2017年1月19日木曜日

[バクジョンベの韓国料理の誕生]釜山は「小麦麺」ソウルは「ビビン麺」... 居住地によって変形されて
 [47]咸興冷麺

バクジョンベ料理コラムニスト・「食べ物江山」著者
入力:2016.07.06 03:00

冷たい麺、すなわち、冷麵は、現在、平壌冷麺が大勢になっていく姿だ。しかし、咸興冷麺も、根が深く強固である。咸興冷麺という言葉は、1945年以降、韓国に定着した人々が、自分たちのアイデンティティを確認するために作られた造語と見るのが一般的である。1952年釜山を撮影した写真には、咸興冷麺という看板をあげた冷麺家が多数登場する。

過去の咸鏡道では、咸興冷麺という言葉の代わりに、主に「麺」や「ノンマ麺」と呼んだという。しかし、咸鏡道でも冷麺という言葉は使用した。日帝強佔期の1940年に発刊された「元山商工人名録」を見ると、そば粉で作った日本の麺は「そば」、平壌冷麺は「朝鮮そば」、咸鏡道式麺は「冷麺」に区分して、日本語で記録した。

1948年12月5日漢城日報の記事によると、20世紀半ばまで咸鏡道の人々はおやつに冷麺を食べたり、冷麺割り勘するのを楽しみにしてした。同じ記事には、「咸鏡式冷麺」あるいは「北道式冷麺」という表現も出てくる。1920年代初頭咸鏡道では、サツマイモやジャガイモ澱粉で麺を巻いて豚肉をのせた麺が普及した外食だった。

最近「咸興冷麺=ビビン麺」という公式は、韓国に定着してできた文化だ。昔も今も咸鏡道で冷麺は、通常、スープと混ぜて食べた。冷麺飾りでカレイの刺身をのせたらフェグクス、豚肉をのせたら肉グクスと呼んだ。

咸興冷麺が南に一番最初に根を下ろしたのは、江原道束草であった。1951年咸鏡道避難民が故郷に最も近い束草に集まったからである。1950年代半ば分断が本格化咸鏡道の人が商圏を握っていたソウル中央市場周辺五壮洞に咸興冷麺家が雨後の筍のように生まれた。

辛く丈夫で汁があった咸興冷麺は年月が経つにつれ、スープは消え味は甘く優しくなり麺は柔らかくなった。釜山に定着した咸興冷麺は、現地の小麦グクス文化と結合して小麦麺になったし、日本盛岡では盛岡冷麵に変わった。ソウルの辛くて刺激的なビビン麺は、咸興冷麺の影響を受けた。咸興式冷麺は変形を介して領域を拡張するところだ。

http://news.chosun.com/site/data/html_dir/2016/07/06/2016070600169.html

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