2016年12月10日土曜日

[ジュヨウンハの食べ物100年](17)生鰒膾

ジュヨウンハ韓国学中央研究員教授
入力:2011.06.28 21:42:27 修正:2011.07.04 10:31:11

朝鮮料理屋は1920~30年代非常に繁盛した。 政治・経済的にかなり難しかった1940年代にもその事情は変わることがなかった。 解放以後民生が最悪の状態だったが、高級料亭はかえって盛業をした。 結局1948年10月29日に國會議員金相敦が‘高級料亭封鎖’を法令で提案するところまで達した。 朝鮮戦争が韓半島を奈落に落としていた1951年12月1日にも政府では衛生監察団まで組織して高級料亭の食物を簡素化させて、料理価格も統制下であった。 当時資料を通じて料亭で販売された料理の種類を推定することができる。 その中から‘韓国料理’に分類された料理と価格を調べよう。 “神仙炉1万1千ウォン、メウンタン1万1千ウォン、生福8千ウォン、タクプクム(鶏肉炒め)8千ウォン、蟹活気7千ウォン、鯛膾8千ウォン、紅酢(ホンチョ)1千ウォン、略式8千ウォン、センバム8千ウォン、異彩1万1千ウォン、シクヘ6千ウォン、果実6千ウォン、乾布6千ウォン、海老天丼く8千ウォン、生鮮錢魚8千ウォン、卵アルサム8千ウォン、チョングィラリュ6千ウォン.”(東亜日報1951年12月2日付)

料理の名前だけ見ればこのごろ名前で移すことも難しいことが多い。 紅酢・異彩・海老天丼・チョングィラリュなどはその実体を分かり難い。 ただし生福はその漢字では意が明らかでないけれど、鰒で作った料理である可能性が多い。 なぜなら生鰒は漢字で‘生鰒’と書くためだ。

時々生鰒を毒ふぐで誤解するけれども、生鰒は煮たり丸まっていない鰒を示す言葉だ。 ただしその漢字を間違って書いて‘生福’と使ったと見られる。 その価格が鶏肉炒めや鯛膾のような8千ウォンとか生鰒であることに間違いなく見える。 特に12月1日におりた政府措置とか鰒の値が高い季節に該当する価格といえる。

生鰒だと書いた料理の名前の実体は生鰒膾である可能性が多い。 生鰒膾調理法は李用基が1924年に出した料理書の <朝鮮無双新式料理製法> に出てくる。 “生鰒をジョガブ(貝殻)から離して征夷洗って盗んで粉太く切って皿に入れて松の実の粉をばらまいて醋醬で食べれば味が甲等で行くが、なにとぞ太く切ってはならない。 生鰒の中に青い苦楽がインナニ丸ごと粉切って生の鰒のそばに置いて食べればおいしいのだ。”ところでこの本以前の料理書では生鰒膾に関する記録がまだ出てこなかった。

実際には、朝鮮後期宮中飲食の種類を記録した進饌・進宴關聯儀軌で漏れずに出る料理が全鰒炒だ。 たとえば朝鮮王朝第23代王・純祖29年(1829)陰暦2月12日にあった宮中宴会過程を記録した <進饌儀軌> には全鰒炒五種類が整えられたと記録されている。


皇城新聞1901年6月19日付にのせられた全鰒缶詰め広告

それなら全鰒炒はどのように作る料理であったか? 洪善杓が執筆したと思われる1938年1月4日付朝鮮日報では全鰒炒を水剌床に上がる饌需に挙げた。 “鰒を水に浸した後カジャンサリをかえって出してヤルゲ薄く切ってゆっくりムルドロクゆでては爪痕濃い醤油を打ってビーチ カマケもう一度消すだろうです。 その次には牛肉をきれいにドジャーで味付けして君鼻葱ニンニクをきれいにドジャーで少し君鼻砂糖を打って楷書間を終えます。”真夏に採取した鰒を干しておいて冬に水に浸して全鰒炒を作ったということがわかる。

このごろとは違い朝鮮時代鰒は簡単に手に入れることができた食材料であった。 徐有榘(1764~1845)は <蘭湖漁牧志> で“江原道と古城などの地で出る奴は皮が小さくて肉が干からびて、蔚山・東莱・強震・済州などの地で出る奴は皮も大きくて肉が厚い”と書いた。 たとえ大きさが小さかったが、平安道新南浦近海や咸鏡道元山正面の海でも採取された程に韓半島の三面海辺は鰒の産地であった。

これを生鰒といったとすれば、蒸したものは熟鰒、乾したものはは乾鰒・ミョンポ・懐抱だと呼んだ。 丁若銓(1758~1816)は <玆山魚譜> で鰒は乾かして捕虜作ることが最も良いと見た。

このように乾燥鰒は四季通じて流通する長所があった。 それで慶尚北道常駐に住む人が19世紀末に書いたと思うようになる <是議全書·飮食方文>では全鰒を利用した料理がたくさん出る。 魚菜には白葱とセリ、そして魚と共に全鰒と海鼠が材料で使われた。

全鰒が主材料である料理では全鰒粥・全鰒安・全鰒茶食などがある。 その中で全鰒粥を作る方法を調べよう。 “良い大きい鰒をゆでるものの初めての茹で水は捨ててしまいファンユク(牛肉)とナマコ・タコ・紅蛤を入れて返品するように孤児取り出して全鰒を薄く切っても筒を十字に切って細かくオイシャーとネギとニンニクみじん切り胡椒・油・ゴマ塩・蜜入れて人生は水に煮つめてこそ良いことでシレイ(注:醤油の方言)(醤油)を打てば味のようなことで横になれないコ解いた後に松の実の粉をたくさん混ぜて角高器に入れた右に松の実の粉をモウモウ色吏とファンユクはすくい出してタコ ナマコは切って入れて紅蛤は村の時みな錆びるだろう。”

これで<是議全書>の全鰒粥がすぐに全鰒炒であることを確認する。 東亜日報1934年9月5日付では全鰒を‘점복’と書いた。 “生量ある天気食欲助ける秋料理淡くておいしい‘점복’料理製法”という記事がまさにそれだ。 この記事では점복煎骨・점복チャンアチとともに점복チム(注:蒸し物)調理法を紹介した。 別名‘점복炒’と呼ぶといって“これが多分점복料理に一番最初の席を占める料理だ”と書いた。

朝鮮後期には生鰒より乾燥鰒を主材料で使った。 当然生鰒は流通過程で安全を担保しにくかったためだ。 そういう事情は1900年代になっても同じだった。

皇城新聞1901年6月19日付に全鰒が缶詰に入れられた広告が出てくる。 今のソウル鍾路区光化門南側にあった亀屋商廛という店で出した広告で、ワイン・珈琲糖(角砂糖の入ったコーヒー)・牛乳・蜜柑酒・木果・ビールとともに全鰒が出てくる。 この広告は以後に引き続き皇城新聞に登場した。 それだけ不思議な製品であったし結構売れたようだ。

この缶詰全鰒はおそらく日本から輸入されたと見られる。 知ってのとおり缶詰は1810年英国のピーター・デュランドが金属製容器に食品を入れる方式を開発してから始まった。 だが、この缶詰め製品はその包装値が非常に高かったためにヨーロッパ人が長期間旅行をする場合にだけ利用された。

日本での本格的な缶詰め生産は1877年北海道の工場から始まった。 だが、内需用よりは輸出用で主に使われた。 1923年関東大地震の時アメリカから提供された支援物資のうち食品が缶詰めに含まれてきた。 この時から日本で缶詰めは食品を入れる容器で広く使われた。 その事情は植民地朝鮮でも同じだった。 結局1920年代中盤以後に韓半島の海辺で捕えられた鰒はゆでて乾燥させた後缶詰めに入れて日本に輸出された。

朝鮮時代王室で使った鰒は主に済州島で上がってきた。 16~17世紀済州島には男潜水夫として専門的に全鰒を採取する鮑作人が存在した。 18世紀以後、海草を主に採取した海女(ジャムニョ)がこの役割も引き受けた。 それで全鰒すれば海女を考えるほかはなくなった。

1930年代全鰒の価格は他のどんな採取魚物に比べて高かった。 済州島はもちろんで全国の海辺に済州島出身海女が進出した。 一種の季節制労働のための移動が成り立ったわけだ。 特に済州海女の陸地進出は製氷工場が主な港に架設されてより一層促進された。

1930年代初期製氷工場はソウル4ヶ所、釜山2ヶ所をはじめとして咸興・栄進・浦項・楊浦・馬山・統営・麗水・巨文島・羅老島・木浦・済州島・群山・仁川・大邱・大田などの地に1ヶ所があった。

外需用缶詰全鰒と共に冷凍全鰒が1920年代以後浦項を中心に内需用で流通した。 それで済州海女の慶尚北道東海岸進出が日が進むにつれ増えた。

以前に比べて簡単に生鰒を購入することができるようになって、鰒を長く生かす方法が家庭常識まで紹介された。

“점복だとたくさんできたが一度にみな召し上がることはできなくて放っとこうとすれば傷つく心配があったら炭を점복ごとに肉に付けておいてください。 するとこの週は行くそうです。”(東亜日報1934年9月7日付)また、生産量が増えるとすぐに鰒は色々な料理に入る副材料にも使われた。 神仙炉・白菜キムチ・乾燥おつまみはもちろんで、ククス混ぜ合わせにまで副材料で全鰒が入った。 それこそ1930年代中盤は生鰒の全盛時代だったといっても過言ではない。

だが、大量採取は鰒の種を絶やすことを発生させた。 小さいのと大きいのと鰒が見えればさっさと採取したためだ。 特に慶尚北道迎日湾近所で日本人が運営した缶詰全鰒工場では海女たちが捕らえた全鰒を缶詰に加工して中国、満州に輸出した。 結局1932年5月、慶尚北道では‘チェボク채복禁止’を法で決める状況に達した。 “従来とともにむやみに捉えるならば間もなく氏族が滅ぼすことになるだろうという商売と当局者の心配を受ける海中の鰒が法令まで保護を着ることになったという。 それを取って食べて生きた済州島の海女もいくら努めた大刀入ってこれないことになって慶北道では遠からず道令を発表して今後2ヶ月の間は誰も取って食べられないように禁止するだろうという。”(東亜日報1932年5月6日)

本来日帝時代全鰒採取は免許制で成り立った。 だが、地方の道廳では免許を乱発したし、鰒の種が韓半島の海辺で枯れていった。 解放以後その事情はより一層深刻化した。 結局豊富だった鰒はこれ以上一般人の食卓に上がりにくい食材料になった。 それでも1940~50年代高級料亭で生鰒膾が時々提供されたが、1960年代になるとすぐにそれも消えた。 1980年代までも鰒は共同漁場や村漁場に稚貝を散布してそれが育てば海女や潜水夫が採取する方式で初歩的養殖をした。 当然その生産量は多くなかった。

水産学者などの努力でやっと2000年代になって海上縁方式で養殖をしながら鰒生産量は急激に増加した。 だが、生鰒膾の調理法を分かる人はまれになったし、結局日本式生鰒刺身が時々刺身で出るだけだ。

http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?artid=201106282142275&code=960100&s_code=ac094

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