[食品人文学]伏日、民魚汁で祝杯を上げろ
2014/07/04
《青荘館全書》という本を書いた朝鮮末期学者李徳懋(李徳懋、1741~1793)は‘鰵魚’という言葉の由来を次の通り書いた。
鮸魚はすなわち鰵魚だ。鮸と民の発音は若干似ていて鰵と民の発音は最も似ている。概してこういうものの物名は朝鮮言葉を使わないで中国語の発音を使う。だから単に字だけ同じというのではない。
このごろ中国語では‘鰵’を鱈と見るが昔中国語では鰵魚を意味した。だから昔も今も韓国語‘鰵魚’という話は決して民の魚だとして付けられた名前ではない。それよりは李徳懋が述べたように中国古典に出てくる鰵魚の中国語発音を朝鮮式で書いたに過ぎない。
ご飯食べる時手が先に行く鰵魚
鰵魚は水深40~120mの干潟底に棲息する。昼間には底で、夜には水面上で生活して韓国、日本南部、東シナ海などで育つ。秋から冬の間には済州島近海で過ごすが春になれば北に移動して7月で9月間に江華島近海で産卵する。李応禧(李応禧、1579~1651)は彼の文集《玉潭私集》で‘鰵魚’という題名の一時を作って残した。
口が大きくてスズキと似ていたが、うろこはスズキより少し大きいよ、肉は非常に豊かで食べるのに良くて、腸は琴と琵琶の列のように奇異にこんがらがったよ、釜に入れて沸かせば湯の味が申し分なく良いね、刺身にして皿に上げることはふさわしくないね、天日で干したのを見るつもりならば、ご飯食べる時手が先に行くよ。
この詩から推察して李応禧が生きた17世紀には鰵魚を湯に煮て食べる方法が最もありふれていたし次に干して食べたことを確認することができる。丁若銓(丁若銓、1758~1816)は《茲山魚譜》で鰵魚を‘味は淡々として良い。生でも熟成したものも全部良くて干したものはより一層からだに良い’と書いた。 丁若銓も李応禧と同じように鰵魚を干して食べるのが最も良いといった。
腹を切って塩漬けにして干した雌鰵魚を‘アムチ’という。夏に鰵魚を仁川や江華島近海で捉えてもそれをこのごろのように直ちに刺身で食べることはふさわしくなかった。漁村では可能だったが真夏には捉えた鰵魚を陸地に移す過程で傷んでしまったためだ。
漢陽の人々に鰵魚の値を適切にして売ろうとするなら塩漬けにした後、干して販売することが最も良い方法だった。他の魚と違い鰵魚を塩漬けにして干す理由は肉が大きくて肉がよく潰れてしまうためだ。塩で肉をやや固くしてから干した鰵魚のコシが強いことは石魚に次いだ。 さらに食欲ない夏に干した鰵魚を食卓に上げれば李応禧の話のように‘ご飯食べる時手が先に’行くほかはなかった。
日帝強制占領期は鰵魚の品薄現象が?
そのような事情は強制占領期にも相変わらずだった。<毎日新報> 1936年8月26日付では当時の商品市況を紹介して干鱈の次に干し鰵魚を紹介したが記事の小題目は‘乾民魚品貴’であった。このように干した鰵魚が人気を集めた理由は冷蔵流通システムが導入されなかったためだ。 それでもかろうじて生ものを求めれば朝鮮時代漢陽の人々は湯を沸かして食べた。
強制占領期、男性料理専門家・李用基は彼の本《朝鮮無双新式料理製法》(1924年)で民魚汁を作る方法を次の通り書いた。
カボチャの出る時が脂がのっておいしいが、その時に会うことができずに食べようとするなら、すまし汁を沸かして切り身にしたのを入れて煮て食べる。
この言葉から推し量ってカボチャが開かれる夏には民魚の刺身を食べたが、そうでない時はすまし汁で民魚汁を沸かすことが最も良いということがわかる。
民魚汁、伏日の保養食として浮上する
李用基とともに強制占領期・男性料理専門家で双壁を成し遂げた洪善杓は民魚汁を最初から伏日に食べる料理といった。
伏日に犬のスープと小豆粥を炊けば家が一年ずっと平安であるし、伏日に濯足をすれば脚が元気だという。民魚汁にカボチャを入れてコチュジャンで煮て食べたり、ミヨックッ(わかめスープ)に小麦粉を入れてスジェビ(すいとん)も作ったりもする。農家では稲穂が一言ずつできて三伏が過ぎれば三節ができるが、成熟期を催促する関係上伏日を心から待つ。それだけでなく伏日ごとにやりがいがある料理娯楽祝杯を上げることになることだ。
<東亜日報> 1937年7月9日付
1970年代以後冷蔵システムが大衆化して新鮮な鰵魚が内陸で流通し始めて最近では民魚汁が新しい伏日料理に浮上しているのだ。
http://mediask.co.kr/1724
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