2016年12月10日土曜日

[ジュヨウンハの食べ物100年](16)九節坂

ジュヨウンハ|韓国学中央研究員教授
入力:2011.06.21 19:06:03

・八種類の材料小麦煎餅にグルグル~一口にぐいっと~
・年初お客さん接待料理で人気


‘九節坂(クジョルパン)’は料理を入れる器でありながら、同時にそこに含まれた料理自体を示す言葉だ。 ところで朝鮮後期に出てきた料理書をいくら探しても九節坂という単語が出てこない。 日帝時代、それも1935年になってこそはじめて新聞に九節坂という料理が出てくる。

東亜日報1935年11月9日付‘秋の料理(6)わが家の自慢料理九節坂、白菜やわらか’との記事がまさにそれだ。 この記事は記者が尹淑卿という夫人の話を聞いて移した形式で構成された。 “今日紹介させようという料理は特に酒の肴に良くてまた複雑そうに見えて比較的作りやすいのです”で始めるこの記事では九節坂が漢字で‘九折板’になるといって記事に図も一緒に描いて入れた。 それと共に“昔には九節坂という図のとおりな器があってこのうつわに九種類を入れて使うことになったわけだけれど今はこのうつわを売る所がないだけに大きい西洋皿に盛ってもみやすいです”といった。

尹淑卿が何を根拠として昔には九節坂という器があったといったのかは知らない。 なぜなら朝鮮後期の図や遺物のうちに九節坂と似た器がまだ出てこないためだ。 ただし九節坂と似た形の土器が1973年に慶州天馬塚で発掘されることもした。 また、1997年7月光州市光山区新昌洞遺跡で九節坂と似た形の木で作った物も出土した。 だが、これが今日の九節坂と直接連結されると見るのも難しい。

尹淑卿の記事で描かれた九節坂は今のことのように周り八間、中で一間だ。 今日の九節坂と同じだ。 ところで1938年1月4日付朝鮮日報10面に紹介された九節坂はそうではない。 “中間に一穴(グニョク(注:穴の方言))四方ぐるっと回して九穴を丸いラケが九節坂重箱”といった。 今基準として話せば‘十節版’になる。 この記事を書いた人は男として1930年代中盤以後朝鮮料理に対する色々な文を雑誌と新聞に残した洪善杓だ。 彼は1937年頃に朝鮮食饌研究所を設立したし、1940年6月に朝光社という出版社で <朝鮮料理学> という本を出版した。 前の朝鮮日報九節坂文がそのままこの本に移しているので記事の主人公を確認することができる。

洪善杓は1940年3月14日付朝鮮日報で‘九折包(グジョルポ)’に関するコラムも書いた。 九折包は九節坂の他の名前だ。 おそらく九間に置かれた食べ物を小麦煎餅に包んで食べるので付けられた名前であるようだ。 この記事でも“木で作った合計の中に水卵(ポーチドエッグ)浮かび上がる器形に底に熱穴を丸く掘るもののある中央にはある穴を掘ってカウで九穴の皿のような板だろう”といった。 だから決して今のことのように木版で作って漆をしたのではないことも確認される。 さらに洪善杓の説明に見れば、九節坂が必要な人は木で直接作った可能性が多く見える。 尹淑卿は九節坂という器を購入できないといった。 事情は少なくとも1950年代までも持続するようだ。


東亜日報1935年11月9日付に出てきた九節坂図。

1960年12月22日付東亜日報の‘九節坂料理’との記事が再登場したためだ。 特にこの記事には九節坂器の写真がのせられた。 さらに周りに‘九節坂’と最初からハングルで書いておくほど今のよりも高い。 相変らず人々に九節坂器はなじみがうすかったためでないか? 今と同じ姿の九節坂器は1968年7月29日付京郷新聞で初めて写真で登場した。 ソウル市無形文化財第1号漆長である孫大鉉(1950~ )の記憶によれば、1968年閔鍾泰(1915~1998)職人の攻防で漆器ことを習う時漆器九節坂器を作ったという。 自身は九節坂器の内側を紙やすりでこする作業をした。 五人が分業をして1ヶ月に10個の程度の九節坂を作った。 当時ではこの漆器九節坂器の価格はこのごろとは違い非常に高かったとも記憶した。

1970年代以後九節坂器は今と同じフォームを持って漆器や陶磁器で作られた。 特に漆器九節坂器の大衆化は年初に手入れが上手になっておかなければならないという記事(京郷新聞1973年12月28日付)でも確認することができる。 “年初になればお客さん接待などで重箱や皿九節坂など漆器を使うことが多くなる。 漆器は派手で品位はあるが手入れがわずらわしいのがフーン. 漆器にお湯は絶対禁物でありぬるま湯布巾で磨いた次にやわらかい布切れで磨いてつやを出す。” 1974年12月には東亜工芸大展出身作家のうち1人であるパク・ヨンギュが木器九節坂を工藝同友展に出品することもした。 1982年になればデパートで3万ウォン以上の商品を購入すれば爪切り・牛乳カップセット・スカーフとともに九節坂を記念品で提供することもあった。 さらに1983年になれば磁器になった九節坂器に夜・松の実・クルミ・ナツメなどのドライフルーツを入れたギフトセットが販売されることもした。 結局1980年代になればたとえカシューで漆を塗ったわけだが、漆器九節坂器が大衆化の道を歩いた。

九節坂器と似た重箱で最も古い清朝中期の犀皮葵瓣形漆盒.

それなら九節坂料理はどのように作るということだったのだろうか? 現在まで‘九節坂’という名前を掲げた調理法は前で紹介した1935年尹淑卿の話が最も先んじる。 “精肉はユッケ感で細く切って水に少しの間漬けて血を抜いてギュッと絞っておいてユッケ測るように測っておきます。 その次に腎臓は細く千切りに刻んで料理に入れておいてグラグラ熱湯を浴びせてジメジメゆすって沸いているお湯に抜いておいてユッケ測るように測っておいて少しの間炒めておいてセンマイは塩を打ってこすってこすってよく磨いて細く鞭打ってギュッと絞っておいてユッケのように測っておいて量はお湯に飛んでコムン皮を書き写してしまい白くさせて細く切って薬念下野少しの間炒めておきます。 以上四つフェッカッを次々作っておいたらホン大根と胡瓜(胡瓜がないからセリ代用も可能)を鞭打って塩に少しの間漬けて水に揺さぶってギュッと絞って油に炒めて標高を呼ばれたのを鞭打って油に炒めておいた後に異常に炒めてきた三種類をそれぞれ薬念下野路面七種類が準備されたのです。 梨を鞭打って八種類なったら九節坂でもそうでなければ大きい両皿端に八種類をそれぞれ上げて入れてフェッカッには松の実の粉をばらまいておきます。 最後にすることは図に見えるように端には八種類を入れたが中で席が一つ残ったがこの席にはまた入れることがあります。 ◇と(中央部分)に小麦粉を混ぜて小麦煎餅一緒に送って置かれるだけのことはあるように丸く切り取るのに丸い鉄ふんふたでも合計ふたのようなことで押せばきれいになります。 この煎餅を人の需要のとおりそれよりさらに多く作って中で閉じておけば食べる時はこの煎餅に八種類を少しずつ置いて安くて最初をチゴゲなります。”

東亜日報1960年12月22日付九節坂記事とともにのせられた写真.

このように九節坂料理で最も核心は八種類材料よりは中で置かれる‘小麦煎餅(ミルジョンピョン)’であることをこの文で知ることが出来る。 洪善杓やはりたとえ牛肉・セリ・標高・鉄量と卵黄と白身、そして宿主・大根ナムル・センマイの九種類を準備しろといったが十回目材料は小麦煎餅といった。 “十番目小麦粉を水で練り粉下野重宝時期の口ぐらいずつ彫金彫金するように送って分ける丸い形あるように整えます。 (中略)結んだなかで穴には小麦煎餅を入れて四方九穴にはその他の九種類を別々に含まれればその九種類を小麦煎餅に包んで行かれる醋醬(注:酢コチュジャン)につけて食べることになります。”

事実、方信榮(1890~1977)は1931年版 <朝鮮料理製法> で‘糯煎餠’作る方法を次の通り書いた。 “もち粉を冷水にこねてスプーンに浮かび上がって注いでみてやっと流れて落ちる程練り粉を和らげるようにして燔鐵に油を塗って薄く焼いて内やであろう。”

また‘小麦煎餅別法’では“小麦粉ある茶鍾に卵二つ壊して入れて牛乳二スプーンぐらい入れて塩とペキンパウド(餅に入れる粉)茶匙で三分ぐらい入れてよく混ぜて油にプチナリラ”ともした。 これがすぐに尹淑卿と洪善杓が話した‘小麦煎餅’だ。 方信榮は“チャルスス粉を冷水に晴れて赤いお粥だけに軟らかくして塩を行った合うように入れて燔鐵に油を塗って少ない皿ぐらいずつつき出るのだ”ともして薥黍煎餅も小麦煎餅の代用になることができると見た。 1939年に廣韓書林で出版された趙慈鎬(1912~1976)の<朝鮮料理法> では九節坂の煎餅をソバ粉で作るといった。

日帝時代料理専門家たちはどんな穀物で作っても煎餅が準備されれば九節坂料理は本来の姿を備えたもようになると見た。 洪善杓は前の‘九折包’調理法で“煎餅は本来薄い理由でモチの味わって料理を包む補材期代用で作ったことであり九種類料理のうちには草稿最初カラシ等速も置くことであるから初めに蓋を開ければ色がホール乱雑に見るのに良くなることが口子(神仙炉)と類似したものでお客さん接待に立派です”とした。 特に九節坂は大きい祭りの時酒の肴であった。

前で紹介した洪善杓の九節坂記事は‘宮中料理’特集面に出てきた。 この中で‘水刺床に上がる饌需のいくつか’中に九節坂も入っていた。 おそらくこの文によって1960年代以後九節坂は宮中料理の一つで理解されるようだ。 だが、洪善杓が主張した宮中料理という主張はまだその根拠を探せなかった。 趙慈鎬が彼の本目録で九節坂を雜菜・足餠・ギョジャソン・蕩平菜とともに雜菜類に含ませた理由は朝鮮後期宮中で好んで食べた唐麵が入らなかった雜菜と関連させたためではないか見なされたりもする。

九節坂器と似ていた重箱で最も古くなったこと中の一つは北京の故宮博物院で所蔵している清朝中期の犀皮葵瓣形漆盒だ。 中国料理である春巻や朝鮮末期の煎餅の蓮餠や日帝時代の小麦サムや小麦煎餅のような料理や、唐麵が入らなかった雜菜との出会いが作り出した料理が九節坂でないか? これが進化して1950年代以後最も美しい韓国料理で九節坂が外国お客さんの接待に使われた。 外国人やはり九節坂の美しい色と味に賛辞を送った。

九節坂は洪善杓の説明のように“煎餅一切れに食べる人の口に合うように包んで食べる”、そして“何や一つやあるいは二三を共に包んで食べる”絶妙の料理だ。 たとえ宮中料理ではなかったといっても目と口で楽しむその美しさは遜色がない。

http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?artid=201106211906035&code=960100&s_code=ac094

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