2017年1月19日木曜日

[バクジョンベの韓国料理の誕生]貧民の生存食品、冬の美食に身分上昇
 [33]おからチゲ

バクジョンベ料理コラムニスト・「食べ物江山」著者
入力:2015.12.09 03:00

土鍋にぐらぐら煮て出てくるおからチゲは冬の珍味として遜色ない。おからは、豆腐を作成するときに豆乳を抜いた残りのきな粉だ。南では、おからチゲをきな粉かすから作りますが、北では豆をまるごとすりつぶして使う。正確な標準語はドゥェビだ。黄海道海州では、豆とゴマを10対1の割合で乗り換え豚肉を入れてアミの塩辛グクやゴンジェンイジョトグクで味付けしたおから湯を食べて、平安南道では、おからに膨れさせた米を入れて作るおからご飯が有名である。

朝鮮後期の実学者である李瀷(李瀷・1681〜1763年)もおからを好んで食べたようだ。彼は星湖僿說に「石臼で挽く精液のみ取って豆腐を作成すると、残りのかすもいくらでも多いが、煮込んでグクを作成すると、香ばしい味がおいしそうだ」と記した。おからのハングル表記は崔世珍が作った四聲通解(四聲通解・1517年)に「おから(渣)」で初めて登場する。

日帝強佔期から1960年代までのおからは都市貧民の生存食品だった。「京城の朝鮮人24万人のうち10万2千人は、極貧者であるので白米だけでなく黍粟、大麦、ジャガイモなどは、むしろ上等の食物であり通常はおからを主食と思って生きるはずなのに」(1928年8月2日、東亜日報)という涙ぐましい記事は、1960年代にも継続される。「太った豚は人よりもましだ。午前2時から列を作ってこそ辛うじておからを買って水で薄めて5家族が一食とかをつなぐというソウル市内のH洞の話。背負子稼ぎをしてその日暮らしをしていく労働者や田畑を売ってソウルで仕事を探しに上がってきた離農民が豆腐かすの常連購入客。豆腐工場を見つける渇望した群像は超満員の事例」(1964年5月26日京郷新聞)という記事が出てくるほど貧しい人々の最後のメシの種であった。

粉食奨励運動でおからは政府が推奨する食品になる。1970年代以降、おからは生存の食品で、冬の美食に身分が変わる。「おからはいつにおいても親近感がある。さらに、天気が寒くなる季節に、土鍋でうようよ沸騰しているおからチゲを置くと、すべての疲れがほぐれ家族同士の夕食の材料の親近感を更新する。」(1975年11月14日東亜日報)

http://news.chosun.com/site/data/html_dir/2015/12/09/2015120900266.html

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