[食品人文学]薄黄色の花の間にぶらさがっている玉瓶で
2014/08/28
菜園の苽は水与えなくてもたくさん走るよ、薄黄花の間の葉は時々青い。 最も愛らしいのはツルが脚なくのびて行って高低の区別なく玉瓶ぶらさがるということだね。
この文は自らを‘詩琴酒三酷好先生’と称した高麗中期文人李奎報(李奎報、1168~1241)が作った。題名は‘苽’だ。李奎報が口ずさんだ‘苽’は色が玉と同じキュウリを示す。
ヨーロッパ ピクルスよりは韓国キュウリの塩漬け
中国ではキュウリを‘黄瓜’と呼ぶ。‘黄色い瓜’という意味だが、黄とは決してキュウリをまともに表現した名称でない。キュウリの色は緑色であるためだ。キュウリの原産地はインド半島の北部と推定されてキュウリが中国大陸に入ってきた時はシルクロードが開かれた漢の時代だ。蛮夷地域から入った瓜といって当時の人々はキュウリを胡瓜だと呼んだ。
ところで漢が滅びてできた後趙の第1代皇帝である石勒(石勒、274~333)は‘胡瓜’という名称に不満が多かった。石勒は本来匈奴族羯種の酋長息子だったためだ。一日は石勒が地方官院に会う食事席で‘胡瓜’で作った料理が出てきた。彼はこの材料を何と呼ぶかと尋ねた。非常に慌てた官員はあえて‘胡瓜’と言えず‘玉盤黄瓜’と答えた。玉で作った皿の上に胡瓜が含まれていなかったにもかかわらず、彼は玉色の胡瓜をこのように呼んだ。その時から中国の人々はキュウリを‘黄瓜’と呼び始めた。
キュウリは4~5月に畑に植えて6~8月に収穫する。だから夏に最も多く食べる野菜でもある。インド半島から東西に広まったキュウリはヨーロッパに行ってピクルス(Pickle)の代表になった。キュウリのピクルスを正確に表現すれば‘Pickled Cucumber’だがヨーロッパ人はそのまま‘ピクルス’と呼ぶ。それだけキュウリのピクルスをたくさん食べてしばしば使うためだ。
韓国にはオイジ(キュウリの塩漬け)がある。日帝強制占領期に活動した男性料理専門家・李用基(李用基、1870~1933年頃)は1924年に出版した《朝鮮無双新式料理製法》でキュウリの塩漬けを作る方法を次の通り書き留めた。
キュウリを洗わずにそのまま壷に入れるものの、層ごとに塩を振りかけてみな入れた後重い石で押さえておいて水を注ぐので水あるドンイに塩は置くものほど解いて沸かしておいて暑い時に器に注いで冷めた後にふたを伏せておくものだ、処暑が過ぎればまもなく食べるのだ。
真夏にキュウリの塩漬けを食べる贅沢
処暑は陽暦で8月23日頃だ。真夏がほとんど終わりの時期にキュウリの塩漬けを食べることができるという言葉だ。だから真夏にキュウリの塩漬けを食べることは難しい。朝鮮王中で最も長生きした英祖は夏になれば麦飯にコチュジャン、そして汁菹(ジュプジョ)で構成された食膳を好んで食べた。コチュジャンは漢陽に住んだ淳昌趙氏の趙宗溥自家製を最もおいしいと思った。汁菹は汁醤から取り出した‘キュウリの塩漬け’だ。汁醤は普通‘ジプ醤’とも呼ぶ。朝鮮末期の万物博士・李圭景(李圭景、1788~1856)からツプチョ作る方法を聞いてみよう。
おいしい醤あるどんぶりを必ずふるいにかけて不純物を除去して汁だけ取る。 ふすま4合をここに混ぜる。 別に青い외(キュウリ)をきれいに洗って麻布布切れでよく拭いて乾かす。 醤とふすまを互いに混ぜて壷に入れて馬糞肥料の中に埋めて14日ほどを置く。 でなければ草積み上げた山に埋めても大丈夫だ。
醤油とふすまを混ぜた後に青いキュウリを入れて14日ほど熱気を抱いている肥料の中に入れて熟成をさせた醤すなわち李圭景が話した夏汁醤だ。だから真夏に食べるキュウリ漬けは李用基が話したオイジより汁醤から取り出したオイジが適当だ。この汁醤オイジは塩辛いがふすまから出る濃厚な甘みと交わって塩にだけ漬けたオイジとは味の次元が違った。
だが、朝鮮末期の一般国民らが夏に汁醤を作ることは容易ではなかった。ふすまのためだった。冬に植えた小麦が陰暦6月15日流頭節前後に収穫されたが量があまり少なくて両班が一人占めしたりした。だから朝鮮末期一般国民らは真夏にキュウリの塩漬け食べるのが容易でなかった。それでもキュウリの塩漬けは貯蔵性が良くて20世紀以後次第に夏料理でしばしば食卓に上がってきた。
もう家でキュウリの塩漬けを作る人は珍しい。ほとんどの市場で買って食べる。それでこの頃人々がキュウリの塩漬けを処暑以後でない真夏に食べると思うようになったのだ。
http://mediask.co.kr/1797
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