[食品人文学]クッパ一杯で虛飢を満たし、憂いも静めて
2014/10/02
1890年代に書かれたと推定されるハングル筆写本料理書の《是議全書》には漢字で‘湯飯’と書いて再びハングルで‘ジャングクバプ’と書いた料理の調理法が出てくる。おそらくジャングクバプが湯飯の一種だったと見なされる。
良いうるち米をきれいに洗ってご飯を炊いてスープはダイコンを入れて沸かす。 国を巻く時はパラパラとするようではなく、その上にナムルを備えてのせる。 薬散炙も作って上にのせて胡椒と粉唐辛子をばらまく。
真冬激しい風慰めるジャングクバプ
知ってのとおりジャングクバプは朝鮮醤油で味付けをして沸かした国にご飯をのみ料理を示す。当然ジャングクバプのジャンは醤油を意味する醤だ。
広橋南天弁水月楼で料理も売ってもかたがたジャングクバプが上手で陰暦十一月初一日始めとして八の場所とか君子は来臨して召し上がることを願います。
<毎日新聞> 1898年12月13日付にのせられた広告だ。本来水月楼は当時では珍しい最新式朝鮮料理屋だった。特に12月にジャングクバプをメニューで加えて常連客に真冬の寒さを和らげるようにしたのだ。
1920年代になって都市には湯飯店と呼ばれたクッパ店が人多くの路地ごとに入り始めた。大邱ではユッケジャンの元祖である大邱湯飯、開城では冷やし餃子と餃子スープ(マンドゥクッ)、全州ではもやし入り解酲スープに母酒という酒粕酒を一緒に飲むタクバックグク、冬にだけ営業したソウルのチュオタンなどを売った。
その頃全国の邑面所在地に常設市場と五日場も盛況を成し遂げて市の日に食べるクッパが場日と同様に魅力的だった。それで‘市場クッパ’という名前も生じた。市場クッパの一番上は牛肉クッパだ。1929年12月1日《別乾坤》という雑誌に出てくる大邱湯飯がそれと似ていた。
汁を先に飲んで、太いネギがふわりとふわりと浮かび上がって油がぽたぽた浮かび上がる高温スープに加え、ゴンの肉を手で適当に焼いた、ククスでもなくクッパでもない、舌が火傷をする程熱くて海苔がふわふわと浮び上がる真っ赤なスープに向き合って座ればまず唾をごくっと飲み込んで、いくら真冬の厳しい寒さに凍った顔でも自ずから解けて全身が溶けてうずうずする。
大邱湯飯、ソルロンタン…八道のジャングクバプ
大邱湯飯の他の名前はユッケジャンだ。犬肉を煮た狗醤の代わりに牛肉を使ってユッケジャンという名前を得た。これに対し比べてソルロンタンはソウルを代表するクッパだった。前の《別乾坤》でペンネームが‘牛耳生’という人はソルロンタンを置いてこのような賛辞を吐き出した。
ソルロンタンはもちろん四時にも食べるが冬夜、真夜中過ぎた後にぶるぶる震える肩をウンスンク立ててソルロンタン家を訪ねて行けば海苔がプンプンとしてくる暖かい気勢と香ばしい臭いが先に刺身を動くようにする。 他の食事家でなら前後をちょっと調べるのにためらったりもするがソルロンタン家に入る人は絶対に解放的だ。 そのままチョック入って‘ご飯一杯くれ’とは木路いすに腰掛ければ一分がみなできなくて脂身がふわふわ浮かび上がった土鍋一つとカクテキ皿が前に置かれる。
北朝鮮の人は冬に温飯という料理を好んで食べた。鶏肉やキジ肉で作った熱い汁をご飯に注いで食べる温飯はオボク鍋と共に大同江で吹く激しい風を忘れるようにした。鶏肉やキジ肉の赤身がご飯上に上がることもした。この温飯も分かってみれば平安道地域のクッパだ。
ソウルを越えて朝鮮の名物で
事実クッパは貧しい人に肉味を少しでも感じさせる有難い食品だ。また、在庫が不足する時は汁で飢餓を満たすことができる食品だ。朝鮮末期貧しい国民らは両班が牛や豚をとらえて捨てた副産物である先知や内蔵あるいは骨を集めて永らく煮込んでスープを作ってそこにご飯を巻いて肉味を感じた。
そういう習慣は植民地や戦争渦中にでもしばらく経済開発の最前線に立って大変に労働をしながら生きた1960~1970年代や人々に力がむっと出てくるようにさせる料理だった。ここにマッコリや焼酎でも一杯付け加えれば一日中労働で疲れたからだを少しの間でも休めるようにした料理がすぐにクッパだった。
さらにクッパは世界どこにもない最も韓国的な料理だ。早目にこの点を看破した牛耳生はソルロンタンを置いて“これぐらいならばソウルの名物になることができてしたがって朝鮮の名物になることができる”と話したことがある。
1世紀近く過ぎた今クッパが大韓民国の名物であることを否定する人はないだろう。クッパよ!永遠で!
http://mediask.co.kr/1843
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