[食品人文学]議政府ノルブも惚れた部隊チゲ
2014/06/26
議政府は最も広く知られた部隊チゲの発祥地だ。1950年代議政府米軍部隊から出た缶詰のハムやソーセージを炒めた料理がチゲに変わったという主張だ。ところでこの部隊チゲの前身でクルクリ粥を掲げる人々が多い。クルクリ粥は米軍部隊で捨てた生ゴミを煮たお粥をいう。 その名前に‘クルクリ’がついた理由は本来このゴミが豚の飼料用だったためだ。6・25動乱以後韓国都市周辺に定着した米軍部隊で捨てた生ゴミが豚飼育場に行かなくて部隊近くの人々に行った。それを可能にした人々は米軍部隊台所で補助仕事をする韓国人だった。 彼らに米軍部隊の生ゴミはお金になったし、買って食べる人には食事になった。
クルクリ粥=国連湯=ジョンソン湯
ソウル漢江のほとりの二村洞一帯、今は最高級アパートが位置するところだが6・25動乱が終わった1950年代中盤からクルクリ粥がすごい人気を享受したところだ。 北側の避難民はもちろん慶尚道と全羅道の農村でむやみにソウルに上がってきた人々がこちらでテントを張って生きたし料理は浅はかなことこの上なかった。 幸い近くに米軍部隊があってクルクリ粥を買って食事を解決することができた。だが、当時にはクルクリ粥だと呼ばないで‘国連湯’だと呼んだ。最後の自尊心のようなものだった。
クルクリ粥は全国各地の米軍部隊駐屯地近所で人気であった。お腹を満たすことがなかった時期、米軍が食べて捨てた缶詰ハムは非常に便利な食事であった。値も安くていっぱい入れたクルクリ粥の土鍋が1960年代10換に過ぎなかった。今とすれば僅かな金500ウォンだ。 1961年2月19日付<京郷新聞>には当時韓国外国語大学で英語を教えたアメリカ人ブライアン・ウィルソンが書いたコラムが出てくる。コラムの題名は‘私たち皆罪を犯している’.彼は韓国人学生たちに米軍部隊の生ゴミで作ったクルクリ粥を貧しい人々が買って食べるという話を聞いて非常に憤慨した。 1966年5月リンドン・ジョンソン(Lyndon Baines Johnson)アメリカ大統領がソウルにきた。政府がアメリカ大統領訪韓をあまりにも宣伝したために人々はクルクリ粥を国連湯という名前の代わりにジョンソン大統領の名前を付けて‘ジョンソン湯’と歌い始めた。
缶詰ハム、部隊チゲ立役者!
それなら本当に部隊チゲはクルクリ粥あるいは国連湯あるいはジョンソン湯が進化したことだろうか?部隊チゲの材料を確認してみよう。部隊チゲを部隊チゲらしく作る材料は缶詰のハムとソーセージそして缶詰の豆だ。ここに白菜キムチとコチュジャンが入れば基本的な部隊チゲだ。あらゆる生ゴミにご飯を少し入れて沸かしたクルクリ粥と部隊チゲは決して同じ料理でない。 チゲはお粥や湯とは厳格に違う。 本来湯や汁は、スープが多くて具が少ない料理だ。これに対し比べてチゲはヤンニョムも多くて具も多い。また少なく沸かしてこそチゲとなる。
日帝強制占領期間に朝鮮人が最も好んで食べたチゲはテンジャンチゲであった。1930年代白菜生産量が増加してキムチチゲもできた。キムチチゲは日が進むにつれ人気を得て1950年代後半最も庶民的な料理として地位を確立した。 ただし豚肉をたくさん入れればいやな臭いが出たりしたが、米軍部隊近所で豚肉の代わりに缶詰ハムを入れて作ったキムチチゲではいやな臭いが出なかった。
ベトナム戦争に参戦した韓国軍人にもキムチチゲは戦闘に出る前に力を与える料理だった。だが、ベトナムで白菜キムチを求めることは夢のまた夢。1966年9月今のカトリック大学医大チームがキムチ缶詰めを開発してベトナム戦に参戦した韓国軍人に提供した。白菜キムチを缶詰めに入れて63度で30分間加熱した後コバルト60という放射線を当てる方法だった。このようにさせたキムチ缶詰めは2ヶ月が過ぎても変質しなかったけれど味はキムチチゲのキムチであった。
この頃ベトナムでは米軍の戦闘食糧であるCレーション(C-ration)に入れられた缶詰ハムとキムチ缶詰の白菜キムチが出会って部隊チゲと似た料理が作られることもした。それでも議政府で名が知られた部隊チゲがこのような過程を通じて出たと断定するのは難しい。
1963年韓国にインスタント ラーメンが登場して部隊チゲは派手な変身を迎えた。1970年代以後インスタント ラーメンは部隊チゲから抜いておくことはできない材料になった。ハムは相変らず米軍部隊で流れ出た缶詰ハムが部隊チゲの主人役割をした。1990年代初期、部隊チゲは米軍部隊近所を超えて全国に広まった。 我が国でも豚赤身だけで作った缶詰ハムとソーセージを売り始めたためだ。今になってようやく部隊チゲの全盛時代が開かれたのだ。
http://mediask.co.kr/1714
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