ジュヨウンハ|韓国学中央研究員教授
入力:2011.07.26 21:44:21 修正:2011.07.29 17:45:58
1960年代に入り立ち飲み屋はソウルの中心街や郊外を問わず路地ごとに席を占めるほど広く流行した。
1969年1月22日ソウルのある立ち飲み屋風景. |京郷新聞資料写真
“5・16革命直後、目に浮かぶように霜が降りたことは私娼以外にも高級料亭がある。 しかし二年後の今、革命的な清新な気風は探してみるのが大変で革命前の‘場’や‘カン’が一時‘超大匏’を売ったがまた再び何か‘木の家’等以前名前で変えて夜遅くまで酒池肉林の不夜城を成し遂げている。 夜だけなれば歓楽街は酒内漂う若者たちがふらふらして一時営業にならなくて飢えて死ぬという‘バー’では高価格な‘ビール’が床にぐうだらで通行禁止時間が近づけば男女がカップルで酒に酔った歩みの種で‘ホテル’と‘旅館’を探す。 都市の裏路地は再び革命以前に戻った。 ただし高級料亭に現れる酒飲みの職業は昔も今もほとんど違わないがその顔が大きく変わったといおうか? <敎> ”
この文は東亜日報1963年5月4日付の1面にのせられた。 記者は5・16軍事クーデターの中心勢力が前に出した革命公約中で第3項を言及して果たしてそれが2年後にどれくらい実践されたかを取材した。
革命公約はこのようだ。 “3.この国社会のすべての腐敗と旧悪を一掃して、退廃した国民道義と民族の精気を再び正すために清新な気風を振興させる。”この清新な気風の振興のためにクーデター勢力はダンスホール・バー・高級料亭・売春街に対して閉鎖令をおろした。 そうするとすぐに“一人当り1万5千換から2万換にただスカート幅に巻き込まれて持分の臭い漂った高級料亭が、一日で一皿百換でピンデトック2枚を引き上げる‘立ち飲み屋’に変わった。”(東亜日報1963年5月4日付)
ソウル市警では約5000個の各種接客営業所を相手に1961年10月28日から11月9日まで‘社会風紀の浄化’のための取り締まりを行った。 取り締まり項目には料理店がお客を呼び寄せる目的で‘立ち飲み屋’を装った看板でお客さんを欺瞞する行為も含まれていた。 実際にソウル市内に337点もなった料理店が門を閉めたり名前を変えた。 だが、このような評価もあった。 “有名無名の甲種たちがその名前からすっかり痕跡をなくした代わりに、‘大衆食事’とか‘立ち飲み屋’とかいうことで営業種目を置き換えたことまでは革命的なので非常に良い。 しかし裏面を覗いて見れば‘外華’を‘表貧’で偽装、中では相変らず料亭業を継続する所がかなり多いということが消息筋の暴露する悪口だ。”(東亜日報1961年11月28日付)
なぜ高級料亭が看板を立ち飲み屋に変えたのかは十分に察して残る。 料亭や料理屋を腐敗の温床と感じたのに比べて立ち飲み屋は相変らず庶民の安息所だったためだ。 このような事情で1960年代初期立ち飲み屋はソウルの中心街や郊外を問わず路地ごとに席を占めるほど一大流行をした。
その時詩人金容浩(1912~1973)は‘新思潮’(第2冊第3号、1963年3月)で最初から‘立ち飲み屋で’という題名で文を発表した。 “夕陽の頃ならどういうことであろうか。 寂しくなってくる。 必ず人生をどこに失ってくるようだ。 スプーンもできない名前を背に負って常連に訪ねてくれば顔付き似ている顔なじみである人々。スケトウダラの蒸し物を肴にしておいてどんぶりまっすぐ引き寄せるので腸がほかほかしてくる。 ドラム缶の周り全て円形に立ったがもちろんマスゲームの選手になれない。”
当時立ち飲み屋の代表的な姿の中の一つはドラム缶だった。 解放以後米軍の駐留から生じたドラム缶は立ち飲み屋で食卓に使われた。 ドラム缶をたてて中で煉炭を入れて作ったこの食卓は立ち飲み屋の姿を居酒屋で作った。 椅子を放さないまま食卓の中で穴で広まり始める煉炭火に各種おつまみを焼いて食べる立ち飲み屋は今のソウル明洞・光化門・清渓川・楽園洞のような繁華街はもちろん、東大門の外と新村一帯、そして麻浦孔徳洞・滄川洞にも席を占めた。 それで“ソウルの夜は立ち飲み屋から始まるといおうか?”(東亜日報1962年12月13日付)といったほどだ。 “路地ごとにずらりと並んだ立ち飲み屋の中には宵の口から押し寄せたお客さんのタバコの煙、酒の臭い、おつまみを求めるどなり声で息が詰まる状況だ。 大匏一杯に5ウォン、おつまみが10ウォンで20ウォン程度、ほとんどの‘サラリーマン’に見えるお客さんはただ飲むために飲んでいるように続けざまに大きい酒杯を引き寄せる。”
それなら立ち飲み屋の‘大匏’は何の意味であろうか? たいてい‘大匏’の漢字を‘大匏’と使って大きいひさごにマッコリを入れて販売する所という意でその名前ができたと知られている。 だが、中国故事に出てくる‘天下大匏’と関連があるかも知れない。 商国の君主である紂王が‘酒池肉林’に陥って国を滅びるようにしたと考えた後代の天子は酒飲むことを厳格に規定で治めた。 儒学を国家経営理念で前に出した漢代の律令には“三人以上が理由なしで一堂に集まって酒を飲めば、一金4両の罰金を出さなければならない”とした。 いわゆる‘群飲酒’を許諾しなかった。 ただし皇帝が下した賜給がある時だけ群飲酒ができた。 これを‘天下大匏’と呼んだ。 ここで‘大匏’という話は天下の臣下と国民らが喜ばしい祭りで一緒に飲む酒を呼ぶ言葉だった。 おそらく古典に精通した誰かが1940年代に居酒屋で群れをなして酒飲む姿を置いて‘立ち飲み屋’だと呼んだことではないだろうか? なぜなら植民地時期新聞・雑誌で立ち飲み屋に対する資料をまだ発見できなかったためだ。
これとは違い植民地時期資料で居酒屋に関する話はあまりにも多い。 その名前でわかるように居酒屋は立って飲む酒場だ。 十分知っている朝鮮後期の金弘道(1745~?)や申潤福(1758~?)が描いた居酒屋はそれこそ座る席もない居酒屋だった。 1930年4月16日付中外日報でも居酒屋を描写した挿絵が出てくる。 中外日報では1930年4月12日から‘街頭風景’という名前で左派文学である李甲基(1908~?)が描いた挿絵と文を連載した。 その5番目主題がすぐに‘居酒屋豊作’だった。 挿絵には距離一方にかまどを備えて木板に各種おつまみをのせた夫人が出てくる。 その前には男五人が立った。 三は酒を飲んでいて二は襟首を捕まえて戦いを行う。
事実居酒屋は朝鮮的な情操を代表した。 ここに民衆的だった。 そうするうちに1920年代京城の鍾路筒には朝鮮人酒飲みのための居酒屋が路地ごとに入った。 すでに1920年代初期から慣れた植民地経験は京城の朝鮮人に酒を飲むようにした。 特に第1次世界大戦後に吹き荒れた大恐慌は朝鮮料理屋と清料理屋を不景気のうず巻きの中に追い詰めた。 そうするとすぐに“料理家行けない紳士は居酒屋だけで某舌聞いて”(時代日報1924年12月23日付)大盛況を成し遂げた。 すると李甲基が描写した路上居酒屋と違い紳士だけ入ってくるハニャン楼という居酒屋も生じた。 “一昨年まではそんな話に属するお客さんは見ることが背負って労働者似た人がマンテョニ昨年からは紳士両班らとハルルンジスーツという俗語に属するように整えたお客さんが大半以上だったのにこの頃きてはことがパッチャクソンハヤ全部がスーツを着た両班で版をけられるだろうは心耳だがその財布で百余ウォンというお金がソドジは形以外だ”といった。
1920年代中盤になれば居酒屋はこれ以上立って飲む酒場だけを示さなかった。 広いホールがあってテーブルもあった。 片方で酒母が鑄鐵火鉢に肉おつまみを焼いた。(李箕永<人間修業> 、朝鮮中央日報1936年3月30日)牛肉や豚肉でカルビを焼いても干し明太を焼くこともした。 スルグクと呼ばれる各種湯や汁もあった。 当然豚足・片肉・豆腐キムチ・チャンジなども用意された。 衛生を前に出して木製箸が提供されることもした。 酒飲む人は自分の手でおつまみを選んで食べた。 朝鮮後期以来そうだったように本来居酒屋では酒代だけ受けておつまみ価格は受けなかった。 ところで酒よりおつまみをさらに多く食べるお客さんにより争いが頻繁に起こった。 さらに物価が上がって小酒代が5銭から7銭に上がった。(東亜日報1924年3月9日付)部屋を別に用意した居酒屋では‘雇傭女’と呼ばれる女性がお客さんを接待した。 内外酒店と同じように一部居酒屋では売春が行われた。 結局朝鮮総督府では1934年7月から居酒屋もカフェ取締規則で管理した。 酒代と共におつまみ値も受けるようにしたし、さらに部屋に座って酒を飲めないように禁止させた。 このような渦中に道路で小酒を売った古くなった居酒屋は無許可に指名され注目を集めて郊外に追い出された。
解放以後酒母1人が運営する居酒屋は立ち飲み屋になったし、雇傭女を置いた居酒屋は‘ニナノ家’になった。 それでも小酒でマッコリを売る立ち飲み屋ではおつまみをただで与えることもした。 だが、1960年代以後米で作ったマッコリが消えてマッコリ販売も地域別で境界が決まってこれ以上立ち飲み屋で酒代だけで持ちこたえにくかった。 それで酒二杯で10ウォン、おつまみ局一杯で五ウォンを受けた。(東亜日報1962年12月13日)サラリーマンが通う会社が密集していた1960年代初期明洞には100余ヶ所越える立ち飲み屋が路地を掌握していた。 ソウルの郊外はもちろんで地方の中小都市住宅街入口には疲れてだるい一日日課を終えた仮装のための立ち飲み屋が入った。 さらに大学街近所にも間違いなく立ち飲み屋が席を占めて世の中に向かって抱いた不満を注ぎ込むようにした。
だが、1960年代中盤になれば立ち飲み屋の主流はマッコリでなく希薄式焼酎に変わっていった。 特に急にソウルに移住をした農村出身が増加して彼らの生計を解決した労働現場近所には豚カルビや豚肉、さらに豚皮を焼酎のおつまみに出す立ち飲み屋が席を占めた。 たとえ大きいどんぶりに出てくるマッコリによって王一杯飲み屋の名前も1970年代まで続いたが、言葉が超大匏であって日が進むにつれ立ち飲み屋でマッコリを飲む酒飲みは減った。 結局1970年代末からソウルの中心街にあった立ち飲み屋は都市開発と食欲の変化で門を閉めたり商号を変えてホンオフェ・豚足・トゥルチギ・チョンゴルなどを専門的に販売する食堂になった。 ソウルの春を倒した新軍部は5・16クーデターをまねてあらゆる浄化運動を広げたが、もう一度料亭が立ち飲み屋に看板を変える事は起きなかった。 すでに料亭がルームサロンにその姿を変えていたためだ。
http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?artid=201107262144215&code=960100&s_code=ac094
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