[ジュヨウンハの食べ物100年](25)靑魚グァメギ-皮を剥いだもっちり肌の誘惑
ジュヨウンハ|韓国学中央研究員教授
入力:2011.08.23 18:28:09 修正:2011.08.24 15:42:13
洪吉童の著者許筠(1569~1618)は朝鮮最初の美食書である <屠門大嚼>を書いた。 この本で“4種類がある。 北道で出るのは大きくて腹が白い。 慶尚道で出るのは皮が黒くて腹が赤い。 湖南のことは少し小さい。海州では2月に捕えられることが味が非常に良い。 昔には非常にありふれていたが高麗末に米一升にただ40匹しか与えなかったので、李穡が詩を作ってこれを嘆いた。 亂離が起こって国が荒廃してすべての物が不足するので珍しくなったといった。 明宗以前だけでも米した話に50匹だったが、今は全く捕えられないから本当に奇怪だ”とした。 すぐに青魚(注:ニシン)を置いて自身の美食経験を使った内容だ。 知ってのとおりニシンは冷水性魚種で水温が2~10度である低層冷水帯で主に生きる。 それで海水の温度が変わればその多かったニシンが突然痕跡をなくしたりもする。 おそらく許筠はそういうニシンの生態に対してはよく分からなかった形だ。
植民地時期に朝鮮総督府殖産局水産課で勤めた鄭文基(1898~1995)は1939年5月9日付東亜日報で“靑魚は朝鮮鯨で一般保健食品で重要視してきた魚族だ。 魚そのまま料理に供する他に塩靑魚をマンドゥロ都市は水論です山間農村にまで広く消費させたのだ”とした。 だがこうしたことは1900年代入ってきて可能だった。 比較的深い海に住むニシンは群れをなして行き来する属性を持っている。 そうするうちに丈夫な網を作って深い海の道に置いてこそ簡単に捉えることができた。 1876年江華島条約以後東海岸に集まった日本人漁師が先を争ってニシン漁に出たし、それから次第に東海、その中でも今の浦項迎日湾一帯が晩冬になるとニシン大魚で長蛇の列を作った。 鄭文基は同じ文で“京城人々の話をトゥルミョン大金、約30余年前にイソソは西海ニシンを多値下飴みなでする。 そして西海ニシンは東海ニシンに非下野特にチャンデハヨスミョ美味ハ飴みなでする”と明らかにした。
許筠が最もおいしいといった西海ニシンがすぐに黄海ニシンだ。 19世紀以前だけでもソウルの人にニシンはまさに西海ニシンが一番上だった。 今のソウル玉水洞近所に住んだ憑虛閣李氏(1759~1824)は <閨閤叢書> で‘靑魚塩辛’調理法を次の通り書いておいた。“ニシンを足の上に咲いておいて塩を振りかけてニシン置くことをキョキョハでゴザを覆って一晩寝かせればオ汁がみな足元に陥ることとか直ちにドクの中でニシンと塩をつけてつけて入れて漬ければ年を越してもみな頭が落ちなくて良いのだ。” 1921年版方信榮(1890~1977)の <朝鮮料理製法> でも <閨閤叢書> とほとんど同じニシン塩辛調理法が出てくる。 ただし“正二月に漬けることだと”としながら“味は良いがセミ音がすれば食べられなくハ出るのだ”と別に書き留めた。
これに対し比べて李用基は1924年版 <朝鮮無雙新式料理製法> で他の見解を前に出した。 ニシンをソウルの人々が呼ぶ名称である‘ピウッ’といって、“佐飯を大きいものでオドソ石鹸を文高頭取ってこのように(雄の腹の中に入っている白い精液の塊り)抜いて牛熊をケケばら撒いて漬ければ塩辛の汁が諸節でノラッケ出てくるのでこれも石をマニ横になる君置いてこそハ出るのだ。 夏極暑の時に他の塩辛を格別ヤンいや食べるがこのピウッチョッは綽綽チジョ一部分処ノコ爪痕初めに苦難粉をばらまけば味が第一などガーナとか数年はムキナニラ”とした。 さらに方信榮の考えと違い“鷹癌がソレをトゥルミョンかんだように傷ついたようだが痛んでいないもので牛熊に若干混じる私の丘やバー上米ヘ話は木を展開してその上にあざ笑うチェヨサコ何でも押してしみったれ集がみな陥った後に再び牛熊をばらまきながら漬ければ数年を置いてもシャンチ出ないのだ”とした。 李用基の表現のとおりならば憑虛閣李氏と方信榮が言及したニシン塩辛はニシン佐飯に該当する。 彼が言及したのがすぐに塩辛であるわけだ。
ところで李用基はピウッコギでなく、ピウックイ・ピウッペクスク・ピウッチョニュオ・ピウッチャバン・グァメギのような料理の調理法も紹介した。 その中でピウックイ調理法を見よう。 “あざ笑う色々対アルベギで痛んでいないものを石鹸を文高書いてで頭と鳥の尾取って左丸ごと盆にノロノア物価�みなパジョ アンパッがやいやいと下車でも高名君銀濃い醤油を塗って焼くもののからだに住みチシャ抱くようによく口語で再びナベに油を若干二塁で後妻街や地底でそのままノコ牛熊にとりながら食べれば卵とイリが味が背中にガーナとか強いある(数えた)火には焼くが話ジニーと。”ピウッチョッと別にピウックイで丈夫なニシンを使うと書いた。 ピウッペクスギナ ピウッチョニュオも同じだ。 しばらく捕えられる冬に陸地に移動してもニシンは簡単に傷つかない。 それでも長く置いて食べようとするならいわゆるニシン塩辛、すなわち佐飯を作らなければならなかった。
油が多いニシンは肉ぐらいの人々の食欲を刺激した。 特にニシン焼きはそれが痛んでいないものでも佐飯でも食卓の香りを濃厚にさせた。 さらに1910年代以後東海のニシンがソウルに上がってきて以前に比べてニシン食べるのがたやすくなった。 1920年代になれば貧しい人も晩冬に魚を食べたければニシンあるまくということを買って焼いた。 “ひとりがつなぐのに生活はとてもタップリ紙モトントイラ冬に荷物甕や一件だけ食い荒らしてハでは魚思い出してニシン一級を買ってその害を与えないで焼いて食べるとすぐにハ飴でそのああそうだご飯に一尾をクオノアッコヌル味つなぐようにモゴッコその翌日ああそうだにまた、ある頭を口語ノアッコヌル食べての中に考えることを‘長く置いて食べるだろうかでするかより’しかし一邊ではさらにも食べて十解くが一邊では毎日食べる場所だろうと思わずトゥオットニその翌日には朝にも背負って夕食上を砕いて見ても背負う。 これオッチドェン日認可してそのアネを火君‘今日はニシンを焼かないですよ’は、妻がぴくっと遊ぶ私や答える言葉が‘要心がその少なく朝持ち主ある頭私九頭であって億少なく朝持ち主ある頭私九頭であってすると高慢ない。 ウッチしてサナヒ計算の中がクロッケ暗い。’”(東亜日報1921年6月30日付)
前でも言及したように今の浦項市延日邑は1910年代末からニシンの主産地として地位を確立すた。 ちょうど東海ニシンが散乱場所で迎日湾を選択したし、ここに韓半島に移住した日本人漁師が介入したおかげだった。 鄭文基は前の記事で“ニシン多産知人慶尚北道では素乾したニシンを‘クァミギ’と称し、地方特産で珍重視する水産物だ。 慶尚北道連日・大邱など地方ではこれ‘クァミギ’をわら火に口語をもって魚皮をベット寄与バリーならば珍味を持つ鮮赤色魚肉が出てくるのにこれ‘クァミギ’料理中には‘クァミギッスゥックク’が一番美味だと話す”とした。 このごろ話すグァメギがまさに‘クァミギ’である。 グァメギの語源に対しては色々な主張がある。 概して貫目から出たものという。 <閨閤叢書> でも“ニシン乾いたのをその中がみな貫目というものの仮称イオチンジッ貫目はニシンを持って照らしてみれば二トゥンがお互い筒下野ポルゴケまっすぐに照らすのを止めて使えば味が変だからニシン一斗(2000匹)に貫目一つオッキ幼くてくるのだ”とした。 ところで憑虛閣李氏はニシンのうちでも味が特に良いのを貫目だと呼ぶべきなのに、世の中の人々が乾燥したのを全部貫目だと間違って呼ぶと厳しい忠告をした。 李用基も世の中の人々のように貫目を‘乾青魚’といって、“丈夫なあざ笑う止めるのに皮をむいて切り身を打って、醋醤につけて食べれば酒のつまみに生臭いようだが味はテイル組鼻メンナムルチジミにノウミョン味が非常にチョフニラ”とした。 だが、果たして貫目という漢字語が浦項で‘クァミギ’で変移されたのかは言語学的に明らかでない。
1918年11月1日から営業を始めた浦項駅はニシンをより易しく全国各地に送るのに利用された。 これから毎年1~2月なら駅広場にニシンが山のように積もって移動を待った。 1924年1月初めから2月末まで捕えられたニシンは大魚ではなかったが約5000万匹に達した。 “150万尾は生魚のまま日本に輸出して60万尾は他話様(要点のみを述べること下野マルリンこと)原料で消化されて約800万尾は汽車で朝鮮内各地に発送されて此外は発動機船級汽船への下野海路で釜山その他朝鮮内各地に供給された. また、浦項の慶北道立水産試験場で最初の試験で今回他話様ニシン級燻製ニシンを製造したこと好成績を齎下野評判が頗る良好な形だったよ。”(東亜日報1924年3月23日付)
燻製ニシンは西ヨーロッパの人々が好んで食べるニシン調理法だった。 輸出をするためには燻製ニシン法が開発される必要があった。 だが‘他話様’はどんな方法で作るのかまだ確認されなかった。 もしこれが韓国語ならば焼いて止めたという意味になるだろう。 ニシンは港に入ってくれば生漁労流通させることと塩漬け用、干し用そして燻製用で再加工すること等で分けられた。 日本に送られる生魚は、氷をいっぱい満たした冷蔵船にのせられていった。 事実迎日湾でニシンが大量にとらえられた1910年代から1940年代初期まで最も多い金を儲けた人は日本人企業家であった。 これに対し比べて朝鮮人船主は劣悪な船と網によってそれほど大金を儲けることができなかった。 さらに全国で駆せ参じた労働者は死ぬほど仕事をしてご飯もまともに手に入らなかった。 特に1931年に浦項面が村で昇格してその事情はあまりにも極端だった。 ニシンで生じる大金を見てきた労働者は決してその光栄を満喫できなかった。
隔年でニシン大魚になっても大きい収益が出ないので、ついに1933年春に浦項の水産当局ではすでに日本阪神地域に送って人気を集めた身欠きニシンを積極的に製造するように奨励した。 身欠きニシンはニシンの内蔵と頭を除去して背骨両側のサルマン離して止めたのを示す。 1890年代に北海道でニシンがたくさん捕えられて生じた乾燥法だ。 特に西日本ではこれを昆布にくるくる巻いて食べる。
1960年代初期以後海流の変化によって迎日湾にはニシンが消えたし、その場をサンマが代った。 1990年代以後浦項のサンマグァメギが全国的な流行料理になった。 既往のグァメギを食べる方式に西日本の身欠きニシン食べる方式が加えられるようだ。 たとえニシンという魚は韓半島の海で古くなったが、その漁労方式や加工方式、さらに食べる方式は植民地時期を貫いて帝国をあまりにも非常に似ていてしまった。 もっともグァメギだけそうであるだろうか?
http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?artid=201108231828095&code=960100&s_code=ac094
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