[ジュヨウンハの食べ物100年](5)狗醤の変移、ユッケジャン
ジュヨウンハ韓国学中央研究員教授
入力:2011.04.05 20:56:09 修正:2011.04.06 13:51:24
・朝鮮では士の間にも犬肉忌避多くて
・名前は狗醤であるが牛肉で作って
日帝時代に「大邱湯飯」との料理があった。 その名前だけをおいてみれば大邱人が好んで食べるクッパという意味だが、ソウルでも結構人気を集めたようだ。 1926年5月14日付東亜日報を見ればソウル、公坪洞にも大邱湯飯という料理を販売する食堂があったという。 ところで変な点はその食堂の店主が全羅南道長城出身というところにある。 当然大邱湯飯を専門で販売する食堂なら店主やはり大邱出身であってこそが当然だろうが、複雑な事情によってことが起こった。 当時33才であったソン・ソンオンという店主は本来詐欺師だった。 木浦の地主に稲400石を売るといってその掛け金8000ウォンを取りまとめてソウルにきて大邱湯飯家を購入した。 おそらく大邱湯飯家を運営していればその正体が簡単にばれないことだと信じたが、それを不思議に思ったお客さんの申告で捕まる身分になってしまった。
日帝時代ソウルの人間で大邱名物に選ばれた大邱湯飯の正体は何だろうか? 雑誌「別乾坤」1929年12月1日付にのせられた「大邱の自慢大邱湯飯」との文がその解答を提供してくれる。 「大邱湯飯は実名がユッケジャン(注:牛肉と野菜の辛口スープ)だ。 概して犬肉をした珍味(補身之材)が好きなことが一部朝鮮人の通性だが、特に南の島地方の田舎では「姻戚両班が来られれば犬を捉える」と狗醤がなかなか大きい接待でない。 この狗醤は嗜好性と犬肉を食べることができない人々の事情まで探り、または、このごろますます犬が珍しくなる兆しをのぞいて生じたのがすぐにユッケジャンとか簡単に言ってみれば牛肉で狗醤のように作ったことなのに市場は大きい発展をして本場である大邱からソウルまで進出をした。」
もしこの主張が事実ならば大邱湯飯は本来ユッケジャンを呼ぶ他の名前であったし、ユッケジャンは、やはり狗醤から変移された料理という話だ。 また、この文で注目しなければならない点はユッケジャンの誕生を可能にした理由が狗醤を忌避する人々のためというところにある。 全部分かるように狗醤は漢字で狗醤だと書く。 このごろの人々はこれを補身湯とかサチョルタンだからと呼ぶが、その本来の名前は狗醤だった。 1988年ソウルオリンピックを控えて犬肉を食べる韓国人は悪いという主張がフランスを中心に流れ出たし、政府ではソウルの四大門中にあった狗醤専門店を全部休業させる措置まで取ったことがあった。 当然韓国人が歴史以来好んで食べてきた犬肉をとても冷遇すると知識人とマスメディアまで立ち上がった。
事実、朝鮮時代の士の間でも犬肉を食べることを置いて賛否両論があった。 李裕元(1814~1888)の文集である <林下筆記> にこのような文が出てくる。 「燕京の人々は犬肉を食べないだけでなく犬が死ねば土に埋めてくれる。 斗室沈象奎が燕京に行った時庚日になるとすぐに犬肉をゆでてあげるようにしたが、燕京の人々が大きく驚いて異常に感じては売らなかった。 これに対し器を祈ろうとしたがゆでたが燕京の人々はその器も全部出して捨てた。 私が燕京に行った時に聞くので、以前に暗行御史.李宗城は他人の家祭りに参加して狗醤を報告書食べないで帰ってきて言うことを、「お客さんに接待する食べ物でない」でした。 二つの球の規模がそれぞれ違ってする。
沈象奎(1766~1838)は正祖の時領議政まで歴任した老論派の巨頭であった。 たとえからだは北京にあったが極暑になるとすぐに朝鮮での習慣のように狗醤を食べようとした。 極暑に狗醤を食べる習慣は朝鮮末期に漢陽でも地方でも当然のことで見なされた。 沈象奎のような時代の柳得恭(1749~1807)はソウル風俗を書いた<京都雜志> で狗醤を食べて汗を出すと暑さをはね除けて虚汗気勢を補充できるといった。 さらに洪錫護(1781~1857)は <東国歳時記> で狗醤を「市場でもたくさんパンダ」とした。 正祖の即位を反対して洪麟漢(1722~1776)が整えた謀逆に参加して捕まった賎民出身刺客田興文の自白中には宮殿の外に狗家があったがそちらで狗醤を買って食べたといった。 このように18世紀以来狗醤は漢陽の外食業で非常に流行した料理だった。
これに反し狗醤食べる習慣を置いて不適当に思った人がすぐに英祖時の入れ墨であり慶尚道暗行御史で名をはせた李宗城(1692~1759)だ。 前でも見たように京畿道長短出身だった彼は狗醤を人が食べる料理でないと考えた。 朝鮮時代にも犬は愛玩犬として可愛気を受けた。 だが、夏の極暑の期間になれば主人にあるいは「犬白丁」に捕まって肉の塊になる場合も多かった。 だから李宗城のような士は苦手をしただろう。 前の「別乾坤」でも沈象奎のような人を置いて朝鮮の人が持つ「共通の性質」といった。 だが、ひょっとして李宗城のような両班がお客さんでくれば主婦は牛肉で狗醤を沸かすほかはなかった。 それならその調理法やはりひたすら犬肉を牛肉で代替だけしたことだったのだろうか?
1930年代補身湯専門店. 烹狗家あるいは狗醤湯家という名前が異彩を放つ。
1930年代当時京城帝大社会学部教授であった秋葉隆がガラス原版フィルムで撮影した写真.
1930年代当時京城帝大社会学部教授であった秋葉隆がガラス原版フィルムで撮影した写真.
実際、朝鮮時代犬肉調理法は主に蒸す方法だった。 <京都雜志> では「犬肉を葱の根元である総百科混ぜてゆっくり蒸す。 鶏肉や竹の子を入れれば味がより一層良い。 これを「狗醤」だと呼ぶ」とした。 ただし「ひょっとしてスープを煮て粉唐辛子をばらまいて白い米の飯を巻いて食べたりもする」ともしたので、18~19世紀の狗醤は二種類の調理法があったということがわかる。 一つは葱の根元を蒸し器の下に敷いて犬肉を上げて蒸した蒸し物(チム)だ。 この方法が主流であった。 他の一つはスープを煮る方法だ。 蒸し物(チム)を食べた次に株式を解決する方法だった。 今のソウル玉水洞に住んだ憑虛閣李氏(1759~1824)が書いた <閨閤叢書> (1809)でもこのような事情はあらわれる。 「蒸狗法」といって蒸す方法を先に紹介した後にスープを沸かす方法を書いた。 「ずっと肉は肉抑えがたいだけ手で破って包丁を入れずに、内蔵は切って直して茹でスープに味付けしてハム談を合わせてスープを煮るものの、小麦粉をたくさん解けばかける。」
狗醤と違いユッケジャン調理法は1800年代末に書かれたと思うようになる <閨壼要覽> で初めて発見される。 「肉を切って場を解いて水をたくさん注いで沸かすものの切って入れた肉点が煮込んで解けるように沸かす。 葉を切らなかった葱をそのまま入れて油をさして胡椒を入れる。」これは「別乾坤」で明らかにした大邱湯飯調理法とその基本は同じだ。 ただし胡椒の代わりに粉唐辛子を使ったのが違う。 「3斗紙器窯に肉をたくさん入れて熊煮込むようにふんわり煮込んでにじみでた水でスープを煮るのに粉唐辛子と牛脂をぐっしょりたくさん入れる。」ここでゴンの肉を手で適当に裂いてククス(麺)のようにして入れるといった。 赤身の肉扱う方法は <閨閤叢書> と全く一緒だ。 肉をゆでる時葱をたくさん入れる点、肉を手で裂く方法、そしてスープに粉唐辛子を入れる調味法などが狗醤とユッケジャンを繋いてくれるコードだ。
19世紀末はじめて犬肉の代わりに牛肉を主材料で使ったユッケジャンが大地主貴族の台所で誕生した。 ユッケジャンは誕生以後狗醤の名前だけ維持しただけ、その姿は完全に別にした。 「別乾坤」大邱湯飯記事の著者「車相瓚」は真冬の厳しい寒さのユッケジャン味に賛辞を惜しまなかった。 「汁を先に飲んだ非常に太い葱がふわりとふわりと浮かび上がって油がぽたぽた浮かび上がる高音スープにゴンの肉を手で適当に煮て入れてククスでもなくクッパでもない舌が火傷をする程熱くて海苔がすくすく浮び上がる真っ赤なスープに対して座ればまず唾がごくっと移っていくら真冬の厳しい寒さに凍った顔でも自ずから解けて全身が溶けてうずうずする。 とにかく大邱ユッケジャンは朝鮮人の特殊な欧米を合わせる粉唐辛子と狗醤をまねたのにその本来の特色がある。」
ユッケジャンの大衆化は20世紀に入ってきて可能だった。 以前に比べて牛を労働の道具であると同時に料理と考えることができる時代になったためだ。 20世紀初期に出版された料理の本でユッケジャンは欠かさず紹介された。 さらに1939年7月8日付東亜日報の「今晩にはこのようなおかずを」というコーナーでもユッケジャンが紹介されたほどだ。 それでもユッケジャンは家で作るよりは食堂で買って食べてこそ良い味だと考えた人が多かった。 家で少ない量を沸かせば食堂で食べる深い味が良く出ないためだ。 1930年代東京や大阪に進出した朝鮮食堂でもプルコギとともにユッケジャンを売った。 1950年代以後狗醤販売禁止が行政措置でいつも行われてユッケジャンは男たちが保身のために食べる料理で人気を呼んだ。 さらに料理研究者は鶏肉を利用して「ユッケジャン」という料理も作り出した。 これによって食堂ではユッケジャンを売りながらも「ユッケジャン」と書くことが生じた。
今日大邱人はユッケジャンよりはタロクッパをより好きだ。 日帝時代大邱ユッケジャンと朝鮮戦争以後作られたタロクッパは外見が似ているように見えても完全に違った料理だ。 狗醤作るように赤身の肉を手で裂いてこそユッケジャンだと呼ぶことができる。 ところで狗醤は近代以後に「未開」の代名詞になって朝鮮総督府からも良くない料理で扱われた。 結局1940年代以後になれば名前も「補身湯」で変わる身分になってしまう。 だが、ユッケジャンは誕生秘密を名前の中にそのまま大事に保管したまま、どんな虐待も受けないで今まで続く。 さらに不法の犬肉と合法の牛肉という近代的認識によってユッケジャンだけが公的領域で食べることができる料理と認定される。 狗醤の立場で見れば非常に苦々しいことが明らかだ。
http://biz.khan.co.kr/khan_art_view.html?artid=201104052056095&code=960100
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