2016年12月6日火曜日

[ジュヨウンハの食べ物100年](9)白菜キムチ

ジュヨウンハ|韓国学中央研究員教授
入力:2011.05.03 21:33:45 修正:2011.05.04 11:24:29

・“豪華な食事もキムチなければ寂しい”…重ね重ねにこく…懐かしい‘朝鮮白菜’

“キムチというのは我が国の人々がご飯の次にはキムチなしで耐えられないので満盤珍羞があってもキムチがなければ料理の形になれないだけでなく口にもクセになってキムチ食べられなくてはなることあり得ないので、どうして大切でないだろうか。それであるから春と夏と秋は天気が寒くない高炉少しずつ漬けて食べても関係なくても冬は不可不下だがしてこそ五六朔をモンナニそれであるから珍蔵という言葉は極めて重要な時食べることに宝で隠すという言葉だと。”この文は李用基が1924年に出した近代料理書の <朝鮮無双新式料理製法> に出てくる。ここで満盤珍羞は漢字で‘満盤珍羞’まもなく上の上にぎっしりと整えた耳とおいしい料理を示す。 キムチがなければご飯食べがいがない朝鮮の人の食の好みが如実にあらわれる。

李用基はこのようなキムチ論説を広げた後に30種類に達する調理法を紹介した。 その中でも白菜キムチ調理法が一番最初に出てくる。 “白菜を押した葉はみな抜いてしまい丸ごと続々が決めるように洗って何のクルセドゥンジ漬けるので水ある東夷に塩を半分なってほどを乗って白菜に充分に注いで漬けておいてカゴに出しておいて水がみな陥るようにしておいてニンニク・葱(パー)・苦難・ショウガ鞭打ってまた、カラシ菜・ネギ・セリと聴覚は一寸の長さずつ切って共に混ぜて白菜葉っぱ隙間ごとに少しずつ深く牛を打ち込んで葉っぱ一筋を捉えて回して白菜腰を売高また大根を決めるように洗って刃物であっちこっち似たり寄ったりオなのであたかもうろこ打ち込まれた形にした後で塩漬けにして高名をその御印の中ごとに入れてキムチの甕に配置されナニ”といった。

だが直ぐに繋いでこの方法は昔方法といって“このごろは株漬けキムチ漬ける方法が少し違って形がとてもインナニ”と書いた。 昔方法との違いは色々なものだ。 早期をまるごと入れたり、干し明太や干鱈を太く切ってキムチの甕底に敷いたり、タコやアワビあるいはさざえを高名に入れたり、ソルロンタン汁を冷まして油を歩いて味良いイシモチの塩辛汁を煮て冷まして共に混ぜて器がぎっしり埋まるように味付けをして注ぐ方法などだ。 さらに“株漬けキムチに入れた左早期を頭を取ってギュッと絞っていくつかでも定めた器に一ヶずつ置いて砂糖片づけて重ね重ねに置いて石で押して封じておいて数日後で取り出してさっと破って酒のつまみに食べれば絶品だ”とした。 あらゆる材料だけいっぱい入ったこのごろ白菜キムチとも全く違った味を感じさせてくれる。

良い白菜を救うことは昔も今も重要だ。 特にソウル中で名が知られた白菜産地が具体的に出てくる。 “良い白菜はソウルの中では名が知られたパンア橋ヌリゴルや訓練院が第一です他の所ことではこの二ヶ所にあう白菜がオムナニ”といった。 パンア橋は今のソウル鍾路区忠信洞、ヌリゴルは孝悌洞だ。 訓練院は朝鮮時代に兵士の武才試験、武芸練習、兵書講習などを受け持った官庁を示す。 今は消えた東大門運動場近くにあった。


下左側から花心白菜(非結球),
京城白菜、開城白菜、半結球白菜.
上側は全部結球白菜だ。
 |朝鮮総督府農業試験場資料写真

1923年11月9日付東亜日報でも当時ソウルの人に人気を集めた白菜に対して言及している。 “大慨時内で重要に打つ白菜畑はパンア橋白菜畑(忠信洞),訓練院白菜畑(東大門内),銅中庭白菜畑(東大門外夫),島話白菜畑(鍾路通五ジョンモク)等で、その他に地方でくることでは開城白菜を一番重要に打ったことなのに開城白菜は前回水害でほとんど全滅に戻って白菜相場は昨年より仕事をする内地二割ほど高くなったところなのに訓練院白菜は見ようということがなくて銅中庭白菜は非常になったが中がけることができなくてしながらその中で一番使うだけのことはあるところはパンア橋白菜で李王職を始めとして各代価ではたいていこちらで買って差し上げることを始めた形だ。 昨年から名前を得た島話白菜もパンア橋の次は行きますがこのごろ相場で見れば島話白菜は白銅にチルウォン五十銭、銅中庭分なら六ウォン五十銭、パンア橋白菜なら八ウォンないし九ウォン程に住むことができるということに”といった。 やはりパンア橋白菜が一番上に選ばれた。 事実東大門近所とその東側の白菜畑歴史は非常に古くなった。 朝鮮初期の学者成俔(1439~1504)は <慵齋叢話> で白菜に言及して“漢陽都城同窓の外に生きる人々がこれをよく育てて利益を取りまとめる”とした。 同じ時代を生きた金時習(1435~1493)は‘枉尋煙墟’という題名の詩で“年老いていた婦女子が都城で野菜を売って帰ってくるので幼い子供はうれしくて迎えて粗末な門の敷居を跳び越えるよ”と口ずさんだ。 これに対して金時習よりほとんど1世紀後人である權文海(1534~1591)は <大東韻府群玉> で“超心は今都城の同窓の外にある村の名前であり、こちらの人々は代々野菜を売ることを業とする”と説明した。 超心は今のソウル往十里一帯を示す。

それでも白菜キムチが朝鮮初期からキムチの一番上ではなかった。 かつて高麗中期の李奎報(1168~1241)は菁で夏には醤油に漬けて冬には塩漬けにして食べれば良いといった。 ‘菁’はカブである可能性が多い。 1670年頃書かれた <飲食知味方> ではキジで沈菜作る方法を紹介して‘蘿沈菜’を言及した。 ナパクは漢字の蘿(ナボク)から出た言葉だ。 丁若鏞(1762~1836)は‘竹欄物名考跋’で“莱は方言で蕪尤菜というが、これは武侯菜が誤って伝わった”といった。 すなわち武侯孔明が好きだった野菜という説話で‘大根’の朝鮮式名が知られてきたという主張だ。 その真実の有無はまだ確認する方法がないが、トンチミ(大根の水キムチ)とソッパクチとともにかむ朝鮮末期までキムチ材料の代名詞であった。

1890年代に使われたと思うようになる <是議全書> ではじめて白菜株漬けキムチ調理法が初めて出てくる。 このキムチの漢字の名前をソング沈菜と書いた。 丁若鏞は前の文で“ソング菜を朝鮮では拝草というが、これは白菜が誤って伝わった”と叱責した。 白菜の表面葉が松の青い色を帯びたのでできた名前がソングけられて、その中が白いので白菜になった。 知ってのとおり白菜の原産地は中国の北部地域だ。 柳重臨が1766年(英祖42)に書いた筆写本 <增補山林經濟> は中国の品種(唐種)が最も品質が良いと明らかにした。 だが、白菜はスープを煮たり蒸して食べる野菜であった。 18世紀以後に白菜が次第にキムチの主材料として地位を確立していった。 それが19世紀になれば大根に次ぐキムチ材料に浮び上がった。 結局1910年代以後白菜キムチは越冬用キムチのうちで最も重要な位置に上がった。

なぜこの時代にきて白菜キムチが浮び上がったのだろうか? ここには朝鮮に来た中国人と関連がある可能性が多い。 1882年壬午軍乱の時清国は吳長慶を前に出して4500人余りの軍隊をソウルに送る。 これから朝鮮に中国人が集団的に居住し始めた。 済物浦では労働に、ソウルでは絹と雑貨販売で、そして金浦一帯では白菜農作業で彼らは生計をたてた。 結局彼らを通じてまた他の白菜品種が韓半島に入ってきた。 それがすぐに今日キムチの漬け込みの時ごとに全国の注目をあびる結球白菜だ。

高麗時代の時中国から入ってきて韓半島に定着した白菜は非結球白菜であった。 1931年に発刊された <朝鮮総督府農業試験場25周年記念誌> では“在来白菜のうち有名なのは京畿道開城のいわゆる開城白菜と京城の京城白菜2品種だ”といった。 また、1920年代に“開城白菜は比較的北側地方に大いに普及されたし、京城白菜は京城以南の地方にたくさん栽培されている”として韓国の農民は京城白菜を主に栽培すると書いた。 京城白菜は他の言葉で前で言及したソウル白菜だ。 それと共に芝部白菜のような“結球性白菜栽培が次第に増加しているがまだ在来種栽培がその大部分を占めている”といった。

ここで‘芝部’は今の中国、山東省煙台だ。 20世紀初期に有名だった中国白菜では芝部白菜をはじめとして山東白菜・満州白菜・金州白菜などがあった。 朝鮮の華僑は春節を控えては必ず故郷へ戻った。 ‘つばめ’と呼ばれた彼らは朝鮮に戻る時荷物の中に白菜種子を入れて帰ってきた。 それでこの結球白菜の名前が‘胡白菜’になった。 朝鮮総督府は胡白菜が在来種白菜に比べて収穫量がはるかに多くて積極的に栽培を推奨した。 さらに化学的な栽培法を導入する場合、冬に胡白菜を植えてみることにも収穫できるので農家所得にも効果的だった。 1910年を前後して日本でも芝部白菜栽培が成功したので朝鮮総督府の胡白菜奨励は当然のことだった。

結局1930年代になれば結球白菜である胡白菜は朝鮮全域で栽培された。 1932年8月17日東亜日報報道によれば、黄海道長淵郡の長淵種苗源所有者キム・ジングは白菜種子採種場をいろいろな所に設置して品種改良に成功したという。 ソウル白菜でも開城白菜でも非結球白菜の最も大きい問題は寒さがはやく近づけば11月中旬にも凍ってしまうというところにあった。 これに対し比べて結球白菜である胡白菜は中葉が満杯になって凍っても表面葉を引き離せば大丈夫だった。 ところが胡白菜の人気が急速に広がったのではない。 朝鮮白菜に比べてこくが少なくて野菜の固い部分も多くなくて全面的な人気を呼べなかった。 それで1960年代までも正月前に食べる白菜キムチは胡白菜で漬けて、その後まで料理は朝鮮白菜で漬けなければなければならないと感じた。


だが高価格な在来種白菜に比べて胡白菜は安かった。 1970年代初期朝鮮白菜が高くて庶民はやむを得ずキャベツでキムチの漬け込みをすることもした。 しかしその味は朝鮮白菜で漬けたキムチに比べるのではなかった。 結局大量生産の時代に入り込んだ1970年代中盤になれば、農民は化学肥料と農薬だけあれば栽培も易しくて重さもたくさん出ていく胡白菜を選択するほかはなかった。 ここに春にも出荷できて生産者や消費者皆が胡白菜にどっぷり浸かった。 ついに1980年代初期になれば胡白菜でだけ越冬用キムチを漬けた。 当然市場では朝鮮白菜を探すことも難しくなったし、胡白菜という名前もそのまま白菜に変わった。 もう別途の意を有していなければ朝鮮白菜で漬けた白菜キムチを食べるのが容易でない。 これが去る100年間に品種も調理法もその味も変わってしまった白菜キムチの現実だ。

http://biz.khan.co.kr/khan_art_view.html?artid=201105032133455&code=900370

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