ジュヨウンハ| 韓国学中央研究員教授
入力 : 2011.06.07 21:15:09 修正 : 2011.06.08 14:22:09
・濁酒に水を打ちこんで清く精製した、 茶色を帯びたライトイエローの透明なお酒
・甘みがあってすっきり、 口に感起は余韻の味
“先代の遺業と聞くと大きい事業のようですが私の亡父が貧しい酒商売をなさっている途中私が 20歳の時に帰ったが実際は何もないまま残しておいたこの酒商売を私が 20歳になる日引き受けていてまた始めた。その時お金二百ウォンかを融通していて私の手でお酒を作りながら売って帳付けを集めに通うなど一切仕事を一人でしたがまさにこの間が何よりも今日の成功をあるようにした直接原因になると思う。”(毎日新報、 1936年 6月10日付け)
この話をした人は日帝時代ソウルで一番大きいお酒工場中の一つであった天一醸造場の社長張燐英だ。天一醸造場は今のソウル鐘路5街にあった。彼の言った亡父は張根植だ。細井亥之助が編んで朝鮮醸造協会から 1935年に発行した <朝鮮酒造史>によれば統監府時代に張根植は 11人のソウル所在の藥酒家の一人だった。しかし当時にはまだ酒税法が存在しなかった時代だから専門的な醸造場がソウルにあまりなかった。大多数の飲食店では自らお酒を釀造して料理とともに売ったから醸造業が成立されることさえ難しかった。だから張燐英の言葉のように決して彼の亡父張根植は酒商売で大金を儲けることはできなかった。
天一醸造場は 1913年 1月22日に朝鮮総督府から濁酒及び薬酒の兔許を受けた。朝鮮半島でお酒を作って販売する事に国家が介入し始めた時は大韓帝国時期の 1909年 2月13日だ。すぐこの日から朝鮮半島に酒税法が発效した。この法の第1条は酒類を製造する者には本法によって酒税を付けると言った。同時に第3条では酒類を製造しようとする者は製造場 1ヶ所ごとに政府の兔許を受けなければならないと言った。結局この酒税法に根拠して張根植は醸造場兔許を受けた。何故ならば朝鮮を竝合した日帝は 1916年 9月1日に既存の酒税法を改正した酒税令を発效したからだ。
一介の酒商売に過ぎなかった天一醸造場は 1917年 4月に改定された酒税令に根拠して焼酒製造兔許も得た。近代的な醸造場施設を取り揃えた天一醸造場は 1923年にソウルで開かれた副業品共進会の時製品を出して高い評価を受けながら東大門近くから京畿道一帯まで営業網を確張した。張燐英がこんなに営業網を確張することができた富力は 1919年 3月3日高宗の因山(注:葬儀)の時用意された。田舍で高宗の因山を見るためにソウルに全幾多の人々がその悲しみをお酒でなぐさめたし、 張燐英は分け前を取った。1930年代初盤天一醸造場では主に濁酒と焼酒で商売もうかった。濁酒を 8500石、 焼酒を 650石や生産したのに比べて、 薬酒は 100石に過ぎなかった。
朝鮮後期以来薬酒は両班のお酒に理解された。酒税法が本格的に施行される前まで薬酒は両班がで直接作って奉祭祀と接賓客に使った。19世紀末以後近代的な都会が形成されてから薬酒は中流以上の人々が飲むお酒に理解された。ご存じのように薬酒は酵母の粉を水が入ったつぼに入れた後にここにもち米粉で蒸した餠を入れて酒母を作って、 ここにうるち米と麹、 そして水を入れてもたらす。スルドクに水を打ちこんで清いお酒を汲み出せば薬酒になる。茶色を帯びたライトイエローの透明なお酒だが、 とても透明ではない。アルコール度数は 12~20%であり、 製法によって特定の薬剤を入れてもたらしたりする。それで薬になると薬酒と呼んだ。
実際に薬になるお酒もあった。憑虛閣李氏が 1800年頃に書いた <閨閤叢書>では薬酒で枸杞酒と五加皮酒二つを言及した。特に枸杞酒を飲めば若返りをすると書いた。すぐ古代中国の神仙と知られた伯山甫の甥が枸杞酒を飲んで 390歳にも顔色が十五、六の少年みたいだったと言った。またこの枸杞酒を飲んだ一使臣は 100日ぶりに白い頭がもとの通りに黒くなって抜けた歯がまた生えて日が経っても老けなかったと書いた。それが事実かどうかを確認する道はないが、 薬酒は身を傷つけるお酒ではなく薬そのものと憑虛閣李氏は思ったようだ。
こんなに薬になる薬酒もあったが、 普通の薬酒は前で言ったようにうるち米で作った清いお酒で通じた。両班が家で飲んだ薬酒が 19世紀末以後飲食店や醸造場で作って売り出しながら一般人たちも味わう機会を持った。それで 19世紀末に朝鮮へ来て日本式清酒を生産し始めた日本人たちは朝鮮酒の最高は薬酒と濁酒を挙げた。すると薬酒という言葉の来由に対するさまざまな主張もできた。
そのうちの一つがすぐ薬酒が薬山春の略だというのだ。“光海君時代の徐有榘という方が藥峴(藥峴・只今の京城府中林情)に暮して雅號亦曰薬峯というとそのお宅が名門巨族で有名だが醸造でも有名だとそのお宅の清酒は別に他に言葉があった。その頃の人士はそのお宅のお酒を薬峯酒、 藥峴酒と呼んで畢竟、薬酒と略称した。そうするうちに今は京城では清酒を薬酒とまで呼んで来る。”(東亜日報 1937年 11月6日付け)
ところで同じな新聞ではその翌日すぐ訂正記事を載せながら “徐有榘ではなく徐濱氏の誤りです”と言った。しかし徐濱も誤った情報だ。徐有榘(1764~1845)は <林園經濟志・鼎俎志>から ‘薬山春方’を言及しながら、 “すぐ徐忠肅公が作るのを楽しんだが、 公の家が藥峴にあったからそれでそのお酒を藥峴春と呼んだ”と言った。ここで徐忠肅公は朝鮮中期の文人である徐渻(1588~1631)を示す。藥峴春の春はお酒を指称する古代中国の他の表現から出た。ソウル人々がお酒を薬酒と呼んだら文献をまともに確認しない知識人たちが徐渻を徐有榘とも言ってみたり、 薬山春の略で薬酒とも呼ばれる誤りを作り出した。
とにかく朝鮮薬酒は確かに高級酒だった。1908年 1月10日付け皇城新聞に載せられた ‘明月館拡張広告’でも明月館で具備しているお酒の中で薬酒が一番先に出る。それだけ朝鮮料理屋の水準に薬酒はよく似合った。しかし問題は夏に易しく変質されるというのにあった。
明月館を設立した安淳煥は 1923年 1月1日付け東亜日報で朝鮮料理を改良しなければならないという主張を広げた。“第一私たちの料理はご飯ならご飯、 お吸物ならお吸物一つのみを食べることができないことがビョングイウェだ。(中略) 二番目は我が国の料理には暖かいものが必要に分かることがビョングイウェだ。このわけで作る即時に食べなくてはその料理はまたところだとかそうではなければ捨てようがするようになる。(中略) 三番目は長い間甘口の醤油しておくことができないしまたは甘口の醤油すると言ってもその味が易しく変わられるようになることが欠点以外だ。我が国の枸杞の実薬酒みたいなことは実に味もあって衛生にも立派だ。世界に出してどんな恥ずかしさがない。一つウイスキーとかブランデーと一緒に長く置くことができない。”
日本サクラ正宗広告。
安淳煥もやぱり <閨閤叢書>で言及した枸杞酒、 すなわち枸杞の実薬酒を朝鮮の自慢で立てたが、 長く置くことができないという点のため改良する対象だと見た。実は日本清酒も朝鮮の薬酒に似ている製法で作るお酒だった。1895年日清戦争に勝った明治政府は既存のお酒と係わる法令を ‘酒税法’で改正しながら醸造業に深く介入した。特に日清戦争で受けた賠賞金でオランダの微生物学専門家を日本に招いた。醗酵の核心である酵母を制御し始めながら決まった味を持った清酒が日本列島の各醸造場で自分の商標を持って販売され始めた。長期間保存の問題も解決されて行った。もう日本人たちは 1883年 1月釜山に日本清酒工場を設立した。引き継いで馬山·仁川·ソウル等地にぞくぞく日本清酒醸造場が門を開いた。
たとえ夏を過ごすためにソウル人々は朝鮮後期以来の蒸留酒焼酎を薬酒に乗った過夏酒を作って夏を越したが、 19世紀末から日本清酒にどぶんと陥った朝鮮酒が日増しに増えた。1920年代朝鮮で醸造場を運営した日本人の立場で朝鮮は “原料が安価で労動賃金も安く腐敗の心配がないすべての条件を具備している”(東亜日報 1924年 2月5日付け)にして事業するのに非常に良い所だった。1921年統計によると、 日本清酒は朝鮮でばかり 5万7600石が超えるように生産された。その中で ‘菊正宗酒’はすごい人気を集めた。かつて 1908年明月館広告でもこの酒はメニューでつかまっていた。
結局 1920年代以後日本清酒を朝鮮人々は一会社の商標である正宗で取り替えて呼ぶようになった。
これに比べて薬酒は酒税令によって兔許事業者の独占事業になりながら材料費を惜しむためにもち米とうるち外に他のものを混ぜて作られた。薬酒を飲んでからは薬ではなくむしろ毒になる副作用がしばしば発生した。解放以後にもこのような事情は持続した。薬酒は名前だけその実体は家庭で密造酒をつけない限りまともに味わいにくかった。特に 1962年朴正煕政府はご飯で食べる米も不足な状況で米でお酒をつけることを不満に思った。結局その年 12月4日当時財務部長官は薬酒製造に 40% 以上を雑穀で置き換えることを行政措置で発表した。1965年にはこの政策がもっと強化されたし、 8月4日農林部では薬酒に米や雑穀の使用も一切禁止してさつまいも澱粉のみを使うように立法取り計いを取った。もう蒸留酒が消えてさつまいも澱粉で作った希釈式焼酎が酒のテーブルを占領した状態でこの措置は薬酒のレゾンデートルさえつぶしてしまう結果を生んだ。それから 22年後の 1977年に米からもたらされた薬酒がまた市場に出たが、 人々の口当たりは薬酒を捨てて久しかった。1988年ソウルオリンピック以後民俗酒という名前に描いて一醸造場の固執で薬酒はまた私たち前に現われた。しかしあまりにも不慣れでぎこちなくて 1908年明月館の食卓に上がった光栄をまだ捜すことができない。
http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?artid=201106072115095&code=960100&s_code=ac094
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