[バクジョンベの韓国料理の誕生]お金がないとき焼いて食べていた「貧者食べ物」... 60年代から高價の珍味で
バクジョンベ料理コラムニスト・「食べ物江山」著者
入力:2015.01.13 23:31
[14]ピンデトック
中国語学習書「朴通事諺解」(朴通事諺解・1517年)に出てくる「ビンジョ(餠储)」は、ピンデトックに関する最も古い記録である<写真>。ビンジョは緑豆ともち米をすり潰してプチン煎するという漢文説明がついている。1690年に書いた「譯語類解」には、「ビンジャ빙쟈」が出てくる。17世紀に書かれた「飲食知味方」には、ビンジャが「ビンジャ빈쟈」に変わって出てきて、19世紀の「廣才物譜」には、「ピンジャトック빙자떡」が登場する。20世紀に入ってピンジャトックはピンデトックと一緒に使われる。
貧しい人々(貧者)と俗称がつくほどピンデトックは日帝強佔期まで貧しい人々の一般的な外食だった。ビンデトックの源流は平安道を中心とした韓半島西北部地域であった。黄海道では「マブチ」と呼んで平安では「チヂミ」と呼んだ。沙里院とその周辺は、緑豆の主産地であり、平安道は中国の影響で豚肉の文化が深く位置しており、豚脂で地震ピンデトックの中心地となった。
ピンデトックは解放前にソウルだけで使用した言葉だった。ソウルのピンデトックが「豚(ブタ)の肉を入れた(混ぜた)ことはなく、ただ緑豆粉に野菜の芯やネギだけを混ぜて」(1934年4月号新東亜「インテリとピンデトック」)ごま油で支持したのと異なり、平安道では白菜やキムチはもちろん、豚肉を必ず入れて(1948年、朝鮮常識)食べた。解放後、平安・黄海道の人々が大挙ソウルに殺到し豚脂でジジョネンピンデトックが本格的に庶民料理として登場する。ソウルのピンデトック家は「通りや路地は言うまでもなく日増しに増えて... この多くのピンデトック家が客で爆発する状況であった。」(1947年6月28日京郷新聞)
「お金がなければ家に帰ってチヂミでも焼いて」食べるほど安かったピンデトックは緑豆の価格が、米の価格の2倍に迫る(1966年1月20日、東亜日報)一方、1960年代の粉食奨励運動にラーメンとジャージャー麺が庶民料理で登場し、値がお手頃な珍味に変わる。しかし、100年前も今もピンデトックの旬は冬であることは変わらない。
http://news.chosun.com/site/data/html_dir/2015/07/02/2015070202086.html
0 件のコメント:
コメントを投稿