[食品人文学]香ばしいスンニュンある沙鉢、苦いコーヒー一杯
2014/09/11
たいてい我が国の人々はご飯を炊く。ご飯が熟せば直ちにノグソッの底辺が焼けることになるが、ここに水を注いで一度沸かせば煮ご飯が作られる。これを示して熟水だと呼ぶ。
この文は朝鮮末期の学者徐有榘が筆で書いた本である《林園經濟志・鼎俎志》に出てくる。宋代の人々は薬剤や茶をわかすのに使われる良い水を熟水だと呼んだ。だが、茶の葉を求め難い朝鮮の人はスンニュンを熟水だと考えた。熟水は祭壇に茶に代わって上がることもした。 本来朱熹の《家礼》では宋の国の風俗に基づいて祭祀に茶を上げるようにした。 だが、茶の木が良く育たない韓半島でその多くて多くの祭壇に茶を上げることは決して容易なことではなかった。 結局李縡は《四礼便覧》を編纂して朝鮮の事情に合わせて茶の代わりに熟水を使えと注釈に付け加えておいた。
釜器に焦げ付いたおこげの変身
スンニュンの誕生には朝鮮の人が使ったご飯を炊く器が大きい作用をした。李用基は《朝鮮無双新式料理製法》で“ご飯を炊く器は石釜が一番上で陶器湯罐が次で、鋳鉄釜が三番目で、筒爐が下等だ”といった。ここに言及されたカマは全部重いカマだ。 簡単に入って移して洗うのが難しくてさらにクィハディ貴重な米や麦で作ったご飯のおこげをそのまま捨てることもできなかった。この過程でスンニュンが誕生した。
<京郷新聞>は1952年3月1日から問答形式の‘京郷サロン’というコラムを連載した。主題の中の一つは喫茶店とスンニュンだった。光復洞喫茶店ファンだと明らかにした読者は“とても多い喫茶店でとても苦いコーヒーを高く売っているがその代わり暖かいスンニュンを安く売るようにすれば良いから無官者の意見はどうか?”と質問を送った。これに対し記者は“すでにコーヒーが喫茶店の主なメニューになったが、その代わりにどうしてスンニュンを売ることができようか”という返事をした。朝鮮時代ずっと茶に押されてその本性をまともに表わせなかったスンニュンは20世紀に入ってきて再びコーヒーの影の中に埋められてしまった。
19世紀後半朝鮮の地に足を踏み入れた西ヨーロッパ宣教師の荷物の中にはコーヒーが入っていた。角砂糖の中に入ったコーヒー粉はお湯に入って黒い色コーヒーに変わった。人々はこれを洋湯だと呼んだ。本来スンニュンをはじめとする茶が甘み中心だったために砂糖の中に含まれたコーヒーは朝鮮人の口に合った。
19世紀‘洋湯’が押し出した千年のスンニュン
乙未事変以後ロシア公使館に避けて身を守っていた高宗もコーヒー味に飼い慣らされたし1910年代になってコーヒーは西洋を象徴することも、近代を表現することもした。1914年にドアを開けた朝鮮ホテルでもコーヒーを売った。1920年代になれば今日ソウルの明洞と鍾路には喫茶店という名前のコーヒー飲む所も生じた。
1935年11月1日付雑誌《三千里》では当時有名だったソウルの喫茶店相互を挙げた。仁寺洞のピーッと-ナース、鍾路のメグキシ鼻、今の小公洞である長谷川町の楽浪などが挙げられた。この時までしてもスンニュンは相変らず普通の韓国人が食後に飲む飲み物であった。
だが、1960年代後半になれば事情は完全に変わる。電気釜のためだ。ところで電気釜は電気消費量がとても多かった。結局、1965年象印マホービン会社で保温方式の電気釜を開発した。以前のことに比べて電気も少なく保温もうまくいって消費者からすごい人気を享受した。1966年金星社でも電気釜を作って販売した。電気釜は利便性という名で家庭の台所からカマを次第に追い出した。 だが、電気釜ではスンニュンが作られなかった。おこげができなかったためだ。
1970年代以後スンニュンやおこげを利用した飲み物が開発されて市販されたりもしたがしばらく注目をあびただけ大衆化の道を歩けなかった。これに反し労働者の一食の食事値に匹敵したコーヒー一杯値がインスタントコーヒーの登場によって安くなったし1979年コーヒー自販機とコーヒーミックスの登場はコーヒーを代表的な食後飲み物の席に座らせた。それで都市や田舎、老若男女を問わずこの頃の人々は食後にスンニュンより自販機コーヒーを当然のように飲んだ。そんなに我が国は世界でめったに見ないコーヒー消費国になった。だがそのように作ってくれたのは千年以上香ばしい味で食後の口をすっきりさせてくれたスンニュンのおかげという事実を知る人はまれだ。
http://mediask.co.kr/1811
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