2016年12月6日火曜日


[ジュヨウンハの食べ物100年](11)朝鮮料理屋の誕生

ジュヨウンハ|韓国学中央研究員教授
入力:2011.05.17 21:25:33 修正:2011.05.18 19:14:33

・光化門近隣‘明月館’が最初…日本・清料理屋と‘味三国志’



※私たちの料理の歴史、その料理に宿った文化と人生を豊かな史料に基づいておいしく料理してきた‘ジュヨウンハの食べ物100年’が二番目主題を始めます。 ‘最も古い外食業、クッパ家’を主題でソルロンタンなど9個の料理を紹介したのに続き、18日付からは‘朝鮮料理屋の誕生’を主題で神仙炉からムクまで新しい九種類食べ物を食べて訪ねて行きます。

“三四十年余り過去の事やその時に私たちの朝鮮は奥ゆかしくひっそり人定をされた後ならば人の往来が途絶えて国都に内外国人間で與人交際する席がなかったので二千万民衆の国としてこのようなことは情けない思いをしてみると、どこの国を問わず外国人が寄って行く時にはその国の程度を分かろうと思うなら料理店と病院と公園をした二回ずつ見た後でこそその国落ち着いているということがある程度に達したのを分かるがとかこのようになるに達してはその数値をメン鼻さあ韓国で他の国の人に自慢気になるほどの朝鮮料理を発明して官民上下なしで婚礼疲労と各項宴会や内外国人交際するところとすべての事業基礎上相談する席を作って我が国もこういうものがあるという表示がされるように他人を使用して営業機関を設備したこと毎朔水伯オーストラリアが雇用することに生活資料がクノサムシムニョンガニナトェヤンヌンジラ.”

この文は1933年朝鮮儒教会総部で出版した <朝鮮儒教会宣言書及憲章> の第9章に載っている。 執筆者は安淳煥だ。 それなら安淳煥は誰か? 概して大韓帝国最後の皇室料理人であり我が国最初の朝鮮料理屋だと見なされる‘明月館’を1909年今のソウル光化門東亜日報席にたてた人で知られている。 だが、安淳煥と明月館に対する今までの情報は相当な誤りを持っている。

安淳煥は1871年陰暦2月8日参奉を過ごした父・安舜植と母・清州韓氏の間で4兄弟中末っ子に生まれた。 2才の時実の母親の突然の死亡と家の衰退で幼くて生活苦をひどく体験した。 それにもかかわらず、父親は16才の安淳煥を寺小屋に送って漢学を勉強させた。 1890年に婚姻をした安淳煥は自立をするために翌年に書画商になった。 それと共に1895年官立英語学教に入学して引き続き武官学校に入ったが生活の困難で中間に止めた。 だが、安淳煥の実力と誠実さを分かっていた周辺の人々が推薦をして1898年度支部典圜局の建築監督になった。 その後版任官六等、典圜局旗手などを経た。 安淳煥は1909年1月21日から1910年8月29日間に電線社長線を引き受けた。


<曲阜聖廟慰安事實記> (鹿洞書院編・1931) 147ページにのせられた安淳煥の写真.
鹿洞書院の図鑑として朝鮮時代官服を着ている。

電線社長線という職責はどんな仕事をする席だったか? 1905年3月4日施行された宮内部管制改正の時、電線社は“賃金の食膳と宴会を受け持つ”とした。 電線社の長線は皇室の宴会に関する仕事を請った親分官職だった。 安淳煥はこの席で種3品までした。 だから安淳煥を置いて直接食べ物を作った料理人だと見るには難しい。 単に賃金の食膳と宴会の責任を負った部署の行政責任者だっただけだ。 当然大韓帝国の最後のコック長であったという話は誤った。

大韓毎日申報1908年9月8日付には“明月館では小さい事は該館設始した第5記念日である高炉の国旗を高揚して記念式を設行したそうだ”という記事がのせられた。 それなら明月館は1909年でなく1903年9月17日にドアを開けた。 その名前も本来明月楼だった. 初めに個人家を借りて始めた明月楼にお客さんが混雑するとすぐに安淳煥は同じ席に1906年9月2階洋館を新しく建てて名前を明月館だと変えた。 その詳しい話が1906年10月2日付万歳報にのせられた。 “ファントヒョン明月館で国内、外国料理を用意して刻印の請求を数応じるのは人々が皆知るところとかきて数多い請求という点ツンホ対と家屋が狭窄なことがあると大拡張を計画で2階洋館を新建築して各国料理を一新準備して風呂を貞潔に新設するのに先日から共訳に着手して諸般制度がきわめてものすごいそうだ”とした。 ファントヒョンはすぐに‘黄土床’と呼ばれた今の光化門交差点を示す。

それならこのように拡張された明月館ではどんな料理を提供したのだろうか? “国内外の各種酒と厳選した国内外各種料理を新しく準備して夜昼でお客さんをむかえようとします。 各団体の会食や市内外観光、還暦祝いと冠婚礼研などに必要な料理を用意しておいています。 さらに人を送って料理を配達したりもするが、ジンチャンハプとコン重箱、そして餃子料理を派手で精巧に用意しておきました。 必要な分量を要請すれば近くて遠方を選ばずに特に安い価格にむかえます。 君子の後のを表わすので皆さんはたくさん利用することを願ってはばからないです。 主な食物の種類は次のとおりです。 新しく改良して作った各種餃子料理、各国のビール、各種西洋酒、各種日本酒、各種のお酒、各種茶と飲み物、各種洋菓子、各種タバコ、各種葉巻、各国果物、各種さざえ、アワビ、カリン.”(万歳報1906年7月14日付広告)

たとえ朝鮮料理が主なメニューだったが、それでもものさびしく朝鮮料理だけを出すことはなかった。 外国料理と酒、さらにタバコも明月館で扱ったメニュー中の一つであった。 事実朝鮮時代には商業的な目的を持ってお客さんを迎えた専門的な料理屋はなかった。 “両班の宴会は自分の家でするなり、でなければ官庁所有建物であるヌジョンで妓生を命令と呼んでくるようにして酒を注ぐようにした。 そこでは金を出す必要がなかったために料理屋の必要がなかった。 合わせてお金を有している若者たちが頻繁に通う所では妓生の家があったし、ここで遊ぶ場合もあった。”(今村胴<京城花柳界の変遷> 、1937年)これに対し比べて明月館では一定の施設に決まったメニュー、そして専門的なサービスを提供して営業をした。 当然これに対して韓国最初の近代的な朝鮮料理屋だと呼んでも支障がないようだ。

残念ながら朝鮮料理屋明月館の誕生には江戸時代末期に形成された日本料理屋が影響を与えた。 日本料理屋がソウルに進出した時は概略1885~86年頃と見える。 日本の朝鮮侵奪が本格化してソウルの日本料理屋はより一層繁盛した。 特に朝鮮統監府設置以後には日本料理屋はソウルですごい盛業をした。 ここには‘風流統監’と呼ばれた伊藤博文(1841~1909)の公道あった。 1906年頃ソウルにあった日本料理屋ではファウォ楼・ククチュィル・青ファジョンなどが一流であり、松葉・明月・グァンスンなどが二流であった。 この中でファウォルルには30人余りの芸者がいるほど規模が大きかった。 すでに1890年に開業したファウォ楼はソウルの代表的な日本料理屋として地位を確立すた。 ファウォ楼の成功が事業家としての本性を持った安淳煥にとって明月館前身明月楼のドアを開けさせた。 伊藤博文やはり明月館の常連顧客だった。

明月館は1912年に3階洋館で建て増しされた。 また、1918年に安淳煥は光化門の明月館規模が小さいと判断して仁寺洞194番地に明月館地点を開いた。 本来泰化館は李完用の個人家である純化宮で安淳煥が1918年にこの家を買い入れて朝鮮料理屋に変えた。 こちらで1919年3月1日午後に宴会を終えた33人の知識人が独立宣言文を朗読した。


明月館妓生の歌舞場面を入れた日帝強制占領期間写真ハガキ.

それなら明月館の内部情景はどんな姿であったか? 1917年2月に発刊された‘新聞界’ 5号の‘京城遊覧記’という文にその概要が描写されている。 この文のストーリーは咸鏡南道金星に住むイ・スンジが偶然に会ったモダンボーイ、キム・ジョンソンと共に汽車に乗って京城で行って文明開化の成功を感心する内容で構成された。 当然朝鮮総督府の政策を宣伝するために建てられた文でもある。 “時は十一時半からである。 (中略)この時、人力車二車がファントヒョンに向かって運転していくので、これはキム・ジョンソンがイ・スンジを宴会接待をしようと明月館料理店へ行くことだと。 (中略)彫欄画棟と粉壁紗窓がファンファンした電気光線に映えて、きらびやかな光景が器、修正宮に入ることを悟ることができなくするべきだ。 (中略)二人はボーイの案内について3層楼一方居所に御座に着いたが”酒を何杯ずつ飲んで見たら、ドアが開いて“鐘偉く入ってきて飛んで行くように座って‘こんにちは’と、二人に向かって挨拶する女はまもなく広橋組合に有名な妓生チュン・ウンチュンとメ・ホンイニ、これはキム・ジョンソンがイ・スンジを接待するために求めたこと”だった。 お客さんと妓生が互いに簡単な話を交わして、ホンウン琴、チュン・ウンチュンはヤングムを演奏した。 当時光化門明月館の施設は3階に20号を越える部屋があった。 さらに妓生が組合を作って料理屋と遊郭などを転々とする時だ。 イ・スンジのような田舎両班が明月館でこのような贅沢を享受する仕事自体が朝鮮総督府おかげであることを如実に表わしてくれる。

3・1運動が失敗に帰するとすぐに安淳煥も監獄に閉じ込められる身分になった。 加えて1919年5月23日夜明けに妓生と遊んだ有閑知識人の不注意に光化門明月館の家高角が火に焼けて全体が消失してしまった。 結局明月館を他の人にバン安淳煥は1920年代初期に今のソウル中区明洞2街に食道院という朝鮮料理屋を再び設立した。 1920年代ソウルをはじめとして全国の近代都市には日本料理屋と清料理屋、そして朝鮮料理屋が都心の中心街に席を占めて盛業をした。 ソウルには前で言及した食道院と明月館はもちろんで明月点・国一館・長春院・考慮館・泰西館などが今のソウル江北都心に席を占めていた。

安淳煥は食道院を1929年まで直接運営して途方もないお金を集めた。 ところで亡父が常に強調した先祖安珦(1243~1306)に対する崇拝を捨てることができなかった。 結局1930年春に今の始興市に鹿洞書院をたてて黄海道ヘジュにあった安珦の墓地も移した。 また、名教塾をたてて若者たちに留学教育をさせた。 1935年4月28日には東京で開催された東洋柔道大会に他の儒学代表らと共に朝鮮代表で参加するなど孔子教運動にも中心人物で活動した。 安淳煥は近代的知識人であり事業家であった。 合わせて韓国最初の近代的飲食業創始者であり、後には朝鮮料理専門家になった。 彼は1942年8月20日72才で死亡した。

http://biz.khan.co.kr/khan_art_view.html?artid=201105172125335&code=960100

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