ジュヨウンハ|韓国学中央研究員教授
入力:2011.04.26 21:48:27 修正:2011.04.27 16:02:40
・1920年代製氷機術導入…夏料理で‘再誕生’
“平壌冷麺、ヘジュ冷麺の次にソウル冷麺を指を折って数える程もうソウル冷麺が冷麺軸で公然に一役を見ることになりました。 しかし京城冷麺は言ってみれば平壌冷麺の延長に過ぎません。 口難しいソウルの人々の味覚を征服してみようと平壌冷麺商売が一流技術者-冷麺の味はその技術如何にかかりました-を連れて京城に進出し始めてもう動くことはできないかたい地盤を積み上げました。 夏一時期さらには各官庁会社の昼休み裏面は冷麺屋受話器では火事が起こる状況です。” 1936年7月23日付毎日新報にのせられた‘冷麺’関連記事の初めての部分だ。 1930年代中盤、ソウルの冷麺屋が盛業をしている情況をこの文は生き生きと伝える。
1920年代末ソウル、清渓川北側には40ヶ所を越える冷麺屋があった。 楽園洞の平壌冷麺家と副僻陋、広橋と水標橋の間の白楊ヌ、そして敦義洞の東洋ヌなどが皆冷麺専門店でその当時名を知らした。 ところで冷麺屋は通常のレストランと違う姿を持っていた。 断層冷麺屋入口に相互を少ない看板がついたことはソルロンタン家やチュオタン家と同じだった。 だが、看板横に長い棒を空高くさしておいて、その終わりには長くぶら下げた紙束が飛び散るようにした。 紙束が風に揺れる姿があたかも製麺機の穴からちょうど抜け出すソバ タレに似ていた。 高い建物があまりなかった当時の鍾路。電車からおりて北岳山の方を見上げるだけでこの紙束が即座に目についた。
特に真夏には青空でひるがえる白色の紙束が居候の食欲を誘惑した。 小説家キム・リャンウンは1926年‘東光’第8号に小説 <冷麺> を発表した。 真世界経済恐慌の最中により市民の生活も難しかった時期、新聞社記者であるスンホは暑さが強引に通そうとする8月に減った月給袋を持って家に向かって突然冷麺が食べたかった。 電車に乗ってゆで豚肉と千切り腹側、そして黄色いカラシをばらまいたうずたかい冷麺一杯を頭に思い出させて唾をごくっと飲み込んだ。 電車はすでに鍾路2街に進入した。 その時スンホが急いでおりるといって叫んだ話が‘停車’でなく‘冷麺’だった。
だが、冷麺は本来冬料理だった。 前の毎日新報冷麺記事の最後にもこの点をのがさない。 “夏冷麺はすっきりした味に多く食べるけれどしかし本当に冷麺らしい味わうには冬冷麺が第一です。 冷たい同床が汁にも話はトンチミネンミョニヤマルロ一度食べれば人が表れてしまうあきれたのです。 寒い冬過ごす冷たい冷麺味も格別味であることであり冷麺の後の香ばしい熱いククスの味もまた格別なのです。”
平安道出身でフランス留学に行ってきた李晶燮は自身が外国にある時最も多く思い出した料理でキムチ・カルビ焼きとともに冷麺を挙げた。 “同志師走寒い日に白雪がグラグラ飛び散る時にオンドルにふくらむ暖かく時で3~4人の友人が互いに座ってカルビ焼いて食べることや冷麺割り勘をするのもとても懐かしかった。”(‘別乾坤’ 1928年5月)外には雪が降って、部屋のオンドルはぐつぐつ沸くほど熱くて、そちらで人がシリン冷麺を食べる姿が鮮やかに目に浮かぶ。
冬に冷麺を食べる風俗はすでに朝鮮後期にも平安道や黄海道の人々にはあまりにも当然のことだった。 丁若鏞(1762~1836)も冬にそちらの人々が冷麺食べる姿を置いて、“十月に入って西関にした者かなり雪積もれば、門(注:韓屋のムン)に二重に幕を張ってふんわりとした毛布を床に敷いてお客さんをつかんでは、新鮮な形のチェンゲビにノロジカの肉薄く切って焼いて、長く選んだ冷麺に白菜漬物を添えるよ”と詩を詠じた。 当時の冷麺正体に対するより一層詳しい内容は洪錫謨(1781~1857)が書いた <東国歳時記> の陰暦11月便にも出てくる。 “ソバに大根漬物と白菜漬物、そして豚肉を入れた料理を冷麺だと呼ぶ。 また雑菜(チャプチェ)と梨・夜、千切り牛肉と豚肉、そしてゴマ油と醤油を全部ククスに混ぜたのを骨董麺だと呼ぶ。 関西の麺が最もおいしい。”
ところで1920年代になれば人々は冷麺を夏料理で食べ始めた。 このような冷麺の変身には近代的な製氷機術が決定的な役割をした。 人工氷を作る製氷機術は1875年にドイツ人リンデとアメリカ人ポイルがアンモニア圧縮式冷凍機を開発してから始まった。 1910年釜山にも製氷工場が立てられた。 ひきつづき済物浦と原産・群山などの地にも製氷工場がドアを開けた。 本来これら製氷工場は魚に氷を満たして永らく流通するために必要な施設だった。 だが、真夏に氷を見るとすぐに人々は食べることができる氷まで考えが及んだ。 この氷が冷麺と会って夏冷麺の誕生を持ってきた。 雑誌‘別乾坤’第24号(1929年12月)には平壌の夏冷麺味を次の通り書き留めた。 “大陸的影響で夏の日熱度が相当高い平壌で暑さがとても争う時白い‘ポルドクもてなし’にげんこつのような氷塊りを中に隠してぐるぐるとからまった冷麺! 氷に暑さをはね除けてカラシと酸味に倦怠をぬぐい去るだろう!”
日本調味料会社味の素が1930年代に出した新聞広告.
冷麺スープに加えて、調味料入りのスープ味を出すことができるという内容だ。
冷麺スープに加えて、調味料入りのスープ味を出すことができるという内容だ。
冷麺の中に入った氷は本当に暑さに勝つようにさせてくれた。 ところでまた他の問題があった。 主に冬に用意した大根水キムチ(トンチミ)や白キムチ(ペッキムチ)、あるいは大根と白菜の水キムチ(ナバクキムチ)を夏に入れてこそスープを出すことができたためだ。 すでに1910年代末にソウルに代理店を開設した日本の化学調味料会社味の素がこのスキ間をのがすことが皆無だった。 1931年12月17日東亜日報には‘薬念(ヤンニョム)粉味の素’の広告がのせられた。 “冷麺+味の素=美味、すべての料理+味の素=美味、レストラン+味の素=千客万来”がこの広告のコピーであった。 広告の中の図も彼らが冷麺屋をターゲットとしたことを分かるようにする。 前でも紹介したように図の中のレストラン看板そばには紙束をさした壮大が高さひるがえっているためだ。
事実味の素社はすでに1927年に平壌大同門近くに冷麺屋を直接開いた。 本来平壌冷麺のスープは大根水キムチ(トンチミ)を煮て人生は牛肉や豚肉塊りをその中に入れて作り出した。 当然動物性蛋白質のアミノ酸味が大根水キムチ(トンチミ)汁に溶け込むのでそのおいしくないわけがなかった。 ところでこの味を味の素のグルタミン酸が代ることになった。 冷麺屋主人の立場ではたとえ味の素が安くはなかったが、その便利性は高い値打ちをしてあまりあった。 特に真夏にあえて大根水キムチ(トンチミ)を漬ける必要もなくさせてくれた。 お客さんの立場でも退屈な大根水キムチ(トンチミ)スープに比べてはるかに刺激的であり香ばしい味を味わうことができた。 当然大歓迎だった。
1920年代末になれば冷麺は冬と夏はもちろんで春や秋にも食べる料理になった。 先立って紹介した雑誌‘別乾坤’第24号では平壌で食べる春と秋の冷麺に対しても惜しまない賛辞を送った。 春に食べる冷麺は“春風がざっと吹き寝ようが牡丹台に木ごとに葉開いて行くがごとに花が咲く3,4月長い年を春興に抑えがたくて楽しんで疲れた橋を大同門の前非常に高い2層楼にのせておいて浿江の青い水よって終日の疲労を流していっぱい入れた一杯冷麺に市場を合わせる時!”といった。 秋に食べる冷麺は“数年を置いて描こうが負けることを浿城に合って綾羅島ポドゥル間に照らす月の光をむかえて胸襟を破っておいて古懐を話す時筋ごとに長い冷麺が尋ねて切りにくいということが彼らの友情をいうような時!”と少なかった。
結局1930年代全国は冷麺味で‘全季節’揺れた。 ところで問題は冷麺需要に合わせることができないソバ生産だった。 知ってのとおりソバは小麦粉とは違いそれ自体で生地が冷たくなることにならない。 それで先に緑豆澱粉で糊をつくった後ここにソバ粉を入れて生地をしなければならない。 石ころのように丈夫なソバ生地を麺に作るために朝鮮後期にすでに木で作った‘麺自分’が開発された。 だが、若い男1,2人が麺自分上に乗って全身で力を集中してこそやっとソバある乗れといって行って作られた。 だからその生産量が人々の口を満たすことができなかった。
ついに1932年6月に咸鏡南道咸州郡の鉄工所主人キム・キュホンが鉄で作った冷麺機械を開発するに至った。 この機械を使えばひとりが在来式より三倍以上の速度でククスをおろすことができた。 冷麺屋の来たかまどをみな占めた在来式に比べて狭い空間に設置してもソバおりるには問題がなかった。 以前には煤煙がいっぱいである台所で人が天井まで上がって麺自分を押して見たら、天井についた煤煙と人の汗がソバが熟す窯にぽたぽた落ちた。 これに対し比べてキム・キュホンが開発した製麺機は非常に衛生的だった。 これが時間を繰り返してこのごろ冷麺屋で使うステンレス製麺機に進化した。
それでも冷麺がその人気を限りなく享受したことではなかった。 1930年代冷麺屋の盛業はまた他の社会的問題を引き起こした。 夏なら一日が遠いといって食中毒事件が発生した。 豚肉とスープの出会いは真夏に大腸菌を作り出す主犯だった。 さらに配達される冷麺スープに毒を盛って人を殺す事件も起きた。 ここに冷麺が大衆料理に変わるとすぐに食べることはできない化学物質で冷麺を作って原価を減らそうとする主人も生じた。 秋ソバが冷麺の需要を合わせられないと、最初からソバ粉を入れないで他のデンプンで丈夫なククスを作った後にソバのように色だけ入れる冷麺も作られた。 これによって今でもソウルの人はソバがゴムひものように丈夫でこそ本当に冷麺だと錯覚をする。
今でも全国に冷麺屋天地だ。 だが、残念なことに“カチカチ魂はキムチの甕を突き抜けて薄氷が浮かび上がった濃い醤油キムチの汁に加えた箸にその解いてどっと震えてオンドル部屋上座へ行く味!”(‘別乾坤’第24号)を楽しむことは容易ではない。
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