[食品人文学]爪で上手に食べる手並み、食品人文学者ジュヨウンハの灰貝の話
2014/03/11
“灰貝です。本来日本岡山湾で大量養殖場があったがなくなって十数年前全南に有名な養殖場を設置して大々的に輸出されました。当時からその販路を知ろうと努めたが極秘に付したのでついに分からなかったが概略中国福建省と察したのが今回分かってみると厦門近所一帯でした。その地方では血蛤だと呼ぶのに一種の迷信で陰暦正月半月前後に一度食べれば風土病にかからないといって陰正初に送れば韓国産五百石ほどは問題なく売れます。”
1949年5月1日付<京郷新聞>にのせられた記事だ。<京郷新聞>では解放翌年である1949年に水産専門家を呼んで‘躍進韓国水産座談会’を開催した。
日帝強制占領期間に朝鮮総督府の支援を背景にした日本人水産業者などが韓半島の漁獲物を自国はもちろんで外国にまで輸出して大きい利益を残した。 ところで解放以後に日帝強制占領期間当時日本人たちの朝鮮海産物販路を知ることができなくて、専門家たちがインド太平洋水産会議に参加して市場動向を把握した後座談会を開催したのだ。 前の話をひとりは日帝強制占領期間から水産学をした鄭文基(鄭文基、1898~1995)だ。 彼は朝鮮総督府殖産局水産課の技手で勤めたことがあったがシンガポールで開かれたインド太平洋水産会議に行く道に上海と香港の水産市場を観察してきた。
赤い血を含んでいて血蛤である。
そちらで鄭文基は韓国産イワシ、イカ、ワカメ、灰貝などがすでに結構大きい市場を確保しているという事実を知った。 その中でも灰貝はかつて日帝強制占領期間に今の中国廈門で冬に大人気を集めるという事実も確認した。 それと共に中国人は灰貝を‘血蛤’と呼んだといった。 ‘血蛤’という漢字をハングルにそのまま移せば‘灰貝’だ。 灰貝は大きく真灰貝、新灰貝、赤貝に分かれる。
真灰貝は灰貝中本当に灰貝なので付けられた名前で祭壇に上げるほど高級に属する。 貝表面に毛がなくて肉はしこしこする。 新灰貝は真灰貝に比べて味が落ちて‘ロバマク’とも呼ばれる。 これに対し比べて赤貝は灰貝や新灰貝に比べて大きさが大きくてあたかも血がぞろぞろ流れるようでできた名前だ。 だがはっきり調べれば赤貝でも真灰貝でも新灰貝でも全部あたかも血を含んだように見える。 灰貝は干潟の中に埋められて呼吸するのでヘモグロビンをたくさん含有しているがこれがすぐに赤い血を含んでいるように見えるようにすることだ。 だから中国人が三の種類の灰貝をあわせて‘血蛤’と呼ぶのも妥当に見える。
だが、朝鮮人は灰貝を‘血蛤’だと呼ばなかった。 溝がある瓦屋根に似たといって瓦壟子とも呼ばれ、また魁陸あるいは魁蛤だと呼んだ。 国語学者は灰貝(꼬막)という言葉が本来‘コマク(고막)’だったと主張する。 1820年代柳僖が作った《物名攷》では“コマク:クェハプだ. あたかもナツメと夜のように小さい貝だ”とした。 これが灰貝になったようだ。
冬筏橋は灰貝取るアナクネの泥
本来灰貝は天然だった。 明国以後中国人が養殖する方法を知るようになったが、灰貝をはじめとする貝は掘って古くなれば簡単に変質するので養殖で育てることが少なかった。 近代に入って日本人が冷蔵流通技術を導入して灰貝をはじめとする貝は養殖で干潟で育ち始めたのだ。 当然彼らは韓半島の南海と西海の干潟に注目した。 特に筏橋の汝自灣干潟は灰貝を養殖するのに良いところだった。 鄭文基が“十数年前”といったのでおそらく1930年代と推定される。 この時から筏橋の前干潟では冬にさえなれば真灰貝掘ることでアナクネの手が溶けた。
ところで解放以後日本人が離れて漁場所有者も消えて販路も消えた。 自然に筏橋では養殖真灰貝でなく天然真灰貝が多くなった。 筏橋アナクネは真冬農閑期に天然真灰貝を掘って収入も適当に見た。 1960年代初期光州とソウルで筏橋灰貝を買いに来る人々が増えて結局1968年に再び養殖場を設置した。
4月と10月に汝自灣中にあるジョンペ養殖場でチョンペを買って、3年の間育てた後に採取して市場に出す方式だった。 1978年ジョンペ価格は1kg当り180ウォン. これを3年の間育てれば灰貝価格は1kg当り270ウォンに走る。 筏橋干潟が時間を加えてそんなに利益を残すようにした。 だから夫人は寒い冬、身を切る潮風をむかえて板で作ったボルベに乗って真灰貝を掘った。 1977年に台湾に真灰貝を輸出する道が開かれて干潟はより一層豊かだった。 真灰貝の味はよく焼いたのを味付けしないで爪で食べなければならない。 食品のシンボルは学習を通じて習う。 それで爪で灰貝を上手に食べることができる手並みは筏橋の人にだけ与えられた特権だ。
* 汝自灣は1930年代から灰貝に名が知られた。
* 筏橋アナクネは真冬冷たい干潟で灰貝を掘って子供を勉強させた。 朝鮮時代灰貝は瓦屋根に似て瓦壟子と呼ばれた。
文/チュ・ヨンハ教授
韓国の代表的な食品人文学者で、韓国学中央研究員韓国学大学院民俗学専攻教授だ。 《料理戦争文化戦争》 《チャポンチャンポンちゃんぽん》 《食卓上の韓国史》などの著書がある。
http://mediask.co.kr/1548
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