料理になった。

1940年孫貞圭が書いた<朝鮮料理> で豚脹湯調理法を説明する挿絵.

だが、庶民立場では豚の腸詰を簡単に食べられなかった。 それで植民地時期最高のベストセラーであった方信栄(方信栄・1890~1977)の1921年版 <朝鮮料理製法> では豚の腸詰が扱われなかった。 これに対し比べて李用基は1924年に出版された <朝鮮無雙新式料理製法>で豚の腸詰でなくスンデククに言及した。 “スンデククは豚肉ムン水に油は件破って野菜の固い部分をお前で消すだろうならば野菜の固い部分がやわらかくて味がチョフナそのまま汁にネジャンをソロノコ塩辛スープを処暑に飲むのは常風(常風・一般調理法)であり、食べてもオルネギがシュィウプコまた、万が食べればソルソ(下痢)が私出るのだ。”ここで言うスンデは豚の腸自体だ。 だが、李用基はこのスンデククをそれほど良く見ないようだ。

これに対し比べて漢城女子高(現京畿女子高)と東京女高等師範学校家庭科を卒業した後に京畿女子高教師、梨花女専講師、そして義親王宮付属已往職嘱託を過ごした孫貞圭(孫貞圭・1896~1950)は彼の本 <朝鮮料理>(1940年)で豚の腸詰に言及した。 作る過程の図と共に料理の名前も漢字で豚脹湯、ハングルで‘スンデクク’と書いた。 材料では豚腸、豚肉、豚血、白菜キムチ、宿主、そしてもち粉や片栗粉、漿果その他色々なヤンニョムといった。 “腸内外を塩にこすってよく洗っておく。 豚肉を細かく切っておいて宿主・白菜キムチなどギョーザの具とともにして豚肉と先知ともち粉や片栗粉はかたまるようにするために入れて、色々な味付けしてムッチョソ腸に入れて両端を実に結んで国によくゆでる。 取り出して冷まして2.3センチで浸し国に入れたり最初つけて食べたりもする。 酒のつまみなどに好物と感じることだ。”(ハングル翻訳本 <私たちの料理> 1948年版)たとえ料理名は‘スンデクク’といったが、その実体は豚の腸詰だ。 前でも見たように1964年だけでも豚の腸詰は高価格な料理だった。 ところで1960年代後半になればあたかも政府の経済開発政策が実を結ぶように豚の腸詰が市場で買って食べることができる値段が安い料理に変わった。 さらにその味がどれくらい良かったらおかず買い物をしに来た主婦がチャンウン見なくて外形で豚の腸詰を買って食べたのだろうか。(毎日経済1969年4月29日付)このように人気を享受することになった理由は豚の腸詰の中に入る材料が高価から低価格に変わったためだ。 すなわち唐麵の腸詰がまさにそれだ。 ここに1960年代から政府によって振興された養豚業の成長も一役を買った。 ちょうど本格的な養豚業が始まった1960年代初期、飼料に使われたアメリカの無償小麦が切れるとすぐに政府は苦しい立場に置かれた。 これに対し当時政府ではAID借款を誘致(1968年)したりもしたし、三養グループにとって養豚業進出(1973年)をするように薦めることもした。 本来農民が家で副業で三,四匹程度を育てれば時に合わせて蒐集商が豚を買っていった。 蒐集商は再び搬出商に売って、搬出商は再び卸売商に渡して、最後に精肉店に売れた。 このような複雑な流通過程のために収益がたくさん出なくて農民は養豚業を専門的にしなかった。 だが、需要が着実に増加して1960年代末から養豚業は企業畜産になり始めた。 1970年代初期主な大都市には大型屠殺場ができた。 このような過程で付属物である豚腸が以前に比べてはるかに救いやすくなった。 豚腸値も以前に比べて安くなったし、ここに唐麵を入れることになった1960年代末から豚の腸詰は庶民の料理として地位を確立した。

その結果1960年代後半からソウルの南大門市場と東大門市場には豚の腸詰を販売する露天商が入った。 1970年代初期になれば全国の既存の市場で豚の腸詰はピンデトック・唐麵雜菜・ティギン(注:天ぷら)などとともに大匏おつまみで屋台酒宴の人気メニューになった。 このように豚の腸詰が大衆的な人気を集めるとすぐににせ物も生じた。 唐麵工場で捨てたカスを豚の腸詰の中に入れて売って捕えられた露天商もあった。 1970年代中盤だけでも豚の腸詰は40・50代主婦が家で作って市場に売った。 さらに豚腸を購入することが出来なかった腸詰商が腸の代わりに薄いビニールに安くて売って警察に捕えられる事件が1980年に起きた。

1984年に完工したソウル地下鉄2号線は新林駅近所をスンデタワーで作った。 本来新林市場に席を占めていた小さい豚の腸詰め炒め家から出発したスンデタワーは移住民の人生の中で大変疲れることを慰めた場所になった。 経済開発の隙間で労働者は毎日夜ごと大匏一杯に豚の腸詰と豚の腸詰めスープでその大変疲れることを飛ばして送った。 すると豚の腸詰を専門的に加工する工場が九老工団近くにできたし、これから豚の腸詰も大量生産の時代を迎えた。 すると手で作った豚の腸詰めが再び浮び上がった。 北朝鮮式豚の腸詰めは咸鏡道の自尊心を前に出して庶民料理の豚の腸詰を再び高級料理に回復する助けになった。 だが、豚の腸詰は相変らず庶民を象徴する料理と認識された。 1987年民主化以後歴代大統領候補者は既存の市場で豚の腸詰を食べて彼らも庶民であることを誇示した。 だが、彼らが本当に普段にも唐麵の腸詰を好んで食べたのかは疑問だ。

http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?artid=201108081906585&code=960100&s_code=ac094

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