2014/05/30
韓国学中央研究院蔵書閣には高宗の時代の古文献がたくさん保管されている。特に高級寒地巻物に各種目録を書き込んだ跋記というものがあるのにその中に‘トッチム’という料理が記されている。だが、不幸にも文書には皇室にあげた料理の名前があるだけで作る方法は出ていない。果たしてトッチムはどんな料理であったか?
国民トッポッキの起源は宮中
手がかりは1964年1月14日に金修徳がこの世を去ったという報道記事で探すことができる。金修徳は1962年1月26日日本からソウルに戻った徳恵翁主のためにトッポッキを作ったと知られている。この時期高宗をはじめとする大韓帝国の皇族が食べたトッチムはトッポッキである可能性が高い。 ほぼ同じ時期の《是議全書》 《飲食方文》という本には“他の蒸し物(チム)と一緒のようにしますが、うまくいったモチをタンムのように切って少しの間炒めて使う。蒸し物(チム)材料みな入れて、ガルジュプだけいや入れナニラ”と調理法が出てくる。ここでガルジュプは小麦粉汁を示す。この本に出てくる蒸し物(チム)材料は標高、ソクのようなキノコはもちろんで醤油をはじめとして各種のヤンニョムも入った。 だが、コチュジャンは入らなかった。
これと似た調理法は1924年李用基が書いた《朝鮮無双新式料理製法》にも出てくる。
よく作ったモチを七分の長さぐらいかなり切ってそれぞれ二つに分けて熱い湯に入れて料理に取り出して水を抜いて、つかないように油を少しうってあえておいて精肉と量牛胃と精肉を色々な高名でそれぞれもんで炒めてシイタケ、ソクが、房、ネギ、セリ、首が、硫化を鞭打って色々な高名で炒める。 (中略)雌牛カルビもゆでて破っておいて宿主も上下を取って入れたりカボチャやカボチャ固持を置くことが非常に良いのだ。
このごろ簡単に買って食べることができるコチュジャントッポッキとは違った調理法だ。王室では正月でないにしても餅を用意できたが、庶民はそうでなかった。冬の間よく保管しておいたうるち米で作った餅で韓国式お雑煮を作って正月回上に上げた。トッポッキは雑煮を作って食べた残りの餅で作ったのであり、庶民が頻繁に煮て食べるのは難しかっただろう。
肉の代わりに値段が安いコチュジャンとかまぼこを
大韓帝国が滅びてトッポッキの正体を知っている人が次第に増えた。日帝強制占領期間に出版された料理の本のうちトッポッキが抜けている本はない。さらに新聞でも正月に作る珍味でトッポッキ調理法を紹介したほどだ。
この時期状態が少し良かった人々は米飯を非常にたくさん食べた。だから全季節餅を作る事もでき餅屋でもたくさん売った。おかげで餅にあらゆる材料が入ったトッポッキはソウル金持ちの間で祝宴や名節料理で人気を享受した。だが貧しいソウルの人には絵に描いた餅だった。
6・25動乱以後米が不足して餅を求めることは空の星を運ぶ位に難しくなった。 ちょうどアメリカが無料小麦粉を大量で支援した。 また、政府が粉食が米飯より良いという運動を大々的に実施して1960年代以後餅屋では小麦粉にエゴマ粉を混ぜて販売し始めた。
小麦粉とエゴマ粉を混ぜて作った餅に牛肉を入れることができない代わりに工場で生産する値段が安いコチュジャンを入れた。コチュジャンはスベスベした小麦餅とかなりよく似合った。コチュジャントッポッキを売る人々は肉味がこの上なく残念だった。それで日本人商売人が残していった値段が安いかまぼこを入れた。辛い味も減らし肉味もポテン計算だった。
今や‘グローバル’庶民料理
すでにコチュジャントッポッキは高級料理ではなかった。6・25動乱以後市場近所と繁華街に席を占めた屋台で販売する‘庶民料理’だった。1960年代初期コチュジャントッポッキがトッポッキの主のふりをしようと元祖トッポッキは‘白いトッポッキ’という名前を得た。また、德恵翁主が食べたといって‘宮廷トッポッキ’というニックネームもついた。 さらに1970年代になれば宮廷トッポッキは‘固有食品’でありコチュジャントッポッキは不良食品と認識され始める。
それでも1990年代豊かさの時代をすぎてコチュジャントッポッキは進化を繰り返して日本人にも多くの人気を得ている。 大韓帝国最後の翁主で、日本人と結婚と離婚を強制的にされた德恵翁主がこのごろ真っ赤なトッポッキをおいしく食べるソウル北村の日本人観光客を見ればどんな考えをしようか?
http://mediask.co.kr/1668
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