ジュヨウンハ|韓国学中央研究員教授
入力:2011.08.01 21:20:54 修正:2011.08.04 21:23:17
・1920年代路上屋台人気メニュー
・解放後にはピンデトック家流行「最高のおつまみに」
「今日も朝鮮旅行代理店のH君が訪ねてきた。 彼が尋ねなくても私が話さなくても何かの約束でもしたようにこの時間になればカバンを持って私のなじみの店であるピンデトック家に訪ねて行く。 乙支路入口からいくらも離れなかった小さいピンデトック家までククソンも順序行ったりする。 ヨニ酒場のように若い女性がいるからであることではないものの香ばしいピンデトックに薬酒の味は格別に気脈と魅力が潜在していることを発見するためだ。 解放後急速に発展して普及したことの一つは誰でもピンデトックではないという人はない。 とにかくピンデトックがなければ私が滅びて私がいなければピンデトックが滅びるようだ。 数ある中には貧者餅あるいは賓待餅.咸興式チヂミ平壌式チヂミ等で顧客に通じるようだ。 とにかくこういうすべての名詞が教えることでは緑豆チヂミに帰一なることだ。」
この文は解放直後7大新聞の一つで知られている自由新聞1948年12月26日付にのせられた随筆「ピンデトック」の一部だ。 筆者は朝鮮新聞学院で仕事をしていたリュ・ヨウンリュンだ。 彼はピンデトックのいろいろ名のあるのを置いて「このような不統一な物質名詞の規定は我が国語学系権威に任せるしかなくて私が分かるところ違う」といった。 リュ・ヨウンリュンが解答を後回しにしておいたピンデトックの語源に対しては植民地時期と解放直後国語学者で活動した方鍾鉉(1905~1952)の文「ピンジャトック」で探すことができる。 事実方鍾鉉のこの文が彼が亡くなった後に論文集に載っていて、いつ書かれたか分からない。 ただし彼は15~18世紀の文献に見えるピンデトックの表現である「ピンジャ」が「餅食者」の当時中国語発音である「ピンジョ」から来たものだと見た。
実際に今の慶尚北道英陽郡石保面トゥドゥル村に住んだ張桂香(1598~1680)は彼女の本 <飲食知味方> で「ピンジャ」と書いた。 「緑豆をどこのアップ時グッピー下でかなり取り替えて油浸るがアニケ注いで沸かして少なく浮かび上がっておいてグッピー下は小豆蜜にやめて牛入れてその上に緑豆粉で覆って光がユズ光一緒に煮てこそ良いのだ」とした。 すなわち緑豆を主材料にして中に小豆と蜜を入れた料理がまさに「ピンジャ」である。 一種の緑豆餅であるわけだ。
張桂香の年齢46才になる1643年(仁祖21)陰暦9月に漢陽に来た清国使節を王室で出迎えた記録である <迎接都監雜物色儀軌> には緑豆餅という料理が出てくる。 張桂香の夫李時明(1580~1674)がすでに以前に過去試験を準備するために漢陽に出入りしたことから推察して張桂香も十分この料理を知っていた可能性が高い。 単にその名前を緑豆餅といわないで「ピンジャ」と呼んだし、それを作る方法を「ピンジャ法」と張桂香が本に書き留めた可能性が高い。
それから約79年後に生まれて主に今のソウルの玉水洞に住んでいた憑虛閣李氏(1759~1824)は「貧者」と「ピンジャ」をあまねく使った。 「緑豆をかなり取り替えて直ちにフライパンの油がからだ浸る程に注いで緑豆汁をスル(匙)に浮かび上がっておいてその上に夜所蜜混ぜ合わせた牛を置いて緑豆汁を上に覆ってスルで簾政して押して牛花煎の形のように作って上に松の実を打ち込んでナツメを赦免で打ち込まれるが出るのだ。」張桂香と憑虛閣李氏は決して一面識もなかった。 それにもかかわらず、漢陽と栄養に住んだ二夫人の間にこのように類似の方式のピンデトック作る方法を書き留めたのでこれは宮中の影響が大きかったと見るということが当然だ。 特に二夫人である全部ピンジャとピンジャトックを作る方法を書き留めた部分に配置させた。 だから方鍾鉉が主張した「ビンジョ」が朝鮮でビンジャあるいはビンジャになった可能性はより一層高く見える。
国語学者李基文は方鍾鉉の主張を受け入れて次の通り補充した。 「近代語の文献に書かれた魚形は「ピンジャ」であった。 <訳語有害> (上51)と <方言流石> (2.30)で見ることができる。 この二つの本に表記された中国語「餅食者」の発音は「ビンジョ」「ビンジョ」であった。 <課程日錄> (坤24)にも「餅食者ピンジャ」が見える。 ここで二番目音節の差に注目する必要がある。 また <廣才物譜> (巻2,料理)に「餅食者」빙、 <韓英字典> (1897)に「빈」、光文会の <辞典> 筆写本(金敏洙編<周時経全書> 巻5、662面)に「빈」が見える。 (中略) 「ピンジャ」のアイデンティティが曖昧になってそれを補強するために「餅」を付けたと推定される。」(李基文「ピンデトックとビョンサン餃子」 <新しい国語生活> 第17冊第2号、2007)
李用基は1924年に出した <朝鮮無双新式料理製法> で ピンデトック調理法を言及して「この餅こと傷が貧者餅なのに貧しい者が食べるもので貧者餅というが国の祭享にも使って押したことでも煎油魚に小麦粉の代わりに多く使うのだ」と書いた。 すなわちピンデトックは貧しい人々が食べる餅でもあるが、朝鮮時代宮中で各種宴会に使った小麦粉が全くない時、緑豆粉を使って作った料理だという主張だ。 実際に李用基が提示したピンデトックの中にはネギ・セリはもちろんで白菜の白いあらすじ湯がいたこと、さらに牛肉や鶏肉や豚肉を細かく切って味付けして炒めておいてここに標高・ソクが・首がなどのキノコと硫化まま・ナマコ・アワビまでも入る。 実にこれぐらいの材料が入ったピンデトックは決して貧者餅でなく、賓待餅になることが当然だ。
だが、李用基は「貧しい人が食べることはオッチ色々なものをヌウル数が一水です緑豆でだけ下野セリやネギをソロヌコ作ることだと」と付け加えた。 このような調理法は1921年版方信榮(1890~1977)の <朝鮮料理製法> でもそのまま出てくる。 奏楽や花煎のようにピンデトックは油に支持は料理だ。 朝鮮末期宮中では油でゴマ油を使ったが、貧しい国民らはこの油を救うのが普通難しくなかった。 19世紀末以後中国人がソウルに進出して豚油が料理を炒めるのにしばしば使われた。 たとえにおいがして良くなかったけれど、緑豆生地を豚油に地震ピンデトックはそれこそ肉に肩を並べる料理だった。
結局1920年代になればピンデトックは路上屋台で人気があるメニューの一つになった。 貧しい未亡人は暮らすためにソウル、鍾路の清進洞路地片隅に母酒家を開いて夏には小麦粉麺、冬にはピンデトックをおつまみに出した。(東亜日報1926年7月3日)このように小さい家でも求められない貧しい夫人は最初から路上でピンデトックを焼いて売ることもした。 酌婦と浮ついた気持ちになって逃げた夫に代わって「人の取り引きが頻繁な街頭でピンデトックを”(東亜日報1936年2月29日) 14年の間焼いて夫の実家の家族と子供を立派に育てた元山のチョ氏夫人は模範婦女で称賛を受けた。 それで親日文学評論家で知らされた金文輯(1907~?)はこのような模範婦女の献身をなぞえあえて「ピンデトック思想」(東亜日報1938年3月12日)という礼賛までならべた。
「日増しに繁盛する貧者餅家」という題名で京郷新聞1947年6月28日付にのせられた記事の挿絵.
1946年創刊された京郷新聞は翌年の1947年に解放以後変化した街の姿を「街の話題」という名前で連載した。 その中の五回目の文は「日増しに繁盛する貧者餅家」だった。 「要旨音にきて街や路地は話す必要がなく日が進むにつれ増える貧者餅家は何をいうということなのか? そしてこの多くの貧者餅家がお客さんでさく烈する状況だ。 お客さんの姿を見るので大部分が「貧者」でなくマルスクするように整えたいわゆる文化人紳士だ。 解放即後来たチュンアンが料理店、カフェバーで変わる感があると日が経てばますます宮殿のようなこの家は閑散としていることになって5・6月のパリ誘うように集まる所が新しく出てきた貧者餅家に変わった。 そのように見れば解放以後本当に南朝鮮の大衆生活は困窮に陥ったということか? したという紳士が「君およそ2百ウォンあるか?」と宵の口の時ならば探して入るソウルの貧者餅家は数多い南朝鮮の混乱矛盾困窮の一つ縮図であろうか?」(京郷新聞1947年6月28日)
前で紹介した1947年自由新聞でリュ・ヨンリュンも解放以後最も発展した料理がピンデトックといったのではないか。
なぜこのように解放直後にソウルでピンデトック家が流行したのだろうか。 事実ピンデトック家はそれほど大きい資本や調理器術が要求されない飲食店だった。 祖国を離れた人々、北朝鮮を脱出した人々、そして混乱の中に財産をなくした人々がお互い区別することがなく路上で屋台を行って販売した料理がすぐにピンデトックだった。 特に彼らが駆せ参じた清渓川周辺の板張りの粗末な家には冬だけでなく夏にもピンデトックを売る夫人が長蛇の列が出来た。 さらに朝鮮総督府が残しておいた物資とともに米軍によって解けた料理を利用して蒸し餅・ピンデトック・コムタン・雪濃湯を販売する屋台が清渓川にわいわい下であった。(京郷新聞1948年10月5日)朝鮮戦争中には釜山の大庁洞市場をはじめとして市場の道路の「ハコバン」でピンデトック・カルグクス・濁酒・焼酎が売れた。 ピンデトックが庶民の料理になることができた理由は緑豆値が米に比べて飛び切り安かったためだ。 それで少なくとも1960年代中盤までしても居酒屋と一杯飲み屋で酒党たちに最も人気がある料理がピンデトックだった。 ピンデトックがどれくらい人気を集めたら‘モダンショー’をした酒場キャバレーでもマッコリとともにピンデトックを提供したほどであった。
だが、1967年から緑豆値が毎年急速に上がり始めた。 緑豆がしばらく出てくる1967年1月に緑豆一袋値が6500ウォンに取り引きされて、同じ年12月には8500ウォンに上がった。 これら全て需要に比べて供給が足りなくておきたことだ。
特に農地を改良して稲作中心に農政政策が変わって緑豆の生産量は以前と違い日が進むにつれ減った。 ここに1960年代後半になって政府の食糧政策により料理が豊かになるとピンデトックの人気も急速に落ちた。 結局21世紀を生きていく今日韓国人は「お金なければ家に行ってピンデトックでも焼くだろう」といった1943年歌手ハンボクナムの心情を分からない。 緑豆将軍も泣いて行くほど国内産緑豆値も想像しにくいほど高くなったし、その中に入る材料も国内産検索が難しくなった。 だからもうこれ以上貧しい人の餅だと呼ぶことができなくなった。 これら全て米が残っていく今日、大韓民国だけで生じることがあることだ。
http://biz.khan.co.kr/khan_art_view.html?artid=201108012120545&code=960100
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