2016年12月22日木曜日

[食品人文学]ピンデトックでも焼くだろう

2015/01/08

“洋服着た紳士が料理店門の前で杖で打たれるが、なぜ合おうか、なぜ合おうか、原因は一つ金がなくて(中略),お金なければ家に行ってピンデトックでも焼くだろう。”1943年歌手ハン・ポクナムが歌った‘ピンデトック紳士’という歌の歌詞だ。


歌詞を再確認してみれば‘料理屋’という最高級食堂に行ったごろつき紳士が金がなくて往生する場面だ。それと共に金がなければ家に行ってピンデトックでも焼くがどういう料理店かと当てこする。この歌の歌詞だけ見てもピンデトックは1940年代お金ない人々が家で焼く料理であったのを察することができる。
 
口に糊付けでもするなら…
 
 
専門家たちは1930年代から流行した喜劇的な歌詞の歌を漫謡だと歌う。植民地期に日本演歌の影響を受けて悲劇的なトロットが流行したがハングはユーモアと風刺を通じて当時の世相を入れた歌でもあった。 実際にピンデトックは日帝強制占領期に貧しい人々が口に糊付けでもする量で販売した料理だった。
 
<東亜日報> 1926年7月3日付‘真夜中後の京城’を連載した記者は翌1時30分を越えた時間に夜市を歩き回ってある老婆の尾行することになる。

“その老婆は3時に未亡人になって膝下にただ一人の息子と彼の嫁を連れて30年余りの間を冬の母酒家の門の外でピンデトックを焼いて売った。さらに人の取り引きが頻繁な街頭でピンデトックを14年の間焼いて夫の実家の家族と子供を立派に育てた元山のチョ氏夫人は模範婦女で称賛を受けることもした。” (1936年2月29日付<東亜日報>)
 
このように1920年代以後ピンデトックは路上の屋台食べ物だった。


本来ピンデトックは高級料理だった。1924年夜餤専門家の李用基(李用基、1870~1933年頃)は<<朝鮮無双新式料理製法>>で“このモチは貧しい者が食べるもので貧者餅という。だが、国の祭享にも使って押したことでも煎油魚に小麦粉の代わりに多く使うのだ。”として調理法を言及した。 すなわちピンデトックは貧しい人々が主に食べたのだが宮中で各種宴会に上げた煎油魚に使われる小麦粉がない時緑豆粉を使って作った料理だという主張だ。
 
実際に李用基が提示したピンデトックの中には白菜の白いあらすじ湯がいたこと、さらに牛肉や鶏肉や豚肉を細かく切って味付けして炒めて入れてここに標高、ソクが、首がなどのキノコとナマコ、アワビまでも入る。 実にこれぐらいの材料が入ったピンデトックは決して貧しい人々が販売したり買って食べる料理になれなかった。 このような調理法は1921年方信栄(方信栄、1980~1977)の<<朝鮮料理製法>>でもそのまま出てくる。奏楽や花前のようにピンデトックは油に支持は料理だ。朝鮮末期宮中ではゴマ油を使ったが貧しい国民らはゴマ油を救うのが難しかった。19世紀末以後中国人がソウルに進出した以後豚脂が料理を炒めるのにしばしば使われた。 たとえ肉の臭いがたくさん出たが緑豆生地を豚脂に地震ピンデトックはそれこそ肉に肩を並べる料理だった。
  
立ち飲み屋牛耳ったピンデトック紳士
 
‘ピンジェトク’、‘貧者餅’、‘賓對餅’、‘チヂミ’、‘ムンジュ’、‘緑豆餅’等ピンデトックの名前は多い。


普通貧しい人を意味する貧者餅で由来したりお客さんを接待するという‘賓對’で由来したという。


だが、朝鮮時代文献資料を検索してみれば餅藷の中国発音‘ピンジョ’からできた名前である可能性が最も高い。 本来モチという意味を持っていたが漢字を知らずに中国語発音だけをまねた朝鮮時代の人々がそれを‘賓對’あるいは‘ピンジェ’などと呼ぶとすぐに飲食の種類を明確にするために単語終わりに‘モチ’を付けてピンデトックという名前が完成されたのだ。
 

最近来て距離や路地は言うまでもなく日が進むにつれ増える貧者餅屋は何をいうということなのか? そしてこの多くの貧者餅屋がお客さんで爆発する状況だ。

 

1947年6月28日付<京郷新聞>にのせられたこの記事のように解放以後混乱と困窮の時代にソウルでピンデトックはすごい人気を集めた屋台料理であり立ち飲み屋の主メニューであった。だから、歌謡‘ピンデトック紳士’も簡単に大衆的共感を得て人々の口から口へ移して通うことができた。

1960年代後半から政府が米中心の農業政策を展開して緑豆が高値で売れ始めた。米飯が豊かになってピンデトックはかえって貴重なからだになったし1970年代以後ピンデトックは貧困の象徴でなく高級料理でその地位を変貌していった。このような事情を分からないこの頃10代にはハン・ボクナムの歌が虎タバコ焼いた時期の話に過ぎないかも知れない。
 
http://mediask.co.kr/1943

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