[ジュヨウンハの食べ物100年](19)明太子
ジュヨウンハ|韓国学中央研究員教授
入力:2011.07.12 21:28:57 修正:2011.07.13 11:05:35
1922年10月1日京城の長谷川公会堂で京城商工会主催で朝鮮食糧品品評会が開催された。
毎日新報当日付新聞では‘物価調節問題が高まった昨今食糧品評会開催’という題名を付けてこの内容を報道した。
それと共に“値段が安くて簡易な生活をしようとこと減らした必ず一度見物すること”と強調した。
特にこの品評会観覧は一般人にも必要だが夫人に対しては最も切実だと使った。 食糧とか当然料理が中心となった展示会であった。
展示場は日本・朝鮮・中国・西洋に分けられたし、審査委員による品評会も進行された。
“朝鮮料理は食道院で出品下野毎日行きに置いて軍隊料理は軍隊でしながら汽車弁当は、会期のうち全朝鮮のことを出品して公衆審査に付けて学生弁当は、毎日カロソ回で出品して栄養なる料理は東京栄養研究所発表にホンリムによるが京城第一高等女学校で毎日カロソ出品するところである一日二千五百エイ(カロリー)の栄養を摂取する値段が安いのをホンリムする。”
この品評会では審査を経て全271人の受賞者を選定した。 その中で優秀賞は20人、1等賞は37人、2等賞は65人、3等賞は149人が受けた。
不幸にも優秀賞は全部日本人が運営する業者に戻った。
だが、1等賞には朝鮮人受賞者が一人とした業者がいた。
その人は朝鮮焼酒を出品した高揚のシン・テヨンであったし、ある業者は朝鮮菓子を出品した京城の食道院だった。
前の毎日新報記事に出てくるように食道院は彼らが扱う朝鮮料理を全部出品するようだ。 なぜなら土蔵と明太子で3等賞も乗ったためだ。
だが、この3等賞の受賞者は食道院でなく安淳煥に出てくる。 20世紀最初の朝鮮料理屋の明月館主人安淳煥(1871~1942)がまさに彼である。
彼は1919年3・1運動にかかわって監獄生活をした後ミン・ポンホという人物に明月館光化門本店と仁寺洞地点を売った。
その後1921年頃安淳煥は南大門近所今の中央郵便局北側道に食道院という朝鮮料理屋を整えた。
だから安淳煥の名前で3等賞を受けた土蔵と明卵は食道院で出品した作品だと見ても関係ない。 だが、土蔵は淳昌のキム・ヨンムとともに賞を受けた。
これに対し比べて明卵だけは安淳煥一人で受賞者になった。 したがって明卵は食道院で料理膳に上がった料理だったことが明らかだ。
1922年10月2日付東亜日報にのせられた朝鮮食糧品評会写真.
明卵というのは全部知ってのとおり明卵漬を示す。 干し明太の卵を明卵だと呼んで、それを塩辛に漬けたのを明卵漬だと呼ぶ。
李圭景((1788~1856)は
<五洲衍文長箋散稿・北魚辨證說>で19世紀初期干し明太の事情を詳しく聞かせる。 “朝鮮東北海中にある魚だ。
できるということが狭くて長がるように程度だ。 口が大きくてうろこが殆どない。 和らげた赤黒い色だ。 頭にはカボチャのように楕円形の骨がある。
腹には卵があるが、小さくて細くて冷たくなる。 また、肉は羊の油や豚の灯心肉と似ている。 それで膏脂美だと呼んだりもする。
その名前は北魚で、民間では明太と㴑呼ぶ。 春に捕えられるのは春太だと称して、冬に捉えるのは凍太だと称する。
同こと月に市場に出てくるのは凍明太だと呼ぶ。 塩辛に漬けた卵醢(卵해)は明卵だと称する。 生ものの肉は質が荒いが味は淡白だ。
乾燥させればフォーとなる。 一箇所集まっていて一匹を捉えれば数十匹がついてきて四方がぎっしり埋まる。 毎日のようにご飯おかずで使われる。
余抗の貧しい人々は神霊に祭祀を迎える時乾燥することで重要な除数とする。 貧しい士の家でも祭祀の時上げなければならない各種肉お供えをこれで代る。
だから価格は安いのに比べて尊く使われる。 単に食べることができるだけその名前を分からないから果たして正しいだろうか!”
推測してみれば北魚(注:干し明太)は19世紀の時朝鮮半島で最も広く食用された魚中の一つだったということがわかる。
それでも明卵が広く広がったことではなかった。
ぼら・サケ・ニベなどの卵を卵巣ごと別に取り出して塩漬けにして太陽の光に半分ぐらい止めた料理である魚卵は長期間常温で保管が可能だ。
これに対し比べて明卵は卵巣が丈夫でなくて単に塩漬けにして漬けるだけだ。 冬でなければ常温で簡単に腐ってしまう短所がある。
それで冬にだけ咸鏡道から南側の韓半島に流通した。
1909年一年の間咸鏡道から釜山に720ウォン分の明卵が流入(皇城新聞1910年1月29日付)なった時も主に冬だった。
1934年版方信榮の
<日日活用朝鮮料理製法>
でも‘明卵漬’と書いて、“冬に食べることであるから北魚卵(注:干し明太の卵)で作ったことで日にも食べて蒸しても食べナニ(中略)生で食べるのは明卵をまないたに置いてよく入る刃物で五分の長さで切って-違うものを切るように切らずに刃物でぷつんと処暑よくルラ-皿に盛って黄色いネギを一寸の長さで切って鞭打って皿あるそばにものなどで置いて初めを少しうって上に置くということなのだ”とした。
ところで先に出版された1921年版 <朝鮮料理製法> ではこの明卵漬に対する言及がなかった。
おそらく1910年代初期だけでも特別な場合でなければ明卵漬を京城の人々が接することは容易でなかったためでないか?
1914年9月16日京城と元山の間に京元線が開通して明卵の流通はその以前元山と釜山の間を行き来した船ぐらい近づいた。 それで例の朝鮮食糧品品評会で安淳煥が新しい料理で明卵を出品することができた。
明卵漬調理法は1924年に出版された李用基の
<朝鮮無双新式料理製法> ではじめて言及された。
“明卵漬:明卵漬はチゲをしても生で食べるのに黄色いネギやこと差し上げれば普通冷えて(嫌い)という人がオムナニ.
この塩辛は正月が過ぎれば食べることを少なくハ出るのだ。 この塩辛の元悪(あまりにも)フナヤ
マニ食べるが味は格別味アップ出るのだ”とするほど1920年代に冬珍味で京城の人々の食欲をかきたてた。
元山では鉄道の完工と共に始まった元山と清津をつなぐ咸鏡線が次第に北につながって明卵は京城で発行される新聞記事にその名前が次から次へ登場する。
元山をはじめとして咸鏡道の主な漁港に進出した日本人たちは朝鮮人が干し明太を非常に好んで食べるという事実を知って発動船で独占し始めた。
本来朝鮮人漁師はゴルグ網と呼ばれる刺網で明太を捉えた。
横に非常に長い四角形の網を明太魚群が過ぎる通路に垂直で広げて網目にささるようにして捕まえる方法であるが刺網漁法は発動船を利用した旋網漁法を耐えがたかった。
旋網漁法は網で明太魚群をくるっと回って行かれるその区域内の明太をさらって捕まえる方法であるためだ。
日本人の発動船と旋網は干し明太漁で絶対的な位置を占めた。
たとえば1930年咸鏡南道の漁港で稼動した発動船は全24隻だったが、その中21隻が日本人所有であった。
最も大きい問題は干し明太の稚魚さえも全部捉えてしまう日本人所有の発動船にあった。
結局1920年代末から咸鏡道の主な漁港で活動した朝鮮人漁民がこの問題を世論化させた。
1930年3月4日付東亜日報では‘咸南の明太魚’を扱ってこの問題を持ち出した。
さらに同じ新聞1931年3月8日付では咸南の中部海岸に位置する洪原郡有志が‘密漁発動船横行’問題を地方世論で当局に求める記事まで掲載されるほどであった。
特に明卵の改良問題は深刻だった。
すでに日本人によって干し明太の加工はもちろんで明卵さえも缶詰めで加工されて日本列島はもちろんで台湾と満州に輸出されるほど盛業を成し遂げるとすぐに朝鮮人貿易商の心配が山ほどだった。
座談会に参加した大貿易商ジョンジョンソンは“明卵においてはそれが輸出することになったことは今からわずか4~5年前のことなのにたいてい日本と台湾でたくさん需要します。
これも外人の加工品よりは品質が良好で値ない下野販売価格において朝鮮の人の調製明卵は約2割引になるといいます。
しかし地帯上で見てからは私たちは加工品製造に対してこそ場所と気候が非常に適当下野とても発展する余地が万朶で考えます”という意見を表明した。
1920~30年代洪原郡の三湖は全国で明太漁獲量が最も多い漁港だった。
1933年8月25日に‘三湖まるぼし(代表:紙標準)’という運送店主催で明太漬(明太子)まもなく明卵問題協議会を結成して面長など有志らと漁民が対策を議論するに至った。
彼らは朝鮮運送株式会社と朝鮮総督府鉄道局に明卵運賃を引き下げてほしいと要請することに決議した。
同時に明卵製造を改良する方法に対する議論をすることにした。
詳しい改良方法が出てこないけれど、明卵を洗って水気を抜いた後に塩漬けにして粉唐辛子をそばに塗る方法でないか推定してみる。
今日日本人たちは明卵を辛子明太子と呼ぶ。
ここでカラシとは唐辛子を示す。 明卵の塊りのそばに粉唐辛子を塗ったのでできた名前だ。
このような明卵調理法は19世紀以前にもあったことだと見なされる。
ただし1908年に福島出身樋口伊都羽(1872~1956)が釜山で明太子製造をして下関に送ったが、それはやはりこのような製造方法を使ったと思う。
1920年代中盤以後から解放以前まで釜山所在樋口の商店は非常に繁盛したと分かる。 だが、今日日本列島で辛子明太子は福岡の博多が名産地で有名だ。
博多明太子の由来に対しては色々な主張があるが、川原俊夫(1913~1980)が1949年1月10日から博多で‘味の明太子’という商標で販売をしたことは明らかな事実だ。
おそらく植民地時期から釜山と福岡の間の人的交流が韓国語明太の日本式表現である‘メンタイ’を維持させた力だった。
‘味の明太子’は1970年代中盤以後福岡はもちろんで日本列島全体からすごい歓迎を受けた。
だから今日多くの日本人たちは明太子を自分たちの古い料理で知っていたりもする。
今日韓国で明卵は‘あまりにもありふれている’でした李用基が生きた1920年代初期とは事情が余りにも違う。
南北分断は咸鏡道の明卵をこれ以上越南させなかった。
それでも姿を見せた古城近海の干し明太も1990年代以後地球温暖化によってさらに北に移動してしまった。
結局今日韓国人の食卓に上がる高価格な明卵はほとんどのロシアから持ってくる。
李圭景が明らかにしたことと反対にもう干し明太や明太子や価格は高くて味見も難しくなった。 これら全て人間の欲が持ってきた結果だ。
http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?artid=201107122128575&code=960100&s_code=ac094