ジュヨウンハ|韓国学中央研究員教授
入力:2011.03.22 21:05:21 修正:2011.03.29 21:18:05
・鰍魚が捕えられる秋口に開業…うわさ乗ってお客さん、雲集まるように
1930年代ソウルには三カ所の鰍魚湯家が名をはせた。 その一つは新設洞の「有名鰍湯」だ。 有名鰍湯で働いて独立した政府棒が運営した別名「あばた鰍湯家」も名声が高かったが安岩橋近くにあった。 最後の家は今の憲法裁判所西北側花洞にあったファンボ鰍湯家だ。 随筆家ピョン・ヨンノ(1897~1961)もこの家の常連だった。 自身の飲酒履歴を書き留めた <酩酊40年> という本にファンボ鰍湯家は間違いなく出てくる。
「尹バーに劣らず有名な解酊酒酒屋が花洞にあったが称することをファンボ鰍湯家といった。」
今人々考えには鰍湯家なら酒場であるより飯屋でないか感じるだろうが、少なくとも1980年代以前の事情は必ずそうではなかった。 鰍湯家の主な材料である鰍魚を一年ずっと捕ることができなかったために飯屋兼酒場で運営されるほかはなかった。
日帝時代雑誌「別乾坤」第9号(1927年10月1日付)を見ればそういう事情を十分に察して残る。 記事の題名は「鰍湯家作男で二日の間の住み込み」だ。 ペンネームをB記者だと明らかにした執筆者は真夏の間休業をして陰暦8月に再びドアを開けたソウル会合のH鰍湯家で従業員で本人が直接体験した話を私たちに聞かせる。 会合は花洞とついている。 おそらくH鰍湯家はファンボ鰍湯家であっただろう。
「私が本社C記者の紹介でこの京城の中でも名高い会合H鰍湯家で住み込みになることはまさに時良い秋陰暦8月大晦日に涼しい風が吹いて暑さ退いたまさに終わりであり夏内休業してこの秋季がさしかかってくるとすぐに再び開業したことで初日でした。 長く休業した終わりです初めて開業した冒頭とか何の相場そんなにあろうとしたけれど想像とはとても違う状況でした。 田舎のようならば山や野で鉄の行き来するのをすばやく知ることが出来るがソウルのように複雑なところでは鉄の行き来するのをすばやく分かることはちょっと難しくありませんか。 (中略)自分の故郷の秋を回憶して戻ることをすぐにするわけで酒に趣味を持ったが、これは秋くれば多分この鰍湯(米尾湯)を非常に懐かしがる形のようです。 新聞広告を出したのでもないポスターをかけたのでもないビラを撒いたのでもない何のうわさなしでただこっそりと開業をしたもようなのに雲集まるように集まるお客さんこそ始めてきた作男には目が振り回される程複雑でした。」
1920年代末ソウル鰍湯家風景が目に描かれるようだ。 この文で鰍湯のそばに書き留めた「米尾湯」に注目する必要がある。 このごろ私たちが食べる鰍魚湯はたいてい「鰌」を材料にする。 事実鰌と鰍魚は厳密に問い詰めれば同じ淡水魚でない。 鰌が鰍魚に比べて大きくて色も濃い。 朝鮮時代の人々が食べた鰍湯の材料は鰍魚が主流であった形だ。 1610年頃に執筆された <東医宝鑑・湯液編>ではは漢字で鰍魚(鰌)と少なくて、ハングルで‘믜꾸리’と書いた。鰍魚と呼ぶ他の漢字ではチュー魚(鰌)がある。鰍魚と発音が同じで魚扁に酋を付けた鰌はどじょうを示す。泥の中に住むといって他の言葉でイチュ(泥チュ)とも呼んだ。1920年代末ファンボ鰍湯家では鰍魚の鰍湯を沸かした。
全部分かるように鰍魚湯の調理法は大きく四種類で分けることができる。 その中の一つは朝鮮後期万物博士李圭景(1788~1856)が <五洲衍文長箋散稿>で言及した鰍豆腐湯だ。 開くを避けて豆腐の中に逃げた鰍魚を実らせてゴマ油に煮て各種材料で汁を作る方法で作った。 この方法は中国の「貂蟬湯圓」という食べ物に由来したのだ。 特別な調理法だと19世紀に王室で肉を扱った泮人の間に人気を享受しただけだ。
普通の人は次の三種類の調理法を広く使った。 鰍魚をゆでてサルマン中身を取り出して味付けして沸かす方法、鰍魚をゆでて肉と頭と骨も皆をすりつぶして沸かす方法、ぐらぐら沸く湯にまるごと入れて実らせる方法がそれだ。 前のファンボ鰍湯家では一番最後の方法を使った。 B記者は同じ文で「今まで水桶の中でグラグラ飛び回った数千数百匹の米尾命を捉えて行って薪の火に思い切り沸いた煮え湯に捕らえる残酷なことというさらに本当の話できません」と書いたためだ。 李用基が1924年に出した料理書<朝鮮無雙新式料理製法>という本にはこの鰍湯の具体的な調理法が出てくる。
「ミックリに水を張って塩を少しうてば非常に動揺をすることとか2分の間だけ置いて真水を2回ほど注いで水あかをみな吐くようにした後に真水に胸肉や事態を溶けるように沸かした後に肉は取り出して冷まして両小麦粉を非常に濃く解いて豆腐をやや長めで平たく切ってショウガを皮をむいて大体確かめて唐辛子の種を抜いて確かめては確かめて峠やシイタケや松茸を太く破って入れて牛の小腸(コプチャン)や量もゆでて切って入れて小麦粉解いたのに全部入れて掻き回しながら焦げないように沸いたらミックリを急に注いで入れてふたをすばやく閉じて再び開く。 飛び出してきて死んだ方が良くないのである。静かにかき混ぜながらミックリがみな熟したら卵をいくつかでも晴れて解いて取る時胡椒と桂皮粉を打ってククスを混ぜて食べれば良いのだ。」
スープはすぐに牛の胸についた肉である胸肉や事態をぐらぐら沸かした湯だった。 上の調理法だけ見ても鰍湯の味が肥沃で非常に濃かったことで見なされる。
それならファンボ鰍湯家では鰍魚をどのように確保したのだろうか? B記者の文では鰍魚を専門的に供給する商売があるといった。 事実鰍魚や鰌は主に川下流の水が流れるということが遅いところでも池のように水が漂う所に主に生きる。 1993年7月29日付東亜日報によれば、1920年代末にソウル、鍾路5街に引っ越してきた仙山キム氏五兄弟が東大門の外新設洞競馬場そばから始まった食堂が「有名鰍湯集」だ。 当時だけでも清渓川支流にミナリクァンが多かったがここで鰍魚を捉えて鰍湯を売った。 本来相互も看板もなかったが人々から人気を得て鰍湯で有名だといって「有名鰍湯」になった。 だが、一年ずっと鰍湯を販売できなかったために違った時は酒と肴を売るほかはなかった。 それで得た名前が「兄弟酒屋」という商号だ。
70年間命脈受け継いできた鍾路区平倉洞兄弟鰍魚湯|チョン・ジユン記者
1963年9月12日付京郷新聞には鰍湯で有名なソウルの名物兄弟酒屋が売られるという記事がのせられた。 その記事のとおり兄弟酒屋は門を閉めて1980年代後半に弥阿3通り裏路地にこの家の末っ子が再びドアを開けた。 今でもその家に関わっている日帝時代写真一枚は兄弟酒屋の歴史を推察させる。 写真に含まれている話はこのようだ。 1935年子供の日である5月5日にソウル奨忠壇では商工連合大運動会が開かれた。 この運動会が終わった後に食堂の前で記念撮影をした写真がまさにこれだ。 写真の中の看板は二つだ。 一つには有名鰍湯、他の一つには兄弟酒屋だと少なかった。
商工人運動会と所属会社や営業店があってこそ参加が可能だった。 兄弟酒屋でも団体でこの日行事に参加した。 兄弟のうち1人であるキム・ユンチャンは自転車競走に、従業員キム・ハンガプは200m駆け足に出て行った。 運動会の種目のうちには特異にも「釣鰍競走」というものもあった。 漢字で鰍釣り大会だ。兄弟酒屋のサドルセイがこの大会に出て行った。
この日運動会種目に鰍釣り大会が入っているという事実は多くの示唆する点を提供してくれる。 先に鰍魚湯がどれくらい人気があったら鰍釣りという種目ができただろうか! ところで自然産鰍魚を5月5日に合わせてどこでこのように捕ったか気がかりだ。 東亜日報1932年5月12日付にその解答がある。 朝鮮副業協会では副業で新しく登場する産業を紹介して「米借り稻田養殖」を言及した。 特に田植えをして約7日後で前年生まれの子を畑に放養といえば良いと書かれていた。 だから5月5日には結構良く育った踊って入り運動会に登場することができた。
飼料も別に必要だといった。 自然飼料だけで発育にならないので豆かすや蚕の繭干し、あるいはかたつむり・オキシジミ・イワシ、さらにぬかや小麦粉あるいはおからなどをばらまけば米借り行って良く育つと書いた。
このように鰍魚を養殖する方法は最も容易だがそれほど利益が出なかった。 そのままピョンノンで養殖をして見たら管理がうまくいかないので死ぬ事例が多かった。 さらに蛇やカエルのような他の生物の餌になることもした。 それで考案した方法がコンクリートで最初から人工池を作って鰍魚を養殖するということだった。 この方法は1960年代に入ってきて農家に紹介されたし、1970年代になって広く広がった。 特に1970年7月政府の水産庁では日本の千葉県から日本鰌1万匹の寄贈を受けて養殖を試みた。 在来種鰌よりはるかに大きくて良く育った。 全国の20余ヶ所に日本鰌養殖場が作られたし、1970年代中盤になればこの鰌養殖業は全国の農家で広く行う副業になった。 結局暮らす状態も良くなった1980年代以後私たちは全季節地域名前がついた鰍魚湯家で鰍魚湯を食べることになった。 得ることがあれば失うのもあるはずだ。 旧盆が過ぎれば在来種鰍魚を沸かした鰍湯味に舌打ちした1930年代食客の味覚がうらやましいだけだ。
<ジュヨウンハ|韓国学中央研究院教授>
http://biz.khan.co.kr/khan_art_view.html?artid=201103222105215&code=960100
0 件のコメント:
コメントを投稿