2016年12月11日日曜日

[ジュヨウンハの食べ物100年](18)片肉

ジュヨウンハ|韓国学中央研究員教授
入力:2011.07.05 21:13:45 修正:2011.07.13 10:52:04

・スユクを薄く切った料理が片肉…豚頭が逸味

朝鮮時代の人々が料理を上に整える時どんな規則を有していたのか非常に気になるが不幸にも19世紀中盤以前の文献のうちでまだこれが発見されたことはない。 ただし19世紀末頃に使われたと思うようになる <是議全書·飮食方文>の末尾に‘飯床食刀’が出てくるだけだ。 この本の‘飯床食刀’には九妾飯床・七妾飯床・五妾飯床・そば床・酒床・神仙炉床・イムメ床の食膳規則が図で描いている。 ところでそば床・酒床・神仙炉床を除いた残りの床には皆にはハングルで書かれた‘熟肉(숙육)’との料理が出てくる。 それだけこの本の著者は熟肉を膳を調える時必ず出さなければならない料理で理解するようだ。 熟肉とはどんな料理か? 当然この本にその調理法が出てくる。 漢字で‘孰肉’と使ったが、おそらく‘熟肉’の誤りと見える。 “牛の胸肉・孵化・道ホ・乳筩・牛嚢・牛頭・事態・利子・猪肉をみなゆでて切ってスナニラ. ゆで骨カルに合わせてボーに安くて押して使えば良いのだ。 猪肉は醋醬と塩辛汁とコ・朝粉入れて使ってニンニク チョミョ包んで食べることでいやハ出るのだ。”

知ってのとおり牛の胸肉は牛の胸についた骨と肉を示す。 孵化は肺を示すボアの誤りと見える。 道壊す脾臓で脾臓部位を示す。 乳筩は牛の乳房の肉を呼ぶ言葉だ。 牛嚢は牛嚢で鉄金玉を意味する。 牛頭は牛の牛頭肉だ。 事態は牛のひかがみについた肉塊を示す。 利子はすい臓の他の言葉だ。 猪肉は低肉(저肉)まもなく豚肉と呼ぶ百姓らの言葉だ。 たとえこの本では牛肉の肉塊あるいは内蔵部位、そして猪肉だけを言及したが、広い意味で熟肉は肉をゆっくりゆでて出して水気を抜いた料理を示す。 ところでゆでて骨を選んだ後に風呂敷に安くて押して使えば良いといった。 熟肉を薄く薄く切った片肉を念頭に置いてこのように書いたようだ。

朝鮮時代文献で‘片肉’という単語は大きく二種類の意を持って使われた。 その一つは肉切れを示す時使った。 他の一つは料理の名前としての片肉だ。 概して19世紀中葉から熟肉を薄く切った料理を最初から片肉だと呼ぶようだ。 1865年(高宗2年)陰暦10月1日景福宮の光化門左側に議政府が改築した。 同じ年のような月12日、これを記念して高宗が議政府を直接訪問した。 議政府では高宗が座った席に藥果・茶食・梨・柿・ユズなどと共に肉類で片肉・煎油魚・華陽炙・甲膾と各種焼き物をした皿ずつ上げた。 この内容は <親臨政府時儀軌> という本に出てくる。 おそらく現在まで片肉が独立した料理名前で登場した文献はこの本が初めてではないか見なされる。

1924年出版された <朝鮮無双新式料理製法> で李用基は‘片肉食べる方法’という項目を置いて本格的に片肉に対して扱った。 ところで彼の片肉に対する論評が全く肯定的でない。 “片肉というのは自來食性であり風俗であり習慣というだけのものとか、わずかな違いにすぎず、薬は捨てて残滓を食べるわけだから、円、良い肉味はみな抜けたもので何でそんなにおいしくて滋養になるだろう。”このように片肉に対して言及して李用基はひたすら古くなった慣習だとやむを得ずこの本に書いただけという心情を明らかにした。

この本の他の項目では主に‘作る方法’と書いたが、唯一片肉では‘食べる方法’と書いた。 それと共に牛の胸肉片肉・オプジン片肉・猪肉片肉・牛の頭片肉四種類を扱った。

この中でオプジン片肉のオプジンは牛の胸についた肉を示す。 オプジン片肉は“日増しに持って行ってゆでればスープが第一ですあるいは肉は味も良くてククスにかって食べるのが一番良いから片肉のうちで相等になって出るだろう”とした。 実際に日帝時代調理所と新聞・雑誌に紹介された片肉は主にそれ自体よりは他の料理の材料で使われた。 日帝時代平壌料理で有名だった魚腹錚盤に入る片肉もオプジン片肉が一番上だった。 “当初には牛肉で作るのかを違って魚内蔵もって作ったことだと魚腹といったことのようだがその後には牛の内蔵に牛の骨髄を混ぜておいて作ったようで次には牛肉に牛の骨髄を混ぜて入れて作ってついに今の魚腹醤湯になって話はようです。 ところで今の魚腹醤湯は純然な淡い雌牛の胸パックが購入-京城で‘ジュプジン’といわゆる片肉を作る肉-で作るのにその中にもよく作る魚腹には今でも骨髄を入れたというが大慨は値が高くて救うのが難しい理由で骨髄は入れないで‘ジュプジン’肉でだけ作るといいます。”(東亜日報1926年8月22日付)


<是議全書·飮食方文>に出てくる‘飯床食刀’.
図上の九妾飯床は外側の下で左に半分、塩辛、佐飯、煎油魚、熟肉、キムチ、膾、ナムル、サム、焼魚、ユク焼き、羹.
内側は下で左に最初、カラシ、チロン(醤油)、両ジョチ、魚ジョチ、澄んだジョチ.
下の図は七妾飯床で外側の下で左に半分、塩辛、佐飯、膾、キムチ、熟肉、ナムル、サム、焼き物、羹.
内側の下で左に醋醬、カラシ、チロン、味噌チゲ、澄んだジョチ.

ここの‘ジュプジン’がまさにオプジンだ。 李用基はオプジン片肉をアミの塩辛に油と粉唐辛子を打って片肉を細かく切って入れてしたが混ぜ合わせ食べたりもするといった。 前の東亜日報の魚腹錚盤を書いた人‘ポ・ドゥルスェ’も“ソウルのいわゆる牛のスープ具味付けするように色々な調味料(ヤンニョム)を下野その肉を煮出した湯に入れておいたので果たしてどれくらいおいしいでしょうか”と感心をした。

1921年版方信榮(1890~1977)の<朝鮮料理製法> では別に片肉調理法を言及しないまま、ククスビビンで“ククスをお湯にゆすいでおいて器に入れた後おいしい大根キムチやナバクキムチと梨と片肉と猪肉片肉をまま打って入れて少しの間混ぜておいてまた油をさしてセリ油で炒めて切って入れて擦って接待に入れた後いろいろまま打ったのと錦糸卵まま打ったのとまた、椎茸ソクをまま打って油に炒めて上に根百合と”とした。 冷麺にも“片肉と猪肉片肉をまま打って入れて”、さらにトンチミ汁の冷麺にも“ダイコンと梨とユズを薄く薄く切って入れて猪肉切って卵送って鞭打って入れて胡椒実柏子を入れて墨出るのだ”とした。 おそらく片肉はオプジン片肉が明らかに見える。

李用基は彼の本で‘猪肉片肉’を言及して括弧中に‘猪肉’と別途表記をしておいてそれが猪肉であることを確認させる。 “猪肉は色々なものが片肉で使うので頭が一番上になるのは皮と耳と鼻がみなそれぞれおいしくてその次には乳筩が良くて足首は八珍味に入ると言って好きだが丈夫な心列が足首にはあって足首一つに骨が緑豆半チャゲ(緑豆を半分で裂いたこと)のようなものがあって数が二十六個とし、味も格別ヤン良くなくて食べるにも苦しくてかえってカルビがおいしいから育成紙を蒸し器に蒸してこそおいしいのだ。”まもなく猪の頭片肉が最もおいしいという事実を強調している。 普通ソウルや南部地域の人々はこの猪肉片肉を食べる時必ずアミの塩辛につけて食べた。 だが、北側の人々は塩につけて食べてこそ良い味が出ると感じる。 李用基はこれに対して北側にアミの塩辛が尊くてそうなのではないか考えた。

オプジン片肉や猪肉片肉は今でもなじむ片肉だ。 これに対し比べて李用基が言及した牛の頭片肉食べる方法は非常に特異だ。 “牛の頭を脆くして大きく切って夏に冷水に氷入れて牛の頭の部分を入れて漿果葱とゴマ塩・粉唐辛子・カラシなど水を入れて青唐辛子を分けて入れて汁をすくって食べて肉は最初につけて食べるものの大根の葉キムチと付け加えれば合奏(夏に飲むもち米で漬けたドブロク)酒のつまみに上騰されて出るだろう。”これだから朝鮮料理屋で片肉は酒の肴で人気が高かった。

前の <是議全書·飮食方文>でも見たように牛の胸肉は熟肉の材料のうち一番上に選ばれた食材料であった。 李用基やはり牛の胸肉片肉を四種類片肉のうちで一番最初に挙げた。 “牛の胸肉は牛の肋間の肉がいいが硬く告訴するブンイヨの中では硬くて丈夫な味がなく後方にフドゥルドゥルしたのが香ばしくて味が一番良いから草の葉っぱのように切ってモスム(一握り中に入るほどの分量)ごと醋醤につけて食べて株漬けキムチやカクテキに付け加えるのも非常に良いのだ。 また、アキアミの塩辛につけて食べることがより一層良いのだ”とした。 ひたすら牛の胸肉片肉だけがそれ自体で立派な一品料理になった。 高宗が1865年陰暦10月2日改築した議政府で召し上がった片肉も明らかに牛の胸肉片肉であっただろう。 ところでこのごろの人々は片肉といえば猪肉で作ったことで、スユクといえば牛肉で作ったものと考える傾向が強い。 スユクは熟肉と漢字語を発音するのに良くさせた民俗語彙だ。

片肉と似た料理の名前でこのごろ流行するのは‘ポッサム’だ。 本来‘ポッサム’はゆでて骨を抜き出した豚などの牛頭肉をボーに包んで重いことに押して丈夫にさせた後切って食べる料理という主張(パク・カプス、‘八字(注:運命)のせい、ポッサム - 褓(ポー)’、 <ハングル漢字文化> 114,2009)もある。 前の <是議全書·飮食方文>でも出てくるように風呂敷に包んで押さえられたので‘ボー’がついてこれを白菜キムチに安くて食べるのに‘サム’になった。 今は豚の三枚肉を主に使うが、本来は李用基が猪肉片肉で明らかにしたように猪の頭肉がたくさん使われた。 1966年7月28日付東亜日報では豚値が暴落したという便りを知らせた。 ところでその理由が逆説的だ。 “アメリカ余剰農産物の導入量が減ってふすまの値が上がったためだ。 政府が豚を育てろと奨励したし予防注射薬の発達で伝染病の威嚇は少なくなったので豚家族は増えたが食べさせるのが大変だ。 高い飼料に育ててこそ飼料値も出てこないとむやみに部屋鷹するという。 一ヵ月前に3千ウォンずつしたことが今は半額に売買されると(京畿道利川の場合).”

別名‘ポッサム家’の流行やはりそれほど古くならなかった。 概して1980年代中盤以後だ。 片肉材料の代名詞であった牛肉がその場を豚肉に渡した時も概してこの頃だった。 知ってのとおり豚肉は韓国の人に別に人気がなかった。 漢方薬を食べて豚肉を食べれば髪の毛が白くなるといううわさ、豚肉に寄生虫があって誤って食べれば死ぬことになるという俗説、さらに豚は牛とは違い人の料理を共に食べるので競争者だったので。 牛肉値の暴騰を防ぐために1970年代初期以後政府では食品学者と料理学者まで動員して絶えず豚肉の栄養と調理法を広報した。

結局1980年代初期以後豚肉消費量は牛肉を越えた。 豚ポッサムの流行も分かってみればこのような政策の結果であった。 脂身を抜いてあらゆる薬剤で煮込んだ豚肉片肉の変身である豚ポッサムは明らかに栄養価多くの料理だ。 さらに白菜キムチとともに付け加えるので逸品にならざるをえない。 だが、その後には国民の食欲も管理する政府があった。

http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?artid=201107052113455&code=960100&s_code=ac094

2016年12月10日土曜日

[ジュヨウンハの食べ物100年](17)生鰒膾

ジュヨウンハ韓国学中央研究員教授
入力:2011.06.28 21:42:27 修正:2011.07.04 10:31:11

朝鮮料理屋は1920~30年代非常に繁盛した。 政治・経済的にかなり難しかった1940年代にもその事情は変わることがなかった。 解放以後民生が最悪の状態だったが、高級料亭はかえって盛業をした。 結局1948年10月29日に國會議員金相敦が‘高級料亭封鎖’を法令で提案するところまで達した。 朝鮮戦争が韓半島を奈落に落としていた1951年12月1日にも政府では衛生監察団まで組織して高級料亭の食物を簡素化させて、料理価格も統制下であった。 当時資料を通じて料亭で販売された料理の種類を推定することができる。 その中から‘韓国料理’に分類された料理と価格を調べよう。 “神仙炉1万1千ウォン、メウンタン1万1千ウォン、生福8千ウォン、タクプクム(鶏肉炒め)8千ウォン、蟹活気7千ウォン、鯛膾8千ウォン、紅酢(ホンチョ)1千ウォン、略式8千ウォン、センバム8千ウォン、異彩1万1千ウォン、シクヘ6千ウォン、果実6千ウォン、乾布6千ウォン、海老天丼く8千ウォン、生鮮錢魚8千ウォン、卵アルサム8千ウォン、チョングィラリュ6千ウォン.”(東亜日報1951年12月2日付)

料理の名前だけ見ればこのごろ名前で移すことも難しいことが多い。 紅酢・異彩・海老天丼・チョングィラリュなどはその実体を分かり難い。 ただし生福はその漢字では意が明らかでないけれど、鰒で作った料理である可能性が多い。 なぜなら生鰒は漢字で‘生鰒’と書くためだ。

時々生鰒を毒ふぐで誤解するけれども、生鰒は煮たり丸まっていない鰒を示す言葉だ。 ただしその漢字を間違って書いて‘生福’と使ったと見られる。 その価格が鶏肉炒めや鯛膾のような8千ウォンとか生鰒であることに間違いなく見える。 特に12月1日におりた政府措置とか鰒の値が高い季節に該当する価格といえる。

生鰒だと書いた料理の名前の実体は生鰒膾である可能性が多い。 生鰒膾調理法は李用基が1924年に出した料理書の <朝鮮無双新式料理製法> に出てくる。 “生鰒をジョガブ(貝殻)から離して征夷洗って盗んで粉太く切って皿に入れて松の実の粉をばらまいて醋醬で食べれば味が甲等で行くが、なにとぞ太く切ってはならない。 生鰒の中に青い苦楽がインナニ丸ごと粉切って生の鰒のそばに置いて食べればおいしいのだ。”ところでこの本以前の料理書では生鰒膾に関する記録がまだ出てこなかった。

実際には、朝鮮後期宮中飲食の種類を記録した進饌・進宴關聯儀軌で漏れずに出る料理が全鰒炒だ。 たとえば朝鮮王朝第23代王・純祖29年(1829)陰暦2月12日にあった宮中宴会過程を記録した <進饌儀軌> には全鰒炒五種類が整えられたと記録されている。


皇城新聞1901年6月19日付にのせられた全鰒缶詰め広告

それなら全鰒炒はどのように作る料理であったか? 洪善杓が執筆したと思われる1938年1月4日付朝鮮日報では全鰒炒を水剌床に上がる饌需に挙げた。 “鰒を水に浸した後カジャンサリをかえって出してヤルゲ薄く切ってゆっくりムルドロクゆでては爪痕濃い醤油を打ってビーチ カマケもう一度消すだろうです。 その次には牛肉をきれいにドジャーで味付けして君鼻葱ニンニクをきれいにドジャーで少し君鼻砂糖を打って楷書間を終えます。”真夏に採取した鰒を干しておいて冬に水に浸して全鰒炒を作ったということがわかる。

このごろとは違い朝鮮時代鰒は簡単に手に入れることができた食材料であった。 徐有榘(1764~1845)は <蘭湖漁牧志> で“江原道と古城などの地で出る奴は皮が小さくて肉が干からびて、蔚山・東莱・強震・済州などの地で出る奴は皮も大きくて肉が厚い”と書いた。 たとえ大きさが小さかったが、平安道新南浦近海や咸鏡道元山正面の海でも採取された程に韓半島の三面海辺は鰒の産地であった。

これを生鰒といったとすれば、蒸したものは熟鰒、乾したものはは乾鰒・ミョンポ・懐抱だと呼んだ。 丁若銓(1758~1816)は <玆山魚譜> で鰒は乾かして捕虜作ることが最も良いと見た。

このように乾燥鰒は四季通じて流通する長所があった。 それで慶尚北道常駐に住む人が19世紀末に書いたと思うようになる <是議全書·飮食方文>では全鰒を利用した料理がたくさん出る。 魚菜には白葱とセリ、そして魚と共に全鰒と海鼠が材料で使われた。

全鰒が主材料である料理では全鰒粥・全鰒安・全鰒茶食などがある。 その中で全鰒粥を作る方法を調べよう。 “良い大きい鰒をゆでるものの初めての茹で水は捨ててしまいファンユク(牛肉)とナマコ・タコ・紅蛤を入れて返品するように孤児取り出して全鰒を薄く切っても筒を十字に切って細かくオイシャーとネギとニンニクみじん切り胡椒・油・ゴマ塩・蜜入れて人生は水に煮つめてこそ良いことでシレイ(注:醤油の方言)(醤油)を打てば味のようなことで横になれないコ解いた後に松の実の粉をたくさん混ぜて角高器に入れた右に松の実の粉をモウモウ色吏とファンユクはすくい出してタコ ナマコは切って入れて紅蛤は村の時みな錆びるだろう。”

これで<是議全書>の全鰒粥がすぐに全鰒炒であることを確認する。 東亜日報1934年9月5日付では全鰒を‘점복’と書いた。 “生量ある天気食欲助ける秋料理淡くておいしい‘점복’料理製法”という記事がまさにそれだ。 この記事では점복煎骨・점복チャンアチとともに점복チム(注:蒸し物)調理法を紹介した。 別名‘점복炒’と呼ぶといって“これが多分점복料理に一番最初の席を占める料理だ”と書いた。

朝鮮後期には生鰒より乾燥鰒を主材料で使った。 当然生鰒は流通過程で安全を担保しにくかったためだ。 そういう事情は1900年代になっても同じだった。

皇城新聞1901年6月19日付に全鰒が缶詰に入れられた広告が出てくる。 今のソウル鍾路区光化門南側にあった亀屋商廛という店で出した広告で、ワイン・珈琲糖(角砂糖の入ったコーヒー)・牛乳・蜜柑酒・木果・ビールとともに全鰒が出てくる。 この広告は以後に引き続き皇城新聞に登場した。 それだけ不思議な製品であったし結構売れたようだ。

この缶詰全鰒はおそらく日本から輸入されたと見られる。 知ってのとおり缶詰は1810年英国のピーター・デュランドが金属製容器に食品を入れる方式を開発してから始まった。 だが、この缶詰め製品はその包装値が非常に高かったためにヨーロッパ人が長期間旅行をする場合にだけ利用された。

日本での本格的な缶詰め生産は1877年北海道の工場から始まった。 だが、内需用よりは輸出用で主に使われた。 1923年関東大地震の時アメリカから提供された支援物資のうち食品が缶詰めに含まれてきた。 この時から日本で缶詰めは食品を入れる容器で広く使われた。 その事情は植民地朝鮮でも同じだった。 結局1920年代中盤以後に韓半島の海辺で捕えられた鰒はゆでて乾燥させた後缶詰めに入れて日本に輸出された。

朝鮮時代王室で使った鰒は主に済州島で上がってきた。 16~17世紀済州島には男潜水夫として専門的に全鰒を採取する鮑作人が存在した。 18世紀以後、海草を主に採取した海女(ジャムニョ)がこの役割も引き受けた。 それで全鰒すれば海女を考えるほかはなくなった。

1930年代全鰒の価格は他のどんな採取魚物に比べて高かった。 済州島はもちろんで全国の海辺に済州島出身海女が進出した。 一種の季節制労働のための移動が成り立ったわけだ。 特に済州海女の陸地進出は製氷工場が主な港に架設されてより一層促進された。

1930年代初期製氷工場はソウル4ヶ所、釜山2ヶ所をはじめとして咸興・栄進・浦項・楊浦・馬山・統営・麗水・巨文島・羅老島・木浦・済州島・群山・仁川・大邱・大田などの地に1ヶ所があった。

外需用缶詰全鰒と共に冷凍全鰒が1920年代以後浦項を中心に内需用で流通した。 それで済州海女の慶尚北道東海岸進出が日が進むにつれ増えた。

以前に比べて簡単に生鰒を購入することができるようになって、鰒を長く生かす方法が家庭常識まで紹介された。

“점복だとたくさんできたが一度にみな召し上がることはできなくて放っとこうとすれば傷つく心配があったら炭を점복ごとに肉に付けておいてください。 するとこの週は行くそうです。”(東亜日報1934年9月7日付)また、生産量が増えるとすぐに鰒は色々な料理に入る副材料にも使われた。 神仙炉・白菜キムチ・乾燥おつまみはもちろんで、ククス混ぜ合わせにまで副材料で全鰒が入った。 それこそ1930年代中盤は生鰒の全盛時代だったといっても過言ではない。

だが、大量採取は鰒の種を絶やすことを発生させた。 小さいのと大きいのと鰒が見えればさっさと採取したためだ。 特に慶尚北道迎日湾近所で日本人が運営した缶詰全鰒工場では海女たちが捕らえた全鰒を缶詰に加工して中国、満州に輸出した。 結局1932年5月、慶尚北道では‘チェボク채복禁止’を法で決める状況に達した。 “従来とともにむやみに捉えるならば間もなく氏族が滅ぼすことになるだろうという商売と当局者の心配を受ける海中の鰒が法令まで保護を着ることになったという。 それを取って食べて生きた済州島の海女もいくら努めた大刀入ってこれないことになって慶北道では遠からず道令を発表して今後2ヶ月の間は誰も取って食べられないように禁止するだろうという。”(東亜日報1932年5月6日)

本来日帝時代全鰒採取は免許制で成り立った。 だが、地方の道廳では免許を乱発したし、鰒の種が韓半島の海辺で枯れていった。 解放以後その事情はより一層深刻化した。 結局豊富だった鰒はこれ以上一般人の食卓に上がりにくい食材料になった。 それでも1940~50年代高級料亭で生鰒膾が時々提供されたが、1960年代になるとすぐにそれも消えた。 1980年代までも鰒は共同漁場や村漁場に稚貝を散布してそれが育てば海女や潜水夫が採取する方式で初歩的養殖をした。 当然その生産量は多くなかった。

水産学者などの努力でやっと2000年代になって海上縁方式で養殖をしながら鰒生産量は急激に増加した。 だが、生鰒膾の調理法を分かる人はまれになったし、結局日本式生鰒刺身が時々刺身で出るだけだ。

http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?artid=201106282142275&code=960100&s_code=ac094
[ジュヨウンハの食べ物100年](16)九節坂

ジュヨウンハ|韓国学中央研究員教授
入力:2011.06.21 19:06:03

・八種類の材料小麦煎餅にグルグル~一口にぐいっと~
・年初お客さん接待料理で人気


‘九節坂(クジョルパン)’は料理を入れる器でありながら、同時にそこに含まれた料理自体を示す言葉だ。 ところで朝鮮後期に出てきた料理書をいくら探しても九節坂という単語が出てこない。 日帝時代、それも1935年になってこそはじめて新聞に九節坂という料理が出てくる。

東亜日報1935年11月9日付‘秋の料理(6)わが家の自慢料理九節坂、白菜やわらか’との記事がまさにそれだ。 この記事は記者が尹淑卿という夫人の話を聞いて移した形式で構成された。 “今日紹介させようという料理は特に酒の肴に良くてまた複雑そうに見えて比較的作りやすいのです”で始めるこの記事では九節坂が漢字で‘九折板’になるといって記事に図も一緒に描いて入れた。 それと共に“昔には九節坂という図のとおりな器があってこのうつわに九種類を入れて使うことになったわけだけれど今はこのうつわを売る所がないだけに大きい西洋皿に盛ってもみやすいです”といった。

尹淑卿が何を根拠として昔には九節坂という器があったといったのかは知らない。 なぜなら朝鮮後期の図や遺物のうちに九節坂と似た器がまだ出てこないためだ。 ただし九節坂と似た形の土器が1973年に慶州天馬塚で発掘されることもした。 また、1997年7月光州市光山区新昌洞遺跡で九節坂と似た形の木で作った物も出土した。 だが、これが今日の九節坂と直接連結されると見るのも難しい。

尹淑卿の記事で描かれた九節坂は今のことのように周り八間、中で一間だ。 今日の九節坂と同じだ。 ところで1938年1月4日付朝鮮日報10面に紹介された九節坂はそうではない。 “中間に一穴(グニョク(注:穴の方言))四方ぐるっと回して九穴を丸いラケが九節坂重箱”といった。 今基準として話せば‘十節版’になる。 この記事を書いた人は男として1930年代中盤以後朝鮮料理に対する色々な文を雑誌と新聞に残した洪善杓だ。 彼は1937年頃に朝鮮食饌研究所を設立したし、1940年6月に朝光社という出版社で <朝鮮料理学> という本を出版した。 前の朝鮮日報九節坂文がそのままこの本に移しているので記事の主人公を確認することができる。

洪善杓は1940年3月14日付朝鮮日報で‘九折包(グジョルポ)’に関するコラムも書いた。 九折包は九節坂の他の名前だ。 おそらく九間に置かれた食べ物を小麦煎餅に包んで食べるので付けられた名前であるようだ。 この記事でも“木で作った合計の中に水卵(ポーチドエッグ)浮かび上がる器形に底に熱穴を丸く掘るもののある中央にはある穴を掘ってカウで九穴の皿のような板だろう”といった。 だから決して今のことのように木版で作って漆をしたのではないことも確認される。 さらに洪善杓の説明に見れば、九節坂が必要な人は木で直接作った可能性が多く見える。 尹淑卿は九節坂という器を購入できないといった。 事情は少なくとも1950年代までも持続するようだ。


東亜日報1935年11月9日付に出てきた九節坂図。

1960年12月22日付東亜日報の‘九節坂料理’との記事が再登場したためだ。 特にこの記事には九節坂器の写真がのせられた。 さらに周りに‘九節坂’と最初からハングルで書いておくほど今のよりも高い。 相変らず人々に九節坂器はなじみがうすかったためでないか? 今と同じ姿の九節坂器は1968年7月29日付京郷新聞で初めて写真で登場した。 ソウル市無形文化財第1号漆長である孫大鉉(1950~ )の記憶によれば、1968年閔鍾泰(1915~1998)職人の攻防で漆器ことを習う時漆器九節坂器を作ったという。 自身は九節坂器の内側を紙やすりでこする作業をした。 五人が分業をして1ヶ月に10個の程度の九節坂を作った。 当時ではこの漆器九節坂器の価格はこのごろとは違い非常に高かったとも記憶した。

1970年代以後九節坂器は今と同じフォームを持って漆器や陶磁器で作られた。 特に漆器九節坂器の大衆化は年初に手入れが上手になっておかなければならないという記事(京郷新聞1973年12月28日付)でも確認することができる。 “年初になればお客さん接待などで重箱や皿九節坂など漆器を使うことが多くなる。 漆器は派手で品位はあるが手入れがわずらわしいのがフーン. 漆器にお湯は絶対禁物でありぬるま湯布巾で磨いた次にやわらかい布切れで磨いてつやを出す。” 1974年12月には東亜工芸大展出身作家のうち1人であるパク・ヨンギュが木器九節坂を工藝同友展に出品することもした。 1982年になればデパートで3万ウォン以上の商品を購入すれば爪切り・牛乳カップセット・スカーフとともに九節坂を記念品で提供することもあった。 さらに1983年になれば磁器になった九節坂器に夜・松の実・クルミ・ナツメなどのドライフルーツを入れたギフトセットが販売されることもした。 結局1980年代になればたとえカシューで漆を塗ったわけだが、漆器九節坂器が大衆化の道を歩いた。

九節坂器と似た重箱で最も古い清朝中期の犀皮葵瓣形漆盒.

それなら九節坂料理はどのように作るということだったのだろうか? 現在まで‘九節坂’という名前を掲げた調理法は前で紹介した1935年尹淑卿の話が最も先んじる。 “精肉はユッケ感で細く切って水に少しの間漬けて血を抜いてギュッと絞っておいてユッケ測るように測っておきます。 その次に腎臓は細く千切りに刻んで料理に入れておいてグラグラ熱湯を浴びせてジメジメゆすって沸いているお湯に抜いておいてユッケ測るように測っておいて少しの間炒めておいてセンマイは塩を打ってこすってこすってよく磨いて細く鞭打ってギュッと絞っておいてユッケのように測っておいて量はお湯に飛んでコムン皮を書き写してしまい白くさせて細く切って薬念下野少しの間炒めておきます。 以上四つフェッカッを次々作っておいたらホン大根と胡瓜(胡瓜がないからセリ代用も可能)を鞭打って塩に少しの間漬けて水に揺さぶってギュッと絞って油に炒めて標高を呼ばれたのを鞭打って油に炒めておいた後に異常に炒めてきた三種類をそれぞれ薬念下野路面七種類が準備されたのです。 梨を鞭打って八種類なったら九節坂でもそうでなければ大きい両皿端に八種類をそれぞれ上げて入れてフェッカッには松の実の粉をばらまいておきます。 最後にすることは図に見えるように端には八種類を入れたが中で席が一つ残ったがこの席にはまた入れることがあります。 ◇と(中央部分)に小麦粉を混ぜて小麦煎餅一緒に送って置かれるだけのことはあるように丸く切り取るのに丸い鉄ふんふたでも合計ふたのようなことで押せばきれいになります。 この煎餅を人の需要のとおりそれよりさらに多く作って中で閉じておけば食べる時はこの煎餅に八種類を少しずつ置いて安くて最初をチゴゲなります。”

東亜日報1960年12月22日付九節坂記事とともにのせられた写真.

このように九節坂料理で最も核心は八種類材料よりは中で置かれる‘小麦煎餅(ミルジョンピョン)’であることをこの文で知ることが出来る。 洪善杓やはりたとえ牛肉・セリ・標高・鉄量と卵黄と白身、そして宿主・大根ナムル・センマイの九種類を準備しろといったが十回目材料は小麦煎餅といった。 “十番目小麦粉を水で練り粉下野重宝時期の口ぐらいずつ彫金彫金するように送って分ける丸い形あるように整えます。 (中略)結んだなかで穴には小麦煎餅を入れて四方九穴にはその他の九種類を別々に含まれればその九種類を小麦煎餅に包んで行かれる醋醬(注:酢コチュジャン)につけて食べることになります。”

事実、方信榮(1890~1977)は1931年版 <朝鮮料理製法> で‘糯煎餠’作る方法を次の通り書いた。 “もち粉を冷水にこねてスプーンに浮かび上がって注いでみてやっと流れて落ちる程練り粉を和らげるようにして燔鐵に油を塗って薄く焼いて内やであろう。”

また‘小麦煎餅別法’では“小麦粉ある茶鍾に卵二つ壊して入れて牛乳二スプーンぐらい入れて塩とペキンパウド(餅に入れる粉)茶匙で三分ぐらい入れてよく混ぜて油にプチナリラ”ともした。 これがすぐに尹淑卿と洪善杓が話した‘小麦煎餅’だ。 方信榮は“チャルスス粉を冷水に晴れて赤いお粥だけに軟らかくして塩を行った合うように入れて燔鐵に油を塗って少ない皿ぐらいずつつき出るのだ”ともして薥黍煎餅も小麦煎餅の代用になることができると見た。 1939年に廣韓書林で出版された趙慈鎬(1912~1976)の<朝鮮料理法> では九節坂の煎餅をソバ粉で作るといった。

日帝時代料理専門家たちはどんな穀物で作っても煎餅が準備されれば九節坂料理は本来の姿を備えたもようになると見た。 洪善杓は前の‘九折包’調理法で“煎餅は本来薄い理由でモチの味わって料理を包む補材期代用で作ったことであり九種類料理のうちには草稿最初カラシ等速も置くことであるから初めに蓋を開ければ色がホール乱雑に見るのに良くなることが口子(神仙炉)と類似したものでお客さん接待に立派です”とした。 特に九節坂は大きい祭りの時酒の肴であった。

前で紹介した洪善杓の九節坂記事は‘宮中料理’特集面に出てきた。 この中で‘水刺床に上がる饌需のいくつか’中に九節坂も入っていた。 おそらくこの文によって1960年代以後九節坂は宮中料理の一つで理解されるようだ。 だが、洪善杓が主張した宮中料理という主張はまだその根拠を探せなかった。 趙慈鎬が彼の本目録で九節坂を雜菜・足餠・ギョジャソン・蕩平菜とともに雜菜類に含ませた理由は朝鮮後期宮中で好んで食べた唐麵が入らなかった雜菜と関連させたためではないか見なされたりもする。

九節坂器と似ていた重箱で最も古くなったこと中の一つは北京の故宮博物院で所蔵している清朝中期の犀皮葵瓣形漆盒だ。 中国料理である春巻や朝鮮末期の煎餅の蓮餠や日帝時代の小麦サムや小麦煎餅のような料理や、唐麵が入らなかった雜菜との出会いが作り出した料理が九節坂でないか? これが進化して1950年代以後最も美しい韓国料理で九節坂が外国お客さんの接待に使われた。 外国人やはり九節坂の美しい色と味に賛辞を送った。

九節坂は洪善杓の説明のように“煎餅一切れに食べる人の口に合うように包んで食べる”、そして“何や一つやあるいは二三を共に包んで食べる”絶妙の料理だ。 たとえ宮中料理ではなかったといっても目と口で楽しむその美しさは遜色がない。

http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?artid=201106211906035&code=960100&s_code=ac094

2016年12月8日木曜日

[ジュヨウンハの食べ物 100年](15) 唐麵雜菜

ジュヨウンハ | 韓国学中央研究員教授
入力 : 2011.06.14 21:09:51 修正 : 2011.06.15 16:03:12

・中国の唐麵·日本の醤油·韓国の味
・三国合作で和えた祝宴常連料理


1923年 10月28日付け東亜日報 3面には ‘私たちの手で製造する在来支那製唐麵·粉湯·胡麺’に対する広告が載せられた。 この広告を出した会社は京義線沙里院驛前にあった廣興工廠製麺部であった。 代理店で平壌にある三正精米所を個別に表記しておいたことから見て、廣興工廠は生産工場であることと見える。 この広告はその後 10月28日、11月5日、そして翌年の 1924年 4月24日と 5月9日にも同じ新聞に載せられた。 ところで 1939年 5月23日付け毎日新報の沙里院特集面でこの廣興工廠の社長が楊在河という人物であることを明らかにした。 その記事によれば、唐麵製造の元祖である廣興工廠の社長楊在河が沙里院商業学校敷地に 1万坪を喜捨したと言う。 それとともに楊在河は“青年時代に満洲を漫遊して帰って来て何や私たちの手で作る事ができないことがないという固い決心の下に現在廣興工廠という唐麵工場を 20余年の前に設立して従業員が 120人に年売上高が 23万ウォンに達する”と言った。 これに推し量って楊在河は 1910年代末沙里院に唐麵工場を建てたことに推定される。

唐麵(注:春雨)はその名前だけ見ても中国が原産地である料理である。 それでも唐の時の料理という意味ではない。 満州族ではない漢族の料理と言うのは意味で胡ではなく唐が付いた。 しかし韓国人の立場でそれが唐麵であって、中国人の立場では決して唐麵ではない。 今日も中国ではこの唐麵を粉条(フェンティアオ)あるいは粉絲(フェンスー)と呼ぶ。 さつまいもやじゃがいもの澱粉、すなわち片栗粉の一部にお湯を注いで練ってのりのように作って、ここにまた残り片栗粉を注いで掻きまぜながらそれを 40度くらいのお湯を注いで練る。 この生地をグクストゥル(注;製麺機)に押してお湯が盛られた釜に抜き出した後に冷やして日差しに乾かせば粉条、すなわち唐麵が作られる。

19世紀末朝鮮で移住して来た中国人は 1900年代になると全国の近代市街地に小規模の餃子家や胡餅家のような中国食堂を開業した。 1909年ソウル水標橋と南大門近くにはその名前も燦爛たる雅叙園·金谷園·大観園·四海楼のような看板を掲げた大規模の中国料理屋が盛業をした。 ソウルだけではなく、地方の都会にも中国料理屋は必ず町並みの中心に腰を据えた。 こちらを探す朝鮮人お客様が好んで食べたメニューは酢豚·洋張皮·雜菜(チャプチェ)、そして ‘五粮液’と呼ばれた高梁酒である。

たとえ 1966年の資料だが、1920年代京城の中国料理屋で食べた雜菜もこれに似ている料理法で作られたことで思われる。 “豚肉·玉葱·にんじんはのまま切ってにらは 4センチ長さで切っておく。 唐麵は沸いているお湯にゆでて 10センチ長さで切る。 首がは水にふやかして大きいことは半分で切ってグラスのはそのまま置く。 ニンニクと生姜をのまま切って油に炒めている途中豚肉·にんじん·木耳·ドンググンパ·唐麵·にらの手順で入れながら炒める。 薬念は唐麵を入れるすぐ前にする。”(京郷新聞 1966年 5月23日付け、豪気化女史の中国レシピ・雜菜) これはこのごろも華商 中国食堂で食べることができる雜菜の料理法である。

沙里院廣興工廠の楊在河も平安道一帯で盛業をしていた中国料理屋で一番多く売れるこの雜菜に注目したようである。 中国人が製造した在来式唐麵を朝鮮人である彼が生産したことも朝鮮人お客様が主に食べる唐麵入って行った雜菜のためであった可能性が大きい。 結局 1920年代になると全国各地に唐麵工場が立ち入った。 当時京城だけでも中国料理屋が 200箇所が越えたから朝鮮人の唐麵消費量を見当をつけるのに十分である。 1922年に開かれた朝鮮食糧品評会では朝鮮醤油·朝鮮焼酒·薬酒とともに富川のイ・ギェヒョンの出品した唐麵が朝鮮人受賞者に入ったくらいに、唐麵はこれ以上在朝中国人が作らなかった。

唐麵生産が増えながら唐麵の入って行った雜菜が朝鮮料理に理解され始めた。 1921年に出版された方信榮(1890~1977)の <調理料理製法>では雜菜をナムルの一種類で分類しながら四季の料理だと書いた。 桔梗·せり·黄花采·チェユッ·シイタケ·きのこをひったくるんです盛って “なが葱を勝って入れた後醤油と油とごま塩胡椒を打ってずいぶん交ぜていて油に炒め出して唐麵を水に肥やしてゆでていて切ってもろともに盛ってよく交ぜてお皿にうず高く盛った後アルゴミョング千切りにしてシイタケ岩茸をずらして糸と同じく細く千切りにして油に炒めていて一番の上に振ってまた松の実の粉をその上にプリヌニだと”.

それから 9年がすぎた 1930年 3月6日付け東亜日報で京城の同徳女子高の家政先生、宋今璇は非常に具体的な雜菜料理法を紹介した。 “(a) 桔梗を一日頃水に浸して肥やして細かくチゾごまあぶらに炒めておくこと(桔梗は呼んだ後塩打ってよくもんで洗った方が良いです (b) せりをチルプン長さずつ切って塩に少し漬けてから油に炒めておくこと (c) 肉とチェユッ(赤身だけ使ってもいいです)を刻んでヤックニョム(油·ごま塩·胡椒パウダー·なが葱·マヌル·キャンディー)下は炒めること (d) シイタケときのこ黄花采を水に肥やしてチルプン長さずつ切ってままを処暑油に炒めること (e) 首がは水に肥やして手で千切って油に炒めること (f) 岩茸はお湯に肥やして髪のように細く切っておくこと (g) 唐麵は水に肥やしてとけないようにそっとデチォゴンゾ夕焼けの (h) 卵は黄白を割って薄く部処実苦難のように細く切っておくことと、なが葱を入れて妻おくこと(ウムパをデチォたくさん妻も好きです) 以上に準備できたらやや小い食器に炒めておいた桔梗·せり·木耳·黄花采·シイタケ·なが葱·きのこ·当面·肉などを一所に入れて持った薬念(油·ごまソゴム·胡椒粉)をアルマッチ入れておいしい醤油(これは日本醤で半分ずつ交ぜても良く日本だけだけも味が関係ました。すべての料理がすべてですがその上にナムルには味噌の味が悪ければいくら良い材料を使っても味がしないです。日本醤も上下多くの水っぽくあるから極上が良いことはもちろんです)を行ったマッチョ上手であったのに交ぜてお皿にかっこいくおとなしく盛っておいて玉子(卵) 薬味飾り黄白科岩茸実苦難実柏を色マッチョ右に上げておきます。 これを食べる時はからしやチョジャンを付けなければなりません。”


1923年 10月28日付け東亜日報 3面に載せられた廣興工廠製麺部の唐麵広告。

宋今璇の雜菜料理法も方信榮のように唐麵が入って行った。 特に雜菜の味をみる部分で方信榮はただ醤油だと書いたところ比べて宋今璇は日本醤だと書いた。 ここで日本醤はすぐ日本醤油を示す。 宋今璇はさまざまな材料に味付けをした後に朝鮮醤油と日本醤油を半々ずつして間に合わせたり、ではなければ日本醤油だけで味をみれば良いと言った。 朝鮮醤油と日本醤油はその味が違う。 普通 ‘倭醤油’とも呼ばれたこの日本醤油は明治維新以後絶え間ない改良の道を歩いて来た結果物であった。

1882年以後明治政府は日本醤油に対する科学的研究を積極的に支援した。 その結果温度調節を通じて黄麹 微生物を培養する方式が導入しながら工場ごとに単一な味を維持することができるようになった。 また石炭で火を炊いて強制で温度を高めながら発酵時間も縮めさせた。 1904年ソウルに居住する日本人が 5000人を越しながら自然に日本醤油工場がソウル青坡洞に立ち入った。 高見醤油醸造場が正しくそれである。 しかし醸造醤油である日本醤油は朝鮮人に人気を呼ぶことができなかった。 朝鮮醤油とはとても違う味であったからである。 たぶん 1921年に方信榮が提示した雜菜料理法の醤油は朝鮮醤油であった可能性が大きい。

ところで江戸末期から醤油生産に専念した野田家で第1次世界大戦以後経済的好況に支えられ 1918年に醤油生産を完全に工業化するのに成功をした。 以後日本列島各所に大量生産体制を取り揃えた醤油工場が設立された。 今後醸造醤油が日本食の味を牛耳り始めた。 しかし醸造醤油の問題は主材料である大豆の供給にあった。 すぐアミノ酸醤油の開発がこの問題を解決した。 アミノ酸醤油はきな粉·コングケッムック·ピーナッツ油粕·醤油おから·小麦などタンパク質原料を塩酸に加水分解して苛性ソーダや炭酸ソーダで中和させて得たアミノ酸に塩で味をみて在来式醤油の色·味·香りを出す化学薬品を添加して作られた。 日本醤油が朝鮮醤油に比べて不十分に組みながら甘口の強い理由がすぐここにある。 だから宋今璇の雜菜は方信榮の雜菜に比べてその味が甘かったことが明らかである。

1930年代以後、宋今璇では方式の雜菜も中国式雜菜とともに徐々に大衆化の道を歩き始めた。 1937年京城女師範学校家事研究会で発行した <割烹硏究>とは本でも朝鮮料理で唐麵が入って行った雜菜料理法が紹介された。 日本料理と朝鮮料理の家事科学教育で ‘唐麵雜菜’加えた席を占めたのである。

なおかつ 1937年 7月7日に日中戦争が勃発しながら唐麵雜菜は家庭で作って食べなければならない料理に認識され始めた。 何故ならば 3万名の越える中国人が帰国をしたし、京城にあった中国料理屋も 292箇所の中で 237箇所が門を閉めてやっと 55箇所万が残ったからである。 そのため “うどん·酢豚·雜菜は胡餃子でそんなに有り勝ちで卑しくても胡餅さえ味わうことができない”(東亜日報 1937年 9月20日)は嘆きが朝鮮人の口から飛び出した。

解放以後に唐麵雜菜は韓定食を販売する食堂はもちろんで甚だしくは粉食店でも重要メニューで大衆化の道を歩いた。 1976年に出版された黄慧性の <韓国料理百科事典>では雜菜を宮廷料理の中で熟菜で扱った。 当然唐麵が入って行った雜菜であった。 牛肉·たまねぎ·にんじん·きゅうり·桔梗·宿主·輪·シイタケ·木耳·岩茸·唐麵などの材料が入って行ったし、ここに醸造醤油·砂糖·ごま塩·ごまあぶら·胡椒などで味付けをして和える方式で作った。 結局和える方式の唐麵雜菜が 1970年代に韓国料理の市民権を得るようになったのである。

実は朝鮮後期の文献でも雜菜という料理は出る。 しかし唐麵も入らなかったし、醸造醤油も入らなかった。 1930年代以来今まで誕生日上·石像·還暦上のようなザンチッサングに抜けないで上がる唐麵雜菜は 20世紀前半期帝国日本に編入された中国の東北地域と朝鮮半島に住んだ朝鮮人·中国人·日本人の合作品であった。

http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?artid=201106142109515&code=960100&s_code=ac094

2016年12月7日水曜日

[ジュヨウンハの食べ物 100年](14) 薬酒

ジュヨウンハ| 韓国学中央研究員教授
入力 : 2011.06.07 21:15:09 修正 : 2011.06.08 14:22:09

・濁酒に水を打ちこんで清く精製した、 茶色を帯びたライトイエローの透明なお酒
・甘みがあってすっきり、 口に感起は余韻の味


“先代の遺業と聞くと大きい事業のようですが私の亡父が貧しい酒商売をなさっている途中私が 20歳の時に帰ったが実際は何もないまま残しておいたこの酒商売を私が 20歳になる日引き受けていてまた始めた。その時お金二百ウォンかを融通していて私の手でお酒を作りながら売って帳付けを集めに通うなど一切仕事を一人でしたがまさにこの間が何よりも今日の成功をあるようにした直接原因になると思う。”(毎日新報、 1936年 6月10日付け)

この話をした人は日帝時代ソウルで一番大きいお酒工場中の一つであった天一醸造場の社長張燐英だ。天一醸造場は今のソウル鐘路5街にあった。彼の言った亡父は張根植だ。細井亥之助が編んで朝鮮醸造協会から 1935年に発行した <朝鮮酒造史>によれば統監府時代に張根植は 11人のソウル所在の藥酒家の一人だった。しかし当時にはまだ酒税法が存在しなかった時代だから専門的な醸造場がソウルにあまりなかった。大多数の飲食店では自らお酒を釀造して料理とともに売ったから醸造業が成立されることさえ難しかった。だから張燐英の言葉のように決して彼の亡父張根植は酒商売で大金を儲けることはできなかった。

天一醸造場は 1913年 1月22日に朝鮮総督府から濁酒及び薬酒の兔許を受けた。朝鮮半島でお酒を作って販売する事に国家が介入し始めた時は大韓帝国時期の 1909年 2月13日だ。すぐこの日から朝鮮半島に酒税法が発效した。この法の第1条は酒類を製造する者には本法によって酒税を付けると言った。同時に第3条では酒類を製造しようとする者は製造場 1ヶ所ごとに政府の兔許を受けなければならないと言った。結局この酒税法に根拠して張根植は醸造場兔許を受けた。何故ならば朝鮮を竝合した日帝は 1916年 9月1日に既存の酒税法を改正した酒税令を発效したからだ。

一介の酒商売に過ぎなかった天一醸造場は 1917年 4月に改定された酒税令に根拠して焼酒製造兔許も得た。近代的な醸造場施設を取り揃えた天一醸造場は 1923年にソウルで開かれた副業品共進会の時製品を出して高い評価を受けながら東大門近くから京畿道一帯まで営業網を確張した。張燐英がこんなに営業網を確張することができた富力は 1919年 3月3日高宗の因山(注:葬儀)の時用意された。田舍で高宗の因山を見るためにソウルに全幾多の人々がその悲しみをお酒でなぐさめたし、 張燐英は分け前を取った。1930年代初盤天一醸造場では主に濁酒と焼酒で商売もうかった。濁酒を 8500石、 焼酒を 650石や生産したのに比べて、 薬酒は 100石に過ぎなかった。

朝鮮後期以来薬酒は両班のお酒に理解された。酒税法が本格的に施行される前まで薬酒は両班がで直接作って奉祭祀と接賓客に使った。19世紀末以後近代的な都会が形成されてから薬酒は中流以上の人々が飲むお酒に理解された。ご存じのように薬酒は酵母の粉を水が入ったつぼに入れた後にここにもち米粉で蒸した餠を入れて酒母を作って、 ここにうるち米と麹、 そして水を入れてもたらす。スルドクに水を打ちこんで清いお酒を汲み出せば薬酒になる。茶色を帯びたライトイエローの透明なお酒だが、 とても透明ではない。アルコール度数は 12~20%であり、 製法によって特定の薬剤を入れてもたらしたりする。それで薬になると薬酒と呼んだ。

実際に薬になるお酒もあった。憑虛閣李氏が 1800年頃に書いた <閨閤叢書>では薬酒で枸杞酒と五加皮酒二つを言及した。特に枸杞酒を飲めば若返りをすると書いた。すぐ古代中国の神仙と知られた伯山甫の甥が枸杞酒を飲んで 390歳にも顔色が十五、六の少年みたいだったと言った。またこの枸杞酒を飲んだ一使臣は 100日ぶりに白い頭がもとの通りに黒くなって抜けた歯がまた生えて日が経っても老けなかったと書いた。それが事実かどうかを確認する道はないが、 薬酒は身を傷つけるお酒ではなく薬そのものと憑虛閣李氏は思ったようだ。

こんなに薬になる薬酒もあったが、 普通の薬酒は前で言ったようにうるち米で作った清いお酒で通じた。両班が家で飲んだ薬酒が 19世紀末以後飲食店や醸造場で作って売り出しながら一般人たちも味わう機会を持った。それで 19世紀末に朝鮮へ来て日本式清酒を生産し始めた日本人たちは朝鮮酒の最高は薬酒と濁酒を挙げた。すると薬酒という言葉の来由に対するさまざまな主張もできた。

そのうちの一つがすぐ薬酒が薬山春の略だというのだ。“光海君時代の徐有榘という方が藥峴(藥峴・只今の京城府中林情)に暮して雅號亦曰薬峯というとそのお宅が名門巨族で有名だが醸造でも有名だとそのお宅の清酒は別に他に言葉があった。その頃の人士はそのお宅のお酒を薬峯酒、 藥峴酒と呼んで畢竟、薬酒と略称した。そうするうちに今は京城では清酒を薬酒とまで呼んで来る。”(東亜日報 1937年 11月6日付け)

ところで同じな新聞ではその翌日すぐ訂正記事を載せながら “徐有榘ではなく徐濱氏の誤りです”と言った。しかし徐濱も誤った情報だ。徐有榘(1764~1845)は <林園經濟志・鼎俎志>から ‘薬山春方’を言及しながら、 “すぐ徐忠肅公が作るのを楽しんだが、 公の家が藥峴にあったからそれでそのお酒を藥峴春と呼んだ”と言った。ここで徐忠肅公は朝鮮中期の文人である徐渻(1588~1631)を示す。藥峴春の春はお酒を指称する古代中国の他の表現から出た。ソウル人々がお酒を薬酒と呼んだら文献をまともに確認しない知識人たちが徐渻を徐有榘とも言ってみたり、 薬山春の略で薬酒とも呼ばれる誤りを作り出した。

とにかく朝鮮薬酒は確かに高級酒だった。1908年 1月10日付け皇城新聞に載せられた ‘明月館拡張広告’でも明月館で具備しているお酒の中で薬酒が一番先に出る。それだけ朝鮮料理屋の水準に薬酒はよく似合った。しかし問題は夏に易しく変質されるというのにあった。

明月館を設立した安淳煥は 1923年 1月1日付け東亜日報で朝鮮料理を改良しなければならないという主張を広げた。“第一私たちの料理はご飯ならご飯、 お吸物ならお吸物一つのみを食べることができないことがビョングイウェだ。(中略) 二番目は我が国の料理には暖かいものが必要に分かることがビョングイウェだ。このわけで作る即時に食べなくてはその料理はまたところだとかそうではなければ捨てようがするようになる。(中略) 三番目は長い間甘口の醤油しておくことができないしまたは甘口の醤油すると言ってもその味が易しく変わられるようになることが欠点以外だ。我が国の枸杞の実薬酒みたいなことは実に味もあって衛生にも立派だ。世界に出してどんな恥ずかしさがない。一つウイスキーとかブランデーと一緒に長く置くことができない。”


日本サクラ正宗広告。

安淳煥もやぱり <閨閤叢書>で言及した枸杞酒、 すなわち枸杞の実薬酒を朝鮮の自慢で立てたが、 長く置くことができないという点のため改良する対象だと見た。実は日本清酒も朝鮮の薬酒に似ている製法で作るお酒だった。1895年日清戦争に勝った明治政府は既存のお酒と係わる法令を ‘酒税法’で改正しながら醸造業に深く介入した。特に日清戦争で受けた賠賞金でオランダの微生物学専門家を日本に招いた。醗酵の核心である酵母を制御し始めながら決まった味を持った清酒が日本列島の各醸造場で自分の商標を持って販売され始めた。長期間保存の問題も解決されて行った。もう日本人たちは 1883年 1月釜山に日本清酒工場を設立した。引き継いで馬山·仁川·ソウル等地にぞくぞく日本清酒醸造場が門を開いた。

たとえ夏を過ごすためにソウル人々は朝鮮後期以来の蒸留酒焼酎を薬酒に乗った過夏酒を作って夏を越したが、 19世紀末から日本清酒にどぶんと陥った朝鮮酒が日増しに増えた。1920年代朝鮮で醸造場を運営した日本人の立場で朝鮮は “原料が安価で労動賃金も安く腐敗の心配がないすべての条件を具備している”(東亜日報 1924年 2月5日付け)にして事業するのに非常に良い所だった。1921年統計によると、 日本清酒は朝鮮でばかり 5万7600石が超えるように生産された。その中で ‘菊正宗酒’はすごい人気を集めた。かつて 1908年明月館広告でもこの酒はメニューでつかまっていた。

結局 1920年代以後日本清酒を朝鮮人々は一会社の商標である正宗で取り替えて呼ぶようになった。

これに比べて薬酒は酒税令によって兔許事業者の独占事業になりながら材料費を惜しむためにもち米とうるち外に他のものを混ぜて作られた。薬酒を飲んでからは薬ではなくむしろ毒になる副作用がしばしば発生した。解放以後にもこのような事情は持続した。薬酒は名前だけその実体は家庭で密造酒をつけない限りまともに味わいにくかった。特に 1962年朴正煕政府はご飯で食べる米も不足な状況で米でお酒をつけることを不満に思った。結局その年 12月4日当時財務部長官は薬酒製造に 40% 以上を雑穀で置き換えることを行政措置で発表した。1965年にはこの政策がもっと強化されたし、 8月4日農林部では薬酒に米や雑穀の使用も一切禁止してさつまいも澱粉のみを使うように立法取り計いを取った。もう蒸留酒が消えてさつまいも澱粉で作った希釈式焼酎が酒のテーブルを占領した状態でこの措置は薬酒のレゾンデートルさえつぶしてしまう結果を生んだ。それから 22年後の 1977年に米からもたらされた薬酒がまた市場に出たが、 人々の口当たりは薬酒を捨てて久しかった。1988年ソウルオリンピック以後民俗酒という名前に描いて一醸造場の固執で薬酒はまた私たち前に現われた。しかしあまりにも不慣れでぎこちなくて 1908年明月館の食卓に上がった光栄をまだ捜すことができない。

http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?artid=201106072115095&code=960100&s_code=ac094
[ジュヨウンハの食べ物100年](13)カルビ焼き

ジュヨウンハ|韓国学中央研究員教授
入力:2011.05.31 21:15:06 修正:2011.06.02 12:25:17

・開花期居酒屋で食べた庶民の‘おつまみ’
・人気呼ぶとすぐに料理屋で‘カルビチム’で高級化


“コムタン(牛スープ)を沸かしてカルビと心臓を焼いてペンオジョニャまでも送っておいた。 ジョンナンは刺繍した前掛けを着て慎ましく主人の役割をした。 (中略) ‘本当にそうです。 キムチは料理のうちにナショナル スピリット(民族精神)と言わなきゃ.’とその知恵をほめるというようにサンチョルを見て目をぱちっとする。 サンチョルはプッと笑ってカルビをはがす。 ‘カルビは朝鮮料理の特色ですね。’とどんな学生が、‘カルビを焼いてはがす気勢が朝鮮の人に残った唯一の気勢だと誰がそう言いました。’ ‘ウン、そのような言葉があるだろう。’とハン先生がカルビをはがした手を休んで、‘英国人は血流れるビーフステーキ食べる気勢で生きると。’と笑った。”

この文は李光洙の長編小説 <土> の第1章13節に出てくる。 初めに東亜日報で連載をしたし、この部分は1932年4月27日付にのせられた。 朝鮮青年の教育指導を一生の業として生きてきたハン・ミンギョの家に彼の弟子が集まって晩餐会が開かれた。 ハン先生はまもなくハン・ミンギョだ。 ジョンナンはハンミンギョの娘で、サンチョルは京城大学文科に通う学生だ。 キムチがナショナル・スピリットの表象だと話した人はアメリカに留学に行ってきたイ・ゴンヨンだ。 夕食をしながらこれらは料理に国民性があらわれるという話を交わす。 それと共にカルビはがす気勢が植民地朝鮮人の最後に残った力であることを発見する。 それこそ終わりが見えなかった1930年代初期植民地朝鮮の青年たちが重く負っていた苦悩がカルビ焼きに含まれた。

皆知ってのとおりカルビは牛・豚・鶏などの胸囲を成す左右十二個の曲がった骨と肉を食用と呼ぶ言葉だ。 だが、豚カルビやタッカルビとは違い単にカルビだとすれば牛肉カルビだけを示す。 それだけ料理カルビの一番上は牛肉カルビであった。 丁若鏞(1762~1836)は <雅言覺非> で牛脅(ウヒョブ)を曷非(カルビ)と呼ぶといった。 だが、19世紀末以後1920年代初期に出てきたハングル料理の本ではカルビといわないで‘ガリ’と書いた。 1890年代に使われたと思うようになる <是議全書·飮食方文>では‘カルビグイ’という食べ物名前が見える。 “ガリを二寸三四分の長さずつ切って正に洗って横目に非常に細かく内外を切って縦にも切って中を分けて左右で退けて色々な味付けしてアミの塩辛汁に鹹淡(肝)合わせてもんで測って区なさいと”とした。

1924年に出版された李用基の <朝鮮無双新式料理製法> では‘カルビクイ’と書いた次に‘ガリジェンイム’と‘脅炙(ヒョブゾック)’という他の名称を付けた。 ‘クイ’は焼き物の他の表記だ。 ‘ガリジェンイム’はガリを味付けして測っておいて焼くので付けた名前であるようだ。

その調理法を一度調べよう。 “脂の少ないカルビや雌牛カルビを細かくチョギドェ頭は丈夫だから出しておいて一寸の長さずつ切って水に少しの間洗って手巾をギュッと絞って内外を細かくちょっとされてついた肉を塗りながらみな御印後で濃い醤油に蜂蜜と梨汁とイギヌン 葱とニンニク刻んで入れてゴマ塩と胡椒粉を入れてしたのに解いておいて御印カルビを一つずつ持って高名放ったのを内外でパルドェ塩辛くなくして入れるものの再び重ね重ねゴマ塩と油をさしながら測っておいて口語モンナニ(中略)一体よく積み重ねたガリを焼き網に焼かずに燔鐵に油をぶっかけてぱさっと煎りつけて食べた方が良いがしかし焼くのは脂身がぶくぶくとして味がもっとあるようなのだ。”

ところで李用基はカルビクイを食べる姿を置いてそれほど良く見なかった。 “一体カルビクイとチシャ包みというのは習慣で良くてピョンギを一つだが、これを食べない人が見ることになれば、すなわち醜く見て、すなわち笑うだろう。 その熱い骨片を左右手にみなが欠点つけて握って食べるのは人が食べるようでなくて”といった。 このような啓蒙はカルビ焼きを居酒屋の肴に下げて、その代わりに料理屋ではカルビチム(牛カルビの煮込み)を前に出ささせた。

事実カルビチム作る方法はすでに <是議全書·飮食方文>でも出てくる。“ガリを一寸の長さずつ切って両(牛胃)拒絶したのと孵化・牛の小腸(コプチャン)・トングム・昆布に入れて軟らかくなるように煮て取り出して(中略)岩茸みな切って葱セリも少しの間湯がいて入れて持つ薬念に粉混ぜてもんでアーサーなって汁少しあるように解いて器に入れて上に卵送って岩茸とともに鞭打ってばら撒いて使いなさい”と書いた。 ガリ焼きに比べて材料もたくさん入っただけでなく、その大きさも小さくてあえて両手で握って食べる必要もない料理がすぐにカルビチムだった。  李用基はこれと似た調理法に肉団子まで蒸し物(チム)の上に上げろといった。 “肉団子を作ってボア太いか細かいか作ってのせて松の実をのせれば味が甘くて肉がどろどろして良いのだ”としたほどだ。

1929年になればカルビチムはそれこそあらゆる高名が上がった派手な料理に変貌する。 “鍋中の下にミッエダアが煮出した大根を置いてその上に薬念に主無理、茹でたカルビを置きます。 そしてそこに肉団子・煎油魚の肉団子を煮て入れて岩茸・椎茸、卵白身黄身をそれぞれ千切りにして粉々にならないように置いた後に銀行木根こと、くるみチムジルメッキンこと、松の実、シル苦難をそれぞれ見栄えが良くのせてカルビ煮水に加え、小麦粉をスプーン1杯ぐらい置いて振れば若干どろどろになります。 小麦粉を解く時にはにごりがないように注意しなければなりません。 このようにスープを注いだらもう一度沸かして食べます。”(中外日報1929年11月10日‘晩夏女史談’)

趙豐衍(1914~1991)は <ソウル雑学辞書>(注:1989年刊) で1939年にソウル楽園洞にカルビ屋があったといった。 その家では冷麺と共にカルビ焼きを売った。 当時夕方遅れた時間に劇場や料理屋・カフェ・バーなどが終われば酔いを醒ますのに冷麺が良いといってカルビ家にお客さんが駆せ参じた。 お客さんは当然だというように冷麺と共にカルビ二台をさせた。 なぜかガリ焼きくれと言えば複雑だったし、簡単に減らして‘カルビ二台’といった。 これからカルビとガリ焼きになってしまったという主張だ。 それでカルビ焼きは居酒屋で酒の肴で食べる料理だった。 その値も普通一台にいくらあるいは二台にいくらこのような形だった。 1930年12月7日付東亜日報では江陵の食堂の料理価格を記事で扱った。 クッパ一杯に15銭なのに比べてカルビ一台は5銭に過ぎなかった。 今と比較するとカルビ焼き一台値がソルロンタンの3分の1に過ぎなかった計算だ。 結局1920年代以後カルビグイは居酒屋の酒の肴に過ぎなかったし、カルビチムは料理屋で神仙炉の次に席を占める高級料理になった。


1948年8月31日付京郷新聞にのせられた‘マンナ館’の牛カルビチム広告.

解放以後にもカルビチムの盛況はずっと続いた。 外国使節を接待する宴会でも料亭でも節日の家庭料理でカルビ焼きよりはカルビチムが人気を享受した。 これによって牛カルビは節日プレゼントに最も一番上に聞いた。 前後の荒廃した経済が結構安定状態に入った1960年代になれば節日を控えて各獣肉商店街には牛カルビ販売がその絶頂に達しているという言論報道が列をなした。 “古い昔から節日には相互友情を篤実にするという意味でもあるいは上の人に対する礼儀として行き来する贈り物で牛カルビを取り引きすることが風習化されている。 しかし最近になって牛カルビが行き来する過程でアブお世辞で真相という表現に通じていることがこの頃牛カルビを捧げる称号になっている。”(毎日経済1966年9月28日付)それで節日にはあらかじめ予約しなければ牛カルビを購入することさえ難しかった。 結局雌牛や牡牛や区別しないで牛カルビある相手を4500ウォンもしなければ買うことができた。

経済の成功は韓国人に朝鮮時代以前から最も食べたい牛肉に対する欲求を増大させた。 こうするとすぐにカルビチムと共にカルビ焼きが再び高級料理に変わり始めた。 特に1972年外国で牛肉を輸入し始めて‘韓牛’カルビ焼きはこれ以上酒の肴ではなかった。 本来水原カルビも簡単な酒の肴から始まった。 1945年11月頃水原永同市場サジョンゴリで李貴成という人が‘華春屋(ファチュンオク)’という解腸湯(ヘジャングク)専門店を開いて解腸湯にカルビをいれて人気を集めた。 ここでアイディアを得た李貴成はその翌年である1946年、カルビに薬念をして炭火で焼くカルビ焼きをメニューに加えた。 だが、1960年代初期までもカルビ焼きは華春屋の主なメニューではなかった。 カルビ焼きとともに解腸湯・カルビタン・ソルロンタン・冷麺などを相変らず販売した。 おいしいといううわさが立つとすぐに稲の品種を改良するのに積極的な関心を見せた朴正煕大統領も水原の農村振興庁を訪問して華春屋の常連になった。 結局華春屋のおかげで八達路近所はカルビ家村に変わっていった。 これが今日水原カルビの出発だった。

カルビ焼きのまた他の浮上は1970年代後半から起き始めた。 自家用を持つ家庭が生じて家族が共に野外に出て行ってカルビ焼きを食べることが頻繁になった。 空気がきれい野外で炭火に焼くカルビ焼きは家で味わうことができないことだった。 ソウル郊外周辺の遊園地の名前を付けた‘○○カルビ’が登場した時がすぐに当時であった。 だが、本格的なカルビ焼きの全盛時代は1982年にソウル 江南で門をぱっと開いた。 敷地1000坪余りのフロアには熱帯魚が通って人工滝と水車のような施設が席を占めた森の中公園が新しく開発された新都市江南のあちこちに入った。 別名‘豪華カルビタウン’と呼ばれたカルビ家の名前も‘○○ガーデン’あるいは‘○○公園’だった。

しかしこれらカルビ家は既往の豊かだったカルビを矮小にさせた主犯でもあった。 1960年代水原カルビの場合、斧で切り身を出してその大きさがおとな手の平だけした。 当然カルビのフォーを切り取る時も両側を全部利用した‘両カルビ’であった。 しかしソウル江南にカルビ家ができて片側にフォーを浮かび上がる‘ウェカルビ’で縮小された。 韓牛カルビの値が沸き上がるとすぐに米国産カルビが‘LAカルビ’という名前を得た。 また、牛カルビをはじめとして牛肉値が暴騰するとすぐに1980年代初期から政府では牛肉の半分に半額もならなかった豚肉を利用して作った豚カルビ焼きを積極的に広報した。 あえて牛カルビ焼き物食べる意欲を出せなかった庶民は豚カルビ焼きでその剥奪感を解消した。 春川鶏肉の鉄板焼きやはり牛カルビに代わって開発された炭火タッカルビで生じた料理だ。

色々な事情に照らしてみれば、荷物屋が一日中労働に疲れたからだを導いて家の前路地居酒屋でマッコリ一杯に牛カルビ焼き一台を食べた1920年代が懐かしい。 だが、その夢は決して成り立つことはできない。

http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?artid=201105312115065&code=960100&s_code=ac094          
[ジュヨウンハの食べ物100年](12)神仙炉

ジュヨウンハ|韓国学中央研究院教授
入力:2011.05.24 21:10:06 修正:2011.05.25 13:45:01

・冷めないように食べる色とりどりの山海の幸... 外国人も惚れ

「ちょうど明月館の前を過ぎると、この時、まひ(麻痺)されていく脳神経が眩気(眩暈)に近い想像の反逆を鎮圧することができだろう?ないだろうね。二つほど高駒廊下を通って、薄暗い奥の部屋に入ったら、あまり入ると、一目で付いたのは神仙炉。神仙炉で湯気がもくもくと出るのに神仙炉を見回し皿・トレイ・湯器など大小器皿(大小器皿)がそれぞれ珍味を奉じて擁護して線ではなく、座ったという話だ。此いわゆる巧者時だと。エヘム「案席」をもって「方針」を当てて、何を食べると偽善総点検をし事である。すべてもっともらしいのに、欲速不達(性急に急がないで)と、徐々に調えてみよう。「ダルアルジョニャ」を一つコチュジャンにつけて食べて、つけて魚膾、またつけてキムチ、こうなってみると、「ケジャン」と「オリグルジョト」が抜けたな。このような非常識な奴を見たか。「オイポイケジャンとオリグルジョト持ってきて。人力車送ってクァンチュンギョ下住まいソセンウォンちょっとムェソと。 "

この記事は、「私の春は明月館食交子(食交子)」というタイトルで、1935年2月23日、東亜日報に掲載された時調詩人金尙鎔(1902〜1951)のエッセイである。春がくるお金がないお世話に考えだけで、朝鮮料理屋明月館に行って贅沢をするつもりがこの記事に含まれている。ところが、ここで言及している明月館は当初安淳煥が整えたところではない。明月館は「ソウル昌徳宮の宮殿の大通りを挟んでしばらく下りて来るのに、煬帝二階に朝鮮式を病気で作った大きな家一軒がありますので、「(「三千里」第4巻第4号、1932年4月1日)、当時安淳煥の食道院と一緒に朝鮮で最も商売がうまくされている朝鮮料理屋だった。金尙鎔はこの明月館の食卓の上で神仙炉を最も一番に挙げた。これらの主張は、決して金尙鎔だけがしたのはなかった。

日帝時代はもちろん、解放後、1970年代までの料理屋や料亭で整える食卓の上で神仙炉は、最も華やかな料理と指折り数えられた。

実は神仙炉は、食品の名前ではなく、器の名前である。18世紀半ばに使われたとされる<謏聞事說>という本では、「熱口子湯(ヨルグジャタン)」の項目で、非常に具体的に神仙炉の形を言及している。「別に茹でて調理する器があり、大きな器と似ている。底は曲がり走ったが、一本の焚口が器の中にあいている。一本のデロンが器蓋の外側まで湧いたし、そのデロンが外に出るように器の蓋の中央を抉った。デロンの中に炭を立てれば、まっすぐに風が底の穴から入ってきて炎が器の蓋の外側にまで抜けていく。器の中は空だが、周囲は一輪を回すようになっている。」しかし、この本では、器の名前が何であるかについては、別途記録しておかなかった。

今のソウル玉水洞近くに住んでいた憑虛閣李氏が1800年頃に書いた<閨閤叢書>も「悦口子湯」という食べ物の名前が出てくる。器の名前もただ「悦口子湯器」と書いた。憑虛閣李氏の義弟である徐有榘(1764〜1845)は、<林園經濟志・鼎俎志>で悅口子湯と書いた。おそらく、その漢字はこれと同じと思われる。これに比べて洪錫護(1781〜1857)は、<東国歳時記>で、この料理を「悅口子神仙爐」と称されると言った。旧暦10月にソウルの人々が料理を紹介しながら、「牛肉や豚肉に大根・外・フンチェ・卵を混ぜて醬湯を作る」と、そのおよそのレシピも書き留めた。たとえ<謏聞事說>で書き留めた「熱」の漢字とは異なりますが、同じ食品であることは明らかだ。口熱くなるという熱や口楽しくする悅や、その発音が同じだからである。事実悦口子湯と料理の名前だけ聞けば、その正体を知るのが難しい。神仙炉がその後に付いたので、その全容がよく表れている。だから洪錫護は人々がこの料理を「悅口子神仙炉」と呼ぶしたのかもしれない。


1938年3月5日、京城の朝鮮料理屋泰西館で京城教授だった赤松智城(右から三番目)と秋葉隆(五番目)が共同出版した「朝鮮シャーマニズムの研究>出版記念会が開かれた。
上の中で、神仙炉があり、「日本酒」と呼ばれた清酒徳利が見える。
国立民俗博物館ソン・ジンテ写真・アーカイブ所蔵。

1904年に日本人薄田斬雲(1877〜1956)が書いた「朝鮮漫画」も神仙炉の文が出てくる。「朝鮮料理の中の最初のの名物として、わが国の人(日本人)の口に合うのは神仙炉である。(中略)朝鮮料理は臭いが激しく、不潔であるとして食べるもせず、顔をひそめる尊大屋もこの神仙炉だけ箸を挙げる。朝鮮料理を食べることはまず神仙炉で始めなければならない。(中略)何よりも火鉢と鍋を合体させて作ったのが神仙炉の特色である。贈り物で内地(日本)に持って行くには最適です。神仙炉と呼ばれるこのおいしい料理を食べると、新鮮と寿命が同じになるとしていることを意味だという。鍋の製作は、朝野が、韓国から輸入して精巧に改造すれば、非常に興味深い。 "実際に大韓帝国の王子は1909年7月12日に新宮内大臣がされたかの副良忠に神仙炉一本をプレゼントにたりもした。それほど当時神仙炉は、朝鮮人はもちろん、外国人にもかなり注目を受けた器だった。

特に朝鮮王室や大韓帝国皇室で使用した神仙炉は銀で作った。おそらく毒入りかもしれないことを食事の前に知るためにだっただろう。しかし、通常の神仙炉は、主に有機で作った。<林園經濟志>でユナプに器を作成して鉄道炭火を置くぶらりを作るた。ここでユナプは銅と錫合金したものである。銅と亜鉛を合金したのも真鍮と呼ぶが、ユナプも真鍮である。しかし、低級は白銅で作った。ご存知のように白銅は、銅とニッケルの合金を指す。1938年4月8日、東亜日報に掲載された物価資料によると、神仙炉大きい一個の値は、5円70銭、中間は4円70銭、小さいのは3円70銭だった。同じ材料で卵100個3円80銭としたので、その値が決して安いものではなかった。ところが、1938年10月に平安北道定住していた銅の光で休業をしたために神仙炉の値が6円50銭に上がった。冬になると神仙炉の需要が増加にもかかわらず、値が上がって心配している世論があった。

それほど1910〜30年代に神仙炉は全盛時代を迎えていた。次に、その味はどうだろうか?1929年12月1日雑誌「別乾坤」第24号では、珍品中の珍品として神仙炉を挙げた。牛步生とペンネームを打ち出した著者は、その味を次のように描写した。「冷たい風が高まる時からの食卓でおいしいにおいをムルクンムルクン立てながらジャグルジャグル沸騰している神仙炉を片付けてしまったら、彼はさびしいことだ。おまいりが遅めに回って話がだんだん風情があって、富咲いていくときの措置も冷めた汁椀も脂が挟まるけれどももっともっと味が出るのは神仙炉味である。肉団子一つ浮き沈みした点の温かい味も面目が立つがイオニとお汁に巻きつける寒士という温麺は珍味中の珍味だ。そのまま経つことは薬酒味節米がちょっと不十分でと別に準備するには早いときにに神仙炉スープに巻き付けて出す温麺は、酒にも当然、また非酒の口にも適当なのである。」


日本化学調味料会社味の素の神仙炉広告。

だからといって神仙炉が朝鮮料理屋で最も朝鮮的な料理で持続されなかったようである。「単に利益のみ目を開いて、永遠に朝鮮料理の味良い地位を継続する考えをしない結果、西洋器に勝手に盛って、神仙炉容器にとんでもない日本料理の材料が上がるなど惜しい状況に達した」(1921年4月4日付東亜日報、チョ・ドンウォン)は、批判も出てきた。さらに「もう7年前の過去になっただけでは、私は韓国料理屋には行って嘆かわしい現象を見たことがある。朝鮮の料理独立まで失ってしまうことを見物した。有数の高等料理屋で出す朝鮮料理ということだ。すき焼きという化け物が神仙炉を構築し、食卓の真ん中に陣を打ちた福神漬けというやや甘い料理が、我が国の塩漬けを征服した。」(1926年3月3日東亜日報、キム・ジェウン)

すぐに朝鮮料理屋で日本の食品すき焼きが神仙炉に含まれ神仙炉の振る舞いをしていることを、彼らは嘆いた。さらに、化学調味料会社味の素も冷麺と一緒に神仙炉に注目した。1930年3月8日、東亜日報に掲載された広告で、彼らは「神仙炉の中にもおいしい神仙炉は味の素を入れた神仙炉」というコピーを打ち出した。当然のことながら、広告には、湯気がゆらゆらと出る神仙炉が描かれた。最終的には化学調味料が入って、澄んだ朝鮮醤油ではなく、甘口の「倭醤油」が入った神仙炉は、「あらゆることを思いのままに入れても 」構わない料理になってきていた。器だけに注目をした人々は味を離れて神仙炉さえ調えれば食卓に上がった料理がすべて朝鮮料理と思うようにされている奇妙な現象も明らかになった。

解放と一緒にソウルに入城した米軍の目にも神仙炉は不思議だったようだ。彼らは故郷に手紙を書くとき、「宮殿は南向きで、城壁は跡なく、古参は両班であり、一番良い料理は、神仙炉と伝える」(東亜日報1945年12月2日)とするほどであったから。当然のことながらマッカーサー将軍をはじめ、韓国を訪問した米国の大統領を接待する料理の中で神仙炉は抜けなかった。1959年1月30日京郷新聞は当時アジア財団韓国支部長夫人ジェームズ氏をインタビューした記事が掲載された。記者は「私たちの家庭に対する言葉をちょっと "してくれと頼む。するとジェームズ氏はオンドルがいいと思い言いながら "韓国料理の神仙炉は誰でも好きなので、すべてそのレシピや器を米国にいらっしゃい送り、おそらくこれから神仙炉が国際的な料理になるかもしれない」と述べた。

少なくとも1960年代まで、外国使節接待や格式ある家庭では、悦口子湯を神仙炉に沸かして食べた。あまりにも高価な材料が入って作成食べるのが難しいという判断から牛肉を少なく書いて豆腐と野菜をたくさん入れる経済的な改良神仙炉料理の啓発が起こることもした。1969年には、電気神仙炉が開発された。15ウォンがかかる炭の代わりに電気代2ウォンであれば熱々神仙炉を味わうことができるという宣伝が続いた。練炭オンドルの盛行は家の中で火鉢と神仙炉も追い出した。最終的には1970年代以降、神仙炉の評判はひたすら日帝時代、朝鮮料理屋の変形である料亭でのみ維持された。

http://biz.khan.co.kr/khan_art_view.html?artid=201105242110065&code=960100

2016年12月6日火曜日


[ジュヨウンハの食べ物100年](11)朝鮮料理屋の誕生

ジュヨウンハ|韓国学中央研究員教授
入力:2011.05.17 21:25:33 修正:2011.05.18 19:14:33

・光化門近隣‘明月館’が最初…日本・清料理屋と‘味三国志’



※私たちの料理の歴史、その料理に宿った文化と人生を豊かな史料に基づいておいしく料理してきた‘ジュヨウンハの食べ物100年’が二番目主題を始めます。 ‘最も古い外食業、クッパ家’を主題でソルロンタンなど9個の料理を紹介したのに続き、18日付からは‘朝鮮料理屋の誕生’を主題で神仙炉からムクまで新しい九種類食べ物を食べて訪ねて行きます。

“三四十年余り過去の事やその時に私たちの朝鮮は奥ゆかしくひっそり人定をされた後ならば人の往来が途絶えて国都に内外国人間で與人交際する席がなかったので二千万民衆の国としてこのようなことは情けない思いをしてみると、どこの国を問わず外国人が寄って行く時にはその国の程度を分かろうと思うなら料理店と病院と公園をした二回ずつ見た後でこそその国落ち着いているということがある程度に達したのを分かるがとかこのようになるに達してはその数値をメン鼻さあ韓国で他の国の人に自慢気になるほどの朝鮮料理を発明して官民上下なしで婚礼疲労と各項宴会や内外国人交際するところとすべての事業基礎上相談する席を作って我が国もこういうものがあるという表示がされるように他人を使用して営業機関を設備したこと毎朔水伯オーストラリアが雇用することに生活資料がクノサムシムニョンガニナトェヤンヌンジラ.”

この文は1933年朝鮮儒教会総部で出版した <朝鮮儒教会宣言書及憲章> の第9章に載っている。 執筆者は安淳煥だ。 それなら安淳煥は誰か? 概して大韓帝国最後の皇室料理人であり我が国最初の朝鮮料理屋だと見なされる‘明月館’を1909年今のソウル光化門東亜日報席にたてた人で知られている。 だが、安淳煥と明月館に対する今までの情報は相当な誤りを持っている。

安淳煥は1871年陰暦2月8日参奉を過ごした父・安舜植と母・清州韓氏の間で4兄弟中末っ子に生まれた。 2才の時実の母親の突然の死亡と家の衰退で幼くて生活苦をひどく体験した。 それにもかかわらず、父親は16才の安淳煥を寺小屋に送って漢学を勉強させた。 1890年に婚姻をした安淳煥は自立をするために翌年に書画商になった。 それと共に1895年官立英語学教に入学して引き続き武官学校に入ったが生活の困難で中間に止めた。 だが、安淳煥の実力と誠実さを分かっていた周辺の人々が推薦をして1898年度支部典圜局の建築監督になった。 その後版任官六等、典圜局旗手などを経た。 安淳煥は1909年1月21日から1910年8月29日間に電線社長線を引き受けた。


<曲阜聖廟慰安事實記> (鹿洞書院編・1931) 147ページにのせられた安淳煥の写真.
鹿洞書院の図鑑として朝鮮時代官服を着ている。

電線社長線という職責はどんな仕事をする席だったか? 1905年3月4日施行された宮内部管制改正の時、電線社は“賃金の食膳と宴会を受け持つ”とした。 電線社の長線は皇室の宴会に関する仕事を請った親分官職だった。 安淳煥はこの席で種3品までした。 だから安淳煥を置いて直接食べ物を作った料理人だと見るには難しい。 単に賃金の食膳と宴会の責任を負った部署の行政責任者だっただけだ。 当然大韓帝国の最後のコック長であったという話は誤った。

大韓毎日申報1908年9月8日付には“明月館では小さい事は該館設始した第5記念日である高炉の国旗を高揚して記念式を設行したそうだ”という記事がのせられた。 それなら明月館は1909年でなく1903年9月17日にドアを開けた。 その名前も本来明月楼だった. 初めに個人家を借りて始めた明月楼にお客さんが混雑するとすぐに安淳煥は同じ席に1906年9月2階洋館を新しく建てて名前を明月館だと変えた。 その詳しい話が1906年10月2日付万歳報にのせられた。 “ファントヒョン明月館で国内、外国料理を用意して刻印の請求を数応じるのは人々が皆知るところとかきて数多い請求という点ツンホ対と家屋が狭窄なことがあると大拡張を計画で2階洋館を新建築して各国料理を一新準備して風呂を貞潔に新設するのに先日から共訳に着手して諸般制度がきわめてものすごいそうだ”とした。 ファントヒョンはすぐに‘黄土床’と呼ばれた今の光化門交差点を示す。

それならこのように拡張された明月館ではどんな料理を提供したのだろうか? “国内外の各種酒と厳選した国内外各種料理を新しく準備して夜昼でお客さんをむかえようとします。 各団体の会食や市内外観光、還暦祝いと冠婚礼研などに必要な料理を用意しておいています。 さらに人を送って料理を配達したりもするが、ジンチャンハプとコン重箱、そして餃子料理を派手で精巧に用意しておきました。 必要な分量を要請すれば近くて遠方を選ばずに特に安い価格にむかえます。 君子の後のを表わすので皆さんはたくさん利用することを願ってはばからないです。 主な食物の種類は次のとおりです。 新しく改良して作った各種餃子料理、各国のビール、各種西洋酒、各種日本酒、各種のお酒、各種茶と飲み物、各種洋菓子、各種タバコ、各種葉巻、各国果物、各種さざえ、アワビ、カリン.”(万歳報1906年7月14日付広告)

たとえ朝鮮料理が主なメニューだったが、それでもものさびしく朝鮮料理だけを出すことはなかった。 外国料理と酒、さらにタバコも明月館で扱ったメニュー中の一つであった。 事実朝鮮時代には商業的な目的を持ってお客さんを迎えた専門的な料理屋はなかった。 “両班の宴会は自分の家でするなり、でなければ官庁所有建物であるヌジョンで妓生を命令と呼んでくるようにして酒を注ぐようにした。 そこでは金を出す必要がなかったために料理屋の必要がなかった。 合わせてお金を有している若者たちが頻繁に通う所では妓生の家があったし、ここで遊ぶ場合もあった。”(今村胴<京城花柳界の変遷> 、1937年)これに対し比べて明月館では一定の施設に決まったメニュー、そして専門的なサービスを提供して営業をした。 当然これに対して韓国最初の近代的な朝鮮料理屋だと呼んでも支障がないようだ。

残念ながら朝鮮料理屋明月館の誕生には江戸時代末期に形成された日本料理屋が影響を与えた。 日本料理屋がソウルに進出した時は概略1885~86年頃と見える。 日本の朝鮮侵奪が本格化してソウルの日本料理屋はより一層繁盛した。 特に朝鮮統監府設置以後には日本料理屋はソウルですごい盛業をした。 ここには‘風流統監’と呼ばれた伊藤博文(1841~1909)の公道あった。 1906年頃ソウルにあった日本料理屋ではファウォ楼・ククチュィル・青ファジョンなどが一流であり、松葉・明月・グァンスンなどが二流であった。 この中でファウォルルには30人余りの芸者がいるほど規模が大きかった。 すでに1890年に開業したファウォ楼はソウルの代表的な日本料理屋として地位を確立すた。 ファウォ楼の成功が事業家としての本性を持った安淳煥にとって明月館前身明月楼のドアを開けさせた。 伊藤博文やはり明月館の常連顧客だった。

明月館は1912年に3階洋館で建て増しされた。 また、1918年に安淳煥は光化門の明月館規模が小さいと判断して仁寺洞194番地に明月館地点を開いた。 本来泰化館は李完用の個人家である純化宮で安淳煥が1918年にこの家を買い入れて朝鮮料理屋に変えた。 こちらで1919年3月1日午後に宴会を終えた33人の知識人が独立宣言文を朗読した。


明月館妓生の歌舞場面を入れた日帝強制占領期間写真ハガキ.

それなら明月館の内部情景はどんな姿であったか? 1917年2月に発刊された‘新聞界’ 5号の‘京城遊覧記’という文にその概要が描写されている。 この文のストーリーは咸鏡南道金星に住むイ・スンジが偶然に会ったモダンボーイ、キム・ジョンソンと共に汽車に乗って京城で行って文明開化の成功を感心する内容で構成された。 当然朝鮮総督府の政策を宣伝するために建てられた文でもある。 “時は十一時半からである。 (中略)この時、人力車二車がファントヒョンに向かって運転していくので、これはキム・ジョンソンがイ・スンジを宴会接待をしようと明月館料理店へ行くことだと。 (中略)彫欄画棟と粉壁紗窓がファンファンした電気光線に映えて、きらびやかな光景が器、修正宮に入ることを悟ることができなくするべきだ。 (中略)二人はボーイの案内について3層楼一方居所に御座に着いたが”酒を何杯ずつ飲んで見たら、ドアが開いて“鐘偉く入ってきて飛んで行くように座って‘こんにちは’と、二人に向かって挨拶する女はまもなく広橋組合に有名な妓生チュン・ウンチュンとメ・ホンイニ、これはキム・ジョンソンがイ・スンジを接待するために求めたこと”だった。 お客さんと妓生が互いに簡単な話を交わして、ホンウン琴、チュン・ウンチュンはヤングムを演奏した。 当時光化門明月館の施設は3階に20号を越える部屋があった。 さらに妓生が組合を作って料理屋と遊郭などを転々とする時だ。 イ・スンジのような田舎両班が明月館でこのような贅沢を享受する仕事自体が朝鮮総督府おかげであることを如実に表わしてくれる。

3・1運動が失敗に帰するとすぐに安淳煥も監獄に閉じ込められる身分になった。 加えて1919年5月23日夜明けに妓生と遊んだ有閑知識人の不注意に光化門明月館の家高角が火に焼けて全体が消失してしまった。 結局明月館を他の人にバン安淳煥は1920年代初期に今のソウル中区明洞2街に食道院という朝鮮料理屋を再び設立した。 1920年代ソウルをはじめとして全国の近代都市には日本料理屋と清料理屋、そして朝鮮料理屋が都心の中心街に席を占めて盛業をした。 ソウルには前で言及した食道院と明月館はもちろんで明月点・国一館・長春院・考慮館・泰西館などが今のソウル江北都心に席を占めていた。

安淳煥は食道院を1929年まで直接運営して途方もないお金を集めた。 ところで亡父が常に強調した先祖安珦(1243~1306)に対する崇拝を捨てることができなかった。 結局1930年春に今の始興市に鹿洞書院をたてて黄海道ヘジュにあった安珦の墓地も移した。 また、名教塾をたてて若者たちに留学教育をさせた。 1935年4月28日には東京で開催された東洋柔道大会に他の儒学代表らと共に朝鮮代表で参加するなど孔子教運動にも中心人物で活動した。 安淳煥は近代的知識人であり事業家であった。 合わせて韓国最初の近代的飲食業創始者であり、後には朝鮮料理専門家になった。 彼は1942年8月20日72才で死亡した。

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[ジュヨウンハの食べ物100年](10) ‘1000年の香ばしい味’スンニュン

ジュヨウンハ|韓国学中央研究員教授
入力:2011.05.10 21:26:13 修正:2011.05.11 16:22:49

・朝鮮時代食後飲み物で愛、祭祀の時は茶の代わりに上げることも
・電気釜登場で遠ざかって


“熟水(スクス)は薬剤を煮詰めて沸かすのに使う水だ。 (中略)たいてい我が国の人々はご飯を炊いてすでに熟したら直ちにノグソッの底辺が焼けることになるのにここに水を注いで一度沸けばゆでご飯が作られる。 これを示してスクスだと呼ぶ。 すなわち同じ名前だがその実体は違う。”

この文は朝鮮後期の学者徐有榘(1764~1845)が筆で書いた本である <林園經濟志・鼎俎志>に出てくる。 本来中国宋の国の時代の人々は熟水を薬剤を煮詰めるのに使う良い水を示したが朝鮮の人は窯の下に残ったおこげが熱い時水を注いで作ったゆでご飯であるスンニュン(おこげ湯)を示すという説明だ。 たとえ熟水(スクス)からスンニュンという言葉が生じたと徐有榘が言及しはしなかったが、彼が描写した熟水はスンニュンであることに間違いなく見える。

熟水は祭祀を行う時上げなければならないと信じた茶に代わるのにも使われた。 本来朱子の <家禮> では宋の国風俗に基づいて祭祀に飲み物で茶を上げるようにした。 だが、茶の木が良く育たない韓半島の事情によってその多かった祭祀に茶を上げるのは決して容易なことではなかった。 結局李縡(1680~1746)は朝鮮の事情に合わせて <四禮便覽> (1844年、木版本)を編纂して茶の代わりに熟水を使えと注釈に付け加えておいた。 だが、朝鮮時代いくつかの知識人が文献に書き留めた熟水は概して煎薬や茶を入れる時使うお湯を示す場合が多かった。 だから古文献の熟水が必ずスンニュンだと見てはいけない。 熟水とともに熟冷あるいは熟冷水という言葉も出てくる。 正確に表現すれば冷水を温めた熟冷水が正しい表記だが、そのまま熟冷だと書いた文献も見える。 おそらく熟冷水よりは熟冷がさらに簡単で言葉でしばしば書いて見たら文字にも熟冷になるようだ。 スンニュンという話はこの熟冷(スクレン)から変化した。

それでも可能ならばこの熟冷も茶と記して呼ぼうと努力したようだ。 英祖の時生まれて純祖時死亡した黃德吉(1750~1827)は彼の文集で“祭祀で国を片づけてその代わりに茶を上げるのは礼儀だ。 過去の人々は熟冷だと呼ばないで必ず次と呼んだ”と書いた。 茶を祭祀に上げてしまわれることさえしたかった朝鮮の士の欲求がこの文でそのままあらわれる。 そのような事情は黃德吉と同時代の人である柳得恭(1749~1807)が筆で書いた <京都雜志> にも詳細に明らかになっている。 “茶は土産物がない。 燕市(燕市、ヨンギョンの市場)で買ってきたり新茶の芽・ショウガ・ミカンで代る。 官庁ではもち米を炒めて水に入れてこれを茶という”とした。 どれくらい茶を飲みたかったら、ショウガやミカンあるいははったい粉に蜜を混ぜてそれを次と呼んだだろうか。

このような事情は20世紀に入ってきても大きい変化がなかった。 朝鮮総督府の嘱託で仕事をした日本人村上唯吉は1916年に出版した <朝鮮人の衣食住> という本で“食後には茶を飲まない。 熟湯だと呼ぶご飯を炊いて残った飯湯を好んで飲む”と書いた。 これやはりスンニュンを示す。 知ってのとおり水が少しでも残っているカマはいくら火をたいても100度以上にならない。 水が米の中に全部吸収されて蒸らす順序になればカマの底は水気がなくなって100度以上になる。 このように3~4分が過ぎれば釜の底に残っていたご飯は茶色に変わる。 ここに水を注げば茶色のデンプンが分解されてブドウ糖ができることになる。 カマ底についたデンプンはすでに若干乗った。 ブドウ糖と乗った味が似合った熱いスンニュンをぱたぱたと飲めば即座に香ばしいという感じが口の中いっぱいに広がる。


スンニュンの誕生にはご飯を炊く器が大きい作用をした。
 おこげが適切になる大きな釜は
香ばしいスンニュンを作り出すのに適格だ。
 |京郷新聞資料写真

スンニュンの誕生には通常の国とは違い朝鮮の人が使ったご飯を炊く器が大きい作用をした。 <朝鮮無双新式料理製法> (1924年)で李用基は“ご飯を炊く器は石の釜が一番上で奥地湯罐がその次で、銑鉄釜が三番目で、筒老駆が下等だ”といった。 ここに言及されたカマはその良し悪しを離れて全部重い釜だ。 簡単に入って移して洗うのが難しい。 さらにクィハディ貴重な米や麦で作ったご飯のおこげをそのまま捨てることもできなかった。 この過程でスンニュンが誕生した。

真っ最中の6・25動乱が深刻だった1952年3月1日から京郷新聞には問答形式の‘京郷サロン’というコラムが連載された。 本来‘女性サロン’を受け継いだこのコラムは読者が質問をして‘無官者’というペンネームを前に出した編集部記者が答を出す方式に従った。 連載を始めた直後である3月6日付の問答主題の中の一つは‘喫茶店とスンニュン’だった。 “とても多い喫茶店でとても苦いコーヒーを高く売っているがその代わり安価な暖かいスンニュンを安く売るようにすれば主客間の良いから無官者などの意見は若何?”と光復洞喫茶店ファンという読者が質問を送った。 これに対する答は次のとおりだ。 “香ばしい話に疑問がある。 そういうコーヒーはやはりキキ味で、スンニュンもまたスンニュン味があるからと言って‘コーヒーの代わりにスンニュン’ということは絶対朝鮮では許容できません。 時々スンニュンの代わりに冷水を注文する方があったのです。”読者は喫茶店でもスンニュンを売ればどうかという主張をしたし、記者はすでにコーヒーが喫茶店の主なメニューになったが、その代わりにスンニュンを売ることがどうしてできようかという返事をした。 朝鮮時代ずっと茶に押されてその本性をまともに表わせなかったスンニュンは20世紀に入ってきて再びコーヒーの影の中に埋められてしまった。

19世紀後半朝鮮土地に足をふんだ西ヨーロッパ宣教師の荷物の中にはコーヒーが入っていた。 角砂糖の中に入ったコーヒー粉はお湯に入って黒い色コーヒーに変わった。 朝鮮の人はこれを‘洋湯’と呼んだ。 本来スンニュンをはじめとして類似茶の皆が甘み中心だったために砂糖の中に含まれたコーヒーは朝鮮人の口に合った。 1895年10月王妃が殺害される乙未事変を体験した高宗はロシア公使館に避けて身を守っていてこのコーヒー味に飼い慣らされた。 高宗にこのコーヒー味わうようにした人はドイツ系ロシア人アントワネット・ソンタグ(1852?~?)であった。 1902年10月に本来の瓦の家であったチョンドンクラブを壊してしまい2階建ての洋館を作ったソンタグは1階にコーヒーショップを開いた。 1904年3月と翌年11月には韓日併合の主役である伊藤博文と記者の身分だったウィンストン・チャーチルもこちらで泊まってコーヒーを飲んだ。

1910年代になればコーヒーは西洋を象徴することも、近代を表現することもした。 1914年にドアを開けた朝鮮ホテルでもコーヒーを売った。 1920年代になれば今日ソウルの明洞と鍾路には喫茶店という名前のコーヒー飲む所もいろいろな所に生じた。 1935年11月1日付雑誌‘三千里’では当時有名だったソウルの喫茶店相互を名指した。 仁寺洞のピーッと-ナース、鍾路のメグキー時鼻、今の小公洞である長谷川町の楽浪、鍾路のポン アミ、今の忠武路一帯である明治の定義エリジャワ タイナ、南大門通りのポストン、貫鉄洞のユリ院などが挙げられた。 1930年代になれば映画関係者・画家・文人・音楽家が直接運営する喫茶店がソウルの明洞・鍾路・小公洞・忠武路・東大門一帯に数十ヶ所ずつドアを開けた。 結局日帝末期の喫茶店は西洋音楽を聞いてコーヒーと紅茶を飲んで知識人の弱気さを日常の中に隠してしまったところだった。

それでもスンニュンは相変らず普通の韓国人が食後に飲む飲み物であった。 だが、1960年代後半になればその事情は完全に変わってしまう。 電気釜がまさにその主人公だ。 知ってのとおり電気釜は1955年日本の電気製品会社である東芝で初めて開発された。 その後の色々な電気製品会社で電気釜を開発した。 ところで問題は電気消費量がとても多いということにあった。 結局1965年象印魔法瓶の会社で半導体を利用した保温方式の電気釜を開発した。 この製品は以前のことに比べて電気も少し要ったし、保温もうまくいって消費者からすごい人気を享受した。

日本産電気釜は直ちに韓国に輸出された。 金星社では1966年に直接作った製品を販売し始めた。 ちょうど電気生産量が以前に比べて増加して電気釜は便利性という名前で家庭の台所から従来の釜を次第に追い出した。 不良品とにせ物製品、さらに密輸品事件まで体験して1970年代中盤になれば必ず備えなければならない結婚用品でも電気釜が挙げられた。 この時から農村では電気釜を買うための系組織ができるほど電気釜は急速に広まった。 だが、この電気釜ではスンニュンが作られなかった。 おこげができなかったためだ。

1970年代以後スンニュンやおこげを利用した飲み物製品が開発されて市販されたりもしたが、それはしばらく注目をあびただけ大衆化の道を歩くことができなかった。 清涼飲料の甘い味がコーヒーぐらい強力な力で食欲をひきつけたためだ。 同時に労働者の一食の食事値に匹敵したコーヒー一杯値がインスタントコーヒー登場で安かった。 1979年コーヒー自販機とコーヒーミックスの登場はコーヒーを食後飲み物の席に座らせた。 それで都市や田舎、老若男女を分けないでこの頃の人々は食後にスンニュンより自販機コーヒーを当然であるように飲む。 その結果大韓民国は世界でめったに見ないコーヒー消費国になった。 だがそのように作ったところは1000年が過ぎるまで香ばしい味で食後食欲をすっきりするようにしたスンニュンのおかげという事実を知る人が珍しい。

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[ジュヨウンハの食べ物100年](9)白菜キムチ

ジュヨウンハ|韓国学中央研究員教授
入力:2011.05.03 21:33:45 修正:2011.05.04 11:24:29

・“豪華な食事もキムチなければ寂しい”…重ね重ねにこく…懐かしい‘朝鮮白菜’

“キムチというのは我が国の人々がご飯の次にはキムチなしで耐えられないので満盤珍羞があってもキムチがなければ料理の形になれないだけでなく口にもクセになってキムチ食べられなくてはなることあり得ないので、どうして大切でないだろうか。それであるから春と夏と秋は天気が寒くない高炉少しずつ漬けて食べても関係なくても冬は不可不下だがしてこそ五六朔をモンナニそれであるから珍蔵という言葉は極めて重要な時食べることに宝で隠すという言葉だと。”この文は李用基が1924年に出した近代料理書の <朝鮮無双新式料理製法> に出てくる。ここで満盤珍羞は漢字で‘満盤珍羞’まもなく上の上にぎっしりと整えた耳とおいしい料理を示す。 キムチがなければご飯食べがいがない朝鮮の人の食の好みが如実にあらわれる。

李用基はこのようなキムチ論説を広げた後に30種類に達する調理法を紹介した。 その中でも白菜キムチ調理法が一番最初に出てくる。 “白菜を押した葉はみな抜いてしまい丸ごと続々が決めるように洗って何のクルセドゥンジ漬けるので水ある東夷に塩を半分なってほどを乗って白菜に充分に注いで漬けておいてカゴに出しておいて水がみな陥るようにしておいてニンニク・葱(パー)・苦難・ショウガ鞭打ってまた、カラシ菜・ネギ・セリと聴覚は一寸の長さずつ切って共に混ぜて白菜葉っぱ隙間ごとに少しずつ深く牛を打ち込んで葉っぱ一筋を捉えて回して白菜腰を売高また大根を決めるように洗って刃物であっちこっち似たり寄ったりオなのであたかもうろこ打ち込まれた形にした後で塩漬けにして高名をその御印の中ごとに入れてキムチの甕に配置されナニ”といった。

だが直ぐに繋いでこの方法は昔方法といって“このごろは株漬けキムチ漬ける方法が少し違って形がとてもインナニ”と書いた。 昔方法との違いは色々なものだ。 早期をまるごと入れたり、干し明太や干鱈を太く切ってキムチの甕底に敷いたり、タコやアワビあるいはさざえを高名に入れたり、ソルロンタン汁を冷まして油を歩いて味良いイシモチの塩辛汁を煮て冷まして共に混ぜて器がぎっしり埋まるように味付けをして注ぐ方法などだ。 さらに“株漬けキムチに入れた左早期を頭を取ってギュッと絞っていくつかでも定めた器に一ヶずつ置いて砂糖片づけて重ね重ねに置いて石で押して封じておいて数日後で取り出してさっと破って酒のつまみに食べれば絶品だ”とした。 あらゆる材料だけいっぱい入ったこのごろ白菜キムチとも全く違った味を感じさせてくれる。

良い白菜を救うことは昔も今も重要だ。 特にソウル中で名が知られた白菜産地が具体的に出てくる。 “良い白菜はソウルの中では名が知られたパンア橋ヌリゴルや訓練院が第一です他の所ことではこの二ヶ所にあう白菜がオムナニ”といった。 パンア橋は今のソウル鍾路区忠信洞、ヌリゴルは孝悌洞だ。 訓練院は朝鮮時代に兵士の武才試験、武芸練習、兵書講習などを受け持った官庁を示す。 今は消えた東大門運動場近くにあった。


下左側から花心白菜(非結球),
京城白菜、開城白菜、半結球白菜.
上側は全部結球白菜だ。
 |朝鮮総督府農業試験場資料写真

1923年11月9日付東亜日報でも当時ソウルの人に人気を集めた白菜に対して言及している。 “大慨時内で重要に打つ白菜畑はパンア橋白菜畑(忠信洞),訓練院白菜畑(東大門内),銅中庭白菜畑(東大門外夫),島話白菜畑(鍾路通五ジョンモク)等で、その他に地方でくることでは開城白菜を一番重要に打ったことなのに開城白菜は前回水害でほとんど全滅に戻って白菜相場は昨年より仕事をする内地二割ほど高くなったところなのに訓練院白菜は見ようということがなくて銅中庭白菜は非常になったが中がけることができなくてしながらその中で一番使うだけのことはあるところはパンア橋白菜で李王職を始めとして各代価ではたいていこちらで買って差し上げることを始めた形だ。 昨年から名前を得た島話白菜もパンア橋の次は行きますがこのごろ相場で見れば島話白菜は白銅にチルウォン五十銭、銅中庭分なら六ウォン五十銭、パンア橋白菜なら八ウォンないし九ウォン程に住むことができるということに”といった。 やはりパンア橋白菜が一番上に選ばれた。 事実東大門近所とその東側の白菜畑歴史は非常に古くなった。 朝鮮初期の学者成俔(1439~1504)は <慵齋叢話> で白菜に言及して“漢陽都城同窓の外に生きる人々がこれをよく育てて利益を取りまとめる”とした。 同じ時代を生きた金時習(1435~1493)は‘枉尋煙墟’という題名の詩で“年老いていた婦女子が都城で野菜を売って帰ってくるので幼い子供はうれしくて迎えて粗末な門の敷居を跳び越えるよ”と口ずさんだ。 これに対して金時習よりほとんど1世紀後人である權文海(1534~1591)は <大東韻府群玉> で“超心は今都城の同窓の外にある村の名前であり、こちらの人々は代々野菜を売ることを業とする”と説明した。 超心は今のソウル往十里一帯を示す。

それでも白菜キムチが朝鮮初期からキムチの一番上ではなかった。 かつて高麗中期の李奎報(1168~1241)は菁で夏には醤油に漬けて冬には塩漬けにして食べれば良いといった。 ‘菁’はカブである可能性が多い。 1670年頃書かれた <飲食知味方> ではキジで沈菜作る方法を紹介して‘蘿沈菜’を言及した。 ナパクは漢字の蘿(ナボク)から出た言葉だ。 丁若鏞(1762~1836)は‘竹欄物名考跋’で“莱は方言で蕪尤菜というが、これは武侯菜が誤って伝わった”といった。 すなわち武侯孔明が好きだった野菜という説話で‘大根’の朝鮮式名が知られてきたという主張だ。 その真実の有無はまだ確認する方法がないが、トンチミ(大根の水キムチ)とソッパクチとともにかむ朝鮮末期までキムチ材料の代名詞であった。

1890年代に使われたと思うようになる <是議全書> ではじめて白菜株漬けキムチ調理法が初めて出てくる。 このキムチの漢字の名前をソング沈菜と書いた。 丁若鏞は前の文で“ソング菜を朝鮮では拝草というが、これは白菜が誤って伝わった”と叱責した。 白菜の表面葉が松の青い色を帯びたのでできた名前がソングけられて、その中が白いので白菜になった。 知ってのとおり白菜の原産地は中国の北部地域だ。 柳重臨が1766年(英祖42)に書いた筆写本 <增補山林經濟> は中国の品種(唐種)が最も品質が良いと明らかにした。 だが、白菜はスープを煮たり蒸して食べる野菜であった。 18世紀以後に白菜が次第にキムチの主材料として地位を確立していった。 それが19世紀になれば大根に次ぐキムチ材料に浮び上がった。 結局1910年代以後白菜キムチは越冬用キムチのうちで最も重要な位置に上がった。

なぜこの時代にきて白菜キムチが浮び上がったのだろうか? ここには朝鮮に来た中国人と関連がある可能性が多い。 1882年壬午軍乱の時清国は吳長慶を前に出して4500人余りの軍隊をソウルに送る。 これから朝鮮に中国人が集団的に居住し始めた。 済物浦では労働に、ソウルでは絹と雑貨販売で、そして金浦一帯では白菜農作業で彼らは生計をたてた。 結局彼らを通じてまた他の白菜品種が韓半島に入ってきた。 それがすぐに今日キムチの漬け込みの時ごとに全国の注目をあびる結球白菜だ。

高麗時代の時中国から入ってきて韓半島に定着した白菜は非結球白菜であった。 1931年に発刊された <朝鮮総督府農業試験場25周年記念誌> では“在来白菜のうち有名なのは京畿道開城のいわゆる開城白菜と京城の京城白菜2品種だ”といった。 また、1920年代に“開城白菜は比較的北側地方に大いに普及されたし、京城白菜は京城以南の地方にたくさん栽培されている”として韓国の農民は京城白菜を主に栽培すると書いた。 京城白菜は他の言葉で前で言及したソウル白菜だ。 それと共に芝部白菜のような“結球性白菜栽培が次第に増加しているがまだ在来種栽培がその大部分を占めている”といった。

ここで‘芝部’は今の中国、山東省煙台だ。 20世紀初期に有名だった中国白菜では芝部白菜をはじめとして山東白菜・満州白菜・金州白菜などがあった。 朝鮮の華僑は春節を控えては必ず故郷へ戻った。 ‘つばめ’と呼ばれた彼らは朝鮮に戻る時荷物の中に白菜種子を入れて帰ってきた。 それでこの結球白菜の名前が‘胡白菜’になった。 朝鮮総督府は胡白菜が在来種白菜に比べて収穫量がはるかに多くて積極的に栽培を推奨した。 さらに化学的な栽培法を導入する場合、冬に胡白菜を植えてみることにも収穫できるので農家所得にも効果的だった。 1910年を前後して日本でも芝部白菜栽培が成功したので朝鮮総督府の胡白菜奨励は当然のことだった。

結局1930年代になれば結球白菜である胡白菜は朝鮮全域で栽培された。 1932年8月17日東亜日報報道によれば、黄海道長淵郡の長淵種苗源所有者キム・ジングは白菜種子採種場をいろいろな所に設置して品種改良に成功したという。 ソウル白菜でも開城白菜でも非結球白菜の最も大きい問題は寒さがはやく近づけば11月中旬にも凍ってしまうというところにあった。 これに対し比べて結球白菜である胡白菜は中葉が満杯になって凍っても表面葉を引き離せば大丈夫だった。 ところが胡白菜の人気が急速に広がったのではない。 朝鮮白菜に比べてこくが少なくて野菜の固い部分も多くなくて全面的な人気を呼べなかった。 それで1960年代までも正月前に食べる白菜キムチは胡白菜で漬けて、その後まで料理は朝鮮白菜で漬けなければなければならないと感じた。


だが高価格な在来種白菜に比べて胡白菜は安かった。 1970年代初期朝鮮白菜が高くて庶民はやむを得ずキャベツでキムチの漬け込みをすることもした。 しかしその味は朝鮮白菜で漬けたキムチに比べるのではなかった。 結局大量生産の時代に入り込んだ1970年代中盤になれば、農民は化学肥料と農薬だけあれば栽培も易しくて重さもたくさん出ていく胡白菜を選択するほかはなかった。 ここに春にも出荷できて生産者や消費者皆が胡白菜にどっぷり浸かった。 ついに1980年代初期になれば胡白菜でだけ越冬用キムチを漬けた。 当然市場では朝鮮白菜を探すことも難しくなったし、胡白菜という名前もそのまま白菜に変わった。 もう別途の意を有していなければ朝鮮白菜で漬けた白菜キムチを食べるのが容易でない。 これが去る100年間に品種も調理法もその味も変わってしまった白菜キムチの現実だ。

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[ジュヨウンハの食べ物100年](8) ‘全季節’珍味、冷麺

ジュヨウンハ|韓国学中央研究員教授
入力:2011.04.26 21:48:27 修正:2011.04.27 16:02:40

・1920年代製氷機術導入…夏料理で‘再誕生’

“平壌冷麺、ヘジュ冷麺の次にソウル冷麺を指を折って数える程もうソウル冷麺が冷麺軸で公然に一役を見ることになりました。 しかし京城冷麺は言ってみれば平壌冷麺の延長に過ぎません。 口難しいソウルの人々の味覚を征服してみようと平壌冷麺商売が一流技術者-冷麺の味はその技術如何にかかりました-を連れて京城に進出し始めてもう動くことはできないかたい地盤を積み上げました。 夏一時期さらには各官庁会社の昼休み裏面は冷麺屋受話器では火事が起こる状況です。” 1936年7月23日付毎日新報にのせられた‘冷麺’関連記事の初めての部分だ。 1930年代中盤、ソウルの冷麺屋が盛業をしている情況をこの文は生き生きと伝える。

1920年代末ソウル、清渓川北側には40ヶ所を越える冷麺屋があった。 楽園洞の平壌冷麺家と副僻陋、広橋と水標橋の間の白楊ヌ、そして敦義洞の東洋ヌなどが皆冷麺専門店でその当時名を知らした。 ところで冷麺屋は通常のレストランと違う姿を持っていた。 断層冷麺屋入口に相互を少ない看板がついたことはソルロンタン家やチュオタン家と同じだった。 だが、看板横に長い棒を空高くさしておいて、その終わりには長くぶら下げた紙束が飛び散るようにした。 紙束が風に揺れる姿があたかも製麺機の穴からちょうど抜け出すソバ タレに似ていた。 高い建物があまりなかった当時の鍾路。電車からおりて北岳山の方を見上げるだけでこの紙束が即座に目についた。

特に真夏には青空でひるがえる白色の紙束が居候の食欲を誘惑した。 小説家キム・リャンウンは1926年‘東光’第8号に小説 <冷麺> を発表した。 真世界経済恐慌の最中により市民の生活も難しかった時期、新聞社記者であるスンホは暑さが強引に通そうとする8月に減った月給袋を持って家に向かって突然冷麺が食べたかった。 電車に乗ってゆで豚肉と千切り腹側、そして黄色いカラシをばらまいたうずたかい冷麺一杯を頭に思い出させて唾をごくっと飲み込んだ。 電車はすでに鍾路2街に進入した。 その時スンホが急いでおりるといって叫んだ話が‘停車’でなく‘冷麺’だった。

だが、冷麺は本来冬料理だった。 前の毎日新報冷麺記事の最後にもこの点をのがさない。 “夏冷麺はすっきりした味に多く食べるけれどしかし本当に冷麺らしい味わうには冬冷麺が第一です。 冷たい同床が汁にも話はトンチミネンミョニヤマルロ一度食べれば人が表れてしまうあきれたのです。 寒い冬過ごす冷たい冷麺味も格別味であることであり冷麺の後の香ばしい熱いククスの味もまた格別なのです。”

平安道出身でフランス留学に行ってきた李晶燮は自身が外国にある時最も多く思い出した料理でキムチ・カルビ焼きとともに冷麺を挙げた。 “同志師走寒い日に白雪がグラグラ飛び散る時にオンドルにふくらむ暖かく時で3~4人の友人が互いに座ってカルビ焼いて食べることや冷麺割り勘をするのもとても懐かしかった。”(‘別乾坤’ 1928年5月)外には雪が降って、部屋のオンドルはぐつぐつ沸くほど熱くて、そちらで人がシリン冷麺を食べる姿が鮮やかに目に浮かぶ。

冬に冷麺を食べる風俗はすでに朝鮮後期にも平安道や黄海道の人々にはあまりにも当然のことだった。 丁若鏞(1762~1836)も冬にそちらの人々が冷麺食べる姿を置いて、“十月に入って西関にした者かなり雪積もれば、門(注:韓屋のムン)に二重に幕を張ってふんわりとした毛布を床に敷いてお客さんをつかんでは、新鮮な形のチェンゲビにノロジカの肉薄く切って焼いて、長く選んだ冷麺に白菜漬物を添えるよ”と詩を詠じた。 当時の冷麺正体に対するより一層詳しい内容は洪錫謨(1781~1857)が書いた <東国歳時記> の陰暦11月便にも出てくる。 “ソバに大根漬物と白菜漬物、そして豚肉を入れた料理を冷麺だと呼ぶ。 また雑菜(チャプチェ)と梨・夜、千切り牛肉と豚肉、そしてゴマ油と醤油を全部ククスに混ぜたのを骨董麺だと呼ぶ。 関西の麺が最もおいしい。”

ところで1920年代になれば人々は冷麺を夏料理で食べ始めた。 このような冷麺の変身には近代的な製氷機術が決定的な役割をした。 人工氷を作る製氷機術は1875年にドイツ人リンデとアメリカ人ポイルがアンモニア圧縮式冷凍機を開発してから始まった。 1910年釜山にも製氷工場が立てられた。 ひきつづき済物浦と原産・群山などの地にも製氷工場がドアを開けた。 本来これら製氷工場は魚に氷を満たして永らく流通するために必要な施設だった。 だが、真夏に氷を見るとすぐに人々は食べることができる氷まで考えが及んだ。 この氷が冷麺と会って夏冷麺の誕生を持ってきた。 雑誌‘別乾坤’第24号(1929年12月)には平壌の夏冷麺味を次の通り書き留めた。 “大陸的影響で夏の日熱度が相当高い平壌で暑さがとても争う時白い‘ポルドクもてなし’にげんこつのような氷塊りを中に隠してぐるぐるとからまった冷麺! 氷に暑さをはね除けてカラシと酸味に倦怠をぬぐい去るだろう!”


日本調味料会社味の素が1930年代に出した新聞広告.
冷麺スープに加えて、調味料入りのスープ味を出すことができるという内容だ。

冷麺の中に入った氷は本当に暑さに勝つようにさせてくれた。 ところでまた他の問題があった。 主に冬に用意した大根水キムチ(トンチミ)や白キムチ(ペッキムチ)、あるいは大根と白菜の水キムチ(ナバクキムチ)を夏に入れてこそスープを出すことができたためだ。 すでに1910年代末にソウルに代理店を開設した日本の化学調味料会社味の素がこのスキ間をのがすことが皆無だった。 1931年12月17日東亜日報には‘薬念(ヤンニョム)粉味の素’の広告がのせられた。 “冷麺+味の素=美味、すべての料理+味の素=美味、レストラン+味の素=千客万来”がこの広告のコピーであった。 広告の中の図も彼らが冷麺屋をターゲットとしたことを分かるようにする。 前でも紹介したように図の中のレストラン看板そばには紙束をさした壮大が高さひるがえっているためだ。

事実味の素社はすでに1927年に平壌大同門近くに冷麺屋を直接開いた。 本来平壌冷麺のスープは大根水キムチ(トンチミ)を煮て人生は牛肉や豚肉塊りをその中に入れて作り出した。 当然動物性蛋白質のアミノ酸味が大根水キムチ(トンチミ)汁に溶け込むのでそのおいしくないわけがなかった。 ところでこの味を味の素のグルタミン酸が代ることになった。 冷麺屋主人の立場ではたとえ味の素が安くはなかったが、その便利性は高い値打ちをしてあまりあった。 特に真夏にあえて大根水キムチ(トンチミ)を漬ける必要もなくさせてくれた。 お客さんの立場でも退屈な大根水キムチ(トンチミ)スープに比べてはるかに刺激的であり香ばしい味を味わうことができた。 当然大歓迎だった。

1920年代末になれば冷麺は冬と夏はもちろんで春や秋にも食べる料理になった。 先立って紹介した雑誌‘別乾坤’第24号では平壌で食べる春と秋の冷麺に対しても惜しまない賛辞を送った。 春に食べる冷麺は“春風がざっと吹き寝ようが牡丹台に木ごとに葉開いて行くがごとに花が咲く3,4月長い年を春興に抑えがたくて楽しんで疲れた橋を大同門の前非常に高い2層楼にのせておいて浿江の青い水よって終日の疲労を流していっぱい入れた一杯冷麺に市場を合わせる時!”といった。 秋に食べる冷麺は“数年を置いて描こうが負けることを浿城に合って綾羅島ポドゥル間に照らす月の光をむかえて胸襟を破っておいて古懐を話す時筋ごとに長い冷麺が尋ねて切りにくいということが彼らの友情をいうような時!”と少なかった。

結局1930年代全国は冷麺味で‘全季節’揺れた。 ところで問題は冷麺需要に合わせることができないソバ生産だった。 知ってのとおりソバは小麦粉とは違いそれ自体で生地が冷たくなることにならない。 それで先に緑豆澱粉で糊をつくった後ここにソバ粉を入れて生地をしなければならない。 石ころのように丈夫なソバ生地を麺に作るために朝鮮後期にすでに木で作った‘麺自分’が開発された。 だが、若い男1,2人が麺自分上に乗って全身で力を集中してこそやっとソバある乗れといって行って作られた。 だからその生産量が人々の口を満たすことができなかった。

ついに1932年6月に咸鏡南道咸州郡の鉄工所主人キム・キュホンが鉄で作った冷麺機械を開発するに至った。 この機械を使えばひとりが在来式より三倍以上の速度でククスをおろすことができた。 冷麺屋の来たかまどをみな占めた在来式に比べて狭い空間に設置してもソバおりるには問題がなかった。 以前には煤煙がいっぱいである台所で人が天井まで上がって麺自分を押して見たら、天井についた煤煙と人の汗がソバが熟す窯にぽたぽた落ちた。 これに対し比べてキム・キュホンが開発した製麺機は非常に衛生的だった。 これが時間を繰り返してこのごろ冷麺屋で使うステンレス製麺機に進化した。

それでも冷麺がその人気を限りなく享受したことではなかった。 1930年代冷麺屋の盛業はまた他の社会的問題を引き起こした。 夏なら一日が遠いといって食中毒事件が発生した。 豚肉とスープの出会いは真夏に大腸菌を作り出す主犯だった。 さらに配達される冷麺スープに毒を盛って人を殺す事件も起きた。 ここに冷麺が大衆料理に変わるとすぐに食べることはできない化学物質で冷麺を作って原価を減らそうとする主人も生じた。 秋ソバが冷麺の需要を合わせられないと、最初からソバ粉を入れないで他のデンプンで丈夫なククスを作った後にソバのように色だけ入れる冷麺も作られた。 これによって今でもソウルの人はソバがゴムひものように丈夫でこそ本当に冷麺だと錯覚をする。

今でも全国に冷麺屋天地だ。 だが、残念なことに“カチカチ魂はキムチの甕を突き抜けて薄氷が浮かび上がった濃い醤油キムチの汁に加えた箸にその解いてどっと震えてオンドル部屋上座へ行く味!”(‘別乾坤’第24号)を楽しむことは容易ではない。

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[ジュヨウンハの食べ物100年](7) 「保養の象徴」参鶏湯

ジュヨウンハ|韓国学中央研究員教授
入力:2011.04.19 19:07:45 修正:2011.04.20 15:46:04

1987年8月に主要日刊紙に掲載された消化剤広告はヘッドコピーで「参鶏湯ではなくて鶏参湯です」を前に出した。 その内容はこうだ. 「よく知っているのと違い参鶏湯の本来名前は鶏蔘湯です。 柳得恭の京都雑誌、金邁淳の洌陽歲時記、洪錫護の東国歳時記などには鶏参湯に対する記録があまねく現れています。 また、韓国語辞典にも「幼い初物の鶏の内蔵を抜いて高麗人参を入れてた漢方薬」と鶏参湯に対して解説しているので、参鶏湯という単語は探してみることはできないです。 そのような鶏参湯が参鶏湯に変わることになったことは6・25動乱以後からです。 本来貴族階級の料理であるから大衆性がなかった鶏参湯が大衆飲食店で料理で作って販売され始めて参鶏湯だと間違って呼ばれました。」

この広告のコピー文は致命的な誤りを持っている。 朝鮮後期の歳時風俗を記録した本である <京都雑誌> 、 <洌陽歲時記> 、<東国歳時記> をいくらかき回してみても鶏参湯という料理は出てこない。 ただし <東国歳時記> から極暑料理で食べる狗醤に鶏を入れれば良かったり、陰暦6月に食べる料理で「小麦でククスを作って白菜の青い葉と鶏肉を混ぜてイチビ湯に混ぜて食べる」でも「ワカメスープに鶏肉を混ぜてククスを入れて水を若干打って煮て食べる」という程度の記録が出てくるだけだ。

朝鮮時代全体時期にかけて鶏は卵を得るために家で育てる貴重な家禽類であった。 それで婿がきてこそ卵を産む種雌鶏を捕まえるという言葉が生じた。 1670年(玄宗11年)ぐらい安東張氏が書いた<飲食知味方> では主にキジ肉を利用した料理が多数登場する。 本来17世紀までしても料理の材料では鶏よりキジをさらに高く思った。 キジも卵を産むがそれが鶏卵に匹敵しなかった。 冬に鷹で狩猟をして捕まえるキジがなかった夏になってこそキジの代わりに鶏を肉とみなした。 そのような事情が前の <東国歳時記> 陰暦6月便に含まれている。

方信榮(1890~1977)が書いた1917年版 <朝鮮料理製法> で、はじめて鶏が主材料になったダルグクが出てくる。 さらに李用基が1924年に出した料理書の <朝鮮無双新式料理製法> にはダルグクと水炊き料理の二種類の鶏肉調理法が記されていたりもする。 事実朝鮮総督府は1920年代以後全国の農村家庭で副業で養鶏をするように積極的に推奨した。 だが、養鶏推奨の目的は卵をたくさん生産するところにあった。 西ヨーロッパをはじめとして米国と日本の良い種系を普及させて質が良い卵を生産するように誘導した。 全国の主な都市ではいつも優秀な品種の雌鶏と大きくて質が良い卵を選抜するための家畜共進会が開かれた。 1925年10月4日東亜日報記事によれば、その前年に全国的に鶏を1000万匹も捉えたといった。 たとえその中で1万匹は外国に輸出されたが、朝鮮後期に想像もできなかった鶏肉消費が1920年代に韓半島で成り立った。 それで <朝鮮料理製法> や <朝鮮無双新式料理製法> に鶏肉を利用した料理がたくさん登場したのだ。 合わせて中国料理・日本料理・西洋料理の流行も鶏肉消費量を増加させるのに相当な寄与をした。

それなら1917年版 <朝鮮料理製法> に出てくるダルグクはどのように作る料理であったか? 「鶏を捉えて内蔵を抜いて足と翼終わりと頭を切り捨てて腹の中にもち米三スプーンと高麗人参粉あるスプーンを入れてあふれないように束ねた後に水を十譜時期ぐらい注いで煮込む。」ところが1942年版 <朝鮮無双新式料理製法> ではダルグクが「水炊き」という名前に変わった。 その調理法は1917年版とほとんど同じだが、最後の部分が違う。 「水を十譜時期ぐらい注いで沸かしてハンポ時期ぐらい作って塩辛くて墨出るのだ」とした。 肉はしわみ次第食べるが先に汁を組んで薬のように食べることを方信榮は薦めている。 事実水炊き料理は漢字で「白熟」と書く。 ここで漢字白には「そのまま」という意が含まれている。 すなわち塩や醤油で味付けをしないでそのまま煮て出す食べ物を示す。 汁があってもないか関係なく肝を別にしなかったので、1942年版の料理も水炊き料理だと呼んでも関係ない。

<朝鮮無双新式料理製法> で紹介したダルグクは漢字で「鶏湯(ギェタン)」と書くといった。 「鶏をよく退して太くとって装置で葱(パー)を切って入れて胡椒を打ってもんでカマに入れて水を少し張って炒めて再び水をたくさん注いで大根バクを切ってノンナニみな沸いた後に粉唐辛子打って墨出るのだ。」ここで「退して」という話は鶏の毛を抜くために沸いているお湯に少しの間入れて取り出すという意だ。 「太くとって装置で」というのは、切り身を太く出すことをいう。 この調理法は一時「タットリタン(鶏肉とジャガイモの煮込み)」と間違って呼ばれたタックボクムタンだ。 ところで李用基はダルグク調理法の最後にまた他の方法も書いておいた。 「または、鶏の内蔵を抜いて腹の中にもち米三スプーンと高麗人参粉あるスプーンを入れて縫って沸いているお湯に入れてきれいで食べることもハ出るのだ。」この調理法は1917年版 <朝鮮料理製法> のものと全く同じだ。

李用基は同じ本で水炊き料理は「夏には第一など保養することであるからひょっとして高麗人参食べるこれは参を入れて共に孤児も非常に良いのだ」とした。 ここでの乾燥高麗人参粉でなく生高麗人参である可能性も多い。 だが、その名前を決して鶏参湯あるいは参鶏湯だと少なくなかった。 さらに日帝時代出版された雑誌や新聞で鶏参湯あるいは参鶏湯という料理は登場しない。 こうしたことは解放以後もしばらく続いた。

1948年7月3日付京郷新聞の2面下段には「マンナ館」という水炊き料理専門店で出した広告がのせられた。 ソウル鍾路区瑞麟洞89番地にあった天日館席に新しくできたこのマンナ館で昼間にだけ水炊き料理を売るといった。 「天日館」といえば日帝時代にソウルで名高かった料理屋だった。 解放政局で料理屋の営業がうまくいくわけがなかったので、相互も変えてメニューも一品料理である水炊き料理を前に出すようだ。 それも真夏に広告を出したので極暑に合わせた新しいメニューであった。 料理屋の変身はソウル明洞にあった高麗程度同じだった。 1953年6月16日付京郷新聞2面下段には旧高麗ジョンが水炊きと水炊き定食、そしてすし定食と旧高麗ジョン冷麺をメニューにして新装開業をしたことを知らせる広告ものせられた。 前でも明らかにしたように日帝時代以後粘り強く進行された養鶏業振興は解放以後最も容易に食べることができる肉として鶏肉を前面に出るようにした。 だが、鶏肉の消費量増加が直ちに鶏参湯あるいは参鶏湯をレストランの主なメニューとして位置を確立するようにできなかった。 1950年代までもその名前は相変らずダルグクあるいは水炊き料理だった。 高麗人参がその理由を抱いている。

全部分かるように高麗人参はその加工の有無にしたがって大きく生高麗人参・白参・紅参に分かれる。 生高麗人参は、乾燥しない高麗人参を他の言葉で生参とも呼ぶ。 生高麗人参は水気が消えれば腐ってしまう。 それで高麗人参畑で掘り出た生高麗人参は普通10度程度で10日ほどしか保管できない。 だから高麗人参を永らく保管するためには白参や紅参に加工をしなければならない。 白参は普通4年の間栽培した生高麗人参の皮を剥いだ後に日光で干して作る。 これに対し比べて紅参はその色が赤いので付けられた名前だ。 普通6年の間栽培した生高麗人参を水できれいに洗って、水を沸かした水蒸気で蒸す。 これを熱風で乾燥させた後水分が12.5~13.5%程度残るように日光で干す。 紅参はより永らく高麗人参を保管するために開発された結果だ。

高麗時代以来紅参は中国と日本に輸出した韓半島名山品だった。 1810年になれば高麗人参を紅参で加工するツンポソが開城に設置されるほど紅参需要が急増した。 日が進むにつれ高麗人参は世界的な名声を得たし、日帝時代になれば朝鮮総督府も高麗人参栽培と白参と紅参加工に熱を上げた。 警察出身朝鮮風俗専門家・今村胴(1870~1943)は高麗人参の全てのものを整理した <人蔘史> という本7冊を朝鮮総督府名前で発刊するほどであった。 1910年代になれば国内でも白参や紅参が金持ちに人気を集めた。 値段が安い白参粉がすぐに1917年版 <朝鮮料理製法> で紹介されたダルグクに入れる高麗人参粉だ。

鶏参湯という料理が本格的にレストランのメニューで登場する時は1950年代中盤以後だ。 前で紹介した消化剤広告で言及した通り朝鮮戦争以後に鶏参湯は大衆的な料理で販売された。 だが、相変らず白参粉で作った鶏のスープだった。 ただしダルグクよりは鶏参湯といってこそ営業をするのに得した。 高麗時代以来高麗人参が享受してきた保養剤としての象徴的力をいよいよ一般の人たちも享有することができるという販売戦略が鶏参湯という話を作り出した。 ところで1960年代になれば鶏参湯が参鶏湯でその名前を変える。 最初から鶏肉より高麗人参を前面に押し出すという戦略だった。

忠清南道錦山は朝鮮戦争以後南北が分断されてはじめて韓国の代表的な高麗人参市場として地位を確立した。 そちらの老商人話によれば、1960年を前後して錦山邑の金星橋近所には20余号の生高麗人参販売店があったという。 1966年になれば錦山市場に生高麗人参販売だけをするチャンオクが席を占めた。 1973年には最初から牛市場が立つ席に生高麗人参市場が入った。 冷蔵庫の普及で生高麗人参の保管期間が増えた点も生高麗人参販売店の増加を持ってきた。 ここに許可制であった高麗人参栽培を自律で開放した1965年の政府措置も高麗人参生産量増加とともに生高麗人参普及率を高めた。

結局1960年代になればソウルを中心に水炊き料理を販売した食堂が参鶏湯という名前を前に出し始めた。 真夏蒸し暑さを避けてソウル洗剣亭遊園地や纛島遊園地に避暑に行った家族は参鶏湯を買って食べて暑さを冷ました。 さらに1973年になれば国内のある食品会社が缶詰めに参鶏湯を入れて東南アジアに輸出をした。 結局20世紀以後粘り強く進行された国家の養鶏業振興と高麗人参栽培の拡散が1960年代以後参鶏湯を専門食堂で販売する料理で作った。 このごろも極暑になれば参鶏湯専門店には人々で長蛇の列を作る。 相変らず保養料理の属性を参鶏湯がぬぐい去ることができないためだ。 さらに工場と同じ養鶏場で生産された鶏が地鶏を懐かしくさせる。 だから今でもその名前に参を前に出すほかはない。

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[ジュヨウンハの食べ物100年](6)開城の代表料理、ピョンス

ジュヨウンハ|韓国学中央研究員教授
入力:2011.04.12 21:06:46 修正:2011.04.13 17:06:15

・開城婦人の調味法がもたらした「味の恍惚の境地」

「開城ピョンスの中にも翰林した家で勝手に作ってピョンス食べるという気持ちだけ味わうようなそのようなピョンスはソウル、鍾路通レストランで一金20銭に大きい接待に一つずつあたえ餃子味にはおよばないかもしれない。 それは肉は殆どなくて、もやしと豆腐の混合物に過ぎないためだ。 本当に他の人々が称する開城ピョンスはそんなものでなくそのピョンスの中の主成分は牛肉・豚肉・鶏肉・生ガキ・松の実・キノコ・モヤシ・豆腐その他の薬念などこのように色々な種類だ。 これを適当な分量ずつ配合して入れるもののおいしいものを作るには少なくとももやしと豆腐の合わせた分量が全体分量の3分の1を越えてはいけないだろう。 それで本当においしいという開城ピョンスはそんなに廉価に得られるのではない。」

この文は1929年12月1日付「別乾坤」雑誌に「天下珍味開城のピョンス」という題名でのせられたのだ。 筆者は秦學圃だが、おそらくペンネームで見なされる。 他の新聞で秦學圃は「胡餅商売.徳性が」(東亜日報・1929),「クリスマスのスンギル」(東亜日報・1930),「沈清の話」(毎日新報・1934),「龍王の玉」(毎日新報・1934)のような童話を連載した。 これで推察して1920~30年代の童話作家だったことを察することができる。 だが、まだ彼の実名が何なのかを知らない。 ただし「別乾坤」の記事を通じて秦學圃という人物が少なくとも開城出身であることは明らかに見える。 開城ピョンスに対する彼の博学な知識のためだ。

それならピョンスはどのように作る料理であろうか? 1890年代に使われたハングル筆写本料理書 <是議全書> にその調理法が出てくる。 「小麦粉を冷水でこねて薄く押して真四角に切るもののとても小さくしないで狭いギョーザの具のように作って耳を歩いて安くて真四角にするものの舌を必ずつくようにしてゆでる方法も餃子と同じなのだ」とした。 同じ本に出てくる「餃子」でピョンスの小作る方法を察することができる。 「所感では牛肉・キジ肉・豚肉・鶏肉を全部使う。 セリ・もやし・大根みな茹でて豆腐と白菜キムチはみじん切りにし、肉もみじん切りにする。 みじん切りにした野菜と豆腐・鶏肉にパー(ネギ)・ショウガ・ニンニク・粉唐辛子・ゴマ塩・油を入れて味付けをして味付けする。 油をたくさん入れて中に松の実を置いて本ずつ入れてとても薄く仕込んだ肉汁でゆでる。 ギョーザは水がぐらぐら沸く時入れて釜蓋を覆わないでゆでるが、ギョーザがふわふわ浮かび上がったら取り出してボウルに入れて胡椒を振りかける。」

<是議全書> の著者はピョンスと餃子はその牛やゆでる方法では違うところがないが、ただしピョンスの形が真四角なのに差があると見た。 だが、秦學圃が礼賛した開城ピョンスに入る所は <是議全書>の餃子とは若干違う。 「色々な物が開城婦人の特殊な調味法でよく調味されてちょうど良く熟してそれが私たち口の中に入る時その味が果たしてどのようだろうか。 三種類の肉味、カキと松の実味、もやしと豆腐の味が別々に出ることでないですよその色々なものがよく調和してその色々な味のうちで良い部分だけが一ケ所合わさって新しい味を成し遂げて私たちののどで溶けて移ることであるからその新しい調和した味それが開城ピョンス味だ」といった。 ピョンスは夏に冷たくして食べる料理だった。 牛の食感を満喫するために普通、醋醬につけて食べた。

2008年北朝鮮の勤労団体出版社で発行した <私たちの民族料理> でもピョンスを開城食品に選んだ。 それと共にピョンスという名前は水にゆでてすくい出したという意でできたと明らかにした。 普通ピョンスは漢字で「片水」と書く。 水の上に彫刻が浮いているようだといってこのような漢字名前が生じたと見ることもできる。 だが、1870年頃使われた本で知らされた黃泌秀の <名物紀略> では匾食をピョンスと誤って読んでできた名前といった。 中国明国時の宮中風俗を書いた劉若愚(1541~?)の<酌中志> でも陰暦正月の一日お湯につけた餃子である匾食を食べると書いた。 「匾食」でも「扁食」は同じ意だ。 明国の人々は今の中国料理渡す者を匾食だと呼んだようだ。 朝鮮時代開城商人である松商は今の北京である燕京から朝鮮使節が離れる時高麗人参を持って行った。 その過程で匾食を分かったし、19世紀になれば開城の独特の料理でピョンスが席を占めた。 その形も松商の意志を入れたように風呂敷で牛を包むようにできた。 それで名前もピョンスに変わった。

はっきり調べればピョンスやはり餃子の一種だ。 だが、中国人が食べる「餃子」は中が入ったのと入らないことに分かれる。 中が入らないのは他の言葉で白饅頭だと呼んだし、中が入ったことは餃子あるいは包子あるいは匾食だと呼んだ。 早くから小麦粉料理が発達した北京をはじめとする華北地域の人々に餃子はまもなく白饅頭であった。 今でも中が入って沸いているお湯でゆでるのは餃子のうちでも水餃子だと呼ぶ。 韓国語では水餃子だ。 朝鮮時代宮中では水餃子のように汁がある餃子を漢字で「餅匙(ピョンシ)」と書いた。 ここで「餅」は小麦粉で作った料理を総称して餅だと呼んだ漢(注:中国)以後の慣習に従ったのだ。 「餅」は必ず小麦粉で作った疲労の中をかばわなければならないと信じた。 ピョンスやはり「スプーンですくって食べる小麦粉で作った餅」という意味を含んでいる餅匙の一つであった。


ピョンスは朝鮮時代開城商人である松商が中国燕京と貿易をする時持ってきた餃子の一種である匾食が変形された料理だ。
特に黄海道では品種が良い小麦を栽培して得た小麦粉でピョンス血を作った。
写真は2000年代開城市内ククス家の姿.

当然ピョンスを食べるためには小麦粉を簡単に確保することができなければならなかった。 全部分かるように小麦は年間平均気温が3.8度であり夏平均気温が14度以上である地域で栽培されてこそ品質も良くて生産量も多い。 韓半島は品質良い小麦を生産するのに適合した地域ではない。 それでも在来種小麦は朝鮮時代にも栽培された。 だが、小麦農作業が可能なところといっても稲作が終えられる晩秋に種まきをした。 品質も良くないだけでなく生産量やはり少なくほかはなかった。 だから宮中でも金持ちだけがやっと品質良い小麦粉を確保してピョンスをはじめとして小麦粉、疲労作ったギョーザを作ることができた。 もし小麦粉を救うことのできない場合、ソバ粉がその場に代わった。 それで朝鮮末期の料理書ではほとんどのソバ粉で血を作ると書いた。 さらに肉餃子・魚肉餃子・東亜餃子とともに最初から血を牛肉・魚・冬瓜で作ることさえした。

1931年に発刊された <朝鮮総督府農業試験場25周年記念誌> によれば、朝鮮の在来種小麦は黄海道・平安南道・江原道で主にたくさん生産されるといった。 特に黄海道でその生産量が最も多かった。 在来種小麦中でその品種が最も良いことやはり黄海道で栽培されるということだった。 このような事情によって開城の人々は小麦粉疲労ピョンスを作ることができた。 <是議全書> は小麦餃子がまもなくピョンスだと書いた。 朝鮮末期にも開城の貧しい人々さえも豆腐ともやしだけで牛を作って比較的豊富な小麦粉で作った疲労ポッサムキムチ安いようにピョンスを作っただろう。 開城の金持ちはそれを妬んであらゆる肉と生ガキまで入れたところ、自分たちだけの開城ピョンスを作った。

こうなっては開城ピョンスは20世紀になっても決して大衆料理に変身できなかった。 これに対し比べて餃子と包子と呼ばれた餃子は20世紀に入ってきて大衆化の道を歩いた。 餃子の大衆化には小麦品種の改良と積極的な栽培が重要な役割をした。 事実朝鮮総督府は初めに小麦農作業を推奨するよりはロシアと中国から小麦粉を輸入する政策を広げた。 1910年代だけでも韓半島は彼らに米の補給基地だったためだ。 ところで第1次世界大戦以後食糧の重要性を自覚した朝鮮総督府は1923年から在来小麦品種改良に出た。 水原小麦6号を筆頭として生産量が多い品種が次から次へ作られて農村に普及した。 こういう過程を経て人々に小麦粉は以前に比べてはるかに求めやすい食材料として地位を確立した。

餃子の大衆化の道には1882年壬午軍乱以後に済物浦とソウルに移住をしてきた山東出身中国人もあった。 外国に出ても集団居住をする華僑だが、19世紀末に韓半島に移住してきた中国人は「つばめ」というニックネームを持つ男たち中心の流動人口集団だった。 1920年代になっても再朝鮮中国人は普通男10人に女1~2人の比率だった。 これだから中国人集団居住地内には男のための食堂が必ず必要だった。 彼らは家庭の一角や商店の一方を借りて三,四個の食卓を備えて営業をした。 彼らが販売した料理はやはり食事中心の極めて簡単なものなどだった。 すなわちジャージャー麺と煎餅(胡餅)そして餃子が主なメニューであった。

近代都市ソウルに引っ越してきた黄海道と平安道出身の人々やはり餃子のまた他の大衆化に寄与した。 開城ピョンス礼賛論者秦學圃が当時ソウル、鍾路で一金20銭に大きい接待に一つずつあたえる餃子がすぐに平安道餃子だ。 朝鮮最初の味紀行本である <屠門大嚼> を書いた許筠(1569~1618)は「大餃子は義州の人々が中国の人のようによく作る」とした。 1945年解放以後にはより一層牛がたくさん入った大餃子が人気を集めた。 日帝時代に日本人居住地域だったソウルの獎忠洞・忠武路・筆洞一帯には1945年年末になるとすぐに積算家屋天地になった。 平壌が共産化の道に行く姿を早目に感づいた平安道の金持ちはこの積算家屋に引っ越してきた。 今日までも獎忠洞と忠武路、そして筆洞一帯に平安道式の大餃子を売る「ミョン屋」が多くの理由がすぐにここにある。

大餃子と中国餃子の流行と違い開城ピョンスは開城出身が運営する食堂で命脈を維持しただけだ。 開城ピョンス礼賛論者秦學圃は「開城の有名な松筍酒一杯を飲んで名のあるポッサムキムチ)とともにこのようによく調和したピョンス一個を添える時私のような食道楽の味覚は敷地頃にこのからだを恍惚の境地に導いていくことだ」といった。  料理が豊富なことは今日、以前の高価料理開城ピョンスを大衆的な料理で作ることはできないだろうか? だが、まともに漬けた松筍酒も、開城白菜で漬けたポッサムキムチも簡単に入手ができないから秦學圃の文を読んで食欲だけ舌鼓を打つだけだ。

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[ジュヨウンハの食べ物100年](5)狗醤の変移、ユッケジャン
ジュヨウンハ韓国学中央研究員教授
入力:2011.04.05 20:56:09 修正:2011.04.06 13:51:24

・朝鮮では士の間にも犬肉忌避多くて
・名前は狗醤であるが牛肉で作って


日帝時代に「大邱湯飯」との料理があった。 その名前だけをおいてみれば大邱人が好んで食べるクッパという意味だが、ソウルでも結構人気を集めたようだ。 1926年5月14日付東亜日報を見ればソウル、公坪洞にも大邱湯飯という料理を販売する食堂があったという。 ところで変な点はその食堂の店主が全羅南道長城出身というところにある。 当然大邱湯飯を専門で販売する食堂なら店主やはり大邱出身であってこそが当然だろうが、複雑な事情によってことが起こった。 当時33才であったソン・ソンオンという店主は本来詐欺師だった。 木浦の地主に稲400石を売るといってその掛け金8000ウォンを取りまとめてソウルにきて大邱湯飯家を購入した。 おそらく大邱湯飯家を運営していればその正体が簡単にばれないことだと信じたが、それを不思議に思ったお客さんの申告で捕まる身分になってしまった。

日帝時代ソウルの人間で大邱名物に選ばれた大邱湯飯の正体は何だろうか? 雑誌「別乾坤」1929年12月1日付にのせられた「大邱の自慢大邱湯飯」との文がその解答を提供してくれる。 「大邱湯飯は実名がユッケジャン(注:牛肉と野菜の辛口スープ)だ。 概して犬肉をした珍味(補身之材)が好きなことが一部朝鮮人の通性だが、特に南の島地方の田舎では「姻戚両班が来られれば犬を捉える」と狗醤がなかなか大きい接待でない。 この狗醤は嗜好性と犬肉を食べることができない人々の事情まで探り、または、このごろますます犬が珍しくなる兆しをのぞいて生じたのがすぐにユッケジャンとか簡単に言ってみれば牛肉で狗醤のように作ったことなのに市場は大きい発展をして本場である大邱からソウルまで進出をした。」

もしこの主張が事実ならば大邱湯飯は本来ユッケジャンを呼ぶ他の名前であったし、ユッケジャンは、やはり狗醤から変移された料理という話だ。 また、この文で注目しなければならない点はユッケジャンの誕生を可能にした理由が狗醤を忌避する人々のためというところにある。 全部分かるように狗醤は漢字で狗醤だと書く。 このごろの人々はこれを補身湯とかサチョルタンだからと呼ぶが、その本来の名前は狗醤だった。 1988年ソウルオリンピックを控えて犬肉を食べる韓国人は悪いという主張がフランスを中心に流れ出たし、政府ではソウルの四大門中にあった狗醤専門店を全部休業させる措置まで取ったことがあった。 当然韓国人が歴史以来好んで食べてきた犬肉をとても冷遇すると知識人とマスメディアまで立ち上がった。

事実、朝鮮時代の士の間でも犬肉を食べることを置いて賛否両論があった。 李裕元(1814~1888)の文集である <林下筆記> にこのような文が出てくる。 「燕京の人々は犬肉を食べないだけでなく犬が死ねば土に埋めてくれる。 斗室沈象奎が燕京に行った時庚日になるとすぐに犬肉をゆでてあげるようにしたが、燕京の人々が大きく驚いて異常に感じては売らなかった。 これに対し器を祈ろうとしたがゆでたが燕京の人々はその器も全部出して捨てた。 私が燕京に行った時に聞くので、以前に暗行御史.李宗城は他人の家祭りに参加して狗醤を報告書食べないで帰ってきて言うことを、「お客さんに接待する食べ物でない」でした。 二つの球の規模がそれぞれ違ってする。

沈象奎(1766~1838)は正祖の時領議政まで歴任した老論派の巨頭であった。 たとえからだは北京にあったが極暑になるとすぐに朝鮮での習慣のように狗醤を食べようとした。 極暑に狗醤を食べる習慣は朝鮮末期に漢陽でも地方でも当然のことで見なされた。 沈象奎のような時代の柳得恭(1749~1807)はソウル風俗を書いた<京都雜志> で狗醤を食べて汗を出すと暑さをはね除けて虚汗気勢を補充できるといった。 さらに洪錫護(1781~1857)は <東国歳時記> で狗醤を「市場でもたくさんパンダ」とした。 正祖の即位を反対して洪麟漢(1722~1776)が整えた謀逆に参加して捕まった賎民出身刺客田興文の自白中には宮殿の外に狗家があったがそちらで狗醤を買って食べたといった。 このように18世紀以来狗醤は漢陽の外食業で非常に流行した料理だった。

これに反し狗醤食べる習慣を置いて不適当に思った人がすぐに英祖時の入れ墨であり慶尚道暗行御史で名をはせた李宗城(1692~1759)だ。 前でも見たように京畿道長短出身だった彼は狗醤を人が食べる料理でないと考えた。 朝鮮時代にも犬は愛玩犬として可愛気を受けた。 だが、夏の極暑の期間になれば主人にあるいは「犬白丁」に捕まって肉の塊になる場合も多かった。 だから李宗城のような士は苦手をしただろう。 前の「別乾坤」でも沈象奎のような人を置いて朝鮮の人が持つ「共通の性質」といった。 だが、ひょっとして李宗城のような両班がお客さんでくれば主婦は牛肉で狗醤を沸かすほかはなかった。 それならその調理法やはりひたすら犬肉を牛肉で代替だけしたことだったのだろうか?


1930年代補身湯専門店. 烹狗家あるいは狗醤湯家という名前が異彩を放つ。
1930年代当時京城帝大社会学部教授であった秋葉隆がガラス原版フィルムで撮影した写真.

実際、朝鮮時代犬肉調理法は主に蒸す方法だった。 <京都雜志> では「犬肉を葱の根元である総百科混ぜてゆっくり蒸す。 鶏肉や竹の子を入れれば味がより一層良い。 これを「狗醤」だと呼ぶ」とした。 ただし「ひょっとしてスープを煮て粉唐辛子をばらまいて白い米の飯を巻いて食べたりもする」ともしたので、18~19世紀の狗醤は二種類の調理法があったということがわかる。 一つは葱の根元を蒸し器の下に敷いて犬肉を上げて蒸した蒸し物(チム)だ。 この方法が主流であった。 他の一つはスープを煮る方法だ。 蒸し物(チム)を食べた次に株式を解決する方法だった。 今のソウル玉水洞に住んだ憑虛閣李氏(1759~1824)が書いた <閨閤叢書> (1809)でもこのような事情はあらわれる。 「蒸狗法」といって蒸す方法を先に紹介した後にスープを沸かす方法を書いた。 「ずっと肉は肉抑えがたいだけ手で破って包丁を入れずに、内蔵は切って直して茹でスープに味付けしてハム談を合わせてスープを煮るものの、小麦粉をたくさん解けばかける。」

狗醤と違いユッケジャン調理法は1800年代末に書かれたと思うようになる <閨壼要覽> で初めて発見される。 「肉を切って場を解いて水をたくさん注いで沸かすものの切って入れた肉点が煮込んで解けるように沸かす。 葉を切らなかった葱をそのまま入れて油をさして胡椒を入れる。」これは「別乾坤」で明らかにした大邱湯飯調理法とその基本は同じだ。 ただし胡椒の代わりに粉唐辛子を使ったのが違う。 「3斗紙器窯に肉をたくさん入れて熊煮込むようにふんわり煮込んでにじみでた水でスープを煮るのに粉唐辛子と牛脂をぐっしょりたくさん入れる。」ここでゴンの肉を手で適当に裂いてククス(麺)のようにして入れるといった。 赤身の肉扱う方法は <閨閤叢書> と全く一緒だ。 肉をゆでる時葱をたくさん入れる点、肉を手で裂く方法、そしてスープに粉唐辛子を入れる調味法などが狗醤とユッケジャンを繋いてくれるコードだ。

19世紀末はじめて犬肉の代わりに牛肉を主材料で使ったユッケジャンが大地主貴族の台所で誕生した。 ユッケジャンは誕生以後狗醤の名前だけ維持しただけ、その姿は完全に別にした。 「別乾坤」大邱湯飯記事の著者「車相瓚」は真冬の厳しい寒さのユッケジャン味に賛辞を惜しまなかった。 「汁を先に飲んだ非常に太い葱がふわりとふわりと浮かび上がって油がぽたぽた浮かび上がる高音スープにゴンの肉を手で適当に煮て入れてククスでもなくクッパでもない舌が火傷をする程熱くて海苔がすくすく浮び上がる真っ赤なスープに対して座ればまず唾がごくっと移っていくら真冬の厳しい寒さに凍った顔でも自ずから解けて全身が溶けてうずうずする。 とにかく大邱ユッケジャンは朝鮮人の特殊な欧米を合わせる粉唐辛子と狗醤をまねたのにその本来の特色がある。」

ユッケジャンの大衆化は20世紀に入ってきて可能だった。 以前に比べて牛を労働の道具であると同時に料理と考えることができる時代になったためだ。 20世紀初期に出版された料理の本でユッケジャンは欠かさず紹介された。 さらに1939年7月8日付東亜日報の「今晩にはこのようなおかずを」というコーナーでもユッケジャンが紹介されたほどだ。 それでもユッケジャンは家で作るよりは食堂で買って食べてこそ良い味だと考えた人が多かった。 家で少ない量を沸かせば食堂で食べる深い味が良く出ないためだ。 1930年代東京や大阪に進出した朝鮮食堂でもプルコギとともにユッケジャンを売った。 1950年代以後狗醤販売禁止が行政措置でいつも行われてユッケジャンは男たちが保身のために食べる料理で人気を呼んだ。 さらに料理研究者は鶏肉を利用して「ユッケジャン」という料理も作り出した。 これによって食堂ではユッケジャンを売りながらも「ユッケジャン」と書くことが生じた。

今日大邱人はユッケジャンよりはタロクッパをより好きだ。 日帝時代大邱ユッケジャンと朝鮮戦争以後作られたタロクッパは外見が似ているように見えても完全に違った料理だ。 狗醤作るように赤身の肉を手で裂いてこそユッケジャンだと呼ぶことができる。 ところで狗醤は近代以後に「未開」の代名詞になって朝鮮総督府からも良くない料理で扱われた。 結局1940年代以後になれば名前も「補身湯」で変わる身分になってしまう。 だが、ユッケジャンは誕生秘密を名前の中にそのまま大事に保管したまま、どんな虐待も受けないで今まで続く。 さらに不法の犬肉と合法の牛肉という近代的認識によってユッケジャンだけが公的領域で食べることができる料理と認定される。 狗醤の立場で見れば非常に苦々しいことが明らかだ。

http://biz.khan.co.kr/khan_art_view.html?artid=201104052056095&code=960100
[ジュヨウンハの食べ物100年](4)韓国の代表食べ物「ユッケビビンバ」
ジュヨウンハ|韓国学中央研究員教授
入力:2011.03.29 21:18:19

・白い米の飯の上色々ナムルと肉調和…手軽でさらに身近な「韓国の味」

1931年陽暦正月にソウル、安国洞に住むアン・チャンギルは92才になった。 13才に昌徳宮に入って針房ナイン仕事をし始めた彼女はずっと宮で処女で生きた。 当時としてはめったに見ない長寿なので東亜日報記者がアン・チャンギルを探した。 彼女の食の好みがどのようなのでこのように長生きするかを尋ねて、甥の嫁はアン・チャンギルは食の好みが良くて何でもよく食べるが、ユッケをはじめとする肉を特に好きだといった。 その後アン・チャンギルが何才までもっと生きたのかまだ確認をできなかったが、彼女の長寿にユッケが結構大きい功績を立てた可能性が多い。

全部分かるようにユッケは牛の赤身の肉や肝臓・センマイ・両などを細かく切って色々な薬念(ヤンニョム)をして生で食べる料理を示す。 徐有榘(1764~1845)は <林園經濟志・鼎俎志>で「肉を細かく切ったのを膾だと呼ぶ。 膾は(회)ともいって割(할)という。 (中略)魚生と肉生を全部膾だと呼ぶ」とした。 たとえ趙在三(1808~1866)は <松南雜識> で生肉で作った膾を‘膾’、魚で作った膾を‘회’と書いたが、概して人々は生肉膾や회を全部膾だと呼んだ。 ただしその材料にしたがって別に牛肉膾・凍雉膾・鰒膾などで区分しただけだ。

実際には世界で生肉や魚を出ることと好んで食べる人々は多くない。 人間が「食べ物を料理する動物」である理由は食べ物を煮て食べるためだ。 それなら朝鮮時代の人々はなぜ膾を食べるのに躊躇しなかったのだろうか? 色々な主張がありえるだろうが、朝鮮時代主流知識人だった性理学者などが堅く信じていた尙古主義とも関連がある。 古代中国の古典である <儀禮・公卿大夫禮>では公卿が大夫に食事を提供する時特別食で牛胾(牛자)・羊胾(羊자)・豕胾(豕자)・牛脂のような膾を上げたと記されている。 たとえ明国以後漢族は決して膾を食べることができる料理だと感じなかったけれど、朝鮮では食べなければならない料理と理解された。

このようなユッケとビビンバの出会いがすぐにユッケビビンバの誕生を持ってきた。 ところで朝鮮末期の文献で今日ユッケビビンバと似た料理を私はまだ発見できなかった。 ただし1929年12月1日付雑誌「別乾坤」第24号にのせられた文でユッケビビンバを発見しただけだ。 「味がよくて値も手ごろな晋州ビビンバはソウルビビンバのように大きいゴギトジョムをそのまま置くのともやしの足三値やなるのをつるれるように置くこととはとうてい比べることがができません。 白い米の飯の上に色を調和させて飛んで行くような真っ青な野菜そばにはワラビナムルまた、そばには黄色味を帯びるモヤシこのような方法でさまざまナムルをまるく並べた次に肉を細かく切って沸かしたスープを注いでこするのに適当な程その上にはガラス破片のような黄青布三,四鎖を置いた次にのそばにユッケをきれいに切っておいて食欲がすっきりしているコチュジャンを少しのせます。」

推測してみれば少なくとも1920年代ソウルビビンバにもユッケが上がったという点が分かる。 合わせてソウルビビンバに上がった肉は細かく切ったユッケでなく大きい肉の塊だったことも上の記事は教える。 実際に前で言及した牛胾(牛자)は山積のように大きく切って作った可能性が多い。 胾(자)という漢字が大きく切った肉切れを示すためだ。 <林園經濟志・鼎俎志>でも牛肉膾はあたかも木の葉のように平たく切ったのとそれを糸のようにまだ切ったのがあるといった。 だからソウルビビンバにはこのごろ大邱で販売されるムンティギ(塊の地方語)と呼ばれるユッケと似ていた牛肉塊が上がったようだ。 これに対し比べて晋州ビビンバには細く千切りに刻んだユッケをご飯の上に上げた。 全国のどこよりもかつて20世紀初期に屠殺場が形成されたソウルと晋州だったために可能だったことだ。

それならユッケが上がらなかったビビンバの姿はどのようだったのだろうか? 1890年代に使われたハングル筆写本料理書 <是議全書> はビビンバを「부븸밥」と書いてその作る方法を次の通り書き込んだ。「ご飯を正に炊いて肉は寝かせて炒めガンナプは送って切る。脚色ナムルを炒めておいて良い昆布で昆布のあげ物をはねて壊しておく。ご飯にすべての材料をみな混ぜてゴマ塩と油をたくさん入れてこすって器に入れる。上にはごった煮の種のように卵を送って骨牌パートナーぐらいずつ切ってのせる。 肉団子は肉をきれいにみじん切りにしてよく眠らせて玉ぐらいずつ借金は次の小麦粉を若干埋められて卵をかぶせて送ってのせる。 スープはごった煮国でして使う。」


1978年晋州牛市場の姿.
昔から大規模牛市場が立った晋州では新鮮な肉を求めやすく
ユッケをあげたビビンバが作られることになった。

このごろ韓国人ならコチュジャンが入らなかったビビンバを想像しにくいが,この本のビビンバにはコチュジャンが入らなかった。 さらに色々なナムルとご飯をあらかじめ混ぜて器に入れると書いた。 この頃食堂で食べるビビンバとも全く違う。 なぜそうしたのだろうか? <是議全書> 以後に出てくる料理でのビビンバ調理法を調べればその秘密が分からないだろうか?

1921年版方信榮(1890~1977)の <朝鮮料理製法> でもビビンバを「부븸밥」と書いた。 「先にご飯を少し固めにひいては大きい器にくんでおいて大根のナムル・もやし・モヤシ・桔梗根ナムル・セリナムル・ワラビナムルを作って先に大根のナムルともやしを中に入れてその上に夜を注いで入れた後ふくらむ少しずつ焚いて暑くしてヌルミと山積とチョニュオを細かく入れてまた、脚色ナムルをみな入れた後油・ゴマ塩を打って箸でそろそろ攪拌してそれぞれ周鉢にくんで入れた後にヌルミ・山積・チョニュオを細かく掃いて端に回してのせてまた、その上に昆布のあげ物をプスロトゥリで烹卵を細かく掃いてのせた後錦糸卵を細かく掃いてのせて粉唐辛子とゴマ塩を振りかけておく。」

この調理法やはり今のとは全く違うだけでなく <是議全書> とも若干違う。  大根のナムルともやしをカマに入れて火をたいてその上にご飯をはじめとして各種材料と薬念(ヤンニョム)を入れて箸で混ぜた。 一種の炒めたビビンバと似ている。 これを周鉢に入れてその上に各種高名の種を上げた。 この本の調理法で最も目につく内容は粉唐辛子を薬念(ヤンニョム)にばら撒くという点だ。 おそらくヌルミとチョニュオとともに魚煮たのを高名に上げたので生臭い臭いをなくすための方法でできるようだ。 だが、コチュジャンが当時にもあったが薬念(ヤンニョム)でするように書かれていた。

1940年に日本語で出版された伊原圭の<朝鮮料理> にもビビンバ調理法が出てくる。 著者伊原圭は朝鮮人料理学者孫貞圭(1896~1950?)である。 <朝鮮料理> に出てくるビビンバ調理法は <朝鮮料理製法> と大きく異ならない。 ただし、「普通家でする時は、上に置く高名がなくても中に十分に混ざっているから大丈夫だ」とした。 この大きい課題はビビンバの歴史を見回すのに大変重要だ。 なぜなら家庭食ビビンバと食堂のビビンバはその作る方法で差を有していたことを推察させるためだ。

食品学者尹瑞石は1977年に出版された <韓国料理> で大量のビビンバを一度に準備するためには「初めからご飯を混ぜて味付けをして入れて笑って人に知ら段だけばら撒くようにするのが良い」とした。 だが「ご飯は混ぜた後長く置けば炊き味がなくなるので時間を合わせるようにする」とも書いた。 自家製ビビンバは食べる人が少なくてすぐ食べるので器に入れる前にあらかじめ混ぜておいても大丈夫だ。 これに対し比べて食堂ではいつも出入りするお客さんのためにビビンバをあらかじめ混ぜておいてはいけない。 近代外食業の誕生が家庭食ビビンバの姿を変えた。

前で紹介した雑誌「別乾坤」の文はユッケビビンバの薬念(ヤンニョム)でコチュジャンが使われたことも教えてくれる。 朝鮮後期文献ではユッケや膾を食べる時最初にギョジャジャンにつけて食べるといった。 ところで日帝時代料理書では良い辛肉味噌(ヤッコチュジャン)につけて食べる( <朝鮮料理製法> )とした。 だからビビンバにユッケを上げれば「食欲がすっきりしているコチュジャン」ものせることはあまりにも当然だ。 粉唐辛子のような香辛料は腐敗の原因になる微生物を除菌、殺菌する効果がある。 コチュジャンもやはり粉唐辛子の機能をする。 まだ電気冷蔵庫が普及しなかった当時にこのごろのように冷蔵されたユッケは想像もできなかったことだ。 当然近隣の牛市場で供給されたユッケは生臭い味が強かった。 この生臭い味をなくすためにユッケビビンバにコチュジャンが入った。

1920年代になれば唐辛子の品種が改良されてその生産量がより一層多くなった。 当然コチュジャンも以前に比べて容易に作られることができた。 このような過程でユッケとコチュジャンがビビンバの看板役割をし始めた。 1960年代中盤になれば食品会社でもコチュジャンを製造して売った。 それだけ人々はコチュジャンを簡単に求めることができた。 このような世相を反映するように、1977年に出版された王晙連の <韓国料理> では「味付けしたコチュジャンをナムルと共にのせて出すこともして別に準備して食の好みに合うように食べるようにしても良い」と書いた。 1980年代以後家庭でも食堂でもビビンバを食べる時は必ずコチュジャンを薬念(ヤンニョム)で使わなければならないという信頼ができた。 冷蔵庫の普及おかげでユッケ食べることもそれほど難しくなくなった。

ビビンバは韓国人に食べるのに手軽な料理だった。 高級料理だったユッケは皆が食べたい料理だった。 この二種類が会えて完成されたユッケビビンバは韓国人の心をものさびしく含んでいる。 それで去る100年の間外食業者の台所で成り立ったビビンバの進化が韓半島はもちろんで世界のあちこちで光を出しているところだ。

http://biz.khan.co.kr/khan_art_view.html?artid=201103292118195&code=960100
[ジュヨウンハの食べ物100年](3) 1930年代‘秋の食客’ひきつけた鰍魚湯

ジュヨウンハ|韓国学中央研究員教授

入力:2011.03.22 21:05:21 修正:2011.03.29 21:18:05

・鰍魚が捕えられる秋口に開業…うわさ乗ってお客さん、雲集まるように

1930年代ソウルには三カ所の鰍魚湯家が名をはせた。 その一つは新設洞の「有名鰍湯」だ。 有名鰍湯で働いて独立した政府棒が運営した別名「あばた鰍湯家」も名声が高かったが安岩橋近くにあった。 最後の家は今の憲法裁判所西北側花洞にあったファンボ鰍湯家だ。 随筆家ピョン・ヨンノ(1897~1961)もこの家の常連だった。 自身の飲酒履歴を書き留めた <酩酊40年> という本にファンボ鰍湯家は間違いなく出てくる。

「尹バーに劣らず有名な解酊酒酒屋が花洞にあったが称することをファンボ鰍湯家といった。」

今人々考えには鰍湯家なら酒場であるより飯屋でないか感じるだろうが、少なくとも1980年代以前の事情は必ずそうではなかった。 鰍湯家の主な材料である鰍魚を一年ずっと捕ることができなかったために飯屋兼酒場で運営されるほかはなかった。

日帝時代雑誌「別乾坤」第9号(1927年10月1日付)を見ればそういう事情を十分に察して残る。 記事の題名は「鰍湯家作男で二日の間の住み込み」だ。 ペンネームをB記者だと明らかにした執筆者は真夏の間休業をして陰暦8月に再びドアを開けたソウル会合のH鰍湯家で従業員で本人が直接体験した話を私たちに聞かせる。 会合は花洞とついている。 おそらくH鰍湯家はファンボ鰍湯家であっただろう。

「私が本社C記者の紹介でこの京城の中でも名高い会合H鰍湯家で住み込みになることはまさに時良い秋陰暦8月大晦日に涼しい風が吹いて暑さ退いたまさに終わりであり夏内休業してこの秋季がさしかかってくるとすぐに再び開業したことで初日でした。 長く休業した終わりです初めて開業した冒頭とか何の相場そんなにあろうとしたけれど想像とはとても違う状況でした。 田舎のようならば山や野で鉄の行き来するのをすばやく知ることが出来るがソウルのように複雑なところでは鉄の行き来するのをすばやく分かることはちょっと難しくありませんか。 (中略)自分の故郷の秋を回憶して戻ることをすぐにするわけで酒に趣味を持ったが、これは秋くれば多分この鰍湯(米尾湯)を非常に懐かしがる形のようです。 新聞広告を出したのでもないポスターをかけたのでもないビラを撒いたのでもない何のうわさなしでただこっそりと開業をしたもようなのに雲集まるように集まるお客さんこそ始めてきた作男には目が振り回される程複雑でした。」

1920年代末ソウル鰍湯家風景が目に描かれるようだ。 この文で鰍湯のそばに書き留めた「米尾湯」に注目する必要がある。 このごろ私たちが食べる鰍魚湯はたいてい「鰌」を材料にする。 事実鰌と鰍魚は厳密に問い詰めれば同じ淡水魚でない。 鰌が鰍魚に比べて大きくて色も濃い。 朝鮮時代の人々が食べた鰍湯の材料は鰍魚が主流であった形だ。 1610年頃に執筆された <東医宝鑑・湯液編>ではは漢字で鰍魚(鰌)と少なくて、ハングルで‘믜꾸리’と書いた。鰍魚と呼ぶ他の漢字ではチュー魚(鰌)がある。鰍魚と発音が同じで魚扁に酋を付けた鰌はどじょうを示す。泥の中に住むといって他の言葉でイチュ(泥チュ)とも呼んだ。1920年代末ファンボ鰍湯家では鰍魚の鰍湯を沸かした。

全部分かるように鰍魚湯の調理法は大きく四種類で分けることができる。 その中の一つは朝鮮後期万物博士李圭景(1788~1856)が <五洲衍文長箋散稿>で言及した鰍豆腐湯だ。 開くを避けて豆腐の中に逃げた鰍魚を実らせてゴマ油に煮て各種材料で汁を作る方法で作った。 この方法は中国の「貂蟬湯圓」という食べ物に由来したのだ。 特別な調理法だと19世紀に王室で肉を扱った泮人の間に人気を享受しただけだ。

普通の人は次の三種類の調理法を広く使った。 鰍魚をゆでてサルマン中身を取り出して味付けして沸かす方法、鰍魚をゆでて肉と頭と骨も皆をすりつぶして沸かす方法、ぐらぐら沸く湯にまるごと入れて実らせる方法がそれだ。 前のファンボ鰍湯家では一番最後の方法を使った。 B記者は同じ文で「今まで水桶の中でグラグラ飛び回った数千数百匹の米尾命を捉えて行って薪の火に思い切り沸いた煮え湯に捕らえる残酷なことというさらに本当の話できません」と書いたためだ。  李用基が1924年に出した料理書<朝鮮無雙新式料理製法>という本にはこの鰍湯の具体的な調理法が出てくる。

「ミックリに水を張って塩を少しうてば非常に動揺をすることとか2分の間だけ置いて真水を2回ほど注いで水あかをみな吐くようにした後に真水に胸肉や事態を溶けるように沸かした後に肉は取り出して冷まして両小麦粉を非常に濃く解いて豆腐をやや長めで平たく切ってショウガを皮をむいて大体確かめて唐辛子の種を抜いて確かめては確かめて峠やシイタケや松茸を太く破って入れて牛の小腸(コプチャン)や量もゆでて切って入れて小麦粉解いたのに全部入れて掻き回しながら焦げないように沸いたらミックリを急に注いで入れてふたをすばやく閉じて再び開く。 飛び出してきて死んだ方が良くないのである。静かにかき混ぜながらミックリがみな熟したら卵をいくつかでも晴れて解いて取る時胡椒と桂皮粉を打ってククスを混ぜて食べれば良いのだ。」

スープはすぐに牛の胸についた肉である胸肉や事態をぐらぐら沸かした湯だった。 上の調理法だけ見ても鰍湯の味が肥沃で非常に濃かったことで見なされる。

それならファンボ鰍湯家では鰍魚をどのように確保したのだろうか? B記者の文では鰍魚を専門的に供給する商売があるといった。 事実鰍魚や鰌は主に川下流の水が流れるということが遅いところでも池のように水が漂う所に主に生きる。 1993年7月29日付東亜日報によれば、1920年代末にソウル、鍾路5街に引っ越してきた仙山キム氏五兄弟が東大門の外新設洞競馬場そばから始まった食堂が「有名鰍湯集」だ。 当時だけでも清渓川支流にミナリクァンが多かったがここで鰍魚を捉えて鰍湯を売った。 本来相互も看板もなかったが人々から人気を得て鰍湯で有名だといって「有名鰍湯」になった。 だが、一年ずっと鰍湯を販売できなかったために違った時は酒と肴を売るほかはなかった。 それで得た名前が「兄弟酒屋」という商号だ。


70年間命脈受け継いできた鍾路区平倉洞兄弟鰍魚湯|チョン・ジユン記者

1963年9月12日付京郷新聞には鰍湯で有名なソウルの名物兄弟酒屋が売られるという記事がのせられた。 その記事のとおり兄弟酒屋は門を閉めて1980年代後半に弥阿3通り裏路地にこの家の末っ子が再びドアを開けた。 今でもその家に関わっている日帝時代写真一枚は兄弟酒屋の歴史を推察させる。 写真に含まれている話はこのようだ。 1935年子供の日である5月5日にソウル奨忠壇では商工連合大運動会が開かれた。 この運動会が終わった後に食堂の前で記念撮影をした写真がまさにこれだ。 写真の中の看板は二つだ。 一つには有名鰍湯、他の一つには兄弟酒屋だと少なかった。

商工人運動会と所属会社や営業店があってこそ参加が可能だった。 兄弟酒屋でも団体でこの日行事に参加した。 兄弟のうち1人であるキム・ユンチャンは自転車競走に、従業員キム・ハンガプは200m駆け足に出て行った。 運動会の種目のうちには特異にも「釣鰍競走」というものもあった。 漢字で鰍釣り大会だ。兄弟酒屋のサドルセイがこの大会に出て行った。

この日運動会種目に鰍釣り大会が入っているという事実は多くの示唆する点を提供してくれる。 先に鰍魚湯がどれくらい人気があったら鰍釣りという種目ができただろうか! ところで自然産鰍魚を5月5日に合わせてどこでこのように捕ったか気がかりだ。 東亜日報1932年5月12日付にその解答がある。 朝鮮副業協会では副業で新しく登場する産業を紹介して「米借り稻田養殖」を言及した。 特に田植えをして約7日後で前年生まれの子を畑に放養といえば良いと書かれていた。 だから5月5日には結構良く育った踊って入り運動会に登場することができた。

飼料も別に必要だといった。 自然飼料だけで発育にならないので豆かすや蚕の繭干し、あるいはかたつむり・オキシジミ・イワシ、さらにぬかや小麦粉あるいはおからなどをばらまけば米借り行って良く育つと書いた。

このように鰍魚を養殖する方法は最も容易だがそれほど利益が出なかった。 そのままピョンノンで養殖をして見たら管理がうまくいかないので死ぬ事例が多かった。 さらに蛇やカエルのような他の生物の餌になることもした。 それで考案した方法がコンクリートで最初から人工池を作って鰍魚を養殖するということだった。 この方法は1960年代に入ってきて農家に紹介されたし、1970年代になって広く広がった。 特に1970年7月政府の水産庁では日本の千葉県から日本鰌1万匹の寄贈を受けて養殖を試みた。 在来種鰌よりはるかに大きくて良く育った。 全国の20余ヶ所に日本鰌養殖場が作られたし、1970年代中盤になればこの鰌養殖業は全国の農家で広く行う副業になった。 結局暮らす状態も良くなった1980年代以後私たちは全季節地域名前がついた鰍魚湯家で鰍魚湯を食べることになった。 得ることがあれば失うのもあるはずだ。 旧盆が過ぎれば在来種鰍魚を沸かした鰍湯味に舌打ちした1930年代食客の味覚がうらやましいだけだ。

<ジュヨウンハ|韓国学中央研究院教授>

http://biz.khan.co.kr/khan_art_view.html?artid=201103222105215&code=960100
[ジュヨウンハの食べ物100年](2)「庶民の一食」ソルロンタン

ジュヨウンハ| 韓国学中央研究院教授
入力:2011.03.15 20:25:28 修正:2011.03.18 17:08:09

10時間あまり丁寧に作られた香ばしさ、その深いスープにふと若い「父」

おそらく1900年以前からソウル鍾路の裏通りにはソルロンタン家が大勢いたこと近代都市に進出した白丁は肉屋とソルロンタン家で、同じ賎民だった陶器職人が作成した土鍋に入れて出してわざわざ虚飾した両班たちも、すでにその味に惚れていた白丁家に帰って食べると体面台無しになると思って出前させて食べた6・25後のソルロンタンは、黒い商魂に以前に属し解放くれた味失い始め、ソウル「ソルロンタン」よ、本来の位置に来なさい

「ソルロンタンは四時にすべて食べるが冬でも真夜中過ぎた後にぶるぶる震える肩をウンスンクたてソルロンタン家を訪ねて行けば、まず海苔がぷんぷんぷんぷん出てくる暖かいオーラと香ばしい匂いが最初に回を同にする。それは他の料理の家であれば、第いわゆる虚飾である人は、前後を見見てためらったりもするだろうが、ソルロンタンジプに入る人は絶対に解放的である。そのままチャック入って「ご飯くれ」とは、モクロ椅子に腰掛け座る自分のすべてができなくなって、脂がどんどん浮かんだ土鍋一つとカクテギ皿が前に置かれる。ねぎ・薬味と唐辛子をドゥプシン多く打って塩で味を付けて持ってフルフルとスープを飲みながら食べる味とはまったく何無言することができません。何に加え並ぶことができない。」

この記事は、1929年12月1日「別乾坤」という雑誌に「牛耳生」というペンネームを持った人が「グァルセない京城ソルロンタン」というタイトルで書いた記事の部分である。すでに近代的都市の姿を備えた1920年代、ソウルでソルロンタンはかなりの人気を享受して料理だったことをこの記事では気付く。

すべてわかるようにソルロンタンは牛頭・牛骨・るつぼをはじめ、骨・事態肉・胸肉・内臓などを材料にして、10時間以上じっくり煮込んだ料理である。ソルロンタンのスープには、肉と骨で湧き出た白のコロイド(colloid)が溶けているので、その色が乳白色を帯びる。だから日帝時代の新聞記事では、ソルロンタンを雪濃湯(ソルノンタン)とも呼ばれると書いた。まるでその色が雪のように白くて、その味は濃いという意味では、この名前に盛り込まれた。解放後には、米国で無償で受けた小麦粉で作った麺がソルロンタンに入るようになっ。まさに「麺サリ(注:追加という意味)」を追加がそれである。ここでスユク(注:茹でた牛肉)が新し​​いメニューに加えながら、今日全国どこでも盛業をするソルロンタン家のメニューが完成した。

20世紀初頭に朝鮮に初めて来た日本の知識人の中でもソルロンタンに注目した人が結構多かった。朝鮮統監府の機関紙であった京城日報社会部記者薄田斬雲(薄田斬雲・1877〜1956)もその中の一人だった。ソルロンタンという名前を知らなかった彼は、「牛頭スープ」と呼んだ。日本語で出版された「朝鮮漫画」に出てくる内容の一部を韓国語に移してみる。

「医師の感情によると、この牛頭スープは本当に良いもの、鶏肉スープや牛乳がそれに及ばないという。大きな釜は一年を通してかけられていて、底まで非常にきれいに洗うこともない。毎日骨を交換して、水をさらに注い煮て作る。このスープすなわち、スープは非常によく煮て下したと、毎日連続して沸かすので、夏でも傷むことがなく、これを精製すると、明らかに世界のいずれも比肩できない滋養品となる。これらの事実のために、今牛頭スープをボトルに入れて韓国特有の輸出品として市販することになるだろう。」

実際には「朝鮮漫画」という本は、朝鮮の特異で奇妙な風景を朝鮮に関心のある日本人に知らせて、少しでも容易に朝鮮を統治するのに役立つを与えようと使われた。その過程でソルロンタンが彼らの目に入ってきたようだ。これに対する評価は、実にすごくてソルロンタン礼賛論と言える。このように味に朝鮮人や日本人にも人気を享受したソルロンタンがいつから食堂で販売され始めたのかについての正確な記録はまだ発見されていない。ただし、まだソウル鐘路で営業をしている、100年以上の歴史を持つソルロンタン家ので、おそらく1900年以前からソウル鍾路の裏通りにはソルロンタン家が大勢いたものとされる。だからソルロンタンは、他の言葉で「ソウルソルロンタン」とする必要があり、より正しい。


「朝鮮漫画」(日韓書房・1909)45頁に掲載された図。

金斗漢の肉声告白によると、1930年代ソウル鍾路3街団成社のそばで衡平社副会長をしていた袁氏性を持った老人がソルロンタン家したという。衡平社は1923年5月の晋州の白丁を主軸とした賎民階級が組織した団体を指す。晋州に住む白丁イハクチャンの息子が父兄と学校側の反対普通学校入学が挫折なると、これに激怒して、各地方の代表100人余りと会員500人余りが晋州で創立総会を開き、衡平、すなわち平等を掲げて衡平社を組織した。肉屋の白丁が連合会を作ったのだ。

1894年高宗は開化派の立場を受け入れて社民平等を法で定めている。しかし、牛を持って牛肉を扱う白丁は人々から継続して忌避対象であった。実際の本音は牛肉が好きなので仕方知らなかったが、それに対処する人は、普通の人ではないという認識が朝鮮人の間で広まった。最終的には近代都市に進出した白丁は肉屋を直接運営しながら、その副産物として作るソルロンタン家を一緒にした。同様に賎民として扱われていた陶器職人が作った土鍋にソルロンタンを込めて出し、その値も安くて庶民が愛用する料理となった。

虚飾した両班たちも、すでにソルロンタンの味に反していた。しかし、白丁が運営するソルロンタン家に直接行って食べようとすれば賤民と同じ格好になってなかなか困難でなかった。両班だけでなく、最新の流行を追った1920年代モダンボーイとモダンガールもソルロンタン家の出入りをあまり愉快に思わなかった。中国人が食堂に直接行かず料理を配信させて食べる姿を見た彼らはソルロンタンも同じように家に座って食べた。このような事情は、前に紹介した「別乾坤」のような本に掲載された「無知の痛みとソルロンタンの境遇、新旧家庭生活の長所と短所」という文を通じて察して余りある。

「これはちょっとひどい言葉だというか分からないが新家庭を作る人は一日にソルロンタン2杯を食べるそうです。なぜそうなのかと青春の夫婦が新たに会って甘い夢を見てお金使って豊かな頃は様式集やぽるらっこりに出入りするが、どうしてお金が無制限で、その二人の幸せのためにのみ提供されるわけでしょう。お金は余裕ができなかったうえ、朝に寝坊をしてなに騙されたスリーだが冷水に手入れるが嫌いだから簡単にソルロンタンを注文するそうです。食べてから顔に吹いた側も送った後、自然が新たに3時になるからその時には手を取り合って見跡や公園のようなところに散歩を通って夜遅く家には入るころになるといつの間にかご飯を食べることが思いつかず、また、簡単にソルロンタンを買ってきて食べるそうです。だから、一日にソルロンタン2杯というもので、これももちろん新家庭の部類に属すると呼ばれます。 」

実際に、1920年代半ばソルロンタン一杯の値は10銭から15銭の間であった。タバコの一箱が10銭したときだから、ソルロンタン一杯の値段がタバコ一箱とほぼ一致した。今はスユクがソルロンタンよりも数倍高価ですが、当時は肉を5銭分さらにくれと言えば良かった。このように計算してみると、それこそソルロンタンは非常に安い食糧だった。肉体労働をしていた貧しい人たちも食事を解決するために簡単に買って食べることができた料理がすぐにソルロンタンだった。さらに、韓国人が最も好きな牛肉が入っていないか。

ここでソルロンタンの由来について言及していないことができない。ソルロンタンの由来については、大きく二つの主張がある。その一つは、朝鮮時代の王が直接耕作する示範を見せる場所であるソンノンダン(先農壇)に由来したという主張である。つまり先農壇がソルロンタンと発音に変わったと主張している。すべてのあまねく知られているこの物語は事実1940年に洪善杓が出版した「朝鮮料理学」という本に出てくるだけで、朝鮮時代の文献では、まだ発見されていない。他の一つは、元の時代と、モンゴル料理である「シュル」あるいは「シュルル」が高麗に伝わり、その言葉が変わってソルロンタンになったという主張だ。実際にジンギスカン当時この言葉はおいしい肉のスープという意味であった。

朴斉家(楚亭、1750〜1805)は、<北学議>で「朝鮮では、日々牛500頭を屠殺している。国の祭祀やホグェ(牛高饋、軍人を慰めるために提供される特別食)に使うために屠殺し、成均館と漢陽5部の中の24個の肉屋、300以上の村の官衙ではもれなく牛を売るユクゴギを開いている」とした。おそらく、様々な祭事に使用した牛肉から出てきた副産物がソルロンタンを作り出すために一番の貢献者であった可能性が高い。肉煮汁は朝鮮時代の文献では、肉汁だと書いた。ただし、肉を扱った泮人や宮中調理師の間では、高麗末からこの肉汁をソルノンと呼ばなかっただろうか?これは19世紀末から近代の姿を備える始めたソウルで食事の食品として販売されているものと推定してみる。おいしい肉のスープを意味するモンゴルに由来した「ソルノン」が20世紀になるとソルロンタンあるいはソルノンタンという名前を持つようになった可能性が先農壇由来説よりもはるかに説得力がある。

しかし、朝鮮戦争以降ソルロンタンは真の姿を失ってしまう始めた。人々は濃い乳白色が出なければソルロンタンと思わなかったし、いくつかのソルロンタン家では、米国からの援助で入ってきた粉ミルクを入れて生産単価を下げた。また、牛骨やるつぼを入れずに、様々なジャプピョを入れてスープを抜くレストランも生まれた。さらにコストを削減するために、水を続けて入れ、それとともにスープの味を強くするために、化学調味料をたっぷり入れる食堂もあった。いわゆる偽ソルロンタン事件が時々発生してソルロンタンの愛好家を失望させるのが常であった。このようなせいで、最近ソルロンタンの評価はあまり高くない。さらに、砂糖やサッカリンで漬け大根キムチは、その味が甘くて、人々にその場ですぐに食欲をかきたてるが、以前に酒を飲んで中を解いたソルロンタンもカクテギスープでもなくて、しばらくした後は、食欲がなくなってしまう。だから「これならば、ソウルの名物になることがあり、したがって、朝鮮の名物になることがある」としていた1929年の牛耳生の予測は外れている中かもしれない。ああ!ソウルの名物ソルロンタンよ!元の位置に戻って来なさい!

http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?artid=201103152025285&code=960100&s_code=ac094
[ジュヨウンハの食べ物100年](1)最も古い外食業、クッパ家

ジュヨウンハ韓国学中央研究院、韓国学大学院教授
入力:2011.03.08 20:30:44 修正:2011.03.18 17:08:33

・百日咳吹きながら一杯さっと空腹庶民の「満腹一食」

私達が食べる料理は生きてきた履歴が含まれています。開花期以降、韓国では、外食業の発展に伴い、食品の変形が行われ、今日に至っています。韓国の料理談話を主導してきジュヨウンハ韓国学中央研究院、韓国学大学院教授(民俗学)が前世紀ソウル北村のレストランや料理文化に私たちを案内します。「最も古い外食業、クッパ家」「朝鮮料理屋誕生」「立ち飲み屋の流行」「屋台の料理、餅長寿」など4つのテーマに分けて毎週水曜日30回連載します。

毎日新聞は1898年1月26日に創刊され、韓国初の日刊紙である。1898年12月13日4面に興味がある広告一つが掲載された。「広橋南弁天水月樓で料理も売って丹羽兼ねジャングクバプをよくして陰暦十一月初め毎日はじめ八つの場所で君子は来店していただき召し上がり願いますように。」この広告はその後、12月24日まで毎日掲載される。水月樓は、当時の高度な料理を販売していた飲食店であった。1900年代になると水月樓は浴室と理髪店とカフェが一緒に入ったこの頃の言葉で複合歓楽街で人気を享受する。

実際には居酒屋でも売ったジャングクバプを何事情があったからこそ、高度な飲食店が水月樓で販売したのかについては知る術がない。周知のようにジャングクバプは朝鮮醤油で味付けをして煮込んだ湯(guk)にご飯をのみ食品を指す。当然ジャングクバプの朝鮮醤油を意味する醬である。1890年代に使われたとされるハングル筆写本料理書<是議全書>には、ジャングクバプのレシピが書かれている。

そのレシピを今時の言葉に変えて少なければ、次の通りである。「良いうるち米をきれいに洗ってご飯をよく作って湯は大根を入れてよく煮る。湯を巻くときは、パラパラにではなく、その上にナムルを備え乗せる。薬散炙も作って上にのせ胡椒と唐辛子を振りかける。」湯を沸騰させるとき、肉を入れていることは、この調理法だけでは知ることができない。ただし大根の主材料と醤油で味を合わせた湯のうるち米に炊いたご飯を巻いて、その上にナムルと一緒に牛肉を築いていろいろな薬味をした後に、醤油に煮つめた薬散炙も上げたので、間島ばっちりながらご飯と肉を歯ごたえが一品であったと思われる。

<是議全書>という本は1919年沈晥鎭という人が慶尚北道尚州軍需に赴任して、そこで両班家に所蔵されていた調理書借りて必死にしておいたものであった。後、彼の嫁洪貞(洪貞、1903〜55)夫人に伝わり、それが故人となった食品学者李盛雨教授に伝達され、1970年代になって初めて世の中に知られている。だからといってこの本が慶尚北道尚州の半額料理を紹介していると思うと誤解だ。それよりは、王室やソウルの金持ちたちが好んでて食べた料理をメモしたものでなければなら正しい。

この本に出てくるジャングクバプも18世紀以来、ソウルの北村と清渓川周辺で人気を享受した食品である。広告の文脈を見ると、水月樓では、元のジャングクバプを料理と一緒に出した形である。その味が良いとゲストが賞賛をしましょう一品料理で販売し始めたようだ。18世紀の中頃になると、朝鮮社会では、商業活動が活発に行われた。あちこちに5日ごとに開かれる場市が入る始めた。特にソウル鍾路近くには王室で必要とする物品を専門的に供給する六矣廛があった。その前に比べて人がソウルに多く集まり、それらのためのレストランが今の鍾路と北村一帯でドアを開けざるを得なかった。

当時牛の血をお湯に入れて凝固させた預言で汁を作って販売するレストランが鍾路ピマッコルの近くにあった。これが今日のソンジトグク(注:牛血スープのこと)である。朝鮮時代成均館は今の大学と似ていたが、孔子をはじめとする性理学聖賢たちの位牌を祀って、季節ごとに祭祀を上げた点が異なっていた。ここで供物に使用する牛や豚をとる人を泮人と呼んだ。これらは祭祀を過ごし、残りの牛の血のにじむ内蔵を食堂の主人に売り、彼らはこれを鋳鉄釜で煮込んで各種クッパを作って売った。

湯飯と同様の食品に溫飯もある。平安道の人々は鶏肉やキジ肉で作った熱いスープをご飯に注ぎ、食べる料理を溫飯と呼んだ。当然のことながら鶏肉やキジ肉の赤身がご飯の上に上がる。故金大中大統領が平壌を訪問した際、平壌溫飯が紹介されて、ソウルで一時流行した。この溫飯も分かってみれば平安道地域のクッパである。そういえば今時韓国のどの都市に行ってもクッパを販売しているレストランは、目を閉じても見つけるのに十分多い。特に高速道路のサービスエリアのレストランで最も人気のあるメニューもクッパ系統の料理である。

なぜ韓国人はこのようにクッパを楽しんで食べてくるのだろうか?今から約120年前に撮影した写真の一枚(右)で、その正解を探してみよう。礼服を着て頭に笠をかぶった男がスプーンを持ってご飯を食べるている。食卓に置かれた料理を見るとご飯もあり、湯もありおかずも、いくつかの置かれた。ちょうど写真を撮りながら、有機で作られたスプーンにご飯を入れてちょうど食べようする。


たとえどんなおかずが上がったれる写真だけでは分からないが、八つのボウルの中で茶碗と汁椀が最も大きいのは明らかである。通常鉢と呼ばれる茶碗は高さがほぼ9㎝、口の直径がほぼ13㎝に達する。ここでご飯を入れれば今の韓国人がほぼ三度の飯にかけて食べることができるご飯が盛られるようだ。ボウルよりも大きいことが汁椀である。高さは茶碗と似てほぼ9㎝に近い。口の直径は15㎝を超えるようだ。それこそ、今とは比較にならない量が盛られたものとされる大きな茶碗と大きな汁椀である。

朝鮮時代の人々はご飯をたくさん食べることで有名だった。「韓国の人々が多食に励むことは、天下の一番である。最近漂流されて琉球(琉球、現在の沖縄)に行った者がいたが、その国の民があなたがたの風俗は、常に大きな鉢と鉄スプーンでご飯をすくってさんざん食べたので、どうして貧困ではないかと笑ったという。 」この文は朝鮮後期大学者の李瀷(李瀷、1681〜1763)が書いたものである。李瀷はこれを置いて食べる少なくなければならないと主張し、中国の古典に出てくるフレーズである「食少」を掲げ広げた。

ご飯をたくさん食べるためには、ひたすら稲作に命をかけなければならいた。そうしたらお金になる他の生産物を生み出すために疎かだった。だから、琉球国の人々が朝鮮人を置いて貧しいと笑った。なぜご飯食べに命をかけたのだろうか?複数の理由があっただろうが、私は留学の祖先祭祀と深い関連があると思う。生前に召し上がったそのまま祭壇をセットする格式は中国の朱憙(朱憙、1130〜1200)が編纂したと知られている<家禮>でも強調したものである。宋代中国の漢族は、穀物を炊いた飯と一緒に小麦粉で作られた麵を主に楽しんで食べた。当然朱憙の<家禮>も祖先祭祀に上げる重要な供物の中で主に飯と湯と麺を挙げた。しかし、問題は、韓半島では、小麦農業がうまくいかなかったことにある。小麦は夏の気候が20度以上になるとよく育たない。品種改良をしていなかった19世紀以前まで韓半島の中南部地域では、小麦農業が容易にされなかった。結局、ご飯の材料の中で米に集中農業が行われた。

ここで「タングク」という奇妙な名前で呼ばれる祭壇の汁が別の貢献をした。いくらメ(ご飯)と、他の供物が多いといってもタングクがなければ、祭祀を運ぶことができなかった。このような観念のために朝鮮時代の人々は、食事をするときご飯とスープを一番に置いた。さらに、おかずこそ、チャンジやキムチやナムル程度しかなかった境遇なので、ご飯とスープを一緒に食べると瞬時に腹を簡単に呼ぶことができる。夜遅くに忌祭祀を仕えウムボクをするとき、突然増えた食事の人員の欲求を満たしてくれるのにビビンバと一緒にクッパは最適であった。

クッパのような属性に貧しい人々の食事を解決してくれるときは、必ずこの料理が使われた。日帝時代にもあった救世軍慈善鍋で集めたお金で貧しい人々に湯飯を提供したという新聞記事(東亜日報1928年12月22日)がある理由もこのためだ。1920年代、全国の近代都市では、漢字で湯飯店と呼ばれたクッパ店の人が多く通う路地ごとに席を占めた。大邱ではユッケジャンの元祖である大邱湯飯、開城はマントウとマンヅトグク、全州ではもやし入り解酲スープに酒粕酒を一緒に飲むタックバックグク、冬のみ営業をしていたソウルの鰍魚湯、ソウルの古い湯飯であるソルロンタンなどを販売した。特に、1920年代には全国の邑面所在地に常設市場と五日場が置かれた。五日場に行って食べるクッパは場日と同様に魅力的だった。だから「市場クッパ」という料理名も生まれた。

朝鮮後期の貧しい境遇でも、日帝時代の植民地状況でも、戦争中でも、真っ最中の経済開発の最前線に立って苦労して労働をしながら住んでいた1960〜70年代やクッパは人々に腹をかっと出てくるように作ってくれた料理であった。ここでマッコリや焼酎を一杯添え一日中労働で疲れた体を少しでも快適にしてくれた。だからクッパは、韓半島で最も古い外食メニューであり、今もなお人気を享受してメニューだ。

ジュヨウンハ教授
西江史学科を卒業し、中国中央民族大学大学院で文化人類学の博士号を受けた。韓国学中央研究院韓国学大学院教授として在職中<料理戦争文化戦争> <中国、中国人、中国料理> <絵の中の料理、食品中の歴史>などの著書を出した。

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