ジュヨウンハ | 韓国学中央研究員教授
入力 : 2011.06.14 21:09:51 修正 : 2011.06.15 16:03:12
・中国の唐麵·日本の醤油·韓国の味
・三国合作で和えた祝宴常連料理
1923年 10月28日付け東亜日報 3面には ‘私たちの手で製造する在来支那製唐麵·粉湯·胡麺’に対する広告が載せられた。 この広告を出した会社は京義線沙里院驛前にあった廣興工廠製麺部であった。 代理店で平壌にある三正精米所を個別に表記しておいたことから見て、廣興工廠は生産工場であることと見える。 この広告はその後 10月28日、11月5日、そして翌年の 1924年 4月24日と 5月9日にも同じ新聞に載せられた。 ところで 1939年 5月23日付け毎日新報の沙里院特集面でこの廣興工廠の社長が楊在河という人物であることを明らかにした。 その記事によれば、唐麵製造の元祖である廣興工廠の社長楊在河が沙里院商業学校敷地に 1万坪を喜捨したと言う。 それとともに楊在河は“青年時代に満洲を漫遊して帰って来て何や私たちの手で作る事ができないことがないという固い決心の下に現在廣興工廠という唐麵工場を 20余年の前に設立して従業員が 120人に年売上高が 23万ウォンに達する”と言った。 これに推し量って楊在河は 1910年代末沙里院に唐麵工場を建てたことに推定される。
唐麵(注:春雨)はその名前だけ見ても中国が原産地である料理である。 それでも唐の時の料理という意味ではない。 満州族ではない漢族の料理と言うのは意味で胡ではなく唐が付いた。 しかし韓国人の立場でそれが唐麵であって、中国人の立場では決して唐麵ではない。 今日も中国ではこの唐麵を粉条(フェンティアオ)あるいは粉絲(フェンスー)と呼ぶ。 さつまいもやじゃがいもの澱粉、すなわち片栗粉の一部にお湯を注いで練ってのりのように作って、ここにまた残り片栗粉を注いで掻きまぜながらそれを 40度くらいのお湯を注いで練る。 この生地をグクストゥル(注;製麺機)に押してお湯が盛られた釜に抜き出した後に冷やして日差しに乾かせば粉条、すなわち唐麵が作られる。
19世紀末朝鮮で移住して来た中国人は 1900年代になると全国の近代市街地に小規模の餃子家や胡餅家のような中国食堂を開業した。 1909年ソウル水標橋と南大門近くにはその名前も燦爛たる雅叙園·金谷園·大観園·四海楼のような看板を掲げた大規模の中国料理屋が盛業をした。 ソウルだけではなく、地方の都会にも中国料理屋は必ず町並みの中心に腰を据えた。 こちらを探す朝鮮人お客様が好んで食べたメニューは酢豚·洋張皮·雜菜(チャプチェ)、そして ‘五粮液’と呼ばれた高梁酒である。
たとえ 1966年の資料だが、1920年代京城の中国料理屋で食べた雜菜もこれに似ている料理法で作られたことで思われる。 “豚肉·玉葱·にんじんはのまま切ってにらは 4センチ長さで切っておく。 唐麵は沸いているお湯にゆでて 10センチ長さで切る。 首がは水にふやかして大きいことは半分で切ってグラスのはそのまま置く。 ニンニクと生姜をのまま切って油に炒めている途中豚肉·にんじん·木耳·ドンググンパ·唐麵·にらの手順で入れながら炒める。 薬念は唐麵を入れるすぐ前にする。”(京郷新聞 1966年 5月23日付け、豪気化女史の中国レシピ・雜菜) これはこのごろも華商 中国食堂で食べることができる雜菜の料理法である。
沙里院廣興工廠の楊在河も平安道一帯で盛業をしていた中国料理屋で一番多く売れるこの雜菜に注目したようである。 中国人が製造した在来式唐麵を朝鮮人である彼が生産したことも朝鮮人お客様が主に食べる唐麵入って行った雜菜のためであった可能性が大きい。 結局 1920年代になると全国各地に唐麵工場が立ち入った。 当時京城だけでも中国料理屋が 200箇所が越えたから朝鮮人の唐麵消費量を見当をつけるのに十分である。 1922年に開かれた朝鮮食糧品評会では朝鮮醤油·朝鮮焼酒·薬酒とともに富川のイ・ギェヒョンの出品した唐麵が朝鮮人受賞者に入ったくらいに、唐麵はこれ以上在朝中国人が作らなかった。
唐麵生産が増えながら唐麵の入って行った雜菜が朝鮮料理に理解され始めた。 1921年に出版された方信榮(1890~1977)の <調理料理製法>では雜菜をナムルの一種類で分類しながら四季の料理だと書いた。 桔梗·せり·黄花采·チェユッ·シイタケ·きのこをひったくるんです盛って “なが葱を勝って入れた後醤油と油とごま塩胡椒を打ってずいぶん交ぜていて油に炒め出して唐麵を水に肥やしてゆでていて切ってもろともに盛ってよく交ぜてお皿にうず高く盛った後アルゴミョング千切りにしてシイタケ岩茸をずらして糸と同じく細く千切りにして油に炒めていて一番の上に振ってまた松の実の粉をその上にプリヌニだと”.
それから 9年がすぎた 1930年 3月6日付け東亜日報で京城の同徳女子高の家政先生、宋今璇は非常に具体的な雜菜料理法を紹介した。 “(a) 桔梗を一日頃水に浸して肥やして細かくチゾごまあぶらに炒めておくこと(桔梗は呼んだ後塩打ってよくもんで洗った方が良いです (b) せりをチルプン長さずつ切って塩に少し漬けてから油に炒めておくこと (c) 肉とチェユッ(赤身だけ使ってもいいです)を刻んでヤックニョム(油·ごま塩·胡椒パウダー·なが葱·マヌル·キャンディー)下は炒めること (d) シイタケときのこ黄花采を水に肥やしてチルプン長さずつ切ってままを処暑油に炒めること (e) 首がは水に肥やして手で千切って油に炒めること (f) 岩茸はお湯に肥やして髪のように細く切っておくこと (g) 唐麵は水に肥やしてとけないようにそっとデチォゴンゾ夕焼けの (h) 卵は黄白を割って薄く部処実苦難のように細く切っておくことと、なが葱を入れて妻おくこと(ウムパをデチォたくさん妻も好きです) 以上に準備できたらやや小い食器に炒めておいた桔梗·せり·木耳·黄花采·シイタケ·なが葱·きのこ·当面·肉などを一所に入れて持った薬念(油·ごまソゴム·胡椒粉)をアルマッチ入れておいしい醤油(これは日本醤で半分ずつ交ぜても良く日本だけだけも味が関係ました。すべての料理がすべてですがその上にナムルには味噌の味が悪ければいくら良い材料を使っても味がしないです。日本醤も上下多くの水っぽくあるから極上が良いことはもちろんです)を行ったマッチョ上手であったのに交ぜてお皿にかっこいくおとなしく盛っておいて玉子(卵) 薬味飾り黄白科岩茸実苦難実柏を色マッチョ右に上げておきます。 これを食べる時はからしやチョジャンを付けなければなりません。”
1923年 10月28日付け東亜日報 3面に載せられた廣興工廠製麺部の唐麵広告。
宋今璇の雜菜料理法も方信榮のように唐麵が入って行った。 特に雜菜の味をみる部分で方信榮はただ醤油だと書いたところ比べて宋今璇は日本醤だと書いた。 ここで日本醤はすぐ日本醤油を示す。 宋今璇はさまざまな材料に味付けをした後に朝鮮醤油と日本醤油を半々ずつして間に合わせたり、ではなければ日本醤油だけで味をみれば良いと言った。 朝鮮醤油と日本醤油はその味が違う。 普通 ‘倭醤油’とも呼ばれたこの日本醤油は明治維新以後絶え間ない改良の道を歩いて来た結果物であった。
1882年以後明治政府は日本醤油に対する科学的研究を積極的に支援した。 その結果温度調節を通じて黄麹 微生物を培養する方式が導入しながら工場ごとに単一な味を維持することができるようになった。 また石炭で火を炊いて強制で温度を高めながら発酵時間も縮めさせた。 1904年ソウルに居住する日本人が 5000人を越しながら自然に日本醤油工場がソウル青坡洞に立ち入った。 高見醤油醸造場が正しくそれである。 しかし醸造醤油である日本醤油は朝鮮人に人気を呼ぶことができなかった。 朝鮮醤油とはとても違う味であったからである。 たぶん 1921年に方信榮が提示した雜菜料理法の醤油は朝鮮醤油であった可能性が大きい。
ところで江戸末期から醤油生産に専念した野田家で第1次世界大戦以後経済的好況に支えられ 1918年に醤油生産を完全に工業化するのに成功をした。 以後日本列島各所に大量生産体制を取り揃えた醤油工場が設立された。 今後醸造醤油が日本食の味を牛耳り始めた。 しかし醸造醤油の問題は主材料である大豆の供給にあった。 すぐアミノ酸醤油の開発がこの問題を解決した。 アミノ酸醤油はきな粉·コングケッムック·ピーナッツ油粕·醤油おから·小麦などタンパク質原料を塩酸に加水分解して苛性ソーダや炭酸ソーダで中和させて得たアミノ酸に塩で味をみて在来式醤油の色·味·香りを出す化学薬品を添加して作られた。 日本醤油が朝鮮醤油に比べて不十分に組みながら甘口の強い理由がすぐここにある。 だから宋今璇の雜菜は方信榮の雜菜に比べてその味が甘かったことが明らかである。
1930年代以後、宋今璇では方式の雜菜も中国式雜菜とともに徐々に大衆化の道を歩き始めた。 1937年京城女師範学校家事研究会で発行した <割烹硏究>とは本でも朝鮮料理で唐麵が入って行った雜菜料理法が紹介された。 日本料理と朝鮮料理の家事科学教育で ‘唐麵雜菜’加えた席を占めたのである。
なおかつ 1937年 7月7日に日中戦争が勃発しながら唐麵雜菜は家庭で作って食べなければならない料理に認識され始めた。 何故ならば 3万名の越える中国人が帰国をしたし、京城にあった中国料理屋も 292箇所の中で 237箇所が門を閉めてやっと 55箇所万が残ったからである。 そのため “うどん·酢豚·雜菜は胡餃子でそんなに有り勝ちで卑しくても胡餅さえ味わうことができない”(東亜日報 1937年 9月20日)は嘆きが朝鮮人の口から飛び出した。
解放以後に唐麵雜菜は韓定食を販売する食堂はもちろんで甚だしくは粉食店でも重要メニューで大衆化の道を歩いた。 1976年に出版された黄慧性の <韓国料理百科事典>では雜菜を宮廷料理の中で熟菜で扱った。 当然唐麵が入って行った雜菜であった。 牛肉·たまねぎ·にんじん·きゅうり·桔梗·宿主·輪·シイタケ·木耳·岩茸·唐麵などの材料が入って行ったし、ここに醸造醤油·砂糖·ごま塩·ごまあぶら·胡椒などで味付けをして和える方式で作った。 結局和える方式の唐麵雜菜が 1970年代に韓国料理の市民権を得るようになったのである。
実は朝鮮後期の文献でも雜菜という料理は出る。 しかし唐麵も入らなかったし、醸造醤油も入らなかった。 1930年代以来今まで誕生日上·石像·還暦上のようなザンチッサングに抜けないで上がる唐麵雜菜は 20世紀前半期帝国日本に編入された中国の東北地域と朝鮮半島に住んだ朝鮮人·中国人·日本人の合作品であった。
http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?artid=201106142109515&code=960100&s_code=ac094
アミノ酸醤油のタイムパラドックス
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