2016年12月6日火曜日


[ジュヨウンハの食べ物100年](7) 「保養の象徴」参鶏湯

ジュヨウンハ|韓国学中央研究員教授
入力:2011.04.19 19:07:45 修正:2011.04.20 15:46:04

1987年8月に主要日刊紙に掲載された消化剤広告はヘッドコピーで「参鶏湯ではなくて鶏参湯です」を前に出した。 その内容はこうだ. 「よく知っているのと違い参鶏湯の本来名前は鶏蔘湯です。 柳得恭の京都雑誌、金邁淳の洌陽歲時記、洪錫護の東国歳時記などには鶏参湯に対する記録があまねく現れています。 また、韓国語辞典にも「幼い初物の鶏の内蔵を抜いて高麗人参を入れてた漢方薬」と鶏参湯に対して解説しているので、参鶏湯という単語は探してみることはできないです。 そのような鶏参湯が参鶏湯に変わることになったことは6・25動乱以後からです。 本来貴族階級の料理であるから大衆性がなかった鶏参湯が大衆飲食店で料理で作って販売され始めて参鶏湯だと間違って呼ばれました。」

この広告のコピー文は致命的な誤りを持っている。 朝鮮後期の歳時風俗を記録した本である <京都雑誌> 、 <洌陽歲時記> 、<東国歳時記> をいくらかき回してみても鶏参湯という料理は出てこない。 ただし <東国歳時記> から極暑料理で食べる狗醤に鶏を入れれば良かったり、陰暦6月に食べる料理で「小麦でククスを作って白菜の青い葉と鶏肉を混ぜてイチビ湯に混ぜて食べる」でも「ワカメスープに鶏肉を混ぜてククスを入れて水を若干打って煮て食べる」という程度の記録が出てくるだけだ。

朝鮮時代全体時期にかけて鶏は卵を得るために家で育てる貴重な家禽類であった。 それで婿がきてこそ卵を産む種雌鶏を捕まえるという言葉が生じた。 1670年(玄宗11年)ぐらい安東張氏が書いた<飲食知味方> では主にキジ肉を利用した料理が多数登場する。 本来17世紀までしても料理の材料では鶏よりキジをさらに高く思った。 キジも卵を産むがそれが鶏卵に匹敵しなかった。 冬に鷹で狩猟をして捕まえるキジがなかった夏になってこそキジの代わりに鶏を肉とみなした。 そのような事情が前の <東国歳時記> 陰暦6月便に含まれている。

方信榮(1890~1977)が書いた1917年版 <朝鮮料理製法> で、はじめて鶏が主材料になったダルグクが出てくる。 さらに李用基が1924年に出した料理書の <朝鮮無双新式料理製法> にはダルグクと水炊き料理の二種類の鶏肉調理法が記されていたりもする。 事実朝鮮総督府は1920年代以後全国の農村家庭で副業で養鶏をするように積極的に推奨した。 だが、養鶏推奨の目的は卵をたくさん生産するところにあった。 西ヨーロッパをはじめとして米国と日本の良い種系を普及させて質が良い卵を生産するように誘導した。 全国の主な都市ではいつも優秀な品種の雌鶏と大きくて質が良い卵を選抜するための家畜共進会が開かれた。 1925年10月4日東亜日報記事によれば、その前年に全国的に鶏を1000万匹も捉えたといった。 たとえその中で1万匹は外国に輸出されたが、朝鮮後期に想像もできなかった鶏肉消費が1920年代に韓半島で成り立った。 それで <朝鮮料理製法> や <朝鮮無双新式料理製法> に鶏肉を利用した料理がたくさん登場したのだ。 合わせて中国料理・日本料理・西洋料理の流行も鶏肉消費量を増加させるのに相当な寄与をした。

それなら1917年版 <朝鮮料理製法> に出てくるダルグクはどのように作る料理であったか? 「鶏を捉えて内蔵を抜いて足と翼終わりと頭を切り捨てて腹の中にもち米三スプーンと高麗人参粉あるスプーンを入れてあふれないように束ねた後に水を十譜時期ぐらい注いで煮込む。」ところが1942年版 <朝鮮無双新式料理製法> ではダルグクが「水炊き」という名前に変わった。 その調理法は1917年版とほとんど同じだが、最後の部分が違う。 「水を十譜時期ぐらい注いで沸かしてハンポ時期ぐらい作って塩辛くて墨出るのだ」とした。 肉はしわみ次第食べるが先に汁を組んで薬のように食べることを方信榮は薦めている。 事実水炊き料理は漢字で「白熟」と書く。 ここで漢字白には「そのまま」という意が含まれている。 すなわち塩や醤油で味付けをしないでそのまま煮て出す食べ物を示す。 汁があってもないか関係なく肝を別にしなかったので、1942年版の料理も水炊き料理だと呼んでも関係ない。

<朝鮮無双新式料理製法> で紹介したダルグクは漢字で「鶏湯(ギェタン)」と書くといった。 「鶏をよく退して太くとって装置で葱(パー)を切って入れて胡椒を打ってもんでカマに入れて水を少し張って炒めて再び水をたくさん注いで大根バクを切ってノンナニみな沸いた後に粉唐辛子打って墨出るのだ。」ここで「退して」という話は鶏の毛を抜くために沸いているお湯に少しの間入れて取り出すという意だ。 「太くとって装置で」というのは、切り身を太く出すことをいう。 この調理法は一時「タットリタン(鶏肉とジャガイモの煮込み)」と間違って呼ばれたタックボクムタンだ。 ところで李用基はダルグク調理法の最後にまた他の方法も書いておいた。 「または、鶏の内蔵を抜いて腹の中にもち米三スプーンと高麗人参粉あるスプーンを入れて縫って沸いているお湯に入れてきれいで食べることもハ出るのだ。」この調理法は1917年版 <朝鮮料理製法> のものと全く同じだ。

李用基は同じ本で水炊き料理は「夏には第一など保養することであるからひょっとして高麗人参食べるこれは参を入れて共に孤児も非常に良いのだ」とした。 ここでの乾燥高麗人参粉でなく生高麗人参である可能性も多い。 だが、その名前を決して鶏参湯あるいは参鶏湯だと少なくなかった。 さらに日帝時代出版された雑誌や新聞で鶏参湯あるいは参鶏湯という料理は登場しない。 こうしたことは解放以後もしばらく続いた。

1948年7月3日付京郷新聞の2面下段には「マンナ館」という水炊き料理専門店で出した広告がのせられた。 ソウル鍾路区瑞麟洞89番地にあった天日館席に新しくできたこのマンナ館で昼間にだけ水炊き料理を売るといった。 「天日館」といえば日帝時代にソウルで名高かった料理屋だった。 解放政局で料理屋の営業がうまくいくわけがなかったので、相互も変えてメニューも一品料理である水炊き料理を前に出すようだ。 それも真夏に広告を出したので極暑に合わせた新しいメニューであった。 料理屋の変身はソウル明洞にあった高麗程度同じだった。 1953年6月16日付京郷新聞2面下段には旧高麗ジョンが水炊きと水炊き定食、そしてすし定食と旧高麗ジョン冷麺をメニューにして新装開業をしたことを知らせる広告ものせられた。 前でも明らかにしたように日帝時代以後粘り強く進行された養鶏業振興は解放以後最も容易に食べることができる肉として鶏肉を前面に出るようにした。 だが、鶏肉の消費量増加が直ちに鶏参湯あるいは参鶏湯をレストランの主なメニューとして位置を確立するようにできなかった。 1950年代までもその名前は相変らずダルグクあるいは水炊き料理だった。 高麗人参がその理由を抱いている。

全部分かるように高麗人参はその加工の有無にしたがって大きく生高麗人参・白参・紅参に分かれる。 生高麗人参は、乾燥しない高麗人参を他の言葉で生参とも呼ぶ。 生高麗人参は水気が消えれば腐ってしまう。 それで高麗人参畑で掘り出た生高麗人参は普通10度程度で10日ほどしか保管できない。 だから高麗人参を永らく保管するためには白参や紅参に加工をしなければならない。 白参は普通4年の間栽培した生高麗人参の皮を剥いだ後に日光で干して作る。 これに対し比べて紅参はその色が赤いので付けられた名前だ。 普通6年の間栽培した生高麗人参を水できれいに洗って、水を沸かした水蒸気で蒸す。 これを熱風で乾燥させた後水分が12.5~13.5%程度残るように日光で干す。 紅参はより永らく高麗人参を保管するために開発された結果だ。

高麗時代以来紅参は中国と日本に輸出した韓半島名山品だった。 1810年になれば高麗人参を紅参で加工するツンポソが開城に設置されるほど紅参需要が急増した。 日が進むにつれ高麗人参は世界的な名声を得たし、日帝時代になれば朝鮮総督府も高麗人参栽培と白参と紅参加工に熱を上げた。 警察出身朝鮮風俗専門家・今村胴(1870~1943)は高麗人参の全てのものを整理した <人蔘史> という本7冊を朝鮮総督府名前で発刊するほどであった。 1910年代になれば国内でも白参や紅参が金持ちに人気を集めた。 値段が安い白参粉がすぐに1917年版 <朝鮮料理製法> で紹介されたダルグクに入れる高麗人参粉だ。

鶏参湯という料理が本格的にレストランのメニューで登場する時は1950年代中盤以後だ。 前で紹介した消化剤広告で言及した通り朝鮮戦争以後に鶏参湯は大衆的な料理で販売された。 だが、相変らず白参粉で作った鶏のスープだった。 ただしダルグクよりは鶏参湯といってこそ営業をするのに得した。 高麗時代以来高麗人参が享受してきた保養剤としての象徴的力をいよいよ一般の人たちも享有することができるという販売戦略が鶏参湯という話を作り出した。 ところで1960年代になれば鶏参湯が参鶏湯でその名前を変える。 最初から鶏肉より高麗人参を前面に押し出すという戦略だった。

忠清南道錦山は朝鮮戦争以後南北が分断されてはじめて韓国の代表的な高麗人参市場として地位を確立した。 そちらの老商人話によれば、1960年を前後して錦山邑の金星橋近所には20余号の生高麗人参販売店があったという。 1966年になれば錦山市場に生高麗人参販売だけをするチャンオクが席を占めた。 1973年には最初から牛市場が立つ席に生高麗人参市場が入った。 冷蔵庫の普及で生高麗人参の保管期間が増えた点も生高麗人参販売店の増加を持ってきた。 ここに許可制であった高麗人参栽培を自律で開放した1965年の政府措置も高麗人参生産量増加とともに生高麗人参普及率を高めた。

結局1960年代になればソウルを中心に水炊き料理を販売した食堂が参鶏湯という名前を前に出し始めた。 真夏蒸し暑さを避けてソウル洗剣亭遊園地や纛島遊園地に避暑に行った家族は参鶏湯を買って食べて暑さを冷ました。 さらに1973年になれば国内のある食品会社が缶詰めに参鶏湯を入れて東南アジアに輸出をした。 結局20世紀以後粘り強く進行された国家の養鶏業振興と高麗人参栽培の拡散が1960年代以後参鶏湯を専門食堂で販売する料理で作った。 このごろも極暑になれば参鶏湯専門店には人々で長蛇の列を作る。 相変らず保養料理の属性を参鶏湯がぬぐい去ることができないためだ。 さらに工場と同じ養鶏場で生産された鶏が地鶏を懐かしくさせる。 だから今でもその名前に参を前に出すほかはない。

http://biz.khan.co.kr/khan_art_view.html?artid=201104191907455&code=960100          

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