[食品人文学]値段を問わず好んで食べる鮗だ!
2014/09/18
西南海で出る。からだが平たくて腹と背中が膨らむように飛び出してきてフナに似た。立夏前後になれば毎度物価にきて泥を食べる。この時、漁師が広い網をかけて捕える。肉がふっくらとして脂がのっておいしい。商人が漬けて売るが、漢陽の金持ちや貧しい者すべてこれをおいしく食べる。 その味のためにこれを購入する人はお金を問わない。それで銭魚と呼ぶ。
この文は朝鮮末期徐有榘(1764~1845)が書いた《林園経済志・佃漁志》に出てくる。鮗の名前は今と同じように鮗だ。小さい鮗は8月初めになれば慶尚南道泗川市三千浦近海でたくさん捕えられるが大きい鮗は秋になって西南海岸一帯で捕えられ始める。晩秋になれば西海岸一帯でも鮗を捕えることができる。
矢に似て矢のように早い鮗
徐有榘は立夏前後に鮗が物価にくるといった。 知ってのとおり立夏は春の気配がほとんど消えて夏が始まる陽暦5月6日頃だ。実際に立夏前後である4~6月頃に鮗は浅い海で群れを成して駆せ参じて産卵をする。遠海に出て行くことができなかった朝鮮末期漁師は晩春から初夏の間に陸地近くに来た鮗を簡単に捕えることができたので立夏前後に鮗を好んで食べたと考えられる。徐有榘とほぼ同じ時期を生きたが、天主教に入信したのが発覚して黒山島に島流しされた丁若銓(丁若銓、1758~1816)はそこの魚を研究して書いた《茲山魚譜》で鮗に対して次の通り書いた。
大きい奴は一尺ほどになる。 からだは脂がのって太っているが平たくて色は青黒い。脂が多くて味が非常に良い。黒山島にも時々現れるが、陸地に近いところに出るのにはおよばない。
丁若銓も黒山島で時々捕えられる鮗よりは陸地近くの鮗がさらにおいしいといった。ところで丁若銓は徐有榘とは違い鮗の漢字を‘箭魚’と書いた。それと共に一般民も‘전어’と呼ぶといった。 漢字‘箭’は矢を示す字で韓国語では‘살’という。徐有榘が人々がお金を問い詰めないで好んで食べるので‘銭魚’になったといったのに比べて、丁若銓は鮗が矢に似て‘箭魚’と書いた。
鮗食べるには上下貴賎の別はない
朝鮮時代、王の食卓にも鮗は欠かせなかった。1716年(粛宗42)陰暦閏3月2日慶尙監司が次のような報告をした。“閏三月元日に乾燥鮗を進上しろといったが、受領が守ることができませんでした。 河東府使李弘靖、泗川縣監李世復などを罷免して私もやはり罰を受けようとします。”(承政院日記)すると粛宗は“物を受けて送るのに困難があるのでその事情を推し量って罷免するな”と命じた。 ここで閏3月は陰暦4月だ。すぐに丁若銓が話した立夏前後に今の慶尚南道河東と泗川の三千浦近海に鮗が捕えられたし、そちら漁師はこれを乾燥して漢陽の王室に献上したことをこの記録を通じて察することができる。
漢陽まで上がる時間が西海岸より長くて乾燥させるほかはなかった形だ。今のように冷凍流通システムがなかった朝鮮末期漢陽の人々は塩に軽く漬けた鮗や乾燥した鮗を火鉢の火に焼いて食べた。特に鮗は群れを成して通うので広い網にかかる量が少なくなかった。それでその値が味に比べて比較的安い方だった。このように安値で購入され脂ののった魚だから、上は王から下は庶民に至るまで初夏になれば鮗を食べるのに熱中しないわけにはいかなかった。
最近の刺身は養殖鮗一色
このような事情は20世紀になっても大きく変わらなかった。朝鮮総督府水産局で仕事をした鄭文基(鄭文基、1898~1995)は当時一年に10万ウォン以上流通する魚56種類中で鮗を34位に選んだ(<東亜日報> 1939年7月8日).流通額だけでも33万 9,000ウォンに達した。たとえ1位のイワシの3,419万 9,000ウォンに比べて低い数値だとしても鮗の生態に比べるならばすごい金額といえる。
1970年代初期になれば三千浦をはじめとして慶尚南道南海岸一帯で捕えられた鮗は公団から吹きだす汚染物質によって消え始めた。さらに洛東江河口では奇形鮗が捕えられることもした。 いくら鮗がおいしいといっても人々はこれ以上鮗を探せなかった。 1990年代になるとすぐに遠海で行って捕えた秋鮗が人々の食欲を生き返らせたが、大衆媒体による鮗の爆発的需要は2000年以後8月だけなれば屋台や路上、産地の刺身を養殖鮗一色にした。商人は鮗を天然と養殖で区分して売らなかった。粛宗もしなかった鮗担当官罷免をこの期に及んでしなければならないのではないか!
http://mediask.co.kr/1819
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